憧れの風景〜「耽溺」の翌朝の話〜 ――誰かが歌っている声が聞こえる｡ 優しいハミング｡ 深い眠りから意識を浮上させた空は続いて、食器が触れ合う音や、室内に漂ってくる食欲をそそる匂いにまで気づいた｡ ああ、七海ちゃんが朝食を作っているんだ･･････、と納得して、再び目を閉じる｡心地よい安堵感が空の胸を占め、そのまま再び眠りの世界へ誘われそうになる｡ もう藤守も兄ちゃんも起きているのかな、と漠然と考え、空は、そういえば昨日は二人ともいなかったのだと思い出す｡確か自分が化学の補習を受けている間に、直と真一朗は先にこの事務所を訪れ、そのまま二人で出かけたらしいのだ。らしいというのは空がここに来たとき、もう二人ともいなかったからだ｡そして夜に真一朗の車が帰路の途中で故障して、今晩は帰れなくなったと電話が入って――。 （そうだ･･･だからオレ、いい機会だと思ったんだ｡七海ちゃんに兄ちゃんとのことを聞くには｡それで七海ちゃんの部屋に行って･･････） ベッドのシーツや、自分を包む毛布が気持ちいい。ぬくぬくとぬくもりを堪能していた空は、不意に、夕べ七海の部屋でなにがあったかを思い出した｡ 「――っ」 驚いて、がばっと起き上がる｡だが勢いよく跳ね起きたため、直後、思いもよらない部分に発生した痛みを自覚した｡ そのまま空の体が、再びベッドに沈みこむ｡ 痛みと、肌にじかに触れる毛布の心地よさ｡ はたっと気づけば、自分はなにも身につけてなくて。そうして目に映る室内の様子はどう見ても七海の私室で｡ （夕べ、オレ――!?） 改めて思い返してみれば、七海とキスを交わしたような気がする｡ 否｡キスだけじゃなくて、もっと･･･。 （うわあっ!? なに思い出してんだオレ!?） 七海の肌のなまめかしさ｡ 幾度も繰り返したくちづけの甘さ｡ 自分のものとは思えない声と、目からこぼれた涙｡ そして衝撃とさらなる快楽――。 「おはようございます、羽柴くんっ。もう起きてますか？」 「うわああっ！」 頭の中で夕べのことがどんどん思い出されてきた空は、突然顔を出した七海の声に心底驚いた｡ 「なんですか、羽柴くん」 笑顔だった七海の顔が、空の声を聞いて不満げなものに変わる｡それでも七海は今日も相変わらず綺麗な顔立ちで、昨日彼に抱かれたのだとはとても思えなかった｡ この、腰の痛みさえなければ｡ 「な、七海ちゃん、おはよう･･･」 「･･････」 引きつった表情でなんとか挨拶した空に、七海は返事を返さなかった｡無言で空に近づき、横になっていた空の顔を両手ではさみ強引に引き寄せる｡ 「･････!?」 七海から落とされたくちづけは、朝の挨拶と言うにはあまりにも濃厚で、空はいやでも昨日のことは現実だったと認識するしかなかった｡ 「おはようございます、羽柴くん」 「・・・おは・・・よ・・・なな、ちゃ・・・」 熱に浮かされたようにそれだけ言って、空はたちまち顔を赤くして七海から視線をはずす｡七海は満足げに空から離れると、「朝御飯できましたよ」と言った｡ 空の記憶によると夕べ本当に眠ったのはだいぶ遅かったはずなのだが、七海の立ち居振舞いはいつもどおりで、七海は見かけによらず体力があるのだと知らされる｡「探偵」であることを思えば当然のことかも知れないが、なぜか、無性に元気だ｡あるいは自分よりも体力があるのかもしれない・・・と考え、空は内心で引きつる。 「まだ真一朗と藤守くんは帰ってきませんし、二人で先に食べてましょう？」 七海はベッドをまわると、窓のカーテンを両手で開いた｡途端に部屋の中に陽光が差し込む｡ 突然の眩しさに、空は手で光を遮った｡ 七海が振り向いてこちらに笑いかける。 「今日はね、羽柴くんの好きなものばかり作ってみたんですよ」 「――」 七海ににっこりと微笑まれて、空はさらなる眩しさを感じた｡ 一日の好天気を保証する朝の光。 室内に流れてくるおいしそうな朝食の匂い｡ そして好きな人の、優しい笑顔――。 空の、憧れの風景がそこにはあった｡いつも漠然といだいていた幸せの構図。それがこんなに早く叶うなんて。 ただ、これまで思い描いていたイメージでは、腰の痛みまではついてこなかったが｡ 「翌朝」の恋人の体を気遣うのは自分であって、こんなふうな立場ではなかった。 憧れの風景には違いないのだけれど、なにかが違うと思わずにはいられない空だった｡ 「羽柴くん？ 朝御飯、食べないんですか？」 世の中の無情に心の中で泣いていた空は、七海の声が再び自分のそばに近づいてきたことに、どきりとする｡七海を目の前で見てしまうと、そしてあんなキスをかわされると、どうしても夕べの熱が蘇ってきそうになる｡ 「食べないんだったら、私が羽柴くんを食べちゃいますよ？ まだおなかがいっぱいじゃないんですから」 「！」 空は勢いよく体を起こすと、体に毛布を巻きつけたままずざざざとベッドの上であとずさった。ベッドに腰かけた七海からいくらか距離をとって、慌てて首を横に振る｡ 「いいっ、オレもうそっちはいいっ！ もう満腹だからっ！」 「そうですか？ 仕方ありません、そっちはおあずけですね」 さして残念そうでもなく、七海がにこやかに微笑んでそう言った。あまりにもその笑顔がかわいくて、それだけに空は目の前の青年の怖さを思い知る｡七海の甘さが、いっそ凶悪だとさえ思った。 その笑顔がくせもので強く反抗することなどできないし、七海に哀しそうな顔を見せられたら、結局どんな無体なことでも許さざるを得ないような気がする｡ 真一朗が、七海はあめとムチのプロだと言っていたのを、空は身を持って実感する｡ 「――羽柴くん･･･」 だが不意に、七海の声のトーンがわずかに低くなった。ベッドに腰かけたまま、空を見ずに目を伏せている｡七海の瞳に、影が落ちていた｡ 「七海ちゃん･･･？」 空は毛布を巻きつけたままベッドの上を移動し、そっと七海に近づく｡それでも七海は顔を上げなかった｡ 「昨日は、すみませんでした･･･｡無性に羽柴くんに甘えてみたくなったんです｡･･･いい年して、大人げないですよね」 せつない光を瞳に宿して、七海がかすかに笑った｡多分に自嘲を込めたその表情に、空の意識が引きつけられる｡ 「七海ちゃん･･･！」 「いやなら、いいんですよ。自分自身で重いのは承知しているんですから。羽柴くんの負担になるのは私も心苦しいですし、今ならまだやめられます。これまでと変わらないつながりのほうがよければ、それでも･･･｡でもちゃんとそう言ってくれないと、このまま本当に羽柴くんに甘えてしまいたくなるんです」 このまま、ずっと。 ――誰にも渡さずに｡ 「七海ちゃん、オレ、七海ちゃんの支えになりたいよ。七海ちゃんのこと負担だなんて思わない。むしろオレにそんな力があるなら、嬉しく思う。七海ちゃんが見えない未来が不安だと言うのなら、オレはそれを忘れさせてやりたい｡たとえその・・・どんな、方法でも･･････」 懸命に言葉を費やして自分の気持ちを伝えようとする空の語尾が、だんだん小さくなる｡ 恥ずかしさのあまり顔が紅潮してくるが、それでも空は口を閉ざそうとは思わなかった。 言葉で、ちゃんと伝えたい想いがある｡ 「そりゃあ、で･･･できたら逆の方がいいけど。でもオレ、七海ちゃんとするの、別に･･･いやじゃないよ･･･」 そして空はたまらずに顔を伏せた｡これまでにないほど、顔が熱くなっているのがわかる。 「――やだったらあんな･･･感じたり、しない･･･っ」 直後、空の体がふわりと七海の腕に包まれる｡ 毛布越しに七海の体温が伝わってくるような気がして、顔だけでなく空の全身が熱くなる｡ 「な･･･七海ちゃんっ・・・」 自分の中の気恥ずかしさもあって、空の瞳が潤みを帯びてくる｡ そんな空の耳元に、七海は優しく囁いた。 「大丈夫、ただこうしているだけですから」 そうして空の肩に頭を預けてくる｡ 首筋に触れる七海の柔らかい質感の髪と、肩にかかる心地よい重さ｡ 自分を抱きしめてくる腕の力はどこまでも優しく、だからこそ空は七海という存在をより強く感じた｡ そしてひらめくように、空は一つの事実を悟った｡ これまでずっと不安に思っていた問いの答え｡ 理由などないけれど、心の中にすとんと落ちてきたこと。 真一朗と七海のキスを見てからずっと頭から離れなかった、黒くよどんだ澱のようなものがさらりと晴れていく｡ 「―― 七海ちゃん、オレのこと好き？」 目の前のなにもない空間を見つめながら、空がぽつんと呟いた｡ 「もしかしてオレのこと、誰よりも好き？」 肩にかかる重さがなくなったと空が気づくよりも早く、七海の唇が、空の唇に触れた｡ ほんの少しかすめるように触れたあと、七海の額がこつんと空の額に押し当てられた｡ 七海のかすかな吐息が、空の唇に届いた｡ 「よくできました」 「――」 動いたのはどちらが先だったのか｡ 軽いキスじゃもう物足りないと言うように、再び二人の唇が重なる。相手のなにもかもを奪うような激しいくちづけを幾度も繰り返す｡ 舌を絡め、相手の口腔をなめとり、唇を甘噛みし、口から溢れてこぼれる唾液など意識の彼方に飛んでいた｡空はくるまっていた毛布から強引に腕を出して七海の首に回し、自分から体を押しつけるように七海に体重を預けた｡ 七海の手が毛布から侵入し、空の背中をすべる。ただ指で撫でられただけなのに、空の中を甘い熱が駆け回り、空自身を刺激した｡立ち上がったそれが毛布に触れ、もどかしいほどの熱がさらにそこに集中し、空はたまらずに腰を動かした｡ 「ん・・・あっ・・・ななみちゃ・・・」 七海の手が空の脇腹をつたう｡そこを何度も彷徨い本当に触れてほしい箇所にいつまでも辿りつかない指先に、気が狂いそうになる｡ 言葉で気持ちを訴えたくても、たちまち唇が塞がれて想いを伝えることができない｡あまりのつらさに、空の目にさらなる涙まで溢れた｡ 「な、なみちゃ・・・ん・・・。オレもう･･･っ」 早く触れて、イかせてほしい｡もっともっと甘い刺激を敏感な場所に施してほしい｡昨日みたいに、昨日よりも。もっとめちゃくちゃにしてほしい｡ 腰の痛みなど、とうに空は忘れていた。むしろじくじくする痛みすら、快感に変わる｡早く触れてほしくてうずいているかのようだ｡ だが。 「――え･･･？」 空の口から呆然とした声がこぼれた｡ それまで自分の体を辿っていた七海の指が、唐突に引かれたのだ｡空の体の熱を置き去りにして。 呆然とした空を置いて、七海はするりとベッドから降りて立ち上がった｡ そして。 今度こそ本当に最高に凶悪な、素晴らしく綺麗な笑顔で｡ 「さて、そろそろ真一朗と藤守くんも帰ってくる頃ですし、朝食にしましょうね」 何事もなかったような爽やかさが声にも表情にも溢れていた｡自分一人だけ唇からこぼれた唾液の糸もさっさとぬぐっていたらしく、先程の名残など微塵もない｡ 「な、七海ちゃん・・・っ！！！」 「御飯、温めなおしてきますね｡あ、羽柴くんも着替えて早くきてくださいね」 本当に部屋を出ていこうとする七海に、空は心底慌てた｡ 「七海ちゃん、マジ、冗談やめてくれよっ。人を煽るだけ煽っといてそんなのないっ。オレ、このままじゃ･･･っ」 潤んだ目で七海を見つめて空は懇願する｡毛布がはだけて朝の陽光の中で全身が露になっていたが、隠す余裕もなかった｡むしろ七海に見せることで戻ってきて愛撫を施してくれるのなら、今の空にすればその方がずっと嬉しいのだから｡あとでたまらないほど気恥ずかしくなったり、後悔するとしても、今はそんなことどうでもよかった。 実際に空自身からも透明な「涙」をこぼし、本当に自分を欲している様子の空に、七海はひそかな満足を覚える｡本当はもっとちゃんと大切にしたいという思いもあるのに、自分の中のどこかが空をいじめてみたい欲望に捕らわれる｡勿論空から今までの関係の方がいいと言われたときには、それを強引に壊してまで空を手に入れたいとは思わないのだが。 空に受け入れられたからこそ、ついついしてしまう甘え｡ 「でもそろそろ食べないと、お昼になってしまいますよ？」 「朝飯なんかいらない。オレ、今、七海ちゃんが･･･っ」 「困りましたね･･･｡でも、羽柴くんがそこまで言うのなら仕方ないですね」 右手の人差し指一本を唇にあて、なんとも言えないかわいい仕草で七海が言う｡そうして一歩、空のほうに歩を進めた｡ ――が。 空と七海の耳に、窓の外の駐車場に車が入ってきた音が聞こえた｡ たちまち、空の顔からさーっと血の気が引く｡ここの駐車場に入ってくる車なんて、今は一台しかない｡ 「どうやら真一朗と藤守くんが帰ってきたみたいですね」 心なしか楽しそうな七海の声に｡ 空はベッドから出ると、慌ててベッドの周りに落ちていた自分の衣服を拾った。 そして、 「な、七海ちゃんなんか大っ嫌いだーっ！！！」 と、悲痛な声で叫んで衣服を抱えて駆け出す。空が向かった先は、勿論トイレだった｡ 「今の･･･羽柴の声？ なにかあったの？」 帰ってきてドアを開けた直が、不思議そうにそこにいた七海に尋ねた｡空が駆け去った方を見ていた七海はその声で振り返り、いつもの笑顔で直を迎え入れる｡ 「お帰りなさい、藤守くん。いろいろと大変でしたね」 「ただいま、七海先生。で、羽柴、どうかしたの？」 「さあ？ おいしいものでも食べ過ぎたんじゃないですか？」 「おいしいもの･･･？」 直はすぐそばにある食卓の上に目をやる｡綺麗に食事の用意が整えられたテーブルの上は、どう見てもまだ手つかずのようで｡これでどうしてなにかを食べ過ぎる事態になるのかと、直はさらなる疑問に包まれた｡ 「藤守くん、朝御飯は食べましたか？ 食べてないならおなかすいたでしょう？ 今あたためなおしますから、一緒に食べましょう」 「あ、うん」 それでも直はその疑問を七海にぶつけることはなく、着替えて手を洗ってくると告げてその場を離れた｡ 七海はすぐさまスープの入ったなべを温めなおすべくコンロに火を入れる｡そしてすぐさま私室にとって返した｡ 「ただいまー。あー、疲れた｡ったく、さんざんだったぜ」 「お帰りなさい｡御飯できてますよ」 「･･････七海･･･」 車を駐車場に停めて直より遅く帰ってきた真一朗は、部屋から出てきた七海が抱えていたものを見て唖然とする｡ 「･･･それ･･･」 「ああ、これシーツですよ。見てわかるでしょう？」 「･･･どうして･･･」 「だって、汚れたら洗濯しないといけないでしょう？ 当たり前のことですよね」 ベッドから引き剥がした自分のシーツを抱えて、七海は真一朗に向けて鮮やかに笑ってみせた｡ おわり |
七海×空小説、第三弾「憧れの風景」です。 「耽溺」の翌朝の話｡「耽溺」では、なんで直と真一朗兄ちゃんがいないのかの説明を入れられなかったので、こちらに言い訳がましく書いてみました。ちゃんと説明したかったんだけど、説明を挿入する余地がなかったのです。 この話の空は（昔に書いたものなので）少し幼いかんじなので、もし空のイメージを壊してしまったらごめんなさい。（七海ちゃん相手なので素直、というのもあります。水都相手なら言葉ももっと悪くなると思います） |