七海先生のヒミツ １ 電気が消えた真っ暗な室内に、足音を忍ばせてそーっと入ってくる影があった｡ その影は一歩一歩足音を殺せたことを確認しながら侵入を果たす｡無論、廊下に繋がる扉を閉めるときはさらに慎重に周囲に気を配った。 扉を閉めて、室内の反応をうかがう｡ なんの物音もしなくて、影はほうーっと息を吐いた｡気を引き締めて、今度は自分のベッドに向かおうとする｡ だが、カチリという音とともに明かりがともり、影はその姿勢のまま固まった｡ ついたのはベッド脇の明かりだけだったが、それだけでも心臓が飛び出そうなほど驚かされた｡ 「遅いご帰還だね｡もう二時をまわってるよ」 「そんな時間に起きてんじゃねーよ･･･」 せっかく起こさないように気を使って入ってきたのにそれが徒労に終わり、影――こと、羽柴空は憮然として言った｡室内にともった小さな明かりのそばで、少しだけ身を起こした空と同室の少年、藤守直がとがめるように空を見ている｡ 「門限破りもけっこうだけど、いいかげんにしとけば？ ここんとことみに多いけど、そのうち先生や祭ちゃんに報告するからね」 「友達がいのねーやつだなあ｡そのまま黙っとけばいいだろ｡だれに迷惑をかけてるわけじゃあるまいし」 「俺に迷惑がかかってるんだよ｡羽柴が変な時間に帰ってくるから、俺熟睡できないんだよ」 「お前が神経質すぎんのがいけねーんだろ｡人のせいにすんなよ」 直に見つかってしまったので空は足音を消すのをやめ、どかどかと自分のベッドに向かう｡ ベッドの上にのり、さっさと布団の中に入った｡ 「それこそ人のせいにしないでよね。羽柴なんか一回ちゃんと怒られないとわかんないんじゃないの？」 「うるせーな。オレはもう寝るからな｡おやすみ！」 「羽柴が門限を破るのは勝手だけど、見つかったら俺までグルだったのかって疑われるんだからね」 「だからうるせーよ、おまえ！ だいたいオレは門限破りなんかしてねーよ！ ちゃんと寮の中に――」 とげがある直の言葉に反発し、空が直を振り返って叫んだ｡だが言葉の途中ではっと気づき、「おやすみ！」と言って、布団を引っかぶる｡ 「寮の中？ それって、誰かの部屋にいたってこと？」 直の呟きに、空からの返事はなかった｡直はさらに推測を深める｡ 「もしかして祭ちゃんのところ？ でも祭ちゃんがこんなことを認めるわけはないよね｡祭ちゃんじゃなかったら、羽柴がこんな夜中に行くところなんて･･････」 「ぐーぐーぐー｡オレはもう寝てんだよっ」 空の声を無視して、直がいろいろと考える｡祭以外で、こんな時間にわざわざ空が訪ねるような相手なんて――。 そして、ふと直の脳裏にその名前が浮かんだ｡ ただの無責任な憶測の一つであって、確信があるわけではなかった｡ 「――七海先生？」 「――なんでっ」 直がその名前を口にした途端、空ががばっと身を起こした｡二人の視線がぶつかる｡ ただの推測を口にした直と、小さな明かりでも、顔を赤くしているのがわかる空の視線が。 「図星？」 「！ ちげーよっ」 空は再び布団を引っかぶる｡直に言い当てられたと思ったが、直はただ可能性の一つとしてその名前を出しただけのようだ。とっさに反応を返してしまった自分の単純さを、空は恨めしく思った｡ 「そう、七海先生なんだ｡なるほどね･･･。そういうコト」 深夜に部屋を訪れることの意味がわからないほど直も無知な子供ではない｡意外といえば意外な相手だが、つまり、空と七海の関係はそういうことなのだ｡ 「夜な夜などこに出かけているかと思ったら｡おさかんでけっこうなことだよね」 「おまえ、そんな言い方ねえだろ!?」 直の言いようについ反応して、空がまた布団から顔を出した｡直は自分の布団を整えながら、冷めた口調のまま続ける。 「七海先生だって明日も仕事があるんだし、こんなに遅くまで先生に無理させるのはどうなのかな。羽柴のバカ体力につきあわされるなんて、七海先生もいい迷惑･･･」 「――」 「･･･え？」 一瞬の間のあと、空の顔がこれまで以上に赤くなった。本人もどうともできないらしく、慌てて手で顔を覆っている。それでも耳まで赤く染まっていた｡ 直の発言に、怒ってこない空｡図星を指されたのなら、きっと怒鳴ってきただろう｡だがそうではなく、真っ赤になってうつむいてしまっているということは｡ 「羽柴？ ･･･まさか･･･」 空の様子を見て、直が自分の認識の過ちを知る｡空は高校生で七海の方がずっと年上だが、二人を見比べた場合どうしたって小柄な七海のほうが――。 だが空のこの様子では、意外なことに空が、七海に。 「ほんとに･･･？」 思わず真剣に聞いてしまう｡ 「うるさいうるさいうるさいっ。とにかくオレは本当に寝る！ 藤守、もうぜってぇ話かけてくんなよっ！」 手で顔を隠したままわめくと、空は今度こそ本当に布団をかぶり直に背を向けて丸くなった｡ 「･･････」 直は唖然としたまま、しばらく空が隠れた丸まった布団を見つめつづけた｡ ２ 翌朝、用があって早く登校しなければならない直は、空がいつものジョギングの時間になっても起きてこないので、仕方なく声をかけた｡空はいつもの習慣で目覚めていたようだが、布団から顔すら出さないまま、今日はジョギングを休むと直に告げた｡どんな理由で休むのかは言わなかったが別段こちらが口出しすることでもないので、直は自分だけさっさと支度をすると、空を置いて部屋を出た｡おそらく体がきついか、顔を合わせるのが気まずいかのどちらかなのだろうなと直は頭のすみでちらりと考えた。 だが顔を合わせるのが気まずいのは、なにも自分に対してだけではないのかもしれない――と直が考えついたのは、靴を履き、寮舎を出たときだった｡ 「おはようございます、藤守くん」 いつものやわらかな声と明るい笑顔で、玄関の外を掃除していたその人が直を迎える｡ 直は軽く頭を下げた｡ 「おはようございます、七海先生･･･」 「今朝はどうしたんですか？ いつもよりだいぶ早いですよね？」 「クラスの何人かで集まって、ちょっとやることがあるんです」 「そうですか。それは朝早くから大変ですね。ご苦労さま」 相変わらず人当たりがよくて、ニコニコと微笑んでいる彼を見ていると、生徒たちからとても人気があるというのも頷ける話だった｡ただの噂か真実かは知らないが、密かに、彼に想いを寄せている生徒もいるという｡気さくで、生徒に親身になってくれて、細かなことまで気遣ってくれる保健の先生｡もちろんそのかわいらしいとさえいえる容姿も、人気の理由の一つだろう｡ そんな彼が生徒とそういう関係であるのみならず、彼の方が生徒に手を出している側だとは｡改めてこうして七海を見ていると、直にはその様子がまったく想像できなかった｡ 「どうかしましたか、藤守くん？」 「え？ あ、なんでもないです。じゃあいってきます」 思わずぼうっと七海のことを見つめていたらしく、七海に呼びかけられて直ははっと我に返った｡肩にかけていた鞄をかけなおし、もう一度七海に向けて頭を下げる｡ 「はい、いってらっしゃい。――ああ、そうそう藤守くん、羽柴くんはまだ眠っているんですか？ 今朝はジョギングもしていないようですね。どこか、体の具合でも悪いんでしょうか？」 直を呼び止めて、七海がそんなことを言った｡今朝はまだ見かけていない生徒を心配する保健医として当たり前の言葉とも取れるのだが、直はついつい深夜のことがあるためにうがった考えに走ってしまう｡だが目の前にいる七海の様子ではやっぱりとてもそんなふうには思えなくて、直は確かめるように七海に一言言ってみることにした｡ 「羽柴、今日はジョギングは休むって言ってました。きっとまだベッドの中で寝ていると思います。夕べ、七海先生が羽柴に無理させすぎたんじゃないんですか？」 「ふふ、藤守くんにも言われちゃいましたね」 まったく動揺することなく、七海が直の言葉をあっさり受け止めた｡内心半信半疑であったので、七海のその様子に直は本当にそうなのだと改めて事実を知らされて驚く｡やはりどうしても意外性を隠しきれない｡ 無言でいる直に七海はそっと寄ってくると、右手の人差し指を口元に当て、「ここだけの話ですよ？」と前置きした｡ 「実は以前水都先生にも言われちゃったんです。生徒の健康を預かる保健医という立場で、生徒を睡眠不足にさせたり、生徒の体に負担をかける行為はどうなのかって。自分ではそこまで無理させるつもりじゃないんですけど･･･だめですね、ついつい理性を忘れて夢中になってしまって」 「――」 「すみません、今度から気をつけます。――あ、藤守くん、時間の方大丈夫ですか？ ひきとめてしまってすみません」 「あ･･･いえ・・・」 「いってらっしゃい、気をつけて」 ほうきを持った手を振りながら、七海が首を傾げて愛らしい笑顔を見せた｡この容姿であんな発言が出るなんてと、直はやっぱり今聞いた言葉が信じられない思いだった｡ 「七海先生･･･。本当に羽柴のこと･･･」 去り際に、直が少しだけ七海を振り向いて言った｡ それを聞いた七海の笑みがますます深くなる｡ 「あげませんよ」 「――」 朝っぱらからごちそうさまという気分になりながら、直はこのあと学校に向かったのだった｡ おわり |