ＨＯＮＥＹ　ＰＯＩＳＯＮ


「失礼しまーす」
　啓太が保健室のドアを開けると、そこにはいつもいるはずの保健医の姿は見えなかった。
「あれ？　先生いないのかな？」
　片手でドアを閉めてから改めてあたりを見回し、小さく呟く。静まり返った保健室には、啓太以外の人間は誰もいないように思えた。
「んー･･･」
　啓太は血がにじんでいる自分の右手を見ながら少し悩んだが、保健医が不在でも傷の消毒だけはさせてもらおうと考えた。消毒薬の場所も以前ここに来たときに覚えている。
「えーと、お借りします」
「･･････啓太？」
　人がいなくても律儀に断ってから医療棚に近づこうとした啓太だったが、保健室の奥から聞こえてきたその声に思わず足を止めた。
「えっ!?」
「やっぱり啓太だったか。どうしたんだよ、保健室なんかに来て」
「それはこっちのセリフだよ。和希こそどうしたんだよ保健室で。もしかして今まで寝てたのか？」
　奥にあるベッドのほうから現れた和希に啓太は聞いてみた。確か今日の放課後は手芸部に行くということで、和希とは教室で別れたはずだ。なのになぜ今ここにいるのだろう。
「あ、もしかして具合悪くて倒れた･･･？　もしかして疲れてるのか、和希･･･」
「普通、聞く順番が違うと思うけどな。まあいいや、それより啓太こそその傷どうしたんだよ」
　和希は啓太に近づくと、けがしている右手をつかんだ。手の甲に走った傷をまじまじと見つめる。
「ちょっと転んでさ。地面ですったんだ」
「今日はまっすぐ帰るって言ってたよな？　帰る途中で転んだのか？　そのわりには時間が･･･」
「帰るつもりだったんだけど、図書室に本を返さなきゃいけなかったのを思い出して、それで図書室に行ったんだ。そこでまたついつい本を読んだりして、思ったより遅くなっちゃってさ。今は教室に寄って帰るところだったんだけど、近道だからって中庭を通ったらいきなりボールが飛んできて。ボールはうまくよけたんだけど、そのままバランスを崩して地面に･･･なんて、ちょっと情けないよな」
「ははは･･･」と恥ずかしそうに笑った啓太に向けて和希は自分も笑顔を返しながら、質問を重ねた。
「ふうん。で、飛んできたボールってなんのボールだったんだ？」
「･･･それ聞いてどうするんだよ。その笑顔といい、なんかいやな予感がするぞ」
「別になにもしないさ。ただちょっとそのボールを所有する部の来期の予算について女王様たちに進言しようと･･･」
「うわあ、そ、そんな私情で予算動かすなよっ。部活とは限らないだろ」
「その場合は個人的にいろいろと･･･」
「いいからっ。とにかく転んですったから、消毒だけでもしてもらおうと思ってここにきたんだ。――今、保健の先生はいないんだな」
　本気か冗談か区別がつかない和希の言動を抑えるために、啓太は話題を変えた。
「ああ、出張みたいだな。ってことで、俺が手当てしてやるからな」
「え、いいよ。それぐらい一人でできるって」
「利き手をけがしたんだからやりにくいだろ。いいからやってやるって。ほら、まずは水で洗おうな」
　和希はそう言うと、医療棚の脇にある水道に啓太を引っ張っていった。
「洗うぐらい一人でできるって」
「いいからいいから。お医者さんの言うことはちゃんと聞くもんだろ」
「医者ってなんだよ、和希」
「臨時の保健の先生ってことでもいいけどな」
「んな、オーバーな･･･」
「はい、水でよく洗ったらタオルで水分をとる。それからこっちにきてはいここに座って」
　啓太を医療棚のそばの丸椅子に座らせると、和希は棚のガラス戸を開けて消毒の準備をはじめた。啓太は仕方なく、椅子に座ったままおとなしくその様子を眺めていた。
「ほら、手貸してみろよ」
「ん･･･」
　啓太が手を差し出すと、和希は片手で啓太の手を支え、もう一方の手でピンセットと綿球を使って啓太の傷口を消毒しはじめた。
「･･･っ」
「しみるか？」
「ん、少しだけな。でも大丈夫」
「･･････さすがにもう痛いのやだ、なんて泣いたりしないんだな」
「･･･え？」
　消毒をしながらほんの少し笑った和希の表情を、啓太はまじまじと見返した。
　けがした自分、手当てしてくれる和希。そういえば、こんな状況をどこかで経験したことがあるような気がした。
「昔の話･･･？」
「そう。啓太、俺と遊んでいるときもよく転んだりけがしてたからな。簡単な消毒や手当ては俺がやってあげてたんだよ。でもおまえ、しみるからって消毒するのはいやがってさ。傷も痛いくせにさらに大泣きしてこのままでいいなんて言ってたんだよな」
「そんなの全然覚えてないよ･･･。それにしょうがないだろ、子供だったんだから。誰だって痛いのはいやに決まってんだろ」
「まあな。でも啓太のは度を越しててさ、俺がなにを言っても聞かなくて･･･だから、『魔法の薬』を使ったんだよな」
「･･････『魔法の薬』？」
　現実感がないその単語を啓太が不思議そうに繰り返すと、和希は消毒し終えた道具を片付けながら説明した。
「そう、魔法の薬。簡単に言えばしみない消毒薬だよ。まだ販売はされてなかったけど、当時完成していたうちで作っていた薬の一つ。啓太があんまり泣くもんだから、俺の部屋においといたそれを使ったんだ。そしたらそれを使ったときに、啓太が俺に言ったんだよ。『これは痛くない魔法のお薬だね』って」
「う･･････」
「それ以来転んだりけがするとすぐに『魔法のお薬つけて』ってせがんできたんだ。それ以外の薬じゃいやだって。あんときの啓太、かわいかったよな･･･」
「だから全然覚えてないって･･･」
　そう言いつつも和希の話を聞いて、啓太の脳裏にそのときのイメージがおぼろげに浮かんできた。
『魔法の薬』。
　カズ兄が使う、不思議な薬。転んですりむいて、そのときは痛かったとしても、お兄ちゃんが『魔法の薬』を使ってくれたら痛みもだんだんおさまって、そのうち傷も治ってしまうんだ。
『お兄ちゃん転んじゃった･･･』
『大丈夫か、啓太。今、手当てしてやるからな』
『お兄ちゃん、お兄ちゃんのお薬使って。ほら、魔法の薬』
『わかった。魔法の薬で、啓太のけが早く治してやるからな』
『うん！』
　多分薬そのものよりも、お兄ちゃんが手当てしてくれたことのほうが嬉しかったのかもしれない。いくら魔法の薬でも他の人間が使ったら意味がないのだ。
　魔法の薬は大好きなお兄ちゃんが使ってくれてこそ効き目がある薬――。
「啓太？　顔が赤いぞ？　大丈夫か？」
　啓太が脳裏に浮かべたイメージから現実に戻ったときには、和希の手が啓太の額にあてられていた。
「熱でもあるのか？」
「うわっ、そんなのないよ。へーきへーき。ただ･･･」
「ただ？」
「なんとなくそのときのことを思い出したような気がしただけだよ･･･」
　あの頃は、一緒に遊んでくれるお兄ちゃんが大好きだったから。お兄ちゃんのことを必死で追いかけていた分、お兄ちゃんだけを見ていた分、他のものには気がつかなくてよく転んでいたように思う。それに転んでもすぐにお兄ちゃんが優しく助け起こしてくれて、泣いている自分をあやしてくれたから、けして痛くてつらいだけじゃなかったんだ――。
（･･･って･･･思い出すだけでも恥ずかしい･･･）
「･･･そのときの俺、どうだった？」
「え？」
　啓太の顔に自分の顔を近づけて聞いてきた和希の、その至近距離に啓太はドキッとした。
「ど、どうって？」
「啓太にとって頼りがいのあるやつだったか？　俺はちゃんと啓太を守れていたか？　･･･勿論啓太には大きな迷惑をかけたけどな」
「――迷惑なんてかけられてないだろ。いつもいつもカズ兄は俺を守ってくれたし、俺に優しかったよ。ずっと憧れていたし、本当に大好きだった。魔法の薬だってカズ兄が手当てしてくれるのが嬉しかったんだ。カズ兄の手が器用に動いて俺の手当てをしてくれるのを、けがは痛かったけどそれでも俺は幸せに感じながらじっと見ていたんだ」
　啓太が照れを脇においてそのまま自分の当時の気持ちを話すと、不意に和希の顔がもっと近づいてきて、耳に軽くキスをされた。
「！　な、なにっ」
「啓太はかわいいなあと思って。それに、ありがとうの気持ちもこめてな。今も昔も啓太のその目は変わらないよな。俺のことを真剣に見つめてくるから本当にこの信頼をなくしたくないと思うし、手離せないなって思うよ」
「和希･･･」
「そういやあ啓太、あの頃俺に『お医者さんになって』ってよく言ってたんだよな。『お兄ちゃんがお医者さんになってくれたら、苦いお薬でも頑張って飲むし、注射されても平気』ってな。俺も啓太に言われて、ちょっとそっちにいこうかなとか考えたりもしたんだぜ」
「えっ!?」
「ウィルスの一件で、それは断念したけどな。もともと『魔法の薬』を考えたのも俺だし、医学とか薬学の方向に興味はあったんだけどな。･･･まあそこで断念しなくても結局はそっちにはすすめなかったんだろうけど」
「えっ!?　ちょ、ちょっと待てよ和希。魔法の薬を考えたのって和希なのか!?」
「ん？　ああ、勿論全部じゃないけどな。最初の提案と、構造と化学式の計算のところでちょこっとだけな。途中からは完全に抜けたし」
「･･････」
　和希の言葉に、啓太は続く言葉が浮かんでこなかった。これまでもセキュリティのことや理事長職や研究所の所長という経歴を考えれば、和希は本当はすごく頭がいいのだと知ってはいたが、当時少年だった和希がそこまで関わっていたなんて、それはいわゆる天才児級の少年だったのではないだろうか。
　啓太がどうにか気を落ち着けてそのことを問うと、和希からはそんなに深く携わっていないし、そんなに難しいものでもなかった、との返事が返ってきた。
「でもそれにしたって･･･」
「んーそうだな、いっそきわめてみるのも楽しかったかもな。研究のほうじゃなくて医学のほうで。啓太が昔言ったとおり、啓太専属の医者になるっていうのも楽しかっただろうし」
「俺専属の医者？」
「そう。啓太がけがをしたときや病気になったときは俺が真っ先に駆けつけるんだ。それで診察をしたり治療をしたりする。苦しんでいる啓太を俺の手で治して楽にさせてあげることができたらいいのにってあのときずっと思っていたからさ、本当にそれがかなえられたら嬉しいよな」
　どこか昔を振り返るような遠い目をして呟いた和希の言葉に、啓太は感激した。自分にとってはとっくに過ぎ去った過去のことなのに、和希はそこまで思ってくれていたのだ。
「和希･･･」
「それに定期的に健康診断をしてさ、そのたびに明るい診察室で啓太の服を脱がせたり、聴診器を当てたりな。勿論触診することだってあるだろうし、やっぱり主治医だったらいろんなところの状態をちゃんと把握しておかなきゃいけないよな」
「･･･和希･･･」
「俺がなにを言っても患者の啓太は俺の言うとおりにするしかないんだよな。どんなことを強いられてもきっと啓太は恥ずかしがりながらも耐えるんだ」
「･･････」
「『先生』っていう響きもいいよな。啓太につらそうな声で呼ばれたら･･････」
　不意に黙りこんでどこか別の世界に行ってしまった和希から、啓太はそっと離れることにした。音を立てないように丸椅子から腰を浮かし、ゆっくりと移動する。
　だがその途中で気配に気づいた和希の手に、啓太の腕はしっかりととらえられてしまった。
「･･･そうだな、今度白衣を用意するっていうのもいいよな」
　意味深な視線を流されて、啓太の顔がたちまち赤く染まる。
「そ、その前に和希は頭の中をちゃんと診てもらった方がいいぞ」
「俺の頭の中には啓太への愛だけがつまっているんだけどな」
「和希の頭の中には妄想だけがあるんだろ！」
「んー･･･まあそれでもいいけどな。じゃあその妄想とやらを啓太に実地で教えてやるよ」
　爽やかな笑顔を浮かべた和希に、啓太はふるふると首をおもいきり横に振った。
「いい、俺遠慮する･･･」
「そう言うなって。――はい、では伊藤啓太くん、診察するからベッドのほうに移動しようかな」
「･･･っ」
「怖がらなくていいんだよ。普通に診察するだけなんだからね」
「いや、それ絶対普通じゃないしっ！」
「大丈夫。啓太は俺にお医者さんになってほしかったんだろ？　俺が医者だったら注射だって痛くないんだろ？　それに今回はちゃんと、今の啓太専用の痛くない『魔法の薬』も用意しておいたからな」
「･･･痛くない薬って･･･それって･･･」
　和希の言い回しから啓太は、その薬とやらがどういう用途の『薬』なのか反射的に理解してしまった。おそらくその言葉どおり、痛みを感じさせないための薬なのだ。――挿入時に。
「な、安心だろ？」
「〜〜〜〜お、俺の純粋な思い出を穢すな〜〜〜！！」
　次の瞬間顔を真っ赤にさせた啓太の叫び声が、保健室に響き渡ったのだった。


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