ＲＥＦＬＥＣＴ（反射）




　写真では、とうに知っていた。
　実際に会ってはいなかったが、入学前にひそかに撮らせた数枚の写真の中に、彼の笑顔があった。
　日に焼けた肌。健康的な体つき。あの夏の日を思わせる明るい笑顔。
　その写真を目にしたとき、そこから流れるさわやかな風を感じたほどだった。
　――伊藤啓太。
　幼かったあのときの子供。
　数年を経て、はたして彼はどんな少年に成長しただろうか。
　あのまま、素直で伸びやかな心を持っているといい。
　あの夏の日、冷めきっていた自分の心を溶かしたように、眩しく健やかな少年であればいい。
「――啓太。早く、会いたいよ」
　写真に映っている笑顔に和希はそっと語りかける。
　その時点ではまだ、その期待も楽しみも完全に一方的なものだった。



「和希。どうしたんだよ、ぼーっと座っててさ。授業、終わったぞ」
　啓太に声をかけられて、和希ははっとして現実に立ち返る。
　どうやら授業の途中から自分の考えごとに夢中になっていたらしかった。
「ほんとだ。気づかなかったよ」
「気づかなかったって…なにか考えごとでもしてたのか？　仕事のこと？　それとも、疲れてた…？」
　顔をのぞきこんで心配そうにそう言った啓太に、和希は安心させるように笑顔を見せた。
「疲れとか仕事とかそんなんじゃないよ。ただちょっと、啓太とここで会ったときのことを思い出してたんだ。啓太がベルリバティに入学してきたときのことをさ」
「いきなりどうしたんだよ。なにか思い出すきっかけでもあったのか？」
「きっかけは昨日のことかな。昨日の夜のことをあれこれ振り返っていたらさ、そういえば啓太はいつからあんなふうに変わったのかなって思って。それで、啓太が王様と女王様に連れてこられたときのことを思い出したんだ。あのときはまさか、啓太がこんなふうに変わってくれるとは思わなかったからさ」
　昨日の夜のこと、と言われて、啓太の顔が赤く染まる。昨日は夕飯を食べたあと、啓太の部屋でずっと一緒に過ごしていたのだ。勿論普通に話もしていたが、そのうちだんだんと肌の密着度が高くなり、結局は二人でそのままベッドに入ったのだった。
　和希はおそらくそのことを思い出したのだ。だから和希が言う「あんなふう」とか「こんなふう」というのが、ろくでもないことだけは啓太にも察しられた。
「あ、あんなふうとかこんなふうとかってなんだよ」
「そりゃあ昨夜の啓太のかわいさのことだよ。だって啓太、昨夜はあんなに乱れて…」
「かっ、和希。今日は手芸部には行かなくていいのかよ!?　他に用事がないならすぐ帰ろう、今すぐ帰ろう！」
　教室内の様子を窺いながら、啓太が話をかえる。幸いここで二人で話していることも、啓太が顔を赤くしていることにも、気づいたクラスメートはいないようだった。
「最初ここの教室に来たときは啓太、ほんとに初々しかったよな」
　慌てふためく啓太を眺め、和希は机の上を片付けながら当時のことを再び思い返していた。
　――写真の中にいた少年が現実に自分の前にいる。小さな枠の中におさめられていた動かない表情が、実際にはくるくる変わって。
　あのとき最初に言葉を交わした時点で、そこにいるのは紛れもなくあの夏の日の少年だと理解したのだ。
「……和希はそんなふうに言うけど、ここに来たのなんてそんなに前じゃないし、第一初々しかったってなんだよ。高校に入りたての新入生じゃないんだしさ」
「似たようなものだろ。初めての環境で一つ一つのことに驚いたり感心したり喜んでたりする啓太は、確かに初々しかったよ」
　少し拗ねた響きを持つ啓太の声に答えると、啓太はますます表情を曇らせた。
「で、今の俺にはその初々しさとやらがなくなったって言いたいんだろ。多分それは、いつもそばにいる人間に毒されたからだろうな」
「あのときの初々しさはなくなっても、啓太には今別のものが備わっているから。俺にはそれで充分だよ」
　和希の手が不意に伸びてきて、横にいる啓太の腰を引き寄せた。体のバランスを崩して啓太が机に手を突く。
　突然あがったガタッという音に驚いて、教室内の何人かがこちらを振り向いた。そのときにはもう、和希の手は啓太の腰から離れていたが。
「……和希…」
　クラスメートたちにはなんでもないというように引きつった笑いを浮かべてひらひらと手を振る。そのあとで啓太は小声で和希に言った。
「い、いきなり変なことするなよな。ここ、教室だぞ」
「昨日のことを思い返していたら、無性に啓太に触りたくなってさ。啓太の腰のラインがそそるんだよな」
「そそらない。別に全然普通！　それより、このあとどうするんだよ。俺、今日は帰るけど…」
「俺はもう少しここに残っていくよ。仕事があるんだ」
「そっか。その仕事って、長くかかるのか？」
「そんなにたくさんじゃないから、夕飯に間に合うようには帰るよ。あとで啓太の部屋に行くから」
「わかった。じゃあまたあとでな」
　机の上を片付け終わった和希が席を立つ。和希が立つまでそばにいた啓太が、和希の腕を軽く引くようにして触れてきた。
「啓太？」
「仕事、無理するなよ。合間合間にちゃんと休憩入れて休めよ？」
「…それは無理だな。そんなことしてたら啓太に会う時間がさらに遅くなるだろ。俺は早く終わらせて早く啓太に会いたいんだからさ」
「少しぐらい遅くなったって、俺は別に逃げるわけじゃないだろ」
「逃げるよ。啓太と一緒にいられる時間が減っていく。俺にすれば貴重な時間だよ」
　啓太の目を見て、当たり前のこととして和希が言う。和希は自分のその言葉に啓太は照れてしまうんじゃないかとも思ったが、思いのほか啓太はまっすぐに和希を見返した。
「でも俺は、俺との時間を捻出するために和希が無理するのはいやだからな」
「…啓太？」
「とにかく、無理はするなよ」
　和希の腕から手を離して、「じゃあ俺は帰るな」と、啓太がこの場を離れていく。
　和希は啓太の視線の強さを思い返しながら、その背中を見送った。



　啓太と別れたあと、和希はそのまま人に見つからないようにしてサーバー棟に向かった。制服のまま理事長室に入り、今日のここでのノルマである仕事を片付けはじめる。
　啓太に言ったように早く片付けて寮に帰りたかったが、なぜか今日は集中力に欠けていた。いつもなら仕事中に啓太のことを思い出しても、それはそれとして――むしろより頑張る方向で集中できるのだが、今はなぜか啓太の顔がちらつき、思考が遮られた。
　啓太が特に気にかかる一言を投げたわけではない。こちらを心配させる表情を見せたわけでもない。ただ授業のあと、普通に言葉をかわしてわかれただけだ。なのになぜ今日に限って啓太のことが気になるのだろうか。
「ああ、だめだな…」
　和希は机の上で立ち上げていたパソコンを軽く押しやり、溜息をついた。
　それから疲れた目を少し休めるように目を閉じる。
　啓太とかわしたのは本当に日常的なやりとりのみだ。たわいもない会話。
　その中で特に印象に残ったことといえば――。
「視線、かな」
　和希は呟いて、別れ際啓太が見せた視線の強さを思い返した。
　思いのほかこちらをまっすぐ見返してきて、一瞬あれ？と思ったのだ。
　啓太のあの瞳をまったく知らないわけではない、と思う。見たことがあるといえば、もう何度も見ているような気がする。ただ今日に限ってひっかかりを覚えたのは――違和感、からだった。
　その直前にぼんやりと思い出していた映像。
『――啓太でいいよ。前の学校でもそう呼ばれてたんだ』
　授業中、不意に思い出した転入初日の啓太。啓太の笑顔になつかしさを感じたけれど、そのときはまだあんなふうに見返されることはなかったように思う。初々しくて、幼いころを思い出させる明るい笑顔。ときおり見せたはにかんだ表情。
　さっきは冗談で啓太は変わったと言ったけれど、実際夜に見せるさまざまな表情や姿態以外にも啓太は変わっていたんだと気づかされる。
　はたして。啓太は、いったいいつからあんな強い視線で見返してくるようになったのだろうか。



　ドアを軽くノックしただけで、すぐに明るい返事が返ってきた。
　向こう側からドアが開き、「おかえり」の言葉とともに笑顔が向けられる。
　その顔にキスしたくなった衝動をどうにか押さえ込み、和希は「ただいま」と言って啓太の部屋の中に入った。
「お疲れ様。案外早かったんだな。仕事、捗ったのか？」
「まあそれなりにはな…」
　啓太の質問に、制服のネクタイをゆるめながら和希は曖昧に答える。実際にはあのあとも考えごとばかりしていて、今日はほとんど捗らなかったのだ。
「もしかして和希疲れてる？　あれほど言っといたのに無理したとか？」
　和希がベッドに腰を下ろすと、啓太もその隣りに座って和希の顔をのぞきこんできた。顔色を確かめるように見つめられて、和希は内心で苦笑する。
　和希は啓太の心配に、軽いキスで答えた。
「和…っ」
「大丈夫だよ。今日はそんなに長い時間根を詰めていたわけじゃないしさ。第一子供じゃないんだからそんなに心配することないよ。勿論啓太に心配されるのは嬉しいけどな」
「子供じゃなくて、大人だから無理するんだろ」
　いきなりキスしたこととあわせて、啓太には和希の返事が気に入らないらしかった。和希はそんな啓太の気持ちを宥めるように、啓太のあごを手で捕らえもう一度くちづける。今度は少し長くくちづけると、やがて啓太が和希の胸をやんわりと押し返してきた。
「もう…ごまかすなよ」
　むくれながらも頬を染めている啓太のまぶたにそっと唇を当てる。それだけじゃ止まらなくて、和希は頬や鼻の頭にもくちづけていった。
「だから、こういうことでごまかすなって言ってるだろ」
「別にごまかしているつもりはないけどな。ただ啓太がかわいくてしたいからしているだけだよ。廊下でしなかっただけでも俺としては褒めてほしいけどな」
「廊下でって、そんなのは当たり前だろ…」
「俺にすれば当たり前じゃないよ」
　そう言って、再び唇を重ねる。求める気持ちのままに舌を差し込むと、おずおずと、という感じで啓太がこたえてきた。和希はそれに乗じてさらに深くくちづけ、そのまま啓太をベッドに押し倒した。
「和希、おまえなあ…」
　唇を離すと、啓太が乱れた呼吸を整えながら下から見上げてきた。言葉にはとがめる響きを乗せながらも、啓太の目は笑っていた。自分を見返す啓太の瞳が甘さを含んでいることに気づいて、和希は啓太の顔をじっと見下ろす。
「和希？　なんだよ、人の顔なんかじっと見てさ」
「いや。ちょっとな…」
　そう答えて、さらに啓太を見つめる。
　和希の頭の中には、仕事中ずっと抱いていた問いが思い出されていた。
「啓太は、やっばり変わったなと思ってさ」
「またその話かよ。今日はいやにこだわるんだな。とにかく俺が初々しくなくなってすれたっていう話なんだろ？」
　いささかむっとした表情を浮かべた啓太に、和希は即座に「違うよ」と答えた。
「すれたとかそういうんじゃなくてさ…。教室でも言ったように啓太はこういう意味でも変わったんだけど、他にもさ」
「か、和希っ」
　こういう意味、と言いながら和希は啓太の首筋に顔をうずめた。反射的に体が反応してしまった啓太が慌てる。
「ちょ、ちょっと待てよ！」
「最初のときよりも二度目。二度目よりも三度目。俺が抱くたびに啓太の身体が変わってきていることは充分知っているんだけどさ」
　耳元で囁きながら啓太の服の中に手を忍ばせ、直接肌に触れる。指先や手のひらで撫でていくと、ますます啓太が慌てた。
「身体が変わってきてるってなんだよ、っていうか、それよりちょっと待てよ和希。夕飯夕飯！　早く食堂に行って食べてこようぜ！」
「別にいらない。俺は今こっちが食べたいよ」
「俺は腹減ってるんだよ！　和希のこと待ってたのは一緒に食べに行くためであって、こんなことするためじゃないぞっ」
「じゃあ食堂が閉まる前までに終わらせる」
「そんなこと言って実際に間に合わせたことないだろ、和希！」
「ああ…そりゃあ啓太がねだったり、俺を離さなかったりするからだろ？」
「そ、それまでさんざん焦らしてそう仕向けるのは和希だろっ」
　啓太はどうにか和希の身体を押し返して抜け出そうとするのだが、和希の手はさっさと啓太の服をめくり、下半身にまで手を伸ばしてきた。ズボンの上から手のひら全体でやんわりと揉まれはじめると、和希の下から這い出ようとする啓太の力がどうしても抜けてしまう。
「そうだったかな、よく覚えてないよ。啓太はよく覚えてるよな…そんなによかったから？」
「…っん、和希…っ」
　一瞬和希の手に力が込められ、ズボンの上から強く握りこまれると、啓太の身体がびくんと反応した。
「は…もう本当に腹減ってんだからさ…」
「だったら啓太の腹の中を俺で満たしてや…」
「そんなんで腹の足しになるかよっ」
　拳を作って和希の頭を軽く殴る。
　それでも和希の手は止まらなかった。
「でも本当に啓太の身体は変わってきてるだろ？　啓太もほんとは自分でわかっているんじゃないのか。俺がちょっと胸をつついただけで…」
「…あ、か、和希…っ」
「啓太はここを尖らせて甘く反応しちゃうんだもんな。最初はここまでじゃなかったと思うけど」
「……そりゃあ、こんなにそばにいたらいろいろ影響も受けるだろ」
　和希の愛撫によってだんだん感じはじめた啓太が、目元をほんのりと赤らめながらも和希を睨みつける。
「つまりそれは俺が啓太を変えたってことか？」
「そうだよっ」
「まあ啓太のこっちを開発したのが俺だってことはよくわかってるけど」
　和希の手が啓太のズボンの中に入り込み、直接触られた甘い刺激に啓太が艶めいた声を漏らす。
「…はっ…んんっ…」
「でも俺には他の意味で啓太を変えるようなそんな影響力はないだろ？」
「…ん、か、和希…？」
「啓太のほうがいつも俺に影響を与えている。昔も、今も。俺は啓太の影響を受けて自分が変わってきた自覚はあるけど、でも俺に啓太を変えるようなそんな力はないよ」
「――和希、それ本気で言ってるのか？」
「ああ」
　和希がそう答えると、啓太のズボンの中に差し入れていた手が啓太によって思いきりつねられた。
「…痛っ。啓太？」
　和希が手を引いた隙を突いて和希の身体を押しやる。
　和希の下から抜け出した啓太は、服の乱れを直しながら和希から顔を背けた。
「――じゃあ、一人でそう思ってれば」
「啓太!?」
「俺、一人で夕飯食べてくる」
　固い声でそう言い捨てて、啓太は足早に部屋を出て行った。



　あとを追いかけてくるかと思ったが、和希は啓太を追いかけてこなかった。啓太と時間差をつけて食堂に来て、別の場所に席を取っている様子もなかった。
　和希の言動に腹を立て、和希を部屋に置いてきてしまった啓太だが、さすがに和希がこのまま夕飯を取らない気なのかと思うと心配になった。授業のあと休みもいれずに仕事をこなし、本当は和希だってすごく腹をすかせていただろうに。
「……夕飯抜かして、倒れたらどうするんだよ…」
　啓太はあまりすすまない自分の食事を簡単に終わらせると、食堂のおばちゃんに寝込んでいる友達がいるからと話し、一人分の食事を包んでもらった。それを抱えて、啓太は自分の部屋に戻ってみる。
　和希がとうに自分の部屋に帰っている可能性もあったが、静かにノックをしてドアを開けてみると和希は先ほどと同じようにベッドに座っていた。片膝を立てて、啓太が入ってきたことにも気づいていないのか、何もない床をじっと見つめている。
「……和希？」
　そっと声をかけると、和希が振り向いた。啓太を見て笑顔を浮かべる。
「おかえり。腹、いっぱいになったか？」
「うん。…和希は、食堂に来なかったんだな」
「一人で反省会してたからな」
「……さっきは、ごめんな」
　持っていた包みを机の上に置き、啓太は和希の前に立った。和希からは、「啓太が謝ることないよ」という返事が返ってきた。
「でも…」
「――啓太。俺は、自分に自信がないんだ。いつも自信がある振りをしていても、啓太に関してだけは小心者でさ。さっきのも、その表れなんだよ」
　前に立った啓太の手を握り、その腕に自分の頭を寄りかからせる。
　和希の柔らかい髪が啓太の腕に押し当てられ、啓太は和希を無性に抱きしめたい気持ちにかられた。
「俺は、ずっとおまえのことを見ていたよ。あの夏の日に幼い啓太と出会ってから、そばにいるときは勿論、離れていても啓太のことを忘れたことはなかった。啓太に早く会いたくて、啓太を守れるくらいに強くなりたくて、ずっとそれだけを思って過ごしてきた。だからベルリバティで啓太に会えたときは嬉しかったし、啓太に惹かれてますます啓太だけを見るようになった」
「和希…」
「啓太が持つ力ならよく知ってる。多分、誰よりも俺自身が啓太に影響を受けてきたからさ。最初に出会ったときも、啓太と再会したときも、今も、啓太に助けられて――啓太に救われて今の俺があるんだ。俺の人生は本当に啓太に彩られてて、啓太と出会っていなかったらすごく味気ない人生だったってことは簡単に想像できる。これからだって、俺はおまえなしではいられない――そのことを自覚しすぎてて、俺は逆の可能性をすっかり失念していたんだ。俺が、啓太に影響を与えることがあるんだってことをさ」
　握られた手の指先に、和希の指が絡んでくる。啓太はもう一方の手で、自分の腕に寄りかかる和希の髪に触れた。触り心地のいいその髪を梳くように、右手の指を差し入れる。
「和希。俺だって、好きになった相手の影響ならたくさん受けるよ。たくさん影響を受けて変わったりもするよ。か、身体だけじゃなくて。他のこと全部、和希の色に染まるよ。そんなのは当たり前だろ」
「当たり前かな？」
「当たり前だよ」
「啓太のことを考えていた時間が長すぎてさ、俺は今でも俺が一方的に啓太を見続けているだけだと思ってた。付き合っていても、恋人同士であっても。俺だけがすごく啓太を好きで啓太に影響を受けてて、俺だけが啓太といられて幸せなんだと思ってた。啓太が俺をまっすぐ見つめてくれる日がくるなんて、一生ないって心のどこかで思ってた」
「それは俺を馬鹿にした話だよ。恋人だって認めてくれるのに、俺が和希を見ることがないなんて、なんでそんなふうに考えるんだよ。それにそれは、俺が惚れた男を馬鹿にしてる話でもあるんだからな。俺が好きになった相手は、俺になんの影響も与えないようなちっぽけな男じゃないし、俺が染まっちゃうくらいすごくいい男なんだから」
　啓太がそう言うと、和希の頭が啓太の腕から離れ、視線を上げた。
　そして口元にかすかな笑みを浮かべる。
「いい男だってことは知ってる」
「しょってるぞ和希っ！　――とか言って、ほんとは、本気でおまえがそう思っていないことも知ってるんだからな…」
　啓太は和希の頭を抱きしめるように右手に力を込め、また自分も和希に身を寄せた。腕の中にいる存在に対して、たまらなく愛しい気持ちが湧き上がる。
「俺だって、俺だって和希が好きだよ。俺はずっとそう言っていたのに、和希には通じていなかったのか」
「ちゃんと通じてたよ。でも、実感していなかった」
「それは通じてないのと一緒だろ！」
　啓太は和希の頭から手を離すと、そのままその場に膝をついた。繋ぎあったままの左手は解かずに、ベッドに座っている和希と視線を合わせる。
「和希。和希が俺を見てくれているように、俺も和希をちゃんと見てるんだぞ。和希が俺を見てきた時間には及ばなくても、和希に負けないくらい強い気持ちで和希のことを考えてる。和希に自分一人の気持ちなんかで満足されたら、俺が和希を好きな気持ちはどこに持っていけばいいのかわからなくなるよ。自分が俺に影響を与えるはずがないなんて和希に考えられたら、和希を好きになって変わらされた俺はなんなんだろうって思う。俺は和希と同じ位置にいて和希のことちゃんと見てるし、俺はとっくに和希だけのものだよ。和希の一方的な気持ちなんかじゃない」
　啓太の強いまなざしが和希を捕らえ、和希だけをその瞳の中に映している。
　和希はいまさらながらに、啓太のこの瞳をずっと見ていながらも、その意味に気づいていなかった自分の迂闊さを知った。啓太はずっとこうして、自分の気持ちを受け止めて返してくれていたのに。自分は啓太を好きだと言いながら、本当の啓太を見ていなかったのだ。
　啓太の自分を好きだという言葉と、この瞳を結びつけてはいなかった。啓太の言うとおり、今まで本当に啓太の想いをないがしろにしていた話だと思う。
「なんだか、すごく損してた感じだな」
「和希が損するのは和希の勝手だろ。それより、俺の気持ちはどうなるんだよ」
　自嘲気味に笑った和希の言葉を、啓太があっさりと切り捨てる。和希はそんな啓太の唇に、自分の唇をそっと重ねた。
　それから啓太の瞳を熱く見つめ、啓太に問いかける。
「――俺は、おまえのことでもっと自惚れてもいいのかな？」
「……それはだめ。これ以上和希がたち悪くなったら、手がつけられなくなるから」
　そう答えた啓太の唇に、再び和希のくちづけが優しく降りた。
「俺はそんなにたちの悪い男かな」
「すっごく。人の気持ちなんか考えないし、自分の中だけで物事を完結させるし、これ以上ないってくらいに和希はたちが悪いよ」
「普通に話をしていただけなのに、こんなふうに持ち込もうとするし？」
　そして、三度目のくちづけ。
「…そうだよ。考えてみれば一方的に見続けているだけだと思ってたとか殊勝なこと言って、そのわりには和希、俺のことをさんざん好きなように抱いてたよな」
「それとこれとは別だからな」
「最低…。ほらな、やっぱり和希はたちが悪いだろ」
　鼻先が触れそうなほどの距離で会話して、合間にキスを交わす。互いの声が囁き声にかわり、キスの時間がだんだんと長くなる。かわらずに繋いだままの手は、さらに互いに指を複雑に絡ませ合って、その繋がりを強めていった。
「でもさっきも言ったように、啓太が俺を変えたんだよ。俺がたち悪いんだとしたら、それは啓太が俺をこんな男にしたんだよ」
「人のせいにするなよ。和希のはもともとだろ」
「違うよ。俺がたちが悪いのも最低なのも、小心者なのもする気満々なのも、全部啓太がいけないんだよ」
「さ、最後のはほんとに俺には関係ないだろ」
「大有りだよ」
「そんなの和希の勝手な理屈……」
「もう黙って、こっちへおいで」
　啓太の背中に和希の腕が回り、身体を引き上げるようにしてベッドに引き込まれる。すぐに身体を重ねてきた和希の手はすでに啓太の服をめくりはじめていた。
「そうだ和希。夕飯！　俺、和希の分ももらって――」
　だがそれに続く言葉は、和希の唇によって塞がれた。
「んっ…かず…きっ…」
「今、すごく啓太のことがほしいから食欲なんて感じないよ。さっきは啓太に逃げられたけど、今度は逃がさないし、途中でやめないからな」
　服をめくって晒した啓太の肌に、和希が唇を落としていく。
「和希、反省会とやらはどうしたんだよ。おまえ、現金だぞ。…っ…あ…っ」
「啓太は今腹いっぱい食べてきたんだから、今度は俺の番だろ」
「だからそれ意味が違うだろっ」
　啓太は身体をひねって逃れようとしたが、和希の手が性急に啓太のズボンにかかった。器用な指先で簡単にズボンの前を寛げられる。
「和希…っ」
「ずっと、啓太のことをちゃんと受け止めてなくてごめんな。一人だけで思い込んでてごめん。俺が気づかないうちに啓太が俺の色に染まってくれてたなんて、嬉しかったよ」
「…ふぁっ…あっ、かずき…っ」
「だから今度はちゃんと見てるから、もっと俺のものになって」
　和希の手に寛げられた前を弄られながらも、和希の言葉を耳にした啓太が和希の髪を軽く引っ張った。
「啓太!?」
「だから、俺はもうこれ以上ないくらい和希のものだって言ってるだろ。もう…ほんとに和希のこと好きなんだからさ…」
　そう言ったあとで、啓太は和希を見て小さく溜息をついた。それから意を決したように、自分でめくられていた服を脱ぎだした。
「…これくらいわかりやすいことしなきゃわからないのかよ、ばか…」
「うん、俺はほんとに馬鹿だからわからないよ。啓太、ついでにズボンも脱いでくれると嬉しいなあ、なんて」
「ちょ、調子に乗るなよ」
「だから、本当に啓太が俺をたち悪くさせてるんだよ。啓太がかわいすぎるから、俺はもっと貪欲にもなるし、いじめたくもなるんだよ」
「そんなの言い訳にならないからな」
　和希に文句を言いつつも、啓太の両腕が和希の背中に回された。
　そしてあの強い視線で和希を見上げる。
　――啓太の瞳を見て、和希は改めて知らされる。自分だけが一方的に啓太に想いを向けているのではなくて、啓太からきちんと返ってくる想いもあるのだと。
　啓太の腕に包まれて、和希はその瞳に乗せられた想いに応えるように、その肌にゆっくりとくちづけを落とした。



　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ＥＮＤ