temptation





　その日の放課後、学生会の手伝いをするべく啓太は和希と一緒に学生会室を訪れた。
「こんにちはー！」
　いつものように明るく挨拶をしながら啓太がドアを開ける。
　だが部屋の中から返ってくる声は一つもなかった。
「あれ･･･？」
「王様も中嶋さんもいないみたいだな」
　啓太に続いて和希も部屋の中をのぞきこむ。ドアは施錠されているわけでもなく部屋の電気もついているのだが、室内には丹羽の姿も中嶋の姿もなかった。
「二人ともいないんなら手伝うこともないよな。じゃあ今日はこのまま帰るか」
「でも、今日は忙しいから手伝ってほしいって言われたのは今朝のことだし、今は少しだけどこかに出ているだけじゃないのかな。電気もついているし、少なくとも王様か中嶋さんか、どちらか一人はすぐ帰ってくるような気がするけど」
　帰ろうと促した和希に、部屋の中を確認しながら啓太が言った。よくよく室内を確かめると、中嶋の椅子には中嶋の鞄が置いてあり、丹羽の机には丹羽の鞄が無造作に置かれていた。
「王様たちの鞄が置いてあるし、やっぱりすぐ戻ってくるよ。このまま中で待たせてもらおうか」
「だから戻ってくる前に帰りたかったんだけどな･･･」
「え？　なにか言った？」
「いや、あの二人がいない理由、またいつものように王様が逃げ出して中嶋さんがそれを追いかけているのかなって言っただけさ。それだったら、いつまで待てばいいのかわからないし･･･」
「どうだろう。でも忙しいって言ってたのは王様だし、王様なら本当にやらなくちゃいけないときは仕事を投げ出さないし、そんなことないんじゃないのかな」
「王様、本当にやらなくちゃいけないときまでは全然やらないけどな」
「そうだな」
　和希の言葉に啓太も笑って頷く。和希は啓太に帰ることを促すのは諦め、自分も部屋の中に入った。開放されたままだったドアを引いてそばの机に鞄を置く。
「じゃあ啓太そこに座れよ。二人を待っている間特にすることもないし、啓太のシャツを直してやるからさ」
「俺のシャツ？」
「そう。啓太のシャツの上から三つ目のボタン、取れかかっているだろ。それをつけ直してやるから」
　和希は言いながら鞄を開け、中から小さなソーイングセットを取り出した。そのソーイングセットのケースはシンプルなデザインだったが、おもてに青いクマの刺繍がついていた。
「和希･･･」
　啓太は和希が自分のシャツのボタンのことに気づいていたことに驚けばいいのか、ソーイングセットを持ち歩いていることに驚けばいいのか、少し悩んでしまった。手芸部員としてはもしかしたら常備しているのが普通なのかもしれないが、やはりいい年をした男が持っている物としては珍しいだろう。
　それにシャツのボタンも、ジャケットの陰に隠れて普通なら見えない位置にあるのだが。
「ん？　どうした啓太」
「和希、よく俺のシャツのボタンのことに気づいたな。普通にしている分には見えない位置だろ？」
「ああ、だってこの前俺が脱がしたときもゆるんでたからな」
「･･････」
「まあすぐ済むからそこに座れよ」
　針と糸を取り出して、和希はボタンつけの準備をはじめている。本当に和希が今ここでボタンつけをする気だと知って、啓太はジャケットのボタンをはずしながら空いている椅子に腰掛けた。
「王様や中嶋さんが帰ってきたときに俺がシャツを脱いでいたら、驚かれないかな」
「別に脱ぐ必要はないだろ。シャツのボタンは全部はずしてもらうけど、シャツも上着もそのまま普通に着ていればいいからさ」
「えっ!?　シャツを着たまま縫う気かよ。和希、間違って俺に針刺したりしないか？」
「･･････信用ないんだな。俺が啓太にそんなことするわけないだろ。裁縫の腕だって確かだよ。ちゃんと見てろよ」
　憮然とした声でそう言って、和希は糸を通した針を持ったまま啓太が座っている椅子の前に膝をついた。啓太のまだボタンがはずされていないシャツを引っ張る。
「ほら、ボタンだけは全部はずしてくれよ。それとも俺がはずしてやろうか？」
「い、いいよ。それくらい自分でするから」
　針を持っていない手をボタンに伸ばしてきた和希に啓太は慌ててそう言って、自分からネクタイをほどき、ボタンをはずしはじめた。
　ただボタンを付け直してもらうだけなのだが、和希の目の前で和希に見られたまま自分の肌をさらすことで啓太はつい別のことを連想してしまい、動揺するあまり幾度かボタンから指を滑らせた。
「啓太･･･。そんなに緊張されると別のことしたくなるぞ」
「緊張なんかしてないっ。いいから早くやれよ。･･･じゃなくて･･･えーと、オネガイシマス･･･」
　照れ隠しについぞんざいな口を利いたものの、和希の好意でボタンをつけ直してもらう自分の立場を振り返り、啓太がすぐに言い直した。そんな啓太の素直さに、和希が口元をほころばせる。
「ん。本当にすぐに終わるからな」



　シャツのボタンを全部はずしているので和希に肌をさらしているのだが、しかし和希はまったく気にせずボタンの付け直しに取り組んでいた。そんな和希の様子に、啓太はさきほどシャツのボタンをはずすだけで緊張してしまった自分の行動を恥ずかしく思った。いつもはどうあれ、和希は今は純粋に直してくれようとしただけだったのだ。
「･･･和希って、編み物だけじゃなくてそういうのもできるんだな」
「編み物ほど得意じゃないけどな。まあ困らない程度にはできるって感じかな。料理と一緒で男のたしなみの一つだろ」
「料理はともかく、裁縫は男のたしなみなんて言えるものじゃないような気がするけど･･･」
「そうか？　篠宮さんだってこれぐらいできるだろ」
「確かに篠宮さんならできそう･･･。でもやっぱりできるのは少数派だと思う」
「そうかな」
　話しながらも、和希の指は淀みなく針を動かしていく。シャツに突き刺す針先に迷いもなく、本当にあっという間に終わってしまった。
「ありがとう和希」
「別にこれぐらいたいしたことじゃないから」
　和希はそう言って付け直したばかりの啓太のシャツのボタンに口を寄せ、歯で糸を切った。
「――」
　和希の吐息が肌にかかり、啓太は思わず息を詰めた。
　普通に最後の仕上げをしただけなのに、和希に顔を寄せられてそんなことをされると、少し思考が別のことにそれてしまう。ボタンをはずしたときといい、和希は普通にしているだけなのになんだか自分だけが変なことを考えているようで、啓太はさらに恥ずかしくなった。
　ヨコシマだとか自意識過剰だとかいやらしいとか、そんな単語が頭の中でぐるぐるする。
「啓太。ついでにすぐ下のボタンも直しとくな。今すぐは取れないだろうけど、やっぱりゆるんでいるみたいだから」
「あ、うん。ありがとう」
　和希は一度新しい糸の付け替えのために立ち上がってから、再びさきほどのように床に膝をついた。
「･･･････」
　和希が自分の目の前で作業に熱中している様子を、啓太は今度は黙って見つめていた。黙々と手を動かしている様子が真剣で、仕事をしているときの真面目さを思わせた。また間近で改めて見た和希の顔はやっぱり端整で、甘い顔立ちなのにちゃんとりりしくもあり、大人の男が持つまなざしをも感じさせられた。
　それから指――働いているのにそんなに武骨な手じゃなくて、指が長くて器用に動いている。以前編み物をしている和希の手を見たことがあったけれど、そのときも複雑な動きを難なくこなしていた巧みな指。
　今はそばにいるのが当たり前になってしまっているけれど、和希という人間を改めて見直せば、同性から見てもかっこいいと思わずにはいられない存在なのだ――。
「･･････」
　啓太は自分の顔が赤くなっているのを自覚していた。二つ目のボタンつけはもうすぐ終わるが、それが終わってもしばらく和希が顔を上げなければいいと啓太は思った。この顔のほてりがおさまるまでは。
　和希には他意はないのに勝手に意識して勝手にどきどきしている自分はなんなのだろう――そう思えばそう思うほど、自分の鼓動が早く脈打つのを感じていた。
（･･･う。普通はこういうこと、女の子にされてどきどきするんだよな。なんで俺、和希にされて和希を見てどきどきしているんだろう･･･）
「これで二つ目も終わりな」
　和希がまた啓太のシャツに口を寄せて糸を切ろうとする。啓太は体に力を込めて和希の吐息がかかってくるのに耐えた。
「ほら終わり」
　ぷつっと糸の切れる気配がして、啓太はほっと息をついた。これであとはボタンを留めて制服を整えれば終わりなのだ。間近にある和希の顔にドキドキすることも、和希の手がときどき肌にぶつかることもなくなるのだから。
（普通にボタンをつけてもらっただけなのに、なに意識してんだよ俺･･･。あー･･･もう今度から絶対に自分で早めにボタンをなおしておこう･･･）
　それがどんなにガタガタな縫い目であっても、こんな時間を幾度も過ごすよりかはましだと思えた。自分の中のあさましさを自覚させられるようなこんな時間よりは。
「――て、和希っ!?」
「ここもほつれているようだからついでに」
「ついでって、いいよそこはっ。和希っ！」
「遠慮するなよ。このほつれ直しとかないと、生地を噛んでファスナーが上がらなくなるぞ」
　それは啓太だって避けたいだろ？――そう言って、和希が啓太のズボンのボタンに手をかけた。啓太が見てみると確かにズボンのファスナー脇の生地が少しほつれてはいたが。
「でもこれぐらい大丈夫だから、ほんとに！　今すぐ直さなくったって全然困らないしっ！」
「いいからいいから。ものはついでだろ」
　啓太の制止を聞かず、和希がズボンのボタンをはずす。
「んー･･･この場合やっぱ縫い目が見えないように裏から縫うべきかな」
「だったら脱ぐからっ。今すぐ脱ぐって！」
「だから啓太は俺の腕を信用しろよ、啓太の肌に針を刺したりしないって」
「信用してるとか信用していないとかじゃなくてっ！」
　啓太はファスナーまでは下ろされないように和希の手を慌てて両手で押さえた。シャツのボタンつけでさえどきどきしていたのだから、これ以上ズボンの手直しまでされたらさすがにしゃれにならない気がした。和希にその部分に顔を近づけられて、器用な指先がそのそばで巧みに動いている様子を見たら――そのうえときおりその指が触れてしまったら。自分自身が、和希にバレバレな形で変化してしまいそうな気がする。他意のないごく日常的な動作で一人で熱くなってしまったら、それはもうどんな言い訳もきかないほど本当にいやらしい身体をしているってことなのだ――。
「もう本当にいいから･･･」
　和希の手を押さえたまま啓太が再度言うと、和希は「仕方ないなあ」と言ってひいてくれた。
「じゃあまた今度な」
「う、うん。そのときはこのズボン持って和希に頼みに行くよ」
「啓太が履いているままでかまわないんだけどな、俺は」
「俺がかまうからそれは却下」
「･･････なんで啓太がかまうんだろうな？」
　持っていた針を机の上に置いた和希が、啓太を見上げてにやりと笑った。
「ここのそばを俺の指が行きつ戻りつすると気になる？　俺にそばで見られてたりしたら意識する？」
「な･･･っ」
　啓太に押さえられていないほうの手で和希が啓太のズボンのファスナーの横を指でゆっくりと辿った。
「こんなふうに俺の指が近く通るだけで啓太の身体は熱くなっちゃって、やばい状態になったりするのかな？」
「そ、そんなわけじゃないけど･･･」
「じゃあ試してみる？」
「･･･っ！」
　言葉と同時に和希の指先でズボンのふくらみを押され、啓太の身体が跳ねた。和希の手を止めようにも、いつの間にかさきほど両手で押さえていた和希の手に両手首とも捕らえられていて、止めることがかなわなかった。そのあともズボンの上を和希の指先が幾度も滑っていく。
「その気がない相手に普通のことされてその気になっちゃえる啓太って･･･なんなんだろうな？」
「い、今の和希はおもいっきりその気になってるだろっ」
「そりゃあ、その気になっていた啓太に誘惑されちゃったからな」
「ゆ、誘惑なんかしていないっ」
「どうだか。啓太にあんなに熱い視線で見つめられ続けたら、そりゃあ俺だってぐらっときちゃうだろ」
「見つめてなんて――」
「いただろ？」
「･･････」
「俺の手を見て、いつもこの手にいろんなことをされちゃってるんだ、なんて思い出したりした？」
「してないっ」
「じゃあ今から思い出して。いつも俺の指が啓太にしていること。触るときにどう動いて、扱いているときにどうしているか。それから挿れているときは啓太の中をどんなふうにかき回しているか――」
「和希っ！」
　たまらなくなって啓太は声をあげた。和希を見ていただけで意識してしまったのは確かに自分がいけないのかもしれないが、だからといってこんなふうに煽られるいわれはなかった。
「なーんて、冗談な。胸をはだけてる啓太にそんな顔されたら、本当に俺の理性ぐらついちゃうよ」
　啓太の両手を解放してから、和希は宥めるように自分の指先で啓太の唇に一瞬だけのキスをした。
　そんな和希の顔を、啓太が恨みがましげに見おろす。
「･･････和希が俺に脱げって言ったんだぞ」
「うん。たどたどしい指でボタンをはずす啓太かわいかったなあ。また今度あれやってもらおうかな」
「やらないよっ。まったくもう･･･ボタンを付け直してくれたことには感謝するけど･･･変なことは言うなよ。なんだよ誘惑って･･･」
「誘惑は誘惑だろ。さっきも言ったように、啓太が俺を見つめて誘ってきたんだろ」
「そんなことしていない。誘うなんて言ったら、いつだって和希のほうが――」
「俺が？」
「･･････」
　いつもじゃれてくるときとは違う真面目な表情を間近で見せたり、見惚れるほど巧みな指の動きを人に見せつけるのも、それも一つの誘惑じゃないだろうか――啓太は頭の中でそんなことを考えた。和希にはそのつもりがなかったとしても、あれだって人を惑わせるには充分威力のあるものだったのだから。
「俺がなんだよ」
「なんでもないよ。それより和希、針出しっぱなしだろ。ちゃんとしまわないと危ないぞ」
「ごまかすなよ啓太。話の続きはなんだよ」
「だからなんでもな･･･ちょ、和希っ。もう俺、制服ちゃんと着るんだから邪魔するなよっ」
「啓太がごまかすからいけないんだろ。ちゃんと言わないとこのままシャツのボタンはめさせないぞ」
「やめろって、和希――」
「･･･････おまえらいい加減にしろよ。ここがどこだか思いきり忘れてるだろっ!?」
　シャツのボタンを留める留めないのやりとりをしていた二人の背後で、第三者の低い声が唐突に割り込んだ。
　啓太は慌てて前をかきあわせ、声のしたほうを振り返った。
「王様！　それに中嶋さんっ。戻ってこられてたんですね」
「戻ってこられたんですね、じゃない！　啓太、遠藤！　学生会室はおまえたちがいちゃつくところじゃねえぞっ。そんなにいちゃつきたいなら帰ってからにしろ！」
「王様、それは誤解です！　俺はただ和希に･･･」
「どう聞いても乳繰り合っているだけにしか聞こえなかったな」
　眼鏡のフレームを指で押し上げて、中嶋が淡々とした声で言った。
「乳繰り･･･って･･･き、聞いてたんですか!?」
「ドアが開いてたから聞こえてたんだよ」
「ご丁寧にどこかの理事長がドアに隙間を作ってくれていたようだからな」
「･･･って和希――!?」
「いや、あの、いいところを邪魔されたくないから声で状況を察してくれという意味と、俺の啓太がかわいいからちょっと自慢も兼ねてな･･･」
「･･････」
「さっ、王様たちも戻ってきたことだし仕事しような啓太。あ、それは目の毒だから早くボタン留めたほうがいいぞ」
「･･････ボタンつけてやるなんて親切そうな顔して、全部謀ってたんだな･･･」
「べ、別に謀ったつもりはないぞ。どんな展開になるか俺だって読めなかったし、まあ多分啓太ならどう反応してもかわいいだろうなあとは思ってたけど」
「･･････和希――っ！！」
「だからおまえら、痴話げんかもあとでやれっ！」

　――このあとようやく四人が静かな室内で仕事に取りかかれたのは、十分以上あとのことだった。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ＥＮＤ


ソーイングセットには普通ハサミもセットされているはずですね。
勿論和希のソーイングセットにもちゃんとハサミが入っていたと思われます。