残　火



　熱いシャワーを浴びてどうにか自分の身体を洗い流し、啓太はパジャマに着替えた。
　身体を洗うときに疼いた自分の“中”については考えないようにする。
　身体の至るところにつけられたいくつもの赤い痕についても、はじめからないものとして無視する。一つ一つの痕を視界に入れそれについて考えてしまったら、それらがどんなふうにつけられたものかたちまち思い出してしまうからだ。
　腕、脇腹、胸、内腿･･････。自分を組み敷いた和希が半分悪戯交じりに、半分恋人のしるしとして傲慢に、一つ一つ丁寧にくちづけていった証。
「･･････っだから、だめだって･･･」
　パジャマのボタンをかけているとき、隙間から見えた痕に思考を奪われそうになって啓太は慌てて首を振った。さっさとボタンを全部はめてそこを隠してしまう。
『ちょっ･･･く、くすぐったいって。やめろよ和希』
『ん、あともう少し･･･』
『あともう少しじゃなくて･･･うわっ、和希またつけたな!?　着替えのとき困るからほんとにやめろよ･･･』
『こんなとこ見せるような着替えを、啓太が人前でしなければいいんだよ』
『無茶言うなよ。変にこそこそ着替えてたら、そっちのほうが目立つだろ。･･･ったく、和希ってほんとつけるの好きだよな･･････』
『そりゃあ、啓太が俺の恋人だっていうしるしだからな。啓太だって俺につけていいんだぞ。いっそキスマークじゃなくて噛み痕でもつけてみるか？　そしたら俺の恋人はこんなに激しいんだぞって自慢になるな』
『馬鹿言うなよ･･･』
　痕自体はパジャマで隠してしまったものの、ついその痕に関するやりとりを思い出してしまい、啓太は困り果ててしまった。単なる会話だけじゃなくて、そのときの和希の汗ばんだ肌や体温まで蘇ってきそうで、パジャマを着た身体が湯上りとは違う熱さに包まれそうになる。
　熱いシャワーを浴びて体の火照りを無理やり冷ましたはずだった。
　けれど熱いシャワーより、冷たい水を浴びたほうが良かったんだろうかと啓太はいまさらながらに考える。冷たい水で全身を冷やしてしまえば、身体の中の熱など水とともに流れて消えてしまったかもしれない。
「あーもうっ。とにかく今日はさっさと寝よう。朝になればこんなの平気になってるんだからさ！」
　自分に強く言い聞かせて、啓太は目の前にあるベッドのシーツを思いきり引っ張ってはがした。適当に丸めて部屋の隅に転がす。枕カバーも同様にはがし、部屋の隅に置いた。そしてすぐに清潔なシーツと枕カバーを出してきてそれぞれにかける。
　ベッドの下に落ちていた掛け布団を乗せ、啓太は電気を消してベッドに寝転んだ。
　替えたばかりのシーツの感触は心地よく、部屋の主の匂いもまだこのシーツにはついていない。掛け布団は最中まったく使っていなかったので変わらずきれいなままで、啓太は安心して目を閉じた。普段なら眠気に負けてそのまま寝てしまうときもあるが、今日ばかりは汗で湿った――していたときの名残が残るシーツに包まれて眠る気にはなれなかった。自分が握りしめてくしゃくしゃにしたシーツの上で寝るなんて、危険すぎる。
　本当は自分の部屋に帰って寝るのが一番安全だとわかっていたが、こんな時間にいまさら部屋に帰って冷えたベッドで寝るのも･･･という気持ちが、啓太をこの部屋に留まらせる。
　とりあえずシーツもパジャマも清潔なものなんだから、このまま寝て余計なことは忘れてしまおう――心の中でそう思って本格的に眠りの体勢に入ろうとしたとき。
　ベッドサイドに置いていた携帯電話が振動を伝えた。
「えっ」
　メールかと思い、啓太は身体を起こして携帯電話に手を伸ばす。だが表示されたのはメールの着信ではなく電話で、啓太は慌ててボタンを押して電話を耳に押しあてた。
「も、もしもし!?　和希!?」
「――ごめん、寝てたか？」
「大丈夫。寝ようとはしてたけど、まだ寝てなかったからさ」
「そっか。ならいいんだ。少し、啓太の声が聞きたくてさ」
「･･････」
　深夜だからか、耳から聞こえる和希の声はひそやかで、啓太は耳をくすぐられるような心地よさを覚えた。
「啓太？　やっぱり本当は寝てた？」
「あ、ごめん、ちょっと黙っちゃって。寝てなかったよ、ほんとに。だから気にしなくていいんだ。･･････俺も、和希の声が聞けて嬉しいよ」
「そうか･･･」
「あ、でも、俺はいいけど和希は？　仕事中じゃないのか？　それとも移動中？」
「一休み中。だから啓太も気にしなくていいんだ。俺が与えるべき指示は出したし、その結果が表れて次の仕事に取り掛かるのにはまだ間がある。これからどのくらいまでかかるかわからないからさ、休めるときには休んでおかないとな」
「じゃあこの電話すぐに切ったほうがいいな。俺と話してたら和希休めなくなっちゃうだろ。俺と話すよりも少し寝たほうがいいよ」
　啓太がそう言うと電話の向こうから和希が溜息をついたのが聞こえた。続いて響く、寂しげな声。
「･･････冷たいな、啓太は」
「だ、だってっ」
「仮眠よりもなによりも、俺にすれば啓太と話しているほうが癒しになるんだよ。だから、さっさと切れなんて言わないで、もう少し俺につきあってほしいよ。それとも啓太は俺とこうして話すの、いや？」
「いやじゃないよ。勿論いやじゃないけど。和希は本当にそれで休めるのか？」
「休めるよ。なんてったって啓太の声は甘くて、心地いいからな。電話を通して啓太が息をつくのまで感じられて、ほんと、癒されるよ」
「･･････」
「今、息を止めただろ。そういうわかりやすい行動がたまらないよ。･･･離れて、いるのにな」
「･･････」
　耳から聞こえる和希の囁き声に、啓太は息を飲む。和希と電話で話したことなんかよくあるのに、この時間帯に話すことも初めてではないのに、なぜか妙に和希の声が耳に絡んでくるような気がした。心地いいを通り越して、別のなにかがかきたてられそうになる。
「じゃ、じゃあなに話そっか。あ、そういえば和希、今サーバー棟にいるのか？」
「そう。啓太は？　寝ようとしてたってことは今ベッド？　もしかして今は自分の部屋なのか？」
「いや、和希の部屋だよ。で、ベッドの上は当たり。電気も今は真っ暗なんだ」
「今から寝るってことは、啓太、シャワー浴びた？　でなかったらあのまま寝てたところだよな」
　なんでもないことのように出した話題の流れでシャワーのことを聞かれ、啓太は一瞬どきりとする。
「う、うん、浴びてた。でも言われてみれば、本当に俺があのまま寝てて電話に出ない可能性もあったんだよな」
「そのときはそのときで諦めるよ。それにしても、そうか、啓太はシャワー浴びたのか。俺はまだそのまんまだよ」
「だったら今の時間に浴びればいいんじゃないのか。確かサーバー棟には･･･」
「うん。シャワールームだったらあるけどね。でも･･････今はこれでいいかなって気もする。啓太の匂いがそのまま俺に残っているからさ」
「ば、馬鹿っ。なに言ってんだよ。そんなのさっさと流せよっ」
「啓太は俺の、さっさと洗い流したんだよな。俺は、啓太の匂いを楽しんでるよ。匂いだけじゃなくて、まだ少し、感覚が残ってる気がする」
「気のせいだろ！　和希、そんな馬鹿なことばかり言うなら電話切るからな！」
　啓太が声をあげると、電話の向こうから和希の笑い声が聞こえてきた。
「ごめんごめん、冗談だよ」
「当り前だろ。和希、ふざけすぎ」
「せっかく啓太と一緒にいたのに、急に仕事になっちゃったからな。啓太をからかって少しでも楽しまないと割に合わないんだよ」
「なんだよそれ･･･」
「それに･･････啓太、気づいてたか？　啓太の声、今はいつもより少し高いってこと」
「え？　そうかな･･･」
「うん。もしかして今、啓太体調悪い？　熱あったりする？」
「いや、熱なんかないよ。全然元気。･･･って、さっきまで一緒にいたんだから和希だって知ってるだろ」
　なぜ今急に体調のことを持ち出されるのか、啓太にはわからなかった。和希がこの部屋を出てから電話してくるまでの短い時間で、そうそう急に具合が悪くなるわけもない。いつもより声が高いというのも、啓太自身はまったく感じてないことだった。
「知ってるけど。･･････じゃあ、啓太の声が高めなのは体調が悪いせいじゃないんだな。――もしかして、長いことシャワー浴びてた？」
「えっ!?　シャ、シャワー!?」
「そう。バスルームに長いこといて、それでのぼせたんじゃないかなって思ったんだ。･･････はずれ？」
　和希が確認してくる。啓太は呼吸を整えたあと平静を装って答えた。
「･･････はずれ。シャワー浴びてたのなんかいつもぐらいの時間だったし、それに和希は俺の声がいつもより高いって言うけど、俺はそんなの感じない。和希の気のせいだろ。きっと、電話を通して聞くからそう感じるだけだよ」
「そっかな。･･････そうかもな」
「だろ？」
「じゃあそれはいいけどさ。もっと、啓太の声、聞かせて」
「･･････さっきからこうして喋ってるだろ」
「そういう普通のことじゃなくてさ。俺がこれから仕事を頑張れるようにもっと別のこと。ほんとは、啓太の感覚が残っているっていうの、冗談じゃないんだ」
「か、和希っ！」
「啓太の肌のさわり心地も、啓太の匂いも覚えてる。だから、啓太の甘い声がもっと聞きたい」
「馬鹿。それじゃ和希、仕事になんないだろ。それにそんなこと言うなんて、お、おやじくさいぞ和希」
　故意にそんな言い回しをして場を流そうとする。だが和希は啓太のその言葉に乗ってこなかった。
「いいよ、それでも。それより･･････啓太は？　“俺のこと”、覚えてる？　俺の指が啓太の身体のどこに触れて、俺がどこにキスしたか。そしてどこにキスされたときが一番気持ちよかったか。教えて、啓太」
「へっ、変だぞ和希。おかしいよ。まさか仕事中とか言って、なにか飲んでるんじゃないのか!?」
「なにも飲んでいないよ。今飲んだら仕事の妨げになるし、それに、舌に残ってる啓太の味が消えてもったいないだろ」
「だからそれがおかしいんだって！　も、もう俺本当に切るからなっ」
「少しぐらい付き合ってくれてもいいだろ。これから仕事と闘う身なんだからさ」
「だったらそれらしく普通に喋れよ！　そんな変なことばっかり言うのなし！」
「変なことじゃない、全部本当のことだよ。だって俺たち、ほんの数時間前までしてただろ。忘れられないよ」
「だから、そういうのがだめなんだって･･････」
　和希の声には自分をからかう響きなんかなくて、それだけに啓太は戸惑わずにはいられなかった。さきほど和希の声を聞いたときにも耳に絡んでくるような気がしたが、今は和希が口にする言葉が言葉だけに、もっと、ねっとりと身体の芯に絡みついてくるような気がした。
「だめ？　どうして？」
「だからっ」
「身体が、熱くなっちゃうから？」
「――っ」
　和希の、さらに低い囁き声に、啓太はなにも答えられなかった。瞬間的に身体になにかが走る。
「啓太、ばればれだよ。いつもと声が違うし、シャワーの話ふると、さっきから動揺してる。ただ普通に啓太の声が聞きたかっただけなんだけど、今夜はラッキーだな。･･････でも俺、さっきちゃんとしたつもりだったんだけどな。啓太にはあれだけじゃ物足りなかった？」
「･･････な･･･んの話か俺、わかんないよ･･････」
　楽しげな響きを持つ和希の声に、啓太の語尾が震える。抑揚が欠け、自分でも力のない声だというのは自覚していた。
「じゃあ今は、追求しないであげてもいいけどね。でもさっきの啓太、ほんとにかわいかったよな。俺のこと必死になって求めてくれたし、途中から声、全然抑えられなくて、たくさん蕩けそうな声聞かせてくれたよな」
「･･････」
「啓太の声、ほんとに好きだよ。だから今も、もっと聞きたい。黙っちゃ、だめだよ」
「･･････か、和希が、俺を黙らせるんだろ･･････」
「俺は啓太の声を引き出そうとしているだけだよ。啓太の甘い声が聞きたいよ。甘くて蕩けそうな声。必死に俺を呼んで耐えている声。激しい息遣いで掠れた啓太の声。もっと、聞きたいよ」
「和希･･･っ！」
　たまらなかった。
　和希の声を聞くだけで、耳から艶めいた言葉を吹き込まれるだけで、ここに和希はいないのにさきほどの熱が蘇ってきてしまう。
　和希と抱きあったときの熱と、バスルームで、たった一人でしてしまったときの熱。それらが合わさって啓太の身体を熱くする。
「――なんて、ちょっと啓太のこといじめすぎたかな」
　囁き声からいつもの声に戻し、和希がかすかに笑った。
「･･･っ･･･ほ、ほんとにふざけすぎだ･･･」
「うん、ごめんな啓太。それで俺、もう少しだけ時間あるんだ」
　そのまま、普段と変わらない明るい声で。
「だから――しよう」
　啓太に向けて、和希が楽しげにそう言った。