| ＥＤ後の話 ――幸せになりな。 目覚めたとき、耳の奥にその言葉が残っていた。 かの人の声。優しい響き。 （――夢？） 花は寝台に横たわったまま、ぼんやりと考える。 聞いたことのない言葉だった。その言葉は確かに師匠である孔明の声で聞こえたが、いくら記憶を振り返っても、孔明からそう言われた覚えはなかった。 ならば夢だろうと結論づけようとしても、妙な現実感があり、夢だと決めつけて忘れてしまうこともできなかった。別段、寝ている花のもとに孔明が訪れて、その言葉を言ったふうにも感じられない。夜寝ていたときと、今の部屋の様子はなにも変わっていない。 でも、耳に残る言葉だった。 孔明のあんなに優しい声なんて、そうそう聞けるものではないからだろうか。 それともその言葉の持つ響きが、胸をかきむしりたいほどの強い感情を引き起こすからだろうか。 なぜならば、その言葉は。 ――まるで。 「……師匠に、聞いてみよう」 今日も孔明の執務室にてともに仕事をするのだから、聞くチャンスはすぐに見つけられるだろう。孔明がどう答えるかわからなかったが、とにかく以前自分にその言葉を言ったことがあるのかどうか、本人に直接聞いてみようと花は決意した。 そのチャンスは仕事が一段落し、そろそろ昼食の時間に差し掛かるというときに訪れた。手にしていた書簡を机に置いた孔明に、花はさりげない口調を装いながら聞いてみる。 「師匠」 「んー？」 「前に、私に『幸せになりな』って言ったことありますか？」 「ん〜？ 覚えがないなあ。なんなのその質問」 孔明は身体をほぐすようにのびをしながらあっさりと言った。 花は自分の机の上を片付けながら孔明の顔を窺う。それは本当に覚えがないような表情に見えた。 勿論孔明が簡単に内面を悟らせる人間じゃないことなど百も承知だ。 だから花は念を押して聞いた。 「本当に？」 「だからなんなのそれ。やけにこだわるじゃない。夢の話？」 「夢…ではないと思います」 「じゃあなに？」 「……わかりません」 「わからないってねえ…」 孔明からは呆れたような視線が向けられた。花はそれにめげずにもう一度確認する。 「じゃあ本当の本当に、師匠はその言葉を私に言った覚えはないんですよね？」 「――ないよ」 「なら……いいんです」 花はほっと息をつく。それから孔明の目をまっすぐ見つめて言った。 「もし師匠が私に向けてその言葉を言ったことがあるとしたら、私……」 「なに？」 「思いきり、泣いちゃうかもしれません。でなかったら、師匠のことを恨みに思いながら、自分の部屋に引きこもって三日間くらい出てこないかもしれません」 「花、君ねえ……」 孔明からはますます呆れた視線が返ってくる。けれど花はその言葉を取り消すようなことはしなかった。自分から目をそらすこともしない。 ――孔明の呆れを含んだ言葉の中に、わずかに苦笑の響きがあったからだ。 「だって、幸せになりななんて、その言葉はまるで」 まるで。 花は脳裏に数日前のことを思い浮かべる。 黙って持ち出された本。勝手に開かれたページ。こちらの意志の確認もなしに、ページをめくり続ける手。 それをしたのは目の前にいるこの人なのだ。『いらない』とはっきり言って。 「――突き放すような言葉じゃないですか」 「……」 「別のどこかで、自分の関係ないところで、一人で勝手にそうすればいいって言ってるも同様の言葉じゃないですか。そんなの、言われたくありません」 「そんなひねくれた解釈をするような言葉だとは思わないけど。祈りや祝福をこめた言葉だとは、考えないのかな」 「でも前提に自分とは違うところでっていう意味が込められているじゃないですか。すぐそば、同じところでっていう意味なんて欠片も含んでいない言葉ですよね」 そう言ったあと、花は目を伏せた。一転して淡々と呟く。 「でもいいんです。師匠が言った覚えがないというなら。もしかしたら夢ではなくて、夢うつつに聞いたことを不意に思い出しただけかな、とも思ったんですけど、そんなことはなかったんですよね。きっと、私の思い違いですね」 「うん、そうだね」 話を終わらせるかのような短い孔明の返事に、花は反射的に顔を上げる。背を向けられ、本当に話を終わらせられたのかと思ったのだ。 だが。 「……で？」 「え？」 孔明は先程と変わらない場所にいた。ただひどく憮然とした顔を浮かべて。 「まだなにか言いたいことがあるんだろ？」 「ええ、はい。これはもしもの話なんですが、もし師匠にそんなこと言われてたら、私、すぐに撤回してもらおうと思ってたんです。その言葉じゃなくて別の言葉に言いかえてもらおうって」 「ふうん。それは本当に仮定の話だね」 「はい。……師匠が別の言葉に言いかえるとしたら、なんて言いますか？ あんな突き放したような言葉じゃなくて、私に幸せという言葉を使って言うとしたら」 『幸せになりな』ではなく、別の言葉で。そう言いながら花には孔明に言われたい言葉があった。 あの言葉が祈りや祝福の意味があったとしても、自分にとって受け入れられない言葉なのはずっと変わらない。でもあれがこうしてこの世界に残った今言われた言葉でないのならば、別の言葉ではっきりと言いかえてくれるのなら、もう忘れてもいいと思えた。 「幸せ、ねえ」 「はい」 花の目に、隠しようもないほどの期待が浮かんでいたのだろう。孔明はちらりと花の期待に満ち溢れた表情を見ると、悪戯っぽい笑みを浮かべて答えた。 「幸せ――にして、かな」 「……」 「ボクが君に言うとしたら、幸せにして。うん、これなら君の言う別の場所での言葉でもないしね」 「……」 「なーんて…」 「いいですよ」 「え」 「いいですよ。はい、わかりました！ 私が師匠を幸せにします！」 「……花…」 孔明が明らかな苦笑を浮かべる。本当は冗談のつもりで、すぐに取り消すはずだったのかもしれないが、幸せにしてという言葉は花の中にそれもいいかなという気持ちを生み出させた。少なくともそれは突き放した言葉ではない。ここで、すぐそばにいる自分に向けて言ってくれたのだから。 本当に花が孔明に言われたかったのは別の言葉だが、それでもいいと思えた。考えてみれば人任せの言葉より、ずっと自分らしいのかもしれない。自分がこの人のそばで、この人を幸せにする――それは胸があたたかくなるような将来を思い起こさせた。 「冗談で言ってみただけなんだけどなあ」 「でも、幸せになりななんて言われるより、ずっと嬉しいですよ」 「まったくこの子は……」 そう言った孔明がふと花に近づいてきた。 「え」 そして花の肩に頭をそっとのせるようにして、小さな声で言う。 「――ボクはもう充分、君に幸せにしてもらっているよ」 「し、師匠」 「君がこうしてそばにいてくれることでもう充分だよ」 孔明の手が花の腕に触れる。抱きしめるわけではなく、ただ支えるかのようなかすかな触れ方。 花からは顔を伏せている孔明の表情は窺えなかった。 花は少しだけ自分の手を動かして孔明の身体に触れる。自分も今、この人の熱を感じたかった。 自分の中にある幸せという言葉を具現化すれば、まさにこの、目の前にいる人そのものだと思う。 「でももっと、この先もありますよ。今よりももっと、これ以上の幸せが。だから、これからも任せてください！」 「……っ」 吹き出した声とともに孔明の頭が揺れた、 「じゃあボクは、花に任せておけばずっと安心ということなのかな」 「はい。……私も、師匠といることが一番の幸せですよ。ここに、師匠のそばにいるからもっと幸せになれるんです」 ――だから、別の場所での幸せなんて願わないで。私を突き放さないで。 内心の言葉は口にせず、花はただ触れる指に想いを託す。 「私がいることで師匠が幸せというなら、そのそばにいる私自身も幸せであるに決まっているじゃないですか」 「うん…わかったよ」 「…本当にわかったんですか」 「おや、信用ないね？」 そう言って孔明が花の肩から顔を上げる。その顔はいつもの飄々としたものだった。 孔明の言葉に、花は過去を思い出しながら少し唇を尖らす。 「師匠に信用なんかあるわけないじゃないですか」 「あれ？ ボクは、弟子が困っているときにはどこからともなく颯爽と現れて、弟子を導く頼りになる師匠だと思っているんだけどね」 「勿論そういうときはとても頼りになりますけど、でもそれとこれとは違うじゃないですか。だいたい、そのどこからともなくっていうのも問題なんですよ。ここに落ち着くまでは本当に一つところに落ち着いてない人でしたよね」 「そうだったかな。もう昔のことは忘れてしまったなあ」 「まったく師匠は、都合の悪いことはすぐにごまかすんだから…」 「……さて、まだまだ仕事は残ってるし、とりあえず昼食でももらってこようかな。君も行くだろ？」 話を切り替えるように孔明が花を誘う。確かに昼どきとなり、すっかりお腹はすいている。とりあえず孔明に聞きたいことは聞いたし、花も気持ちを切り替えることにした。 「行きますよ。お腹すいちゃいましたしね」 「ここでしっかり食べておかないと、このあとも大変だからね」 「はい」 部屋の扉の手前で花を待つ孔明の隣に花も並ぶ。花はそのまま無邪気に「今日はなんでしょうね」と言いながら、そのまま部屋を出た。その後ろで孔明が振り返って扉を閉めた。 「…………ごめんね」 扉の音にまぎれたそのかすかな呟きを、花は聞くことが出来なかった。 ――遠く離れた場所での幸せを願ったような男で。 「師匠？」 「ん？ なんだい」 「いえ…」 「ほら、さっさと行くよ。まったく、君のせいで思わぬ時間を食っちゃったんだからね」 「ほんの一時じゃないですか〜。その分あとで頑張りますよ」 ――そして、彼女が残ってくれた今でさえも、自分から幸せにするなんて言えないような男で。 終 |