腕の中の愛しさ 「ふぁ～～。あ～熱かった～～～」 シャワーの音がやんだと思ったら、しばらくして廊下を歩いてくる足音が聞こえた。キッチンにいた七海は冷蔵庫を開けて、麦茶の入ったボトルを取り出す。あらかじめ用意しておいたコップを手元に引き寄せ、ボトルのふたを開けた。 休日の朝、空と直と真一朗は基礎体力作りということで出かけていき、今は空だけが先に戻ってきてシャワーを浴びていたのだ。空の話では二人はもうしばらくしてから帰ってくるらしかった。なんでも空との体力差に意地になった直が、真一朗をつき合わせて居残って特訓したがったらしい。空だけさっさと追いやられたという話だった。 そんなわけで今は二人だけの空間である。いまさら特別な意識などしなかったが、心が浮き立ってしまうのは、七海にとってそれはもう当然のことだった。 「七海ちゃ～ん、なんか冷たいものほしーや。おもいっきり喉渇いた～」 「はいはい。麦茶でいいですか？」 シャワーを浴びて汗を流し終えた空が、手でパタパタと顔を仰ぎながらリビングに入ってきた。そのまま、テーブルセットの椅子に体を投げ出す。七海は麦茶を注いだコップを持って、空のところへ手渡しにいった。 「はい、どうぞ」 「サンキュー、七海ちゃん。わざわざ運んでもらって悪ぃな」 「いいんですよ。少し、のぼせたみたいですね」 麦茶を受け取った空が七海を見上げた。その顔はほてって赤く染まっており、前髪から垂れた雫が頬を伝って流れていた。 タオルがかけられている体も、ほんのりと上気して赤くなっていた。やはり髪から垂れた雫が、首筋からつぅっと流れていく。 「羽柴くん・・・」 「ん～うま～～～。七海ちゃん、悪ぃけどもう一杯くんねぇ？」 ごくごくと音を立てて麦茶を一気飲みした空が、からのコップを七海に差し出した。七海はコップを受け取ると、それをテーブルの上に置く。 「七海ちゃん？ だからおかわりほしいんだけど、オレ・・・」 「んもう、羽柴くん。その前にきちんと体を拭くことのほうが大切でしょう？ まだ髪の毛も全然拭いていないじゃないですか」 「え？ オレちゃんと・・・わわわっ・・・！」 空がかけていたタオルをするりと奪って、七海はタオルで空の髪をわしゃわしゃと拭きだした。突然七海に髪をかき回されて、空が慌てふためく。 「い、いいよ七海ちゃんっ」 「だめです。濡れた髪のままでいたら風邪を引きますよ。それになにより、床や椅子を濡らさないでください」 「う・・・」 七海がぴしりと言い放つと、空が諦めて口を閉じた。そのまま七海が行う行為に身を任せてくる。 七海は空がおとなしくなったので、手からいくらか力を抜いて空の髪を丁寧に拭きはじめた。 他には誰もいない、二人だけの空間。 遮るものがなにもないしっとりとした空気が二人を押し包む。 まだ、この手で触れている存在は自分のものではないけれど、それでも、こんなふうに関わっているだけで七海は心が満たされるのを感じた。 そうして流れてきた鼻腔をくすぐるシャンプーの香りに、七海は、この愛しさを以前にも抱いたことがあることを思い出した。 今と、同じような状況で。目の前にいるこの、少年に。 バンバンバンと勢いよくドアを叩かれて、七海は読んでいた本を閉じて玄関に向かった。今、一緒にこのアパートに住んでいる同居人は留守だが、ドアを叩いている音を聞く限り、その同居人が帰ってきたわけではないようだった。ドアの低い位置から音が響いている。それも、まるで小さな手で平手打ちしたような音だ。 外からにぎやかな声が聞こえないことから察するに、どうやらドアの外にいるのは一人だけらしかった。 「はい、どなたですか？」 声で確かめつつも、七海の手は鍵を解いている。近所に住んでいる子供たちに対して警戒する心など、とっくに持ってはいなかった。 七海の問いかけに対する返事は返ってこなかった。声が聞こえなかったはずはないのに、と思いつつ、七海はドアを開けた。 今朝方まで降っていた雨の名残で、湿気を含んだ風が室内に流れ込んできた。 「そ、空くんっ!? どうしたんですか!?」 「・・・・・・」 ドアを開けてそこに立っている少年の姿を見て、七海は驚く。小さな来訪者の服や髪が、泥だらけになっていたからだ。少年が身につけているＴシャツにもいたるところに泥が飛び散り、また細い手足には乾きかけた泥がこびりついている。髪の先も汚れているし、少年の頬も自分でこすったのか擦れたあとのまま土がついていた。 七海はまずまじまじと少年の顔や体を見回して、傷がないかを確かめた。転んだのかけんかをしたのか、はたまたなにか事故にでもあったのか。そんなふうに心配したのだ。 少年のほうはなんだか気まずそうに七海から視線をそらしていて、口を開こうとはしなかった。それでもときおりこちらに向けてくる視線が、少年が七海の様子をとても気にしていることを窺わせた。 七海は一度溜息をつくと、まず、自分の気持ちを落ち着かせた。それから膝をついて、少年と視線の高さを合わせた。 「空くん、痛いところはないですか？ もし怪我をしていたら言ってくださいね。ちゃんと手当てをしますから」 「・・・・・・」 「そんなふうに黙っていると、すごく、心配しますよ？ 空くんにとってなにか怖いこととか、痛いことがあったのかなって」 「・・・・・・」 七海が自分と目線の高さを合わせてきたことで、少年はもう七海の方を見ようとはしなかった。頑なに背けられる横顔に、七海は腕を伸ばした。 「空くん・・・抱きしめても、いいですか？」 「だめだよっ！ ななちゃんが汚れちゃうだろっ！」 途端に少年が身を遠ざけようとする。七海はその腕を捕まえて、自分のほうに引き寄せようとした。 「別にかまいませんよ。私がそうしたくなったんです」 「だからだめだって！ オレ、すっげぇ汚いんだからっ」 「じゃあ、なにがあったか教えてくれますか？ でないとこのまま、本当に思いきりぎゅうしちゃいますよ？」 「ななちゃん！」 困ったように少年が叫んで、七海の手を振り解こうとする。そのうえさらにもう一方の手が伸びてくるにあたって、少年は仕方なく降参した。 細くて優しいこの手が自分のせいで汚れてしまうのは、少年からすればたまらないことだった。 「言うからっ！ ちゃんと言うから手、離せよっ！」 「手を離しても逃げませんね？」 「逃げないからっ。約束するから～っ」 自分を汚さないためだけに泣きそうにすらなる少年の手を、七海は解放した。本当にただ抱きしめて少年を安心させたかっただけなのだが、まさかこんな効果があるとは七海自身考えもつかなかった。 少年は七海から手の自由を取り戻すと、改めてちらりと七海の顔を窺った。そして再び口を閉じてしまう。 「空くん。約束は約束ですよね？」 「う・・・。な、ななちゃん、怒らない？」 「怒る？ どうして？」 「怒って、オレのこと嫌いになったりしない？ 〝アキレハテタリ〟しない？」 怖々と問いかける少年に、七海は笑顔を向けてやる。なんとなく今の言葉で、事実が薄々予測できたのだ。 「空くん、痛いところや怪我したところはないですか？」 七海はもう一度その質問を繰り返した。 「うん、それはないよ。怪我はしてない。・・・けど」 「思いきり遊んで、楽しかったですか？ 空くんが楽しかったのなら私はそれでいいですよ。怒る理由なんかありません」 「え？ な、ななちゃん、なんでわかるの!? オレが泥んこ遊びして汚したってなんでわかったの!? オレ、なんにも言ってねえのに！」 「ふふ。私立探偵の七海ちゃんを侮ってはいけませんよ、空くん。ちゃんと観察してから順序立てて推理していけば、おのずと答えは出てくるんです」 「すっげぇ！！ 七海ちゃんもさすが探偵だぜ！ かっこいいー！！」 「それで、たくさん遊んで気がついたときにはそんなに汚れていて、空くん、困ってしまったんでしょう？ そのままおうちにも帰れなくて、それでどうしていいかわからなかったからうちに来たんですよね？」 「あ・・・」 七海の〝推理〟に興奮して輝いていた空の顔が、たちまち曇りはじめた。自分の、今の立場を思い出したからだ。 そんな空に、七海は安心させるようにさらに続けた。 「どうしていいかわからなくてうちに来たものの、ますますどうしていいかわからなくなったんでしょう？ 私に怒られるかもしれないと思うとお風呂を貸してくださいとも言えなくて・・・。そんなふうに遠慮なんかしなくていいんですよ、空くん。うちでよかったらいつでも使ってください。これからお風呂に入って、その泥んこを全部おとしてしまいましょうね」 「・・・オレ、どうしていいかわからなくて、そしたらいつの間にかここに来てて。ここに来たらななちゃんたちに会いたくなって、なんにも考えずにドアを叩いてた。でもななちゃんの顔を見たら怒られるかもしれないって思ったのもあるけど、一番はななちゃんたちのおうちのお風呂場を泥んこで汚しちゃいけないって思って、だけどもうななちゃんに会っちゃったからそのまんま帰れなくて、でもななちゃんにはなにも言えなくて、だからオレ・・・・・・」 たどたどしく、懸命に自分が考えたことを伝えてくる少年に、七海は本当にその小さな体を抱きしめたい衝動に駆られた。この華奢な体の中に、たくさんの思いや優しさがつまっていることを知らされる。さきほどもそうだが、こんなに小さいのに相手や相手のうちを汚したくないと考えるなんて、どうしてここまでまっすぐ健やかに育つことができるのだろう。自分などとうに穢れていて、むしろ逆にこのままでは、自分のほうこそこんないたいけな少年を大人の理屈とずるさで穢しかねないのに。 「お風呂場なんか、また掃除をすればいいんですよ。うちのお風呂場はもともと私が綺麗に掃除をしていますからね、泥や汚れなど、簡単に洗い流せるんです」 「そんなぴかぴかのお風呂をオレが使ったら、やっぱりいけないんじゃ・・・」 「こーら。そんなことを言ってたら空くんのことを抱き上げて、さっさとお風呂場に連れてっちゃいますよ!?」 「だ、だからななちゃんはオレに触っちゃだめだってば！」 「じゃあおとなしく裸足になって、お風呂場にいきましょうね」 立ち上がった七海が、ズボンの膝についたほこりを払いながら言った。 「うん」 今度は素直にそう答えてから、空が汚れた靴下を脱ぎ出す。それから玄関に上がろうとして、空ははたっと足を止めた。 「空くん？」 空は少し玄関の外に出たあと、自分の体をパンパンと叩いたり、手足をさすりはじめた。どうやら、自分の服や体についた乾いた砂や泥をはたきおとしているようだった。おそらく七海たちの家に上がるのにあたって、玄関や部屋を汚さないために。 「空くん・・・」 七海は少年に対する愛しさで、胸を締めつけられる。 小さな手が表す、曇りのない健気な心。 「あっ・・・」 懸命に自分についていた汚れを落としていた空が、悲しそうに声を上げた。七海に、自分の手のひらを見せる。せっかく懸命によごれを落としていたのに、誤ってまだ泥が乾いていないところを思いきり触ってしまったらしかった。手に、ぬめりとした黒い泥がついていた。 「またよごれちゃった・・・。ごめんね、ななちゃん。オレ、こっちの手でドアとか壁とか触らないようにするからね」 「空くん・・・だからそんなに気を使わなくてもいいんですよ。空くんはこれからお風呂に入って体を洗うんですから、ここでわざわざよごれを落とさなくてもいいんです。それにそのよごれてしまった手は・・・」 「あっ！！ 七海ちゃん、だからだめだってばっ～！」 心底困り果てた表情を見せる空に優しく微笑んで、七海は今握った空の手に、またさらに力を入れた。 「こうすれば空くんが壁やドアを触らないように気をつける必要はないでしょう？ 私がお風呂場まで連れていってあげますから」 そうして空のよごれたほうの手を強く握り締めたまま、七海は空を自分の家の風呂場まで連れていったのだった。 風呂場の前で空が、「オレ、一人で洗えるもんっ」と主張したので、七海は居間で少年が洗い終えて出てくるのを待つことになった。少年が出てきたときにすぐに飲めるように、オレンジジュースを入れるためのコップや、氷の準備をしておく。 ジュースと一緒に食べられるようにクッキーの用意までし終えたところで、風呂場のドアが開く音がした。 ドアが開いてしばらくはほとんど音が聞こえてこなかったが、そのうち、ガタンという音が聞こえてきた。小さく「わっ」と言った少年の声も同時に聞こえてくる。その次にまたコトトンと音が聞こえ、さらになにかを落としたような音が響いてきた。 それを聞くともなしに聞いていた七海の口元に、笑みがこぼれる。おそらく着替え中の少年が、洗面台にぶつかったり、なにかを落としたりしたのだろう。そのことで焦る少年の姿を想像すると、どうしても吹き出さずにはいられなかった。 パタパタと廊下を駆けてくる軽い足音。かと思うと居間の入り口の前で、「うわ～っ」という声と一緒に、バタッという大きな音が響いた。 「大丈夫ですか、空くん？」 入り口の前で転んでしまった空に、七海が呼びかける。だがその言葉とは裏腹に、七海の顔は心配しているというよりも、少年の行動に対して笑みを誘われている要素のほうが大きかった。 空はバスタオルを抱えながらも、なんとか起き上がる。 「ん、ちょっと痛かったけど大丈夫」 「そうですか。それならよかった。――お帰りなさい、空くん。すっかりよごれが落ちたようですね」 「ななちゃん、お風呂場貸してくれてありがとう。あと、この洋服もっ」 空が、今身につけている水色のシャツの胸元をつまんで示した。空がもともと着ていた服は泥で汚れてしまったので、今はその代わりに、七海が貸してくれたワイシャツを着ていた。勿論今の空からすれば七海の服は大きくてだぼだぼだが、それだけにシャツ一枚でちょうど膝近くまで隠れるのだ。さすがに七海たちの家には空のサイズに合うようなズボンはないため、七海はそれだけを空に渡したのだった。 「いいんですよ、それくらい。空くんの洋服は今はお洗濯中ですからね。乾燥機で乾かしますから、それまではちょっと大きいんですけどそれを着ていてくださいね」 そう言って七海は畳に膝をついて、空の腕が隠れてしまっている袖口を右左順番に捲り上げた。ついでにかけ違いになっていた二番目のボタンをはずすことで整える。 そうして近くに寄ってみたことで、空の髪がまだまだ濡れていることに気づいた。 「空くん、髪の毛がまだ濡れていますよ。そのタオルを貸してください。ちゃんと拭いておかないと――」 「・・・この洋服、ななちゃんのいい匂いがする・・・」 シャツの胸元を引っ張って、空が服の匂いをかぎながらぽつんと呟いた。七海は空の手からバスタオルを自分のほうに引き寄せ、バスタオルを広げて空の頭の上にかぶせながら答えた。 「それは、空くんの石鹸の匂いでしょう？ 今は空くんのほうがとてもいい匂いなんですから」 「ううん、ななちゃんのほうがいい匂いだよっ。だって・・・ほら！ わーいななちゃんの匂い～♪」 タオルをかぶったままの空が、腕を伸ばして七海に抱きついた。言葉どおり七海の匂いを確かめるように、その肩に頭を預け、頬をすり寄せる。 空の濡れた髪が七海の頬に触れ、肩口を湿らせた。 「空くん、まだ空くんの髪の毛は濡れているんですよ。私にくっついたままだとちゃんと拭けませんから、少し離れてください。・・・ね？」 両腕で空の体を起こしながら、七海が空に言い聞かせる。自分の服が濡れる程度ならかまわないが、やはりこのことで少年に風邪をひかせたくはなかった。 だが七海から引き離された空は、哀しそうに七海を見つめて口を開いた。 「・・・七海ちゃんにこうしてくっついてちゃだめ？ 七海ちゃん、オレにくっつかれるのいや？」 「空くん。そうじゃないですけど、ただ・・・」 「だってオレきれいになったんだもん。きたないよごれをちゃあんと全部おとしてきれいになったんだから、もう七海ちゃんにくっついてもいいよね？ だってさっきはオレ、いっぱいいっぱい我慢してたんだからさっ」 「――」 空のその言葉に、七海はなかば反射的に両腕でつかんでいた空の体をすぐさま自分のほうに引き寄せた。小さな体を自分の胸元に押しつけ、そうして強い力で抱きしめる。 そう、自分だって我慢していたはずだった。少年がよごれた体を抱きしめられたくはないと言ったから。そのことでこちらをよごさせてしまうのがいやだと、そんないじらしいことを言っていたから。 だから少年の気持ちを尊重して、手をつなぐだけにとどめたのだ。本当はこの少年に対する思いを、ずっとこんなふうに行動で示したかったのに。 強い力で空の体を抱きしめて、そうして七海は少年への思いを再確認する。 腕の中の愛しさ。 自分はこれからなにがあっても、この少年だけは守りたいという気持ちがひしひしとわいてきた。 「・・・七海ちゃん？」 「――空くん。早く、大きくなって？ 大きくなったら、空くんがいい匂いだって言ってくれた私の匂いを、空くんにうつしてあげますから」 気がついたとき、七海は少年に向けてそんな言葉を口にしていた。 これまで、この少年に対してそんなことを考えたことなど一度もなかった。そんな視線を向けたことなど、まったくなかったのだ。 しかし口にしてみると、それはとても自然な気持ちのような気がした。 このままこの少年が成長したら。成長して、そうして今と同じように純真な瞳で自分を見つめてきたら。 そのとき自分がただの「いいお兄さん」として接せられるかどうか、七海には自信がなかった。 その、深いまなざしで。自分の心の奥底まで切り込んできたら。 自分はこの少年に魅了され、完全にとらわれてしまうかもしれないのだ。 でも、それでもいいのかもしれない。この少年にとらわれて、すべてを少年だけに向けることはけして悪いことではないのだから。 「ほんと!? どうやって!?」 あどけなく目を輝かせて少年が聞いてきた。七海の言葉に込められた艶めいた真意など、まったく知らずに。 だから七海もその意味を明らかにせずに、腕の中の少年に向けて柔らかく微笑んだ。 「そうですね。空くんが大きくなったら教えてあげますよ」 ――七海は優しく、いとおしむように、少年の髪を拭き続ける。 タオル越しに触れている濡れた少年の髪。この指が届く場所に、今、少年の存在がある。この指先で触れて、守れる距離に。 七海は、彼が子供だった頃の輝かしいワンシーンをなつかしく思った。 彼はこちらが思っていた以上にまっすぐに育った。予想や期待をはるかに超えて、素直に、直情的に、優しい心の持ち主として。 途中彼と離れていた時間があったけれど、だからこそ再会してその成長を目の当たりにしたときとても嬉しかった。その元気な姿に、まぶしささえ感じられた。 彼と会い、言葉を交わすたびに彼に対する愛しさが増し、そうしてさほど時間をおかずにその愛しさは恋に変わった。 短い日々の中で、確信に変わった恋。 「――」 七海は指を滑らせた。今まで空の頭を覆っていたタオルが七海の手から離れ、床に落ちる。 「あれ、七海ちゃん。タオル落ちたぜ？」 足元に落ちたタオルに気づいた空が身をかがめようとしたが、その前に。 ・・・するりと。 空の髪の中に侵入してきた七海の指先が、空の髪や地肌に直接触れる。頭を撫でるとか、あるいは指で髪を梳くなどの明らかな目的もなく、ただ、頭に触れてくるのだ。 空はなぜだか、七海の指先がとても甘く感じられた。 「な・・・七海ちゃん・・・っ」 それから髪に七海の吐息が触れた。七海が、空の頭に顔を近づけてきたのだ。 「・・・いい匂いですね。羽柴くんの匂いですよね」 「えっ!? それはシャンプーの匂いだろ!? いい匂いって言うんだったら、七海ちゃんのほうがいつも――あれ？」 空は不意に訪れた既視感に、疑問符を浮かべる。いつかこれと似たような会話があったようなないような、気がする。 空のその呟きに七海はくすりと笑ったあとで腕を伸ばし、空の頭を抱き寄せた。 「いつか、羽柴くんの匂いを私にうつしてくださいね？ そのときは約束どおり私の匂いもうつしてあげますから」 なぜそんな話の展開になるのだろうとは思ったが、空はそこで七海の真意を問いただせなかった。自分を抱き寄せた七海の行動に、なんとなく落ちつかない気分になる。 〝約束〟。 なぜだかそこには甘くてなつかしい響きがある。 「――に、匂いをうつすって、どうやって？」 もう一つ不意に思いついた疑問に、空は強引に七海から頭を離して聞いてみた。このまま七海に抱きしめられていたら、なんだかのぼせてしまいそうな気がした。 空に問われて、七海がいっそう強く空を見つめて優雅に微笑む。 「知りたい、ですか？」 「――」 七海の微笑みに、空は思わず息を呑んだ。 「もう教えてあげてもいいですよ。今の、羽柴くんなら。私もそろそろ、教えてあげたいですしね」 「な、なな・・・」 七海の右手が空の頭から離れ、空の唇に指で触れてきた。左手で空の頭を逃がさないまま、ゆっくりと、人差し指が空の唇を辿る。 七海を見上げている空には、唇にすべての神経が集まったかのように感じられた。ほんのわずかな動きでさえ熱を伴い、その熱が別のところに集約されていく気がする。 やがて七海の指の先端が、空の口の中に侵入してきた。濡れた、口の中に。 「ただいま～。七海先生」 「空、七海、今帰ったぜ」 「ああ、藤守くんたちが帰ってきたようですね」 玄関から聞こえてきた声を受けて、七海が空からさらりと離れた。空のことを振り返らずにさっさと玄関に向かっていく。 やがて足元に落ちたタオルとともに一人でリビングに取り残された空の口から、意識しない呟きがこぼれた。 「今の・・・なに・・・？」 自分はただ、髪を拭いてもらっただけだった。そのうち七海の手が直接髪に触れたと思ったら、抱き寄せられて。 ――それから。 「うわっ、ちょ、ちょっと待った・・・っ！！」 「なにがちょっと待ったなの？」 空の叫び声にかぶさって、直の声が聞こえた。空は慌てて落ちていたタオルを拾うと、それを頭にかけた。おそらく真っ赤になっているであろう自分の顔を、強引に隠す。 「な、なんでもないっ」 リビングに入ってきた直から訝しげな視線を向けられていることはわかっていたが、それでも空はなにを聞かれてももう黙り通すことにした。口を開いてしまったら、迂闊なことをこぼしてしまいそうだった。 「・・・・はぁ・・・」 タオルの内側で、空は熱い吐息をこぼす。 なぜだか理由はわからないけれど、胸がどきどきした。 抱き寄せられたときに感じた七海の匂い。存在感。 ――なつかしいような気もするけど、だけど、ただなつかしいだけじゃおさまらないなにかが、もうはじまっているような気がした。 ＥＮＤ |