Ｌａｓｔ Ｓｔｏｒｙ 「七海ちゃん、悪ぃ、待たせたっ！」 空は七海に駆け寄ると、苦しい呼吸の中一気に吐き出すようにそう言った。 「な、かなか離してもらえなくて・・・っほんと、ごめんっ」 「そんなに急いで来なくても大丈夫ですよ。ただご飯を食べにいくだけなんですから。まずは呼吸を整えて？」 七海の手が伸びてきて、汗が浮かんだ空の額に触れる。 空はその手を心地いいと感じながらも少しずつ呼吸を整えていった。背後で小さく、「なんだ男連れかよ」という声と舌打ちが聞こえた。 「こんなに汗をかいて。汗が引いたときにすごく寒くなりますよ」 「あ、だって約束の時間過ぎちゃってたし、それに七海ちゃんに待ちぼうけ食わせたら・・・」 「食わせたら？」 空は七海と待ち合わせしていた店のショーウィンドウ前にいる人間たちに目を走らせる。クリスマスソングが流れ街の明かりが灯りはじめたこの時間、周りにいるのは大半はカップルばかりだが、中には幾人か不埒な人間もいそうだった。 かといってそれを七海にはっきりと言うのも憚られて、空は少し声をひそめた。 「・・・・・・七海ちゃんがナンパされたらやだな、とか・・・」 「・・・・・・女の子にですか？」 にっこりと微笑んだままつかさずそう返される。 「いや、男、に・・・――痛っ！」 「素敵な冗談ですね」 七海に足を蹴られた空が思わず身をかがめる。蹴った本人は相変わらずさわやかな笑顔を浮かべていた。 七海は強引に冗談扱いしたが、実際そこにいるだけで女の子に間違われそうなくらいかわいいのだからしょうがないと空は思う。七海が着ている厚手のコートは体型を隠しているし、男物のコートも単に好んで男物を着ているようにしか見えない。ここに来るのがもう少し遅かったら、七海は本当にナンパされていたんじゃないだろうかと思う。 しかしこれ以上言うと後が怖そうなので、空はとりあえず口をつぐんだ。 「もう。ナンパされそうで怖いのは空くんの方でしょう？」 「え、オレ？」 「隙がありすぎますよ。今だってあそこにいる女の子たちが空くんの方をこっそり見ていましたし、向こうにいる子だって」 「そんなことねえだろ？」 「そんなことあるんですよ。あそこにとまっている車からも空くんを見ている人がいますしね」 「そっかなあ・・・」 空は半信半疑で七海が示した方向に視線を移した。少し離れた場所にとまっている車の脇には確かに人がいて、空がそちらを見た途端その人間と目が合った。すぐににやついた笑みを向けられる。 「・・・げ。男・・・っ」 「だからそれだけ隙があるんですよ。人のことより自分のことを気にしてくださいね」 七海はそう言うと、空の手にするりと自分の手を滑らせた。 「な、七海ちゃ・・・っ」 「いつまでもここにいないでもう行きましょう。ずっと外にいると寒いですしね」 「七海ちゃん、手っ」 「捕まえておくんです。でないと誰かにさらわれかねませんから」 「さらわれ、って、誰もオレなんかさらわないって！ ガキじゃねえんだし」 「あとは、私のものだっていう主張と自慢です。あ、あそこ、信号が今青になりましたから渡りましょう」 七海に手を引っ張られて、空の足は自然とそちらのほうに動いた。走りながら七海の言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。 「よかった。無事渡りきれましたね。・・・空くん？」 「・・・・・・」 「どうかしましたか？ いきなり走ったから息切れしました？ 顔が赤いですよ」 「そうじゃなくて」 「？」 「･･･自慢になんかならねーだろ」 七海から視線をそらして、空はつないだ手を示した。七海に嬉しそうに自慢だと言われるほど、自分はさして魅力のある人間ではない。 と、思うのに。 「･･･なりますよ。私の大好きな人だって世界中の人に対して自慢したいくらいです」 「――っ七海ちゃんっ」 七海はこともあろうにつないだ手を自分の頬に引き寄せた。手の甲に七海の頬が触れ、空は一段と慌てた。手から伝わる熱にどきりとする。 「あっ、あっ、だ、だからっ、早く行こうぜ七海ちゃんっ！」 つないだ手を引っ張り、空は早足で歩き出した。 「み、店。予約してあるんだっ」 もしかしたら周りの人間は自分たちに注目していないかもしれない。そうは思ったが、空は怖くて周りを見回せなかった。とにかくこの場を離れて予約しておいた店で落ち着こうと考える。 手をつないでいるせいかいつもより七海を意識してしまい、食事でもして気を散らすしかないと思った。空はイルミネーションに包まれた夜の街を人をよけながらざかざかと歩く。 「･･････そういうところがかわいくて、自慢なんですよ」 「え？ なんか言ったか、七海ちゃん」 「いいえ。ただ、今日わざわざ私のために空けてもらってよかったのかなと思って。本当は昨日も今日も誘われていたんですよね？」 「んー･･･まあ、確かに声はかけられてたけどさ」 七海の質問に、空はいくらか歩調を緩めて七海を振り返った。七海の言葉どおり、大学の友人からはイブの夜もクリスマスもみんなでパーティーをしようと声をかけられてはいたが、空としてはやはり今日だけは七海を優先したかった。本当は昨日の夜から一緒に過ごしたかったのだが、七海も急ぎの用事があってそれは叶わなかったのだ。だったらせめて今日だけは七海とゆっくり過ごしたかった。 「でもあいつらへの義理は昨日ですんだはずだぜ。２４日か２５日のどっちかはつきあえって言われたから、七海ちゃんもいなかったし昨日はつきあったんだけど。でもやっぱ今日はさ、七海ちゃんのほうがうーんと大事だろ？ なんたって七海ちゃんの誕生日だもんな」 「ふふ。ありがとうございます。覚えていてくれて嬉しいですよ」 「そんなのは当然だろ！ オレにとってはこれからずっとクリスマスなんてどーでもいいよ。それより七海ちゃんの誕生日の方がずっと楽しみだな」 「私はあんまり楽しくないですけどね。一つ年をとってしまうわけですし」 「一つ年をとるったって、七海ちゃん全然かわんねえじゃん。気にすることないだろ」 空がそう言うと、七海は「でも･･･」とどこか寂しそうに小さく笑った。 「でも、空くんとの年齢差がまた一つ大きくなってしまうんですよ」 「あーそれは･･･確かにオレもちょっといやかも。七海ちゃんがまた先に大人になって、オレがガキに見られるのは。･･･あーあ、早く三月がこねえかなあ」 空は思わずそう呟く。七海が空を特別子供扱いしなくても、また一歩七海が先を歩いてしまうのは事実なのだ。追いつきたくてもずっと埋められない距離が恨めしい。隣に立ちたくても、年のことではいつも七海の背中を見る羽目になっているのだ。 「空くんのことを子供になんか見ていませんよ？ 子供に思っていたらあんなことは――」 「えーっと七海ちゃん、そういやあ誕生日プレゼントはなにほしい!? なんでも言ってくれよ！」 なんとなく七海がこちらが照れてしまうようなことを言い出しそうな気がして、空はわざとらしく大きな声で話題を変えた。 「本当はちゃんと用意しようと思ってたんだぜ？ でも、オレが変なものを贈るよりは七海ちゃんに選んでもらったほうがいいかとも思ってさ。ここんとこ頑張ってバイトもしたし、遠慮せずに言ってくれよ七海ちゃん。あ、そうだ、店の予約の時間まで少しあるし、どこかに買い物に行こうか？」 今自分たちがいる場所はにぎやかな大通りだ。買いたいものがあればすぐに目的の店は見つけられるだろう。そう思って空は七海に聞いたのだが。 「いいですよ。ほしいものなんてとくにありませんから」 「遠慮すんなよ七海ちゃん。せっかくの七海ちゃんの誕生日だし、オレが七海ちゃんにプレゼントを贈りたいんだからさ」 「プレゼントなんてもらわなくても、この手の中にある幸せだけで私には充分です。･･･いえ、それもすごい贅沢なんですけどね」 空と手をつないだ七海の手に力が込められた。それとともに七海のやわらかい視線がじっと空を見つめる。 「そ、そんなのとっくに･･･七海ちゃんに、あげてるだろ？ そうじゃなくてもっと他のものでさ」 「じゃああなたを一生縛る権利をください」 「――」 空は思わず足を止めた。七海の瞳がそれが冗談やおふざけなどではないことを物語っている。その瞳が熱い。 空は七海の手を引っ張って往来の真ん中から道の端に移動した。 移動した途端、空はたまらずに七海の肩に自分の額を乗せ頭を預けた。うつむいているだけで、顔が赤くなっている自分を自覚する。七海はどうしてこう、簡単に人を翻弄するのだろう――空はそう思わずにはいられなかった。リードを取りたくてもいつもいつも先を制しているのは七海で、今も自分はこんなに簡単に陥落している。 「迷惑ですか？」 「違う。だから、そんなのもとっくに渡しているだろ。七海ちゃんだけがオレを束縛できるんだからさ。･･････オレの一生なんて、とっくに七海ちゃんのものだよ」 「そうだったんですか。ふふ、ありがとうございます」 そう言った七海の手が空の頭をすいっと撫でた。そのときに七海の指が空の耳にあたり、それだけで空は息を飲んだ。 「･･････っ」 「じゃあ――･･････」 動揺していたために次に聞こえてきた言葉を、空は最初自分の聞き間違いかと思った。七海の声で初めて聞いた言葉だったから。 「空」 「･･･え？」 空が七海の肩に預けていた頭を上げ、七海の顔を見る。七海は悪戯を仕掛けた子供のような顔で笑っていた。 「七海ちゃん、今･･･」 「私も、ずっとそう呼んでみたかったんです。私の目の前で平気で『空』と連呼する真一朗や本城くんがずっと羨ましかったんですよ。私だって、そう呼んでみたいですよ」 「――」 「私らしくないですか？ 違和感あります？ なら仕方がないですけど」 「いや。七海ちゃんがそう思っていたなんてただびっくりして。羨ましい、なんて･･･」 「あなたのことなら、私だって大人げなくやきもちを妬いたり拗ねたりすることぐらいありますよ。でも、驚いただけなら私がこれからそう呼んでもかまいませんか？」 七海のやわらかい声で。まるで自分の所有物のように。 『空』、と。 「･･･････」 それはなんと心地よくて、そしてなんとくすぐったい言葉なんだろうか。空は想像しただけで頬が熱くなるのを感じた。 でも七海が望んでいるならば、空はそう呼んでもらいたいと思った。きっといつかそのくすぐったさにも慣れる日がくるだろう。 「うん、それは全然･･･かまわねーよ。きっと慣れるまで照れまくってるだろうけど」 「そうですか。だったらこの呼び方に慣れてしまうまで、照れている様子をいっぱい見て楽しんでおかないともったいないですね」 「それは悪趣味だと思うぜ、七海ちゃん･･･」 「そんなことないですよ。でもじゃあ･･････空」 「･･････」 さっそく呼ばれて、空は顔が赤くなってしまわないようにどうにか頑張って耐えた。 「――で？」 「え？」 「･･････」 「なに、七海ちゃん？」 「なに、じゃなくて。･･･もう」 「え？」 きょとんとしている空に対して七海が唇を尖らせる。なぜだか七海が少し怒っているようで、空は戸惑った。今照れないようにしたのが七海の気に障ったのだろうか、とも考える。 だが七海が怒っているのはそのことではなかった。 「もう。私はいつまで、『七海』で呼ばれなきゃいけないんですか？」 「･･････え？」 「七海が私の姓だってことぐらい、勿論知っていますよね？」 「そりゃあ知っているけど。え、だって嫌いだろ？」 七海があまり自分の名前を好んでいないことを空は薄々感じていた。クリスからそう呼ばれるのにはもう慣れてしまったようだが、極力名前には触れてほしくないらしかった。だからずっと真一朗や奏司同様姓で呼んできたのだ。それに『七海』という姓は響きが優しく、実際たおやかな容姿をもつこの人にはぴったりだったから当たり前のものとして使ってきたのだが。 空の問いに七海は笑顔で答えた。 「あなたにならかまわないですよ。私があなたを縛っているように、私を名前でも独占して？」 「えっ、あの」 「まさか私の名前を知らないわけではないでしょう？」 「そりゃあ勿論知ってるけどっ」 「じゃあ、言って」 やわらかい口調なのに有無を言わせない力が七海の言葉にはあった。空は自分たちに気づかず道をどんどん通り過ぎていく多くの通行人に目をやり、それから街を輝かせるひときわ明るいクリスマスイルミネーションに視線をさまよわせてから、諦めたようにその名を口にした。 「･･････」 「聞こえません」 「う･･･」 「もっと大きな声で言ってください」 「･･･なんか恥ずかしーよ、やっぱ･･･」 「もう。ファーストネームで呼び合うのは恋人同士なら自然なことだと思いませんか？ ･･････それとも私のことを恋人だとは思ってくれていないんですか？ ･･･やっぱりそうなのかな。年が離れていますし、私以上に魅力的な相手なら他にもいくらでもいますしね。きっと仕方のない、ことなんですよね･･･」 「うわあ、そんなわけじゃねえよ、勿論っ！ 七海ちゃんは、オレの･････こ、恋人、だって･･･」 目を伏せて暗い声で呟いた七海に空は慌ててフォローを入れた。 「なら言えますよね？」 たちまち七海が顔を上げて微笑む。 空はそんな七海に対して内心でずるいと思いながらも、それをそのまま口にすることはできなかった。結局は七海にはかなわないのだ。 「だ、だから･･･っだから、もったいなくて特別なときにしか言えねえよ」 「･･･特別なとき、ですか？」 「そ、そう。ほら、いつもそう呼んでたら新鮮味がなくなるし。だからしばらくの間は特別なときだけっつーことで･･･」 「･･･いいですよ。じゃあ特別なときにいっぱいっぱい呼んでもらうことにします。ええ、特別なときにね」 七海はさらににこやかに笑ってそう言った。空は自分のとっさの言い訳に対して少し後悔したが、深く考えるともっと怖くなるので、無理やり今のやりとりを忘れることにした。 「それじゃあ、行きましょうか」 七海がつないだままの空の手を引っ張った。空は予約を入れた店に向かうのだと思ったが、七海は少し先にある路地の方に空を引っ張っていく。今いる場所は大通りだが、その角を曲がれば一転して暗い寂しい道となる。確かその先には緑道とつながった公園があることを空は思い出した。 「七海ちゃん!? ちょ、どこに行くんだよ。店はそっちじゃねえよ。そっち行ったら遠回り･･････」 七海が振り向いて口元にかすかな笑みを浮かべた。その瞳が言葉よりも雄弁に七海の意思を物語っている。 「･･････なな･･･ちゃ」 「予約した時間まではまだ、余裕があるんでしょう？」 「･･････」 ――二人きりになれるところに行きましょう？ 七海の唇が小さく動いた。 「ちょ、勘弁･･････」 「い、や。食事の前に、先にお祝いしてください」 そう言った七海が、指で自分の唇を示す。 それを見ただけで空の顔が真っ赤になった。 「私は別にここでもいいんですけど。どうしますか？」 「･･････っ。こ、ここって･･･人、前･･･」 「かまいません。ここで思いきり周りの人に見せつけて、私のかわいい恋人を自慢してもいいんですよ」 七海の声は思いっきり本気で、空としてはもう降参するしかなかった。 本当に、どうやっても七海には勝てそうにないのだ。たとえ今日、さらに差がついたこの年齢差がなかったとしても。 「どうしますか？」 「･････人前はもっと勘弁してほしい･･･」 「いいですよ。じゃあ暗くて二人きりなれるところに行く分、せっかくですから人前ではできないお祝いをしてもらうことにします」 「･･･えっ!?」 「大丈夫ですよ。そんなに心配しないで？ せっかくの予約を無駄にすることはしませんから」 「･･････あ、ああ」 かろうじてそう答えた空だったが、続いて七海に、 「それは後でのお楽しみにとっておくことにします」 と弾むような声で言われ、さすがに空はもうなにも言えなくなってしまった。 ――つないだ自分の手が汗ばんでいるような気がする。 寒いはずの冬の夜でも、心も顔も熱を帯びていて。 さらに七海に、囁くように「大好きです」と言われ、空はのぼせそうな心地の中、こくこくと頷くことでしか返事を返せなかった。 ＥＮＤ |