Distance 「ほんとは俺、和希より年上だったんだよな」 布団からのそりと顔を出した啓太が、隣にいる和希に向けておもむろに口を開いた。 「啓太。もう起きたんだな。おはよう」 愛しい恋人の目覚めに、たちまち和希の表情が柔らかくなる。啓太は朝の光の中で見る和希のその表情に目を奪われながらも、もう一度繰り返した。 「だから、ほんとは俺、和希より年上だったんだぞ」 「なんの話だよ。夢でも見たのか？」 どこか拗ねた響きをもつ啓太の声にさえ、和希の表情は変わらない。蕩けそうに甘い笑みで啓太のことを見つめていた。 「夢じゃなくて、ただ気がついただけ。俺の誕生日って五月だろ。で、和希の誕生日は六月。ほら、俺の方が和希より一ヶ月年上だろ」 布団から這い出て枕を自分の身体の下に引き込み、啓太が顔をあげる。同じ布団に横になっている和希は、そのまま黙って笑顔で先を促した。 「和希の誕生日を初めて知ったとき、俺の方がちょっとだけお兄ちゃんだって、ひそかに喜んでたのにさ。実際にはそうじゃなかったなんて、詐欺だよな」 「ちょっとだけお兄ちゃんて…啓太、そんなこと考えてたんだ？」 「だって一ヶ月だろうとなんだろうと、相手より年上か年下かは重要な問題だろ!? 俺の誕生日早いから、同い年なら大抵は俺の方が年上なんだけど、和希の場合はどうかなって、誕生日聞くまで気になってたんだ。別に年上だからって偉ぶるわけじゃないけど、相手より年上だって思うと負けてられないっていう気合が入るだろ？」 「ちょっとだけ『お兄ちゃん』ね。啓太お兄ちゃんか……なんかかわいいな」 「茶化すなよ」 和希から視線とともに含むような言い方をされ、啓太がむっとして言い返す。 「でも実際かわいいんだからしょうがないだろ。お兄ちゃんなんていう発想も、お兄ちゃんしてる啓太を想像するのも。なんか、けいたお兄ちゃんて、甘えてみたくなるよな。けいたお兄ちゃん、僕といいことしてあーそぼ。ってね」 「わわっ、だから茶化すなって言ってるだろ!? 俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……和希！」 いきなり和希に身体を引き寄せられ、啓太は慌てて声をあげた。裸の胸に故意に顔をすり寄せられると、恥ずかしさとともにくすぐったさを感じる。 「んー。けいたお兄ちゃんていい匂いがする。それにけいたお兄ちゃんてあったかくてやわらかい」 「和希！ 調子に乗るなよっ！」 和希の頭を何度か軽くはたくと、和希は笑って啓太から離れた。 「ごめんごめん。啓太がかわいいこと言うからちょっと浮かれた」 「浮かれすぎ！ 今日の和希、顔にしまりがないぞ」 「そうかな？ でも、しょうがないだろ？ 俺の隣りに啓太がいて、こんなふうに幸せな気分で今日を迎えられたら顔の筋肉も緩むって。で、啓太と俺の誕生日がどうしたって？」 「だから、和希が本当に俺と同い年だったら、俺は自分の誕生日が和希より早いってこともあって、いろんなことを今よりももっと頑張っていただろうなって思ってさ。勉強とか、体育とか、和希より負けたくないって気持ちが今よりも強かったと思う。和希と初めてゲーセンに行ったとき必死で頑張ってたみたいにさ」 「今だって、啓太は頑張ってるだろ？」 目の前のなにもない空間を見つめながら言った啓太の前髪を、横から伸びてきた和希の手が軽く引っ張った。 「俺はちゃんと知ってるよ。啓太がいつもいつも前向きに努力していることは。啓太はほんと、頑張り屋さんだもんな」 「……頑張ってる意味が違うよ。今俺がいろんなことを覚えて懸命になっているのは、和希に負けたくないって気持ちからじゃないからさ。そりゃ、そういう気持ちがまったくないわけじゃないけど、それよりも…」 「それよりも？」 聞き返した和希に対して、啓太はすぐに答えなかった。自分の髪に触れる和希の手を優しく振り払い、和希から少し視線をそらす。自分の頬が紅潮しているのは、啓太も自覚していた。 「和希に、少しでも早く追いつきたい、置いていかれたくないっていう気持ちの方が強い……」 「啓太っ！」 「うわっ！ だからいきなり抱きついてくるなよ和希！」 「あーもう、ほんとにかわいいなあ俺の啓太は。啓太が頑張り屋さんなのもいつも一生懸命なのも俺のためかと思うと、感動しすぎてくらくらするよ。昨夜は啓太にたくさん無理させたし、さすがに今夜までは我慢するしかないかって思ってたけど、そんなにかわいいことばかり言われると、俺耐えられないよ啓太。あー、やっぱり昼間も夜も俺がはりきるしかないかな。今日は出かける予定は全部キャンセルして、いっそこのまま啓太と二人でベッドの中っていうのも……」 「別に和希がはりきる必要はないから」 自分の身体の下に敷いていた枕をつかみ、啓太はそれを思いきり和希の顔に押しつけた。 「……啓太がそんなふうに考えてくれるのはすごく嬉しいけど、俺は絶対に啓太を置いてったりしないし、啓太が焦らなくても俺は待つよ」 押しつけられた枕をはがして、和希が改めて落ち着いた声で言う。それに対して啓太は再び和希から視線をそらした。 「だからほんとは、和希にそういうふうに言われるのも……」 「啓太？」 「…もし本当に俺たちが同い年だったら、和希は俺にそんなことを言うこともないし、待つなんてことも思いつかないはずだろ？ 俺だって、和希に追いつきたい、置いていかれたくないなんてことも、同い年だったらきっと思っていなかったはずなんだ。和希に負けたくない、和希と対等でいられるように頑張るとは考えても、前を行く和希の背中を見つめながら自分の力のなさとか子供の自分に歯がみすることなんてなかった。俺は、それがすごく悔しいんだ。俺と和希の間に、俺の努力なんかじゃ追いつけない差を感じて」 「啓太……」 啓太の名前を呟いた和希が、啓太の腕をつかんで自分のほうに引き寄せた。 「だから和希、今はっ」 「啓太は、俺と同い年だったらよかった？ 本当に俺より一ヶ月お兄ちゃんでいたかった？」 自分の腕の中に啓太の身体をおさめた和希が、静かに聞いてくる。啓太は和希に密着するその距離に少し身じろぎしたが、和希から離れようとはしなかった。 「……うん。そういう気持ちも大きい。和希と俺の距離が、一ヶ月ぐらいだったらって思うよ」 「俺と啓太が同い年だったら、啓太が子供のときに俺と会っていなかったとしても？ 一緒の学校に行こうっていうあの約束もなくて、俺が啓太をベルリバティに呼ぶことがなかったとしても？」 「それはそうだけど、でも俺と和希はいつかどこかでちゃんと会ってたかもしれないだろ。ベルリバティじゃなくても、同い年の友達として出会っていたかもしれない。それでちゃんと、こ、恋に落ちてたかもしれないだろ」 「そりゃあ、俺は啓太と出会ったらどんな形の出会いであれ、いつかきっと啓太に惚れ込んでた自信はあるけど。でも、そっかあ…」 啓太の額に、こつんと和希の額があてられた。横になったまま啓太が視線を上げると、目を閉じた和希の顔が間近にあった。和希の吐息まで感じて、啓太の鼓動が反射的に高鳴った。 「か、和希？」 「じゃあ啓太からすれば、今日は俺がまた一歩先に行っちゃう日？」 「…うん。勿論和希おめでとう！って気持ちもたくさんあるし、いっぱいお祝いしてあげたいけど、また和希に先に行かれて、せっかく少し追いついたのに悔しいなって思う日でもあるかな……」 「そう…」 「…和希、怒った？ なにもこんなこと、よりによって今日言うなって思った？」 「別に、怒ってないよ」 そう言った和希が、啓太と額をつけたまま目を開けた。和希の真摯な瞳に、間近から見つめられる。 「ただ、啓太に距離を感じられたら、俺としては寂しいかな。俺だって、啓太との間に努力なんかじゃ埋められない距離があることはわかってるよ。俺がどんなにその距離を近づけたいって思ったところで俺はもう大人で、いろいろなことを知ってしまったし、いろいろなことを覚えてしまった。自分がとっくにすれてしまった自覚もあるし、自分のずるさもわかってる。どんなに戻りたいと思っても、俺にはもう啓太みたいな純粋さは得られないからな。そういう意味でも啓太が俺との差を感じているのなら、結局は受け入れるしかないんだよな。全部、変えようのない事実だしな」 「俺はっ、そういう意味で言ったんじゃない！ 和希は大人で立派に働いている社会人で、すごくかっこよくて、俺には全然追いつけないくらいすごすぎる人間で！ だから俺はますます和希のことを好きになって和希にはまって和希のことしか考えられなくなって、それが悔しいって言ってるだけなのに、なんでそんなふうにっ」 「でもそれだって、俺と啓太の埋められない差だろ？ 今日で、また一つ俺は啓太と遠くなるのかな。啓太はいつまでたっても俺には眩しい存在だし、俺の方は…」 「和希！」 和希の言葉の途中で、啓太は自分を抱きしめていた和希の腕をほどき、和希の身体をベッドに押しつけた。自分の身体を和希の身体の上に重ね、腕で和希を押さえ込んで見下ろす。 「なんで、なんでそんなこと言うんだよっ！ いくら年が違ったって、俺と和希の間にそんな違いはないだろ!? すれてるとかずるさとか、そんな言い方はするな！ そんなの俺だって同じだろっ。純粋だとか眩しいとか、人のこと勝手にそんなふうに思うなよ！ 俺は全然純粋なんかじゃないし、もし純粋な人間だったら和希に対して悔しいなんて感情、浮かぶわけないだろっ」 「たとえ年が違っても、俺と啓太との間にそんな違いはない、か。最初に、俺たちの間には努力じゃ追いつけない差があるって言ったのは啓太だろ。矛盾してるぞ」 「……っ。だって、だって和希がそんなことを言い出すから」 「事実は事実だからな。単純に年の差だけじゃない、数値で測れない距離が俺と啓太の間には実際に――」 その続きを口にする前に、和希の唇が啓太の唇によって塞がれた。ただ一度のくちづけだけではなく、いくらか角度を変えながら何度も唇を重ね合わされる。 啓太からのキスはつたないながらも懸命で、やがて和希も啓太の頭に腕を回し、自らも啓太の唇を貪った。二人の吐息がだんだん熱を帯びて互いの頬を掠めていく。 二人が離れたのは、和希が自分のまぶたに濡れた感触を感じたときだった。反射的に啓太の身体を引き剥がし、その顔を見つめ返す。 「啓太!? おまえ、泣いてるのか？」 「……」 「なんで……」 「距離なんかないよ。俺と和希の間に差なんかない。あるけど、でも本当にはないっ」 「……言ってることめちゃくちゃだぞ啓太」 「だって俺たちはこんなに近くにいるだろ!? こんなにすぐそばにいるのに違いなんてない。俺が変なことを言い出したのがいけなかったのなら謝るよ。いくらだって謝るから、だからさっきの言葉は取り消してほしい。俺たちの間に埋められない距離なんてないんだからな！」 「わかった。啓太が取り消すなら俺も取り消すよ。だからもう、啓太も俺との差を感じるなんて言うなよな」 指を伸ばして啓太の涙に触れる。指先で優しく涙を拭いながら、和希は自分を見下ろす啓太にそっと笑いかけた。 「……だって和希が俺より大人でかっこいいのは本当のことだろ」 「……啓太。だったら啓太が俺よりかわいくて、穢れてなくていじらしくて、汚れきった俺とは全然違うっていうのも本当のことだよな」 「それは大きく違う！」 「違わない。ずるいぞ、啓太。人のことは認めないなんて」 「子供はいつだってずるいもんだろ。ほら、そしたら俺と和希、同じってことになるよな」 「ずるさの意味合いが全然違うだろ。それに、いつもは子供扱いするななんて言っておきながら、まったく啓太は――」 呆れたようにそう呟いたあと、和希は自分の上にいる啓太の両肩をつかみ、そのまま自分の体重をかけて体勢を逆転させた。 「うわっ。和希!?」 「啓太に乗られるのもたまにはいいけど、やっぱりこの体勢のほうが落ち着くよ」 そう言って笑うと、和希は今度は自分から啓太の唇に軽いキスを落とした。そのまま啓太の肩口に顔をうずめるようにして肌を重ねる。 「あー、やっぱり啓太はかわいいよなあ。なにからなにまでかわいくて、いじらしくて、俺は何度でも啓太に惚れ直すよ。素直なところも意地っ張りなところも、俺が馬鹿なことすると気持ちいいくらいにちゃんと叱ってくれるところも、全部大好きだよ啓太。俺は、啓太と出会えてほんとに、すごく幸せだよ」 「俺だって和希と出会えたのはすごく幸せだし、和希のことは大好き……って、わっ、こら和希！ いきなりそんなとこ触るなよっ」 「やっぱり今日の予定は全部キャンセルな。このままここで俺の誕生日をたっぷり祝ってくれよ啓太」 「そんなこと言って、夕べだってたくさんしただろ!? 日付けが変わった途端にがっついてきたの誰だよ!?」 「だって啓太が、誕生日は俺のために頑張るって言ってたからだろ。そしたらほんの数分でももったいなくて、すぐにしたくなるのは当り前だろ？」 「そ、そんなの当り前じゃないだろ！」 「それに」 すでに啓太の肌をあやしく触りはじめていた手を止めて、和希は頭をあげた。上から覗き込むようにして啓太の瞳を見つめる。 「俺と啓太はもっとちゃんと、お互いの距離を埋める必要があるみたいだしな。言葉だけじゃなく、実際にもちゃんと埋めて距離がないことを証明しないと、だろ？ 俺、啓太との距離を埋めるためにいつも以上に頑張るからな」 「そっちの距離は頑張らなくていいよ……」 「だめ。啓太は俺とのほんとの距離を身体で覚える必要大ありだろ？ 啓太がしっかり理解するまで、とことん教えてやるからな？」 楽しそうに微笑んだ和希の顔を見て、啓太は自分の顔が引きつったのを感じていた。 「……和希、もしかしてやっぱり、少し怒ってる？」 「別に？ せっかくの俺の誕生日になんで啓太の涙を見る羽目になったのかなあなんて、俺は全然考えてないよ？」 「それは和希があんなことを言い出すからだろっ!?」 「だから俺は最初のきっかけはなんだったかなとかなんて、全然気にしてないって言っただろ。ただ、どうせなら啓太の別の涙が見たいかなって少し思っただけなんだ。啓太も前もって頑張るって言ってくれたことだし、せっかく俺の誕生日なんだしさ」 「……和希」 「ん？」 啓太は自分の上に乗っている和希を見上げ、そうして諦めの溜息をついた。 「起きてから言ってなかったから改めて。……たんじょうびおめでとう…」 棒読みのように無感情にそう言った啓太に向けて、和希はとても楽しそうに笑って答えた。 「ありがとう啓太」 ＥＮＤ |