傷


「おかえり、和希！」
　和希の部屋で待っていた啓太は、ドアの音が聞こえた途端、すぐにそちらを振り返った。
「啓太…」
「和希が昨日、待っててもいいって言ったから、部屋で待たせてもらったよ。…だめだったか？」
「いや、それはいいんだ」
　そう応えた和希の顔を啓太はじっと見つめる。
　部屋にいる自分を見たとき、和希が一瞬気まずそうな表情を浮かべていたから、本当に部屋で待っていて迷惑だったのではないかと思ったのだ。
「俺も、仕事から帰ってきてすぐに啓太に会えて嬉しいよ」
「ならよかった。けど…」
　和希の右手が不自然に彼の右頬に触れている。
　そのことに気づいた啓太は腰掛けていたベッドから立ち上がり、和希のそばに寄った。
　そして和希の右頬に手を伸ばす。
「和希、これは？　赤くなってる…」
　和希の不自然に置かれていた手をずらして、啓太はその下にある傷をまじまじと見つめた。出血はしていないが、なにかがかすめたような傷がある。
　和希はこれを見られたくなくて、帰ってきたときに気まずそうな顔を浮かべたのだと啓太は気づいた。
　もし部屋で待っていなかったら、和希は明日の朝にはどうにか理由をつけてごまかしたのかもしれない。
「まあ、ちょっとな。よろけてぶつかったんだ」
　苦笑を浮かべた和希を啓太は軽く睨みつける。
　その程度の原因なら、自分に傷の存在を隠すことはしなかっただろう。そう確信して。
「和希。隠すなよ」
「……大したことじゃないんだ、本当に。ちょっと父さんと話をしてて……父さんが机に叩きつけた万年筆が俺のほうに跳ね返ってきただけなんだ」
　啓太が心配することなんてないんだよ、とそう言って、和希は啓太の体を押しやるようにして部屋の奥に足を進めた。
　ネクタイを緩め、制服の上着を脱ぎはじめる。
「叩きつけた…って、なにが原因で？　仕事の話か。それとも…」
　もっと別のことでなにか。
　瞳の奥でそう問いかける啓太の目を和希はちらりと横目で見て、かすかに溜息をついた。
「和希？」
「そこで仕事でって言ったら、俺は啓太にもっと怒られてたんだろうな」
「あ、当たり前だろ！　嘘ついたって、俺にはわかるんだからな！」
「父さんとしたのは見合いの話だよ。このごろますます身を固めろ身を固めろってうるさくてな。鈴菱にとって有利な相手と結婚しろってしつこいから、もうここまでだと思って」
　脱いだ制服の上着をばさりと啓太のほうに放り投げる。
　そして和希はネクタイを首から引き抜いた。
「カミングアウト」
「……なっ!?」
「俺にはかわいいかわいい男の恋人がいますから、その期待には応えられません、もう二度とその手の話は振らないでくださいってな。そう言ったらふざけるなって一喝されて机バーン、持っていた万年筆が俺の顔に当たってさ。それがこの傷の真相だよ。な、たいしたことないだろ」
「馬鹿、ふざけるなよ！　それのどこがたいしたことないんだよ！」
　啓太は投げられた和希の上着を放り捨てた。
「カミングアウトって、そんなの…！」
「でもいつかは通る道だと、俺はずっと覚悟していたよ。もう少し先に延ばせるかとも思ってたけど、ま、ここらが丁度いいころあいかな。啓太のことをずっと秘密にする気はなかったしな」
「……」
　言葉を失い、俯く啓太に近寄り、和希はその頬に手を滑らせた。
　かすかに震えているのが、和希の手に伝わってきた。
「急なことで…啓太には迷惑なことだったかな。相談もしなかったし、そもそも俺の恋人だなんて位置づけで存在を知られたくなかったかもな」
「馬鹿、そんなことじゃないよ。俺が和希の恋人なのは当たり前のことだろ。ただ……」
　啓太は目を閉じる。
　今自分に触れている優しい手は、見知らぬ誰かと誰かが生み出したもの。ここにこうして立っているだけで、和希の後ろには彼を生み出した存在がある。
　そして自分にも。
「……ごめん、うまく言えない。責めたいわけじゃないんだ。ただ、和希に先に…一人でそんなことを話させたかと思うと、なんか……俺たちのことなのに…」
「逆だったら俺のほうが情けなさ過ぎて落ち込みたくなるだろ」
　啓太の頬に手をあてたまま、和希は啓太の体を自分の胸に引き寄せた。
「俺のほうが‘お兄ちゃん’なんだからさ、なんでも先にやりたいし、かっこつけさせてくれよ。勿論俺一人じゃ背負えないこともあるから、啓太にも一緒に背負ってもらうけど。この先は特に」
　ここにいるのは二人だけでも、二人だけの問題ではない。
　啓太は身に迫るその問題の大きさを感じながら、和希の背中に腕を回した。
「当たり前だろ、そんなの。俺たちのことは、俺たち二人で一緒に乗り越えていこう」
　この手の中にある人を、失わないために。
　二人で立ち向かっていかなくてはならない問題が、たくさんある。


「…子供の頃、妹にお姉ちゃんがほしいって言われたんだ。なんか妹からそう言われた母さんが、お姉ちゃんがほしいなら母さんじゃなくお兄ちゃんに言いなさい、って言ったらしくてさ。俺も漠然とした将来のイメージを持ってたから、妹からその言葉を聞いたとき、簡単にいいよって請け負ったんだよな。幼かった朋子はあんなお姉ちゃんがいい、こんなお姉ちゃんがいいっていろいろ希望を口にしてさ。中には無茶なのもあったけど、俺はそれを笑いながら聞いていたんだ……」
　和希のベッドにうつ伏せで横たわりながら、啓太が思い出を口にする。
　なつかしげに語る啓太の声を、和希はその隣で聞いていた。
「でももう今はそれに応えられないんだなってちょっとだけ思った。代わりにすごくかっこいいお兄ちゃんが出来るから、それで我慢してくれるかな。……なんてな。でも俺の家族は、俺が本当に和希がいないと生きていけないんだって言ったら、ちゃんとわかってくれると思う。勿論、すぐに理解してもらうのは難しいかもしれないけど」
「啓太…ごめんな。俺が……」
「馬鹿。ここはその言葉じゃないだろ。それだったら俺も和希の周りの人に謝らなくちゃいけなくなる。……そうじゃなくて、ここは『一緒に頑張ろう』だろ」
　啓太は和希に向けて微笑む。
　それから布団から手を出して和希の方に伸ばした。
　和希の頬に赤く残った傷に触れる。
　その一瞬痛みを感じるかのような表情を浮かべた啓太の手を、和希の手がしっかりとつかんだ。
「そうだな。一緒に頑張ろう、だよな」
「…だろ」
　和希の手の暖かさを感じて、啓太が再び笑みを浮かべた。
「とりあえず、いつ『息子さんを俺にください』って言いに行くか、予定を立てなくちゃな」
「えっ!?　そんなのはいいって！　っていうか、そんなことされたらうちの家族卒倒しちゃうから！」
「じゃあ俺の家族にかわいいかわいい俺の永遠の恋人ですって紹介するのが先か」
「いや、そういう紹介の仕方なら俺、パスするから…」
　そんな言葉を交し合って、二人で顔を見合わせて吹き出す。
　これからどんなに厳しい現実が待ち受けていても、お互いのこの手があれば大丈夫だと、二人はさらに相手の手を強く握りながら確信した。



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