「･･･ますますひどい降りになってきたじゃねえかよ･･･」
　昇降口から大きな水溜りができた外を見て、空は舌打ちした。朝寮を出たときは晴れていたのに、午後になってから急に曇りだし、雨も落ちるようになったのだ。そして放課後にはそれも大降りとなっていた。こんな天気なら、昼休み以降の授業はさぼって帰ってしまうんだったと思わなくもない。
　ここで外に飛び出してしまえば制服から鞄までびしょぬれになるのは間違いなかったし、やはり特別に急いで帰る用事もない空としてはそれは避けたかった。
　だからといって小降りになるまでだらだらと時間をつぶすのも癪な気はする。
　ちょうど寮に帰る知人が通りかかれば便乗して一緒に帰るのだが、先程から昇降口に立っていてもだれも通らなかった。
　雨が勢いよく降ってくる空を見上げ、少年は溜息をつく。
「･･･こうなったら職員玄関にある傘でも借りて帰るか」
　おそらく傘の一本ぐらい無断で借用しても、大目に見てくれるだろう。明日素知らぬふりをして返しておけば、それですむ話だ。
　そんなことさえ考えた空の耳に、
「傘がないのか」
という、低い男の声が聞こえた。
「そーなんだよ、だから困っててさ。･･･って、水都！」
「予報では午後は雨だと言っていたぞ。相変わらず行き当たりばったりだな」
　左手の中指で眼鏡を押し上げながら、男が呆れを含んだ声で言った。昇降口の屋根の下にいる空からほんのわずか離れた先に、この学園の数学教師水都真一朗が傘をさして立っていた。
　空はたちまち噛みつくようにして叫んだ。
「うるせーなっ。てめえこそなに傘なんかさして歩いてんだよ。あの派手派手しいクルマはどーしたんだよ！」
「あいにく修理に出している」
「はっ。誰かに恨まれてキズでもつけられたのかよ。日頃の行いのタマモノだよな」
「･･･なるほど。あれは羽柴だったというわけか。それは相応の礼をしないとならないな」
　傘をさした男が空のほうに歩を進めてきた。それを見て空は慌てる。
「なんだよ、本当にそうなのかよ。でもオレじゃねーよ！　オレはやってねえって！　だから近づいてく･･･
･･･！！」
　空の前にやってきた男が片手で空の頭をぐいっと引き寄せた。
　自分がさしている傘のほうへ。
「な、なにすんだよっ」
「傘がないんだろう。来い、送ってやる」
「送･･･って、げっ、冗談じゃねえよ。なんでてめえと一本の傘に入んなきゃなんねーんだよっ。それくらいなら濡れて帰ったほうがはるかにましだ――つってんのに、傘押しつけんなよ、てめえはよ！」
「おまえが持て。行くぞ」
「･･････っ」
　水都に傘を渡されて空はさらに反論したくなったが、とりあえず傘の柄をしっかりつかむと、すぐさま水都の頭上に傘を差し出しながら歩きはじめた。
　昇降口の屋根の下から出ると、たちまち傘にあたる雨粒の音が大きくなった。
「･･･車のキズ、ほんとにオレがやったわけじゃねえからな」
「別にキズの為に修理に出したわけではないな」
「･･･っ。だったらあんなこと言うなよな！」
「ふ。私の礼が怖いのか？」
「別に怖くなんかねえけど。ただしてもいないことでてめえにいびられたくねーだけさ」
　空が自分と男の距離を調節しながら傘を持つ。水都は空のことにはかまわず歩くので、空が水都に歩調を合わせた。気ままに歩く男の頭が濡れないようにと、空は傘を心持ち男のほうに傾ける。
「･･･低い。羽柴、自分の低い身長に合わせるな」
「オレは別に低くねえだろ！　だいたい文句を言うならてめえが持てよな。なんでオレが持たなきゃいけねえんだよ」
「誰の傘だと思ってるんだ」
「誰もいれてくれなんて頼んじゃいねえだろ！」
「そうして私の傘には入らずに傘を盗むのか？」
「う･･･。別に盗むつもりなんかねえよ。ただちょっと借りるだけだろ」
「それはおまえだけの解釈だな」
　それだけを言って、水都は空の反論を断ち切った。空は釈然としなかったが、なにを言っても分が悪い気がしてとりあえず黙り込む。
　しばらくの間、雨の音と、水を跳ねる足音だけが二人を包み込んだ。
　傘を持っているのは白い制服を身につけた少年で、心持ち先程より傘を持つ腕が上がっていた。
　その隣にいるスーツ姿の男は、少年の歩幅に気を払うでもなく、自然体で歩いている。
「･･････」
　一度沈黙が訪れてしまうと、空としては話すきっかけがつかめなくなってしまった。今少し前まであれだけ文句を言っていたのに、途端になにを言えばいいのか見失ってしまった。
　特別話すべき事柄はないものの、だからといってこの沈黙を自然なものとしては受け入れられなかった。沈黙が続けば続くほど、空としては気が焦ってくる。
　しかし横目で相手の顔を窺えば、男はこの沈黙を気まずいものとして受けとってはいないようで、いたって涼しい顔をしていた。
（人に傘を持たせておいて、なに一人で気楽そうな顔をしてんだよっ）
　空は口に出せない分、心の中で男への文句を募らせる。
　空はときおり隣の男の顔を盗み見るのだが、男と視線が合うことはなかった。
　つまり意識しているのも緊張しているのも自分だけかと思うと、空としては無性にいらつくのだった。
　そう、「緊張」しているのだ。
　相手が教師であり、自分より年長の人間だからというわけではない。
　隣にいるのが他の教師ならば、きっと軽い冗談でも言い合って楽しく過ごせたはずだ。
　――この男だから。
　〝水都真一朗だから〟こんなふうに落ち着かなくなるのだ。
（･････････くそっ）
　空が思わず舌打ちしたとき、だった。隣に立つ男の唇から、不意に押し殺した笑い声が聞こえたのは。
「･･･なに笑ってんだよ」
「ほんとにおまえはな･･･。なんだかんだ文句を言っても、こうしてついてきているじゃないか」
「てめえがオレに傘を無理やり押しつけたんだろ!?」
　空が声高に叫ぶと、男はそのときになってようやく空に視線を移した。やはり口元には人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべたまま。
「傘を手にした時点で、私を置いていくこともできたはずだな。本当にいやなのならな」
「！　･･･オレはいくらてめえ相手でも傘だけぶんどって雨の中に置き去りにするなんて、こずるい真似はしねえよっ。だいたいンなことしたら、誰かさんはきっちり報復してくんだろ！」
　空が嫌味ったらしく言ったが、男はそれに表情を動かしたりはしなかった。
　空はさらにまなざしをきつくする。そして傘の柄を握りなおしながら、改めて口を開いた。
　それは一つの、挑戦状。
「それに、てめえだってオレがそんな真似をしねえと思ったからオレに傘を渡したんだろ？　万に一つも、オレがてめえを置き去りにするなんて考えもしなかったからこそな」
　空の強気な視線に、男は数秒間無言だった。
　やがて。
「･･･そうだな」
　男が浮かべていた笑みが、微妙に切り替わる。
　男の目がかすかに細まり、これまで以上にしっかりと空を見つめていた。
「――」
　空は思わず足を止めてしまいそうになった。
　慌てて男から顔を背ける。
　足を止めたりはしなかったものの、歩調が乱れ、傘を持つ手がぶれた。
「羽柴」
「･･････っ」
　傘の柄をつかむ空の手に、男の手が重ねられた。
「そんな持ち方じゃ用を足さないだろう。しっかり持て」
「不満があるんなら、だからてめえで･･･っ」
「それに、もっと寄らないと濡れるだろう」
「うわっ！」
　空の声が上ずった。男は空の手に重ねていた手を次に空の腰に回し、自分のほうに引き寄せたのだ。
　無防備な少年の脇腹に、男の手がかかっていた。
「水都、てめえいきなりなにすんだよ！」
「だから私が濡れるからもっと身体を寄せろと言ったまでだ」
「わかったからいい加減この手を離せよな！　人に見られたら立場が悪くなるのはてめえだろ!?」
「別に私はかまわないがな」
　そう言った男の手が、わずかにそこを滑りおりた。――意識的に。
「･･･だ、からよせって言ってんだろ」
　心ならずも男の指先に意識を持っていかれた空の声が弱くなる。
「･･････」
　気を落ち着かせるように軽く息を吐いた空は、水都が再びこちらをじっと見つめているのに気がついた。
「なんだよ･･･。なにか言いたいことでもあるのかよ」
「いや」
　そう答えて、男は空の腰に回した手にさらに力を込めた。
「てめ･･･っ」
「勘違いするな。この角を曲がるだけだ」
「そんなの口で言えばわかる･･･って、ここを曲がったら寮とは別方向になっちまうだろ！」
「ああ、そうだろうな」
「そうだろうなじゃねえ！」
　空が叫んだが、男は空に強引に曲がらせた道を戻るつもりはないらしかった。空から進行方向に移した視線にも迷いはない。
　今度は、空が男を見つめた。
　雨の中、間近で見る男の横顔。多少なりとも雨がかかったのか、しっとりと湿っている前髪。
　いつだって自分勝手で、いつだって強引で。
　だから、きっとここでわめいたところで無駄なのだ。
　空は男から視線をはずした。
　しぶしぶといった体で、口を開く。
　少年の頬は、男にさえ気づかれないほどかすかに赤みが差していた。
「･･････じゃああとで寮までのタクシー代寄越せよな」
「明日のことなら、一緒に登校したほうが話は早いな」
「！　オレ夜に帰るに決まって･･････っ！」
　咄嗟に反論しようとした空だったが、男の横顔をもう一度見た途端、そのことに反論しようとする意識はかき消えてしまった。
「･･･早く車直せよな。歩くのすげえ面倒」
「たまには雨の中を歩くのもいいがな」
「そりゃあオレが傘持ってるんだからてめえは楽でいいだろうさ」
「いや･･･それだけではなく･･･な」
　そう言ってから、男は少年の耳元に口を寄せた。少年の腰に置いた手は相変わらずそのままで。
　低い声で、囁く。
「――もっと、おまえを濡らしたくなる」
「･･････っっっ！！！」

　その瞬間、今度こそ空は足を止めてしまったのだった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ＥＮＤ




　･･･ということで水都先生のお持ち帰りで終わるのでした。
　いえ、先生のマンションについてさっそく、でなくても、雨の中雰囲気が高まってどこかの路地でっていうのもそれはそれで風情があるかもしれません。勿論屋根がある場所だから全部は濡れないけれども、すでに互いにその場所にたどり着くまでには、服とか髪とか適度に濡れてて。
　そんな想像をしてどきどきしていたりします（笑）

　･･･このシーンのあと、水都先生が悪戯心を起こして空の耳をこそっと舐めたりしたら？
　それに対する空の反応が思ってもみないほどよかったので、先生もついついそこで止めるのが惜しくなってさらに。
　そしてそのままなしくずしに雨の中でキスをかわしたりして。（先生、さりげなく傘を傾けて、通行する車からは見えないようにしてたり。傘の影でのくちづけｖ）
　空は、「こんなところでなに考えてんだよっ」と先生を恨みつつも、空自身もちょっと気持ちが高まってきてたりして。
　だから人気のない路地に連れ込まれたときも、本気で逆らえなかったり。
　むしろ先生に煽られると、「オレは仕方なく付き合ってやってんだからな」と心の中で自分に言い訳しつつも、先生の首に両手を回したり･･･ｖ

　おばかな妄想には果てがないようです。