囚われ身の怪盗３ 「空・・・いったい、なにがあったのさ？ なにが空をそんなに苦しめているんだよ」 「なんでもないっ！ なんにもねーよっ！」 自分に追いついた祭に、空は顔を見せないようにして捲くし立てる。自分の腕をつかむ親友の手を、懸命に振り解こうとした。 「空！」 ・・・そう、なんにもなかったのだ。 もうすべては断ち切られたのだから。 七海の、笑顔という残酷な道具によって。 「最初から・・・はじめからなんにも起きちゃいなかったんだ。だからもうほっとけよ！」 そう叫んで空は祭の手を振りほどいた。そのまま、再び誰もいない廊下を駆け出す。 いつもの溌剌さに欠けた激しい一面を見せた少年のあとを、祭は再び追うことなどできなかった。 ただ呆然とその背を見送るしかなかった。 今の少年が普段の彼と大きく違っていたことの象徴のように、廊下にぽつんと、濡れた跡が残されていた。 『羽柴くん、こんにちは。お茶、いかがですか？』 『これはまた派手に転びましたね。ちょっとしみますけど、我慢してくださいね？』 『そんなことぐらいで落ち込むなんて、羽柴くんらしくないですよ』 『その衣装、似合ってますよ。羽柴くんの愛らしさがとても強調されていますよね。ふふ。むくれても、さらにかわいくなるだけですよ？』 静けさに満ちた薄闇の中で、さざなみのようにかすかに声が聞こえる。 頭の中に蘇る、彼の柔らかな声。 これまでは別に意識もしていなかった、けれど今では他の誰かと同じには響かない自分にとって特別な声。 思い出しただけで、すでに乾いたはずの涙が、再びあふれそうになってしまう。 自分はこんなに脆くはない。そうとわかっていてさえ、震える心は止められなかった。 空気すら停滞した部屋の中で、空は背中をベッドに預けるようにして床に座り込んでいた。ドアの向こう側では寮生たちの日常的なやりとりが聞こえてくる。けれどその声は、今の空にとってははるかかなたの出来事にも等しかった。 窓の外はカーテン越しにでも、もう暗くなっていることがわかる。 だが自分の指先すら目を凝らさないと見えにくくなっているその暗さが、今の空には心地よかった。 同室の幼なじみも、今は帰ってくる気配がなかった。 もしかすると気を利かせた親友が、彼を引き止めているのかもしれなかった。 「・・・な、なみちゃ・・・・ん・・・」 ほんの少し唇を動かしただけで、想いが募る。彼に逢いたい気持ちと、怖れる気持ち。またあんなふうに笑顔でかわされるくらいなら、顔を見ないほうがましだった。たとえどんなに逢いたい気持ちが募っても、あとで傷つくくらいなら。 「・・・最初から、オレのことなんか抱かなきゃよかったんだ・・・。そうすれば七海ちゃんだって後悔しなくてすんだし、オレだって、こんなことにはならなか・・・・・・」 自嘲的に笑おうとして、空は失敗する。再び表情に影を浮かべ、数メートル先の闇を見るとはなしに見つめた。 あのとき、自分たちの間になにが起きたのだろう。あの場所で会って、肌を重ねるまでの間に。 なにがこれまでの優しい関係を崩す要因になったのだろう。 縛られていた自分が七海を欲情させるほどそんなに倒錯的だったのか。 七海の体が、もとからそれだけ追い詰められていたのか。 あのとき自分の手足が自由であれば、こんなことにはならなかったのか。 なぜ単なるおふざけではなく、本格的に体をつなげることになってしまったのだろう。 あんなに理性的な七海を崩したものがなんなのか、空にはよくわからなかった。昔馴染み、教師と生徒、大人と子供。七海が簡単に様々な制約を取り去って性に溺れる人間だとは思わないけれど、現になんとも思っていない自分のことを彼はあの場で思いのままに抱いたのだ。 そう、いつもは湯飲みのほうが似合う七海のあの細い手が自分の肌に触れてきて。 その手が、手袋越しに肌の感触を確かめるようにゆっくりと滑って。 「・・・・・・っ」 それから指先が、〝自分〟を引き出して。執拗に、巧妙に、焦らすように。 「あ・・・っ」 空は、たまらなくなって自分の体を抱きしめた。そうしないと、なにかに耐えられなくなりそうだった。 けれど脳裏に、そして肌に、あのときの記憶がまざまざと蘇る。 今までそんなふうに触れたことのない指が、淫蕩に自分を追い詰める。初めて触った〝空自身〟を、慣れたふうに弄んで。 優しく話しかけてくれたあの紅い唇が、ためらうことなく〝自分自身〟を咥え込んで。 「・・・んっ・・・」 空はぞくぞくっと身を震わせた。 恐怖ではなかった。寂しさからでもない。 自分でも意識しないうちに、息が、上がりはじめる。 濡れた口の中で舌で嬲られる感触。ときおり痛みを与えてきた歯の感覚。そんなときさえも、片方の手は別の部分をやわやわと揉みほぐしていて。 容赦なく快楽の波に、さらわれそうになる。 自分が快感に慣れていない体だということはすぐにわかっただろうに、それでもまるでこちらを狂わせるかのように、次々と愛撫を繰り広げていく彼の「やり方」に。 自分は簡単に籠絡され、みだれたのではなかったか。 「は・・・っ、ちき、しょ・・・っ」 空は自分の唇を強く噛み締めた。それでももう、自分の中で目覚めた嵐を抑えるすべはなかった。 自分の体を抱きしめていた腕をとき、ズボンのファスナーに手をかける。こんなふうに現実にいる誰かをはっきりと思い描いたことなどなかっただけに、さすがに数秒間躊躇した。だがすでにもうそこが膨らんで自己主張しはじめていることは、自分でもよくわかっていた。 顔を背けて、一気にファスナーを下ろす。それから下着の奥にあるそれをつかんで引き出した。先端に偶然指が触れると、ぬめりとした感触で指が滑った。 「んん・・・っ・・・」 できるだけ声をこぼさないようにと気をつけて、空は引き出した自分自身に手をかける。ゆるく扱いただけで、体がこれまで以上に熱くなった。 もう片方の手が、無意識のうちにシャツの内側に滑り込む。 「・・・・・・っ」 頭の中に浮かぶのは、たった一人。 彼と肌を重ねたときのことが蘇ってきて、そのことがさらに空を追い上げていった。 誰でもいいわけじゃない。快楽を与えてくれるなら誰が相手でもかまわないわけじゃない。 今ここでほしい手は一人のものだけだった。 自分の手の感触に七海の手の感触を重ねて、空は自分自身の体に快感を与えていった。 七海に抱かれたあのとき以上に、彼を意識して体がより敏感になっているのがわかる。 期せずして彼に快楽を与えられたあのときとは違う。 もう彼だけをイメージして、彼だけしかほしくなくて。 ――意識の内側で、七海の手がじかに自分の肌に触れる。 柔らかい声が自分を辱めるように艶やかに囁く。 巧みな指使いも、くすぐるような唇の動きも、すべてが自分を快感に溺れさせていく。 「な・・・ななみ・・・ちゃ・・・っ」 もう、早く。 自分をいとおしんでほしい。 きっと今なら激しく体を繋げなくても、七海が自分の頬に触れる手だけでも甘く感じて、それだけで夢中になって満たされていく心がわかるから。 「ふぅん・・・っ。あ、ああっ・・・・っ」 好きすぎて。 気持ちも体もどうしようもなくて。 自分の中の餓えた心は抑えられない。 もう、この気持ちをなかったことになんかできない。 だから。 せめてあの時間だけでも取り戻したいと、空は痛切に思った。 一時的な、体の相手でもいいから。七海に心を向けられなくても、好きな相手に抱かれて好きな相手と共有する時間がほしいから。 ただそれだけが得られるのならば。 性欲処理の道具として貶められても利用されても、もういいと、空はそう思ったのだった。 ＥＮＤ |