初花



　それは、花と孔明の会話の様子を見た芙蓉が、ぽつりと言った言葉が発端だった。
「あなたたちって、はたから見てると恋人同士には見えないのよね……」
「え？」
　すでに孔明は去り、そこには花と芙蓉しかいなかった。
「うーん、雰囲気が甘くないというか、お互いしか見てなくて周りのことなんか知りませんって感じでもないし…見てると体の触れあいも少ないのよね」
「ふ、芙蓉姫…」
　芙蓉は別に悪く言っているわけではなく、花を心配しているような言い方だった。だからなおさら花も芙蓉の言葉を聞いているしかなかった。
「本当ならまだ付き合いたてなんだから、こう、初々しさみたいなものがあると思うのよ」
「初々しさ……」
「そうよ、ちょっと目が合っただけで恥ずかしがって顔をそらしたり、お互いに照れ笑いを浮かべたり。そういうのがあなたたちには全然ないのよね〜」
「……」
　確かに自分と孔明の間でお互い照れあって目をそらすようなことは皆無だろう。自分一人だけならしょっちゅう恥ずかしがっている気もするが、孔明のほうはいつも平然としている。
「かといって、何年も連れ添った夫婦のような落ち着いた雰囲気とも違うし……やっぱりあなたたちって、良くも悪くも師匠と弟子なのよね」
「う…。で、でも実際に師匠と弟子でもあるんだから、それでいいんだよ。それに師匠の照れたところなら見たことあるし」
「ああ、孔明殿の名前を呼んだときの話でしょ。でも花、それからもまた師匠って呼んでるじゃない」
「……名前で呼ぶのはやっぱり時と場所を考える必要があるんだよ…」
　前に孔明をからかおうとして痛い目を見た花はあさっての方向に視線を送りつつ言った。
「それも今ひとつなのよね。あなたたちが甘い声で呼び合っていれば、また違うんだけど」
　甘い声、と言うと、ドラマに出てくる新婚の夫婦が呼び合っているような声だろうかと、花は考える。しかし、語尾にハートマークがつきそうな呼び方なんて自分たちには不似合いな気もする。
「もう、仕方がないんだよ。それが師匠と私なんだからさ」
「それにしたってもうちょっとどうにか……。花だって、付き合いたての初々しさとか、心が浮き立つようなときめきを感じてみたいでしょ」
「と、ときめきなら私はいつも感じているよ」
「お互いによ。二人で一緒に顔を赤くしちゃうようなほのぼのとした幸せを味わってみたいでしょ」
「無理だよそんなの。それに別にそういうのは…」
「無理かどうかは試してみないとわからないでしょ。だから、ね。ちょっと試してみない？」
　芙蓉は花の腕を取って自分のほうに引き寄せると、花の耳に自分の口を近づけた。そして小さな声で、いくつかの手段を花に伝える。
「…え、ええ〜っ」
　こうして花は芙蓉に強引に、孔明との雰囲気を甘くさせるための作戦を敢行させられたのだった。



　翌日。
「じゃあ今日はこのへんで切り上げようか」
　一日の仕事を終え、花に向けてそう言った孔明の声に花はどきりとする。いよいよ、芙蓉から言われた作戦の開始なのだ。
「今日も一日お疲れ様。そういえば今日の昼は、なにやらバタバタしていたみたいだけど……花？」
　孔明が黙ったままの花を不思議に思い、呼びかける。
　花は内心の動悸を抑えながら言った。
「なんですか、孔明さんv」
「……」
「こ、孔明さんv」
　出来るだけ甘い声になるようにと気をつけながら名前で呼んでみる。
　ここのところ名前で呼んだことなどあまりなかったせいか、孔明はじっと花を見つめ返していた。
（や、やっぱり呆れられてるのかな……）
　それでももう一度だけと思い、「孔明さん」と言いかけると。
「なに？　また名前で呼びたくなった？」
　孔明は花のそばに来ると、ぐっとその腰を引き寄せた。
「わっ、わわっ！　師……」
「孔明さん、だろ」
　間近でそう言われ、花の顔が赤く染まる。
「…っ、孔明さん……」
「うん。で、いきなりどうしたの？」
「あ、あの」
「うん」
「孔明さん、にも、呼び返して欲しいです…。花って…」
　――『やっぱりお互いの名前を甘い声で呼び合うと、初々しい気分が増してくるわよね。というわけで、もう一回名前で呼んでみたらどう。このまえだって少しは成功したんだし』
　芙蓉から授けられた作戦その一とも言うべきものは、この名前呼びだった。ただ自分が一方的に呼ぶだけではなく、今度はすぐに相手からも同じように返してもらうというもの。
　しかし至近距離でそんなことをお願いするのが恥ずかしく、花は俯いて言うのがやっとだった。
「花、って？」
「ええと、普通の言い方じゃなくて、できるだけ優しい言い方がいいな、とか…」
「……」
「わ、私が孔明さんvて呼んだら、私のこと、呼び返してください」
「……別にいいけど…」
「じゃ、じゃあ……孔明さんv」
　勇気を振り絞って顔を上げて孔明を見る。自分を呼び返すときの孔明の顔が見たくて。
　だが。
「――花」
　花が孔明の顔を見ることはかなわなかった。なぜなら孔明の腕に頭を引き寄せられ、花の耳元に直接囁かれたからだ。
「――！」
「ほら…花の番だよ。ボクのことを呼んで」
　その言葉さえも耳から忍び込む甘い声で。
「……こ、孔明さん…」
「なに、花」
「……っ！」
　孔明の吐息が耳をくすぐる。吐息だけでなく唇までも触れてしまうのではないかと思えるような距離で。
「もう一回、呼んでほしいな。ほら」
「こ…孔――」
　そこまでが花の限界だった。
「ま、待って待って孔明さん！　近い！　近すぎます！」
　思いきり腕に力を込め、孔明の腕の中から逃げ出す。孔明はさほど強い力で抱きしめていたわけではないようで、「ええー」と言いながらも花を逃がしてくれた。
「つまんないな。楽しいのはこれからでしょ」
「ここまで近くなくていいです！」
　花が真っ赤にした顔を上げて孔明を見ると、孔明のほうはいつもと変わらない表情だった。
「君から言い出したことなのに」
「わ、私はもうちょっと普通に優しく呼んでくれればそれで……」
「えー、普通だったでしょ」
「普通じゃないですよ…。い、一度出直してきます。孔明さんはもう少しここで待っててください！」
　孔明に向けてそう言うと、花は孔明の執務室から逃げ出すようにばたばたと慌しく出て行った。



　あるものを取ってきてから執務室に戻る。孔明はちゃんとそこにいてくれて、どうやら書簡の整理をしているらしかった。
「お待たせしました！　待っててくれてありがとうございます」
「あ、出直してきたんだ？」
「う…はい…」
　最初に自分が言ったこととはいえ、孔明にそう言われて花は一瞬言葉に詰まった。
「あれ？　なにか持ってきた？」
　執務室に入ってきた花が布の包みを持っていることに気づき、孔明が言った。花は笑顔になり、それを孔明の机に置いてから包みをほどいた。すぐにあたりに甘い香りが広がる。
「はい、実はお菓子を持ってきたんです。仕事のあとに師匠に食べてもらおうと思って。ほら師匠、このまえ師匠も甘いものが欲しくなるときがあるって言ってたじゃないですか。覚えてます？」
「……ああ、うん。確かに言ったね」
　孔明は花から少し視線をそらして頷いた。
「ですよね。だから私、昼間の休憩のときに芙蓉姫に教わってお菓子を作ってみたんです。甘いけど、でも師匠の好みにあわせてちゃんと控えめな甘さにしてあるんですよ」
「教わってって…つまりこれは花の手作りということ？」
「はい、そうです。頑張って作ってみたんでよかったらいっぱい食べてください！」
「だから昼はなんだか慌しかったんだ。なるほどね」
「これ、中にある餡が外側の皮の部分からはみ出ないように作るのが難しかったんですよ」
　花は菓子の一つを手に取り、孔明に見せた。
「へえ。じゃあこれはなかなかうまくできたってことかな。いただくよ」
　孔明が菓子を食べようと、花の持っているものに手を伸ばす。花は慌てて手を引いた。
「あ、ちょ、ちょっと待ってください」
「なに？」
「えっと……」
　花は持っていた菓子を二つに割った。それをもう一度割り、一口大の大きさにする。そして一つをつまんで孔明の口元に差し出した。
「はい、孔明さん。あーん」
「……」
「どうぞ食べてみてください。あーん」
「……それってなに？」
「え？　だ、だから、私が師…孔明さんに直接食べさせてあげます。孔明さんはあーんて口を開けてくれればいいんですよ」
「……」
　――『相手に手ずから食べさせてあげるのって、やっぱり恋人同士ならではの行為よね。お互いに照れたりして初々しくなること間違いなしよ。え？　孔明殿には無理だろうって？　確かに普通の食べ物ならそうかもね。でも花の手作りって聞いたら絶対食べてくれるわよ。作り方なら教えてあげるからほらやってみましょ！』
　芙蓉の作戦その二は、花が手ずから孔明に食べさせてあげるというものだった。そのとき花が「まさか、はい、あーんなんて言わないよね!?」と墓穴を掘ってしまったものだから、ちゃんとそう言って食べさせるように芙蓉に言われてしまっていた。かくして、今こうして花は実践しているのであった。
「それって、ボクのために作ったって言ったよね？」
「はい、そうです。孔明さんに食べてほしくて、頑張って作りました。ちょっとでも甘みがあると疲れが取れるかなって思って…。おいしくなかったら、残しちゃっていいので、一口だけは本当に食べてみてください」
「そんなもったいないことはしないよ。わかったよ、じゃあほら」
「はい。あーん」
　孔明の意を汲んで、花はもう一度孔明の口元に菓子を運んだ。直接口に運ぶなんて花自身にも照れがあるが、それでも自分の作ったものを想う相手に食べてもらえるという嬉しさもわく。
　菓子がうまく口のそばに来なかったからか、安定感がないと思ったのか、孔明が花の手首を掴んだ。そして、「あーん」と言って口を開く。
（！　こ、孔明さんが「あーん」て！ か、かわ…っ）
　孔明が言った言葉に感動したときだった。
　ぱくり。
　と、花の指ごと孔明の口に咥えられたのは。
「――――っ！！！！！」
　菓子も無事孔明の口の中におさまったが、自分の指も一緒に咥えられていた。指に唇と口の中の感触が伝わる。
「――――――――っ！！！！！　」
　慌てて手を引こうにも、孔明が手首を掴んでいるのでそれはかなわなかった。すぐに口から解放してくれるわけでもない。
　もう菓子がどうなったかなんて花の頭の中にはなかった。ただ早く解放してほしくて、指先から感じられる感覚をどうにか散らしたくて、それだけで頭がいっぱいになった。
　ややして、名残惜しそうに指を明らかに舐められてから解放される。
「うん、甘さもちょうどいいし、いいんじゃない。おいしかったよ」
　そしてにこりと笑みを向けられた。
「――――っ！！！」
　花としては言葉もない。今は解放されたとはいえ、その前は指先を咥えられたのだ。それも偶然触れたというのではなく、完全に故意として。
「花？」
「あ…う……っ」
　恥ずかしくて恥ずかしくて、花としては自分の手を引き寄せ、真っ赤になったまま口ごもるしかない。
　そんな花に孔明はさらに笑顔を向けて。
「で、いっぱい作ったからもっと食べさせてくれるんだっけ」
「！」
「勿論、花がボクに食べさせてくれるんだろ。じゃあ、次もいただこうかな」
「……っ」
「ほら、花」
　孔明が花の手首を再び取る。
　次は普通に食べてくれる……ということは有り得ないと、孔明の楽しげな目が語っていた。そして菓子は、まだまだあったのだった。
「もっと、花の手作りを味わいたいんだけどな。だって君がボクに初めて作ってくれたものだろ？」
　そんなふうに言われてしまうと花としては拒否できるわけもなく。
　結局孔明が「ごちそうさま」と言うまで、花は何度も手ずから食べさせたのだった。



「で、今日はなんなの？」
　花の手作りの菓子をたっぷりと堪能したあと、孔明が言った。花の行動が今日は突飛なことばかりだと気づいていたからだが、花はもうすでに精神力を消耗して床に座り込んでいた。孔明は変わらぬ素振りだが、これまで花の指まで堪能させられたのだ。最後には手のひらまで味がついているという理由で舐められ、花は腰砕けになってしまった。
「花」
「だ、だって師匠……」
　へたり込んだまま上を見上げてもそれだけしか言えない。
　孔明は溜息をつくと、花のそばに自分もしゃがみ込んだ。
「孔明さん呼びはもう終わり？　それで、今日の目的はなに？　君の意思だけじゃないだろ」
「芙蓉姫に……私と師匠は恋人同士に見えないって…。だから付き合いたての初々しさとか、二人で顔を赤くしちゃうようなことをいろいろ試してみて、って…」
「いろいろ？　じゃあまだあるんだ」
「もういいです……」
　芙蓉に言われた「作戦」はまだあるが、もう花としてはそれを実行するどころではなかった。それにおそらく他のことをしたところで、孔明の様子は変わらないだろうと思えた。
「恋人同士に見えない、ね。でもそんなのは、当人同士の間に気持ちがあればいい話じゃないの？　他の人間からとやかく言われることじゃない。違う？」
「違いません…。すみません、私が軽率でした」
「君が謝ることでもないよ。ボクも楽しかったし」
「……」
「まあ、でも君の自発的な行動じゃなかったというのはやっぱり残念かな。君がボクに初めて作ってくれたというのも、芙蓉殿の提案で、それにのせられただけなのに知らずに浮かれていたわけだしね」
「……！　す、すみません私っ！　でも最初のきっかけはそうでも、私も本当に師匠の疲れを癒したくて…っ」
「うん」
　慌てふためく花の頭を孔明が軽くぽんぽんと叩いた。
「顔を赤くするのはともかく、君のことではボクだって浮かれもするし、動揺させられることだってあるんだよ。いまさら、そうさせようとするまでもなくね」
「でも師匠は全然そう見えません。だから…芙蓉姫に言われたことだけど、結局は私も師匠のいろんな顔を見てみたいって思っちゃったんです…。ごめんなさい…」
「ボクが動揺させられるのは、君の無意識の行動のときが多いしね。きっと君が気づいてないだけだよ。あとはまあ、十年も想っていればある部分は落ち着いちゃうよね。いまさら手が触れただの目が合っただので動揺することはないし」
「でも私は、ドキドキしますよ」
「だから年月の重みが違うんだよ。ボクだって昔はあったよ。それこそ初々しい子供のときはね。君とまた会ったらこうしたい、一緒にこれをしたい、とかもね。そのときなら君がボクにさせたかった初心な反応も見せてあげられただろうね」
「それってどんなことですか？」
　目の前にいる人が子供時代――亮と呼ばれていたときに思っていたこと。花はぜひともそれを知りたいと思った。
　だが孔明はあっさりと、「さあ？　もう忘れたよ」と言った。
「聞きたかったです。そしてできることなら叶えたかったです」
「昔のことだからたわいもないことだし、それに――結局は君がいてくれるだけでいいって結論に達したからね」
「――」
　自分も床に座り込み、孔明が花の体を引き寄せた。花はそのまま身を任せる。
　やはりそうされるだけでドキドキするが、花を引き寄せ、自分の足の上に座らせたその人には動揺は見られない。花は自分だけが顔を赤くし、ドキドキさせられているように思えた。
　花は孔明の両肩に手を置き、いつもと変わらないその顔を見て呟く。
「私にも、師匠みたいに落ち着ける日が来るんでしょうか……」
「えー、落ち着きたいの？　落ち着いちゃうの？　もう少し君の初々しい姿を見せて楽しませてよ」
「楽しませてって…」
「君の初々しい反応を見ていると、本当に初恋が実ったんだって実感に浸れるからさ。……ね？」
「……」
　目で問うてくる孔明の表情は楽しげで、花は自分の反応を楽しまれていると知って気恥ずかしかったが、もうそれでもいいと思えた。
「じゃあいいです。恥ずかしいけど、今の私のままでいて、師匠を――孔明さんを楽しませてあげます。私はずっと孔明さんが大好きで、会うたびに一喜一憂してて……私のそんな姿で孔明さんが嬉しいって感じるなら、このまま、楽しませてあげます」
　そう言ったあとで自分の言葉の恥ずかしさに耐えられず、花は孔明に抱きついた。そうすることで自分の顔を見られないようにする。
「きっと、落ち着こうとしても無理でしょうしね。私は孔明さんが好きで、この気持ちが色あせることはありませんから。だからこれからもずっと、孔明さんに翻弄されっぱなしなんでしょうね」
「子供のときから、翻弄されているのはボクのほうな気もするけど」
「そんなことないですよ！　絶対私のほうです！」
　きっぱりと言い切る花に、孔明が笑う。そのあとで花は優しく抱きしめられた。孔明の手がそっと背中を撫でる。
「でもそうだね……ずっと。初々しい君の姿で楽しめるといいね」
「……それって、私が変わっちゃうってことですか？」
　孔明の言葉を聞きとがめて花が問う。
「違うよ。本当に君はいつまでも君のままだと思うよ」
「じゃあ…」
「ただ、普通に君のかわいい反応を楽しみたいっていう気持ちを口にしただけだけど。なに？　ボクはなにかおかしいことでも言ってた？　それともこんな言い方はいやだった？」
「いえ…」
　花は自分から孔明に抱きついたことを少し後悔した。孔明の声は笑っていたが、今、孔明の顔をちゃんと見たいと思った。抱きしめた腕はけして強い力ではなかったが、わざわざその腕をふりほどいてまで表情を確認するにはためらいを生じさせるほどの力は込められていた。
　孔明の言葉のなにが引っかかったか、花にはうまく説明できなかったが。
　ただかすかに生じた引っかかりをなくそうと花は自分の腕に力を込めた。
「……今なら、私、孔明さんのためになんでもできそうな気がします」
　花が思ったことをそのまま口にすると、
「おや。さっきまで床にへたり込んでいた子の言葉とは思えないね」
と、からかう口調で返ってきた。
「あ、あれはっ。孔明さんがやりすぎなんですよ」
「だって君の仕掛けにのってあげたんだから、あれぐらいの楽しみがないとね。あれでも抑えてあげたんだけど、って言ったらどうする？」
「……っ！」
「ほら、前言撤回したくなってきた。迂闊なことを言っちゃだめだよ」
「迂闊なことなんて言ってません。撤回もしません」
「無理して意地を張らなくても」
「意地なんか張ってません！　ほんとに……」
「わかったよ」
　しょうがないなあと言うような優しい響き。
　先程はあんなことまでしたのに、こうして抱き合っていても、その手が不埒な動きをすることはない。ただ安心感をもたらすだけの腕に、なぜか花は逆に不安を呼び覚まされる。
　孔明に言った言葉は嘘でも誇張でもない。本当に今ならなんでもできるような気がした。
「……本当に、私はずっと孔明さんに翻弄されっぱなしですよ」
　まさに一喜一憂だと花は思った。喜びも多いが、こうして考えさせられることも多い。場合によっては、ただ抱きしめられているときより、セクハラされているときのほうがなぜか安心するなんて、どういう状況だろうと思う。
　そしてどういう男だろうと。
「……うん」
「でも、もうそれでいいです。好きな人のそばにいてずっと翻弄されるって、ある意味幸せってことですよね」
「…それって、もしかして君っていじめられるのが好きってこと？」
「誰もそんなこと言ってませんっ！！　ずっとそばにいるってところが重要なんです！」
「ああ、そういうこと。もっと故意にいじめていいのかと思った」
「だめです！　いえ、だめじゃないけどちゃんと考えてください！」
「だめじゃないんだ？　そんなこと言うと調子に乗るよ？」
「孔明さんのすることなら結局は……でもちゃんと考えてくださいっ！」
　今後のことを思って花は懸命に予防線を張る。
　体を揺らして笑っている孔明にどこまで通じるかわからなかったが。
　それでもこの人が自分の反応で楽しんでくれるなら、それで大好きな気持ちが伝わって安心してくれるなら、もうそれでいいと思ったのもまた事実だった。



　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　終