Ｂｅｇｉｎｎｉｎｇ 　翌朝空が目覚めたとき、部屋の中にぽつんと一人だけで取り残されていた。 　はっきりと覚醒しない頭で隣のベッドを窺うと、そこには使用された痕跡はなにもなかった。 「ああ・・・そうか、藤守のやつ出ていったんだっけ・・・」 　ぼんやりとした気分のまま口に出すと、それはひどく遠い、他人事のような響きを帯びていた。 　そうして一人きりの部屋の中で、空は背中にのしかかってくる重い空気をひしひしと感じ取る。心の中が空っぽで、感情が麻痺したかのようだった。 　誰もいない室内。 　自分しかいない場所。 　あるいはこの部屋を出ても、この世界には自分一人しかいないのかもしれない。そんなふうにさえ考えてしまうほど、この部屋の空気は寒々しかった。 「・・・・・っ・・・」 　自分はこんなに弱いはずはない。 　そうと知っていてさえ、胸の奥から込み上げてきそうになったなにかは抑え切れなかった。 　朝にはもう平気になっているはずだった。 　一晩眠ればいつもの自分に立ち返っているはずだった。なのにここに、ずっと引きずっている自分がいる。 　どうして自分はもう大丈夫だと思ったのだろう。心は、こんなにも虚ろになっているのに。 　悲しいとか寂しいとか、そんなありふれた言葉じゃ推し量れない。 　ただ、なにかが足りない。 　なにか重要なものが。――この手に触れられるなにかが。 　空がベッドの上で思わず自分の身を腕で抱きしめたとき、ノックもなく部屋のドアが急に開かれた。空はハッとして、自分を抱きしめたまま振り返る。 　そこに誰かを期待したのではなくて、ただ、反射的な行動だった。 「あ、空起きたんだ？　おっはよう♪　昨日はよく眠れた？　・・・空？」 　缶コーヒー二本を胸に抱えた長い金髪の少年が部屋に入ってきて、空に明るく声をかけた。部屋を出て行くときにはまだ眠っていた友人の目覚め。だから祭は純粋な喜びと安心とで、陽気に挨拶してみせたのだが。 　しかしその友人――空の反応は、祭が想像していたものとは違っていた。 　空は慌てて祭から顔を背けたのだ。その腕が、不安そうに空自身を抱きしめていた。 「空？　どうかしたの？」 「ど、どうもしねえよっ」 「なにか、あったの？　もしかしていやな夢でも見て、うなされて起きたとか？」 「別にそんなんじゃねえよっ」 「じゃあ久しぶりにおばけの夢でも見た？　ものすっっっごい怖いやつ」 「ンなわけねえだろ！」 「じゃあなんで――」 「〜〜〜〜〜祭っ、お前どこに行ってたんだよっ！」 　顔をそらしたまま空が祭に向かって怒鳴ってくる。祭は空に振り返る様子がないとわかっていても、それでも一応持っていた缶コーヒーを掲げてみせた。 「どこって自動販売機でコーヒーを買ってきたんだけど。ちゃんと空と僕の分と二人分。あ、一応僕のおごりだから、これのお金はとりあえず今はいいからね」 「んなことで黙って勝手に――」 　なにかを言いかけて、空が慌てて口を閉じる。今口にしようとしたことが自分のわがままであり、かつ、とても情けない言葉だということは空自身よくわかっていた。いつもなら絶対に言わない一言。ただ今は、とても心が弱くなっているから。 　目覚めたときに一人でさえなかったら、あるいは最初から、普段どおりの自分に立ち返れていたかもしれないのに。 「黙って勝手に？」 「もういいよっ。おまえ、さっさと部屋に帰れよ！」 　空の言葉に祭はふうっと一つだけ溜息をつくと、そばの机の上に、故意に音を立てて缶を置いた。 「わかった。じゃあ僕はもう部屋に帰るよ。もうすぐ朝ごはんだしね。じゃあ空の分のコーヒーはここに置いておくから。本当に僕のおごりだから、あとでコーヒー代を持ってこなくてもいいからね。これ、１２０円かかったんだけどね」 「・・・・・・」 　そんなふうにしつこく言う祭の言葉には突っ込まず、空は祭に背を向け続けていた。取り立てて別れの挨拶も口にせず、祭が出て行くのを待つ。 　やがて祭の足音が遠ざかり、ドアが閉まる音が聞こえた。 「――」 　しばらくはそのままの姿勢で頑なにドアに背を向けていたが、やがてたまらなくなって空は勢いよく振り向いた。そこがもう誰もいない冷たい空間であることなどとっくにわかっていて、それでもさらに自分を痛めつけるかのように、その光景を自分自身に見せつけたかった。自分の、ひねくれた心が作り出してしまった結果を確認させるために。 　ゆうべ、とても心地よく自分を抱きしめてくれたぬくもり。けれど目覚めたときにそばにはなくて、それがどんなに心細かったことか。そして本当はもう一度手にしたかったのに、自分が素直じゃなかったばかりにまたもや失ってしまった存在。自分の性格では、この先どんなにほしくても、きっともう甘えられはしないだろうから。 　振り向いたときにそこにある閑散とした現実を直視してしまったら、自分がもう涙を止められないことなど空自身でよくわかっていた。いつもなら絶対にそんな馬鹿馬鹿しい事態にはならない。けれど今は、とても心が脆くなっているから。 　だから空が振り向いたとき、不意に自分の頭を押し包んだぬくもりに、空は驚くほうが先で涙など出てきやしなかった。 「――っ」 「バカな空」 　短い、たったの一言。 　だけどその声はもうずっと昔から聞き慣れた、心の底から安心できる優しさを伴っていて。 　空は、なにも言えなかった。なにも、指一本すら動かせなかった。 「僕が、こんな状態の空を置いて出て行くわけなんかないだろ。僕がそんな薄情な人間だと思われていたなんて、心外だけどね」 　空の耳に、祭の穏やかな声が届く。それらは触れ合っている祭の腕や胸を通して、空の心にもゆっくりと染み込んでいった。目の前には祭の胸がある。優しい腕に引き寄せられて、あたたかく抱きしめられて。 「本当に空はバカなんだから。僕たちは何年付き合ってきたと思ってるの？　伊達に長い年月を重ねてきたわけじゃないだろ。空がなにを求めているか、どうしてほしいのか、わからない僕じゃないよ？　本当に、見くびらないでほしいけどね」 　祭の唇に浮かんだ苦い笑みを空が見ることはできなかったけれど。しかし祭がそのあと、「たとえ空自身が素直にそれを口にできなくても、僕にはちゃんとわかるんだよ・・・？」と囁いたのは、しっかり空の耳にも届いた。そしてそのことにより、空の中で固まっていた感情がようやく動き出す。 「・・・っ人のことバカだバカだって、連発するんじゃねえよっ」 「だって本当に空はバカなんだから、仕方がないだろ？」 「祭っ！」 　祭の胸に頭を預け、その腕に包まれながらも、空は祭に文句を言った。その目元に浮かんできたものを見られたくなくて、自分からもいっそう顔を押しつけた。 　持ち上げられた空の腕が祭の背中に回される。――強い、力で。 「いいからもう黙って。空が落ち着くまで、今日も昨日と同じように無料奉仕してあげるから。あ、このお礼は別に現金ではいらないからね♪」 「ンなの、無料奉仕なんて言わねえだろっ」 「だって空のために朝ごはんも食べないで付き合ってあげるんだし、優等生の僕が空ごときのために学校までサボってあげようとしているんだよ？　空だって、なんにもお礼しないんじゃ心苦しいだろ？　あー、僕って本当になんて友達思いなんだろう♪」 「一人でひたってんじゃねーや・・・っ」 　そう言いつつも、もう空はなにも言わなかった。ただ黙って、祭のぬくもりを味わう。祭も口を閉ざし、優しく空の髪を梳いてやった。 　――これは友情なのだと、空は思う。 　このなににも代えがたい時間は、触れ合っているこのぬくもりは、自分と祭の友情の証なのだと。 　心から安らげるのも、無防備に自分をさらしてしまえるのも、祭は自分の大切な親友で、ずっと離れていかないと確信できるからこそ感じるものなのだと。 　だから。 　祭が自分の髪を梳く優しい指先を心地よいと感じるのも、耳を通して感じる彼の鼓動に自分の心が震えそうになるのも、みんな、��友達�≠ｾからなのだ。 　心の中にほのかにともった甘い熱を、空は自分で、そう解釈した。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ＥＮＤ