チョコレートのヒミツ １ ドアの外から調子のはずれた鼻歌が聞こえてきたかと思うと、 「たっだいまー、スナオくん〜！」 という、妙にハイテンションな声とともにドアが開けられた｡ 自分のベッドに横になって雑誌を読んでいた直は、いささか気味悪そうな目で部屋に帰ってきた空を迎えた｡一応、義理程度に聞いてみる｡ 「･･･どうしたのさ？ えらく機嫌がいいみたいだけど」 「へへへへっ」 にんまりとした笑いを返してきただけで、空はなにも説明しない｡しかし意味ありげに直に視線を流してきたかと思うと、優越感に浸った笑みを浮かべたりする｡ そのわかりやすい態度に、直の直感が働いた｡ 今日は二月十四日｡いわゆる、バレンタインデーなのだ。 今朝、今年は一つももらえないかも、とぼやいていた空の顔と、百八十度変わったこの機嫌のよさを見れば、理由は明白なように思えた｡ よく見れば空は自分の鞄を大切そうに抱えている｡時々、その鞄の存在をこちらに誇示しながら｡ 「バカ･･･」と、直は冷ややかな気持ちで思う｡ 直は再び雑誌に目を落とした｡わざわざそのことを空に確認したいとも思わないし、どうせ自分が聞かなくてもこの様子では空のほうから言ってくるだろうと思ったのだ｡ 「へへへ、実はさあ･･･」 案の定しばらくすると、報告したくてたまらない空が自分の鞄を抱えて直の方に擦り寄ってきた｡直のベッドにドカッと腰を下ろすと、鞄の中から華やかな包装紙でラッピングされたものを三つほど取り出して直に見せる｡ 「じゃーん! これなんだと思う!?」 「･･･買ったの?」 「だれがこんな派手なもの自分で買うかよっ! もらったに決まってんだろ!? 今日はバレンタインじゃねえか、校門のところでよその学校のコからもらったんだよ!」 「ああそう」 直の返事は相変わらず素っ気ない｡ちらっと横目で見ただけで、また雑誌を読みつづけている｡ その態度に一瞬むかーっとなりかけた空だったが、ふとあることに思い至り、怒りを静めた｡大事そうにチョコレートの包みを抱えながら、奇妙に優しい声で直に話しかける｡ 「で？ 藤守クンは？ いくつもらったわけ？」 「もらってない。別にほしいとも思わないし」 「強がり言って〜。だからおまえ、話に乗ってこないんだな」 「そう言えば祭ちゃんもたくさんもらってたみたいだよ｡さっき会ったとき、手で持ちきれなくて大きな紙袋を抱えてた。食べきれないからあとで俺たちのところにおすそわけにくるってさ」 「･･･おまえ、ほんとやなヤツだな･･･」 幼馴染みである祭のもてもてぶりを思い出した空が、拗ねたように呟く｡子供のころから、祭に渡してほしいと女の子たちからよくチョコレートを頼まれてきたのだ｡あまったチョコレートをもらったのも一度や二度ではない｡ 「もういいよ、おまえとはこの話はしねーよ。じゃあな」 他校の女の子からもらった三つのチョコレートをまた元のように鞄にしまうと、空はベッドから立ち上がった｡鞄を自分の机の上に放り投げ、ドアに向かう｡ 「オレ、他のヤツんとこに行ってくるから」 「その程度で自慢話する気ならやめた方がいいよ、バカみたいだから」 「っるせーよ！」 直に図星を指された空が、乱暴にドアを開けて部屋を出ていく｡八つ当たりのように勢いよくドアが閉められたとき、直はふと疑問を抱いた｡ そういえば空は他校の少女からチョコレートをもらったと喜んでいたが、空自身の大本命、意中の恋人についてはなにも言っていなかった｡もし恋人からもらったのなら、先程以上の喜びが彼の心を占めていただろう｡ 「あ、でも普通男が用意することはないのか･･･」 いくらその外見が甘くてかわいらしい顔立ちをしていても、『彼』は歴然とした男なのだ｡実際空も、少女たちからもらえるかどうかについてそわそわしていても、自分が用意するなんてまったく考えていないようだ｡ 「そうか、それが普通なんだ･･･」 ポツリと呟く｡なんだか自分の中の常識が、一組の恋人同士の存在だけでだんだん壊されていくような気がする直だった。 ２ （ちぇっ。あいつほんと、男じゃねーよなあ･･･） 部屋を出た空は、寮の廊下を歩きながら直に対してそんなことを思う｡ 普通、バレンタインデーと言えば世の中の男はみんな無関心ではいられないはずだ｡前日から気になり、当日は些細なことに一喜一憂してしまう｡それが当たり前の姿だと思うのに、ぜんぜん興味がないなんていう態度をとられると、こっちがバカにされているような気がする｡ （ま、いっか。オレがもらったのは事実だし） 自分が多少なりともいけているということ、そして食い物の入手という、二つの点でつい顔がにやけてしまう空だった｡人から好意を寄せられることとか、それに返事を返すということはさておいて、ただ単純に嬉しい｡だからチョコレートをくれた女の子と付き合うとかまた別の場所で会うなんて考えは、全然空の頭にはなかった｡単なるイベントに勝利したという喜び｡ 「すごく、嬉しそうですね｡なにかいいことでもあったんですか?」 「いや、実は女の子にチョコレートもらっちゃってさあ･･･」 にやけた顔のまま、投げられた質問に空が答えを返した。答えたあとで、あれ？、と思う。 今聞こえてきた、このやわらかい声は｡ 「よかったですね」 空の目の前に、優然とした微笑みがあった｡とてもあどけなくて、とてもかわいらしい微笑みが。 「な、七海ちゃんっ」 「ふふ､羽柴くん、こんばんは」 空はすぐさま、あたりを見回す｡驚いてつい声を上げてしまったが、本当はここで人に注目されるのはまずいのだ｡あくまでも普通の教師と生徒の関係を装わなくてはいけないのだから。 幸い、廊下に生徒たちが何人かいるものの、だれもこちらに注意を向けるものはいなかった｡ 空はほっと息をつくと、改めて目の前に立つ七海に視線を戻した｡ 「――」 そのときになって、自分がその間ずっと優しいまなざしに見つめられていたことに気がついた｡年長者の余裕を感じさせる、穏やかな視線。 自然に頬が紅潮してしまう｡ごく普通の態度をとらなくてはいけないのだと頭の中ではわかってはいても、抑えられない｡ そのまま目を合わせていられなくて、空はつい目を伏せてしまった｡ いつまでも初々しい恋人のその態度にさらに笑みを誘われながら、七海はだれに聞かれてもかまわない、当りさわりのない話題を口にした｡ 「羽柴くん、チョコレート好きなんですか？」 「く、食えるものならなんでもっ･･･」 「羽柴くんらしいですね｡じゃあ私も今日いくつかもらいましたから、明日おすそわけしますよ｡また放課後にでも保健室に来てくださいね」 「え？ もらった、って･･･？」 自分の中の照れを脇に置いて、空が顔を上げる｡ 「日頃のお礼だとかで、わざわざ私にチョコレートをくれた子がいるんですよ。学校でももらいましたし、ここに帰ってきてからも二、三個受け取りましたよ」 「――」 そういえば、と空は思い出す｡去年のこの時期も七海は生徒からチョコレートをもらっていたのだ｡保健室に遊びに行ったとき、‘よかったら食べてください’と、七海からいくつかチョコレートを差し出された。さすがに祭は辟易して断っていたが、自分は遠慮なく食べたのを覚えている｡だからそのチョコレートがコンビニで買った程度のものではなく、男が用意したとはとても思えないほど、綺麗に包装されたものであったことも記憶に残っている。 去年はなにも知らなくて、この学校の生徒は教師や職員への感謝のしるしとしてチョコレートをあげる慣習があるんだと素直に納得していたが、実際はそんなわけはないのだ。 日頃のお礼なんて、体のいい口実で｡ 何人かの生徒が、確実に七海に対して不埒な想いを抱いている――。 「･･･どうか、したんですか？」 小首をかしげて、七海が空の顔を覗き込んでくる｡ その姿を見ていたら、他の生徒の気持ちもよくわかるような気がした｡自分と同じように、惹かれている人間がいる。それは当たり前のことなのだ｡目の前にいるこの人はこんなに優しくて、こんなにかわいくて、とても魅力的な存在なのだから｡勿論そんなこの人を守ってあげたいと思う人間はいても、自分のように甘えたいとは思わないかもしれないけど｡ 「羽柴くん？」 「七海ちゃん、本当に男が『日頃の感謝』程度でわざわざチョコレートなんか用意すると思ってんのかよ?」 「･･･違うんですか?」 「違うに決まってる! 女のコならともかく、男が用意するのはそれ相応の気持ちがあるからだ。そんなの、嬉しそうに受け取ってほしくない。去年まではともかく、今年は･･･っ」 大声にならないようにと意識しながらも、空が七海に自分の気持ちを伝える｡ 七海がすっと表情を消して、「たとえそうだとしても、たかがチョコレートですよ?」と言った｡ 「たかがチョコレートだとしても、その中には気持ちがつまってる｡七海ちゃんを好きな誰かの気持ちがつまっているものを、七海ちゃんが食べるのは勿論いやだし、受け取るのも――」 空の言葉の途中で、七海の手が空の頬に軽く当てられた｡痛みとまではいかないが、かすかな衝撃がある｡ 「な、七海ちゃん･･･？」 「その人を好きな誰かの気持ちがつまっているものを、その人が受け取っただけでもいやだという気持ちは、羽柴くん一人のものじゃないでしょう？」 「え･･････」 「『去年まではともかく、今年は』。人のことを言う前に、自分のことを振り返ってくださいね」 最後はやわらかくそう言って、七海がくるりと背を向けた｡ そのままさっさと立ち去っていこうとする｡ 「ちょっ!? な、七海ちゃん｡七海先生っ」 周りの生徒たちから注目を浴びないようにと気をつけながら、空は慌てて七海に呼びかけた。ただ名前を呼んだだけでは止まってくれず、空は七海のあとを追いかける｡ 言い方はやわらかかったけれど。 視線が、どこか冷たい気がした｡ 「な、七海ちゃん！」 しばらく七海のあとを追って、空はどうにか七海のジャージを掴むことに成功した｡振り払われないようにぎゅっと力を込めて、振り向いてもくれない七海に必死で呼びかける｡ 「ごめん、オレ、自分のこと全然考えてなくて｡毎年のことだしそんなに深く考えてなくてさ。単純に食い物もらって嬉しかったことしか頭の中になくて､それを受け取ることにどんな意味があるのかとか､全然思ってもみなかったんだ」 足を止めてくれたけれどそれでも七海は振り向いてくれなくて､空は自分の心臓を強い力で握りつぶされたかのような苦しさを感じた。自分を拒絶している背中にどうしようもないほどの哀しみに襲われる。 「七海ちゃん、本当にごめん。よく考えてみればほんとに七海ちゃんの言うとおりで、オレさっき､すごく自分勝手なことを言った。七海ちゃんごめん――･･･ごめん、なさい･･････」 嫌われることが怖くて､空が悄然とした声で呟く。子どものころ叱られたときのような､なんのてらいもない言葉がこぼれた。 空の手が、ふっと七海のジャージから引き離された｡ 「や･･･っ」 再び七海に置いていかれると思い、思わずそんな声まで出て慌てた空を――あたたかい腕が包み込んだ｡ 強く､力を込めて。 「!? な、七海ちゃん――!?」 耳から、くすくすと笑う七海の声が聞こえる。 抱きしめられてその表情は見えないが、とても楽しそうな声で｡ 「なーんてね。びっくりしました？ 本当は別に怒っているわけじゃないんですよ｡ただちょっと意地悪をしてみたくなっただけです｡だって羽柴くんが、とってもかわいいことを言うから｣ ｢七海ちゃん〜!?｣ ｢それに場所を移さないと、こんなことはできないでしょう?」 七海に言われて、空は今自分たちがいる場所に気づく｡廊下の隅、寮生たちの部屋とは離れた場所に置いてある自動販売機の影｡今は、だれも見ていないところ｡ 耳を澄ましても、足音は遠くて｡ だから、安心してこうして触れ合ってもいいのだ｡ そう気づいて、空は七海の背中におずおずと手を回した｡今までの怖さや哀しみを取り去って､ちゃんと目の前にいる存在を確かめるように。あんなふうに無視されたり拒絶されるのではなくて､本当にこの人が自分のものだと認識できるように。 「羽柴くんの鼓動が早くなってる｡ふふ･･･びっくりしましたか？」 「そりゃあ驚くに決まってるだろ。あんなふうに言われて背中を向けられたら！ オレ本気で七海ちゃんを怒らせたかと思って､すごく怖かった｡本気で、置いていかれるような気がして･･･」 冷たい視線､冷たい表情｡本当にこの相手からそんなものを向けられた日には､自分は泣いてしまうかも知れない。泣くなんてプライドが許さなくてすごく情けないことだけれど､目の前にいるこの人に嫌われてしまったら。 そうすることでしか感情を表せない気がする。 思えば自分は､最初からこんなに弱い人間だったろうか――。 「でも･･･やっぱり、オレ、考えなしだった｡女のコからチョコもらったとき、七海ちゃんのこと忘れてた･･･」 「そんなに私は羽柴くんにとって存在感がないんですか？」 「そうじゃないけどっ･･････ごめん･･･」 「別に他の学校の女の子ぐらい、全然気にならないですよ。本当に」 笑いながら七海が言う｡実際、他校の少女たちなんか関係ないのだ｡それより空本人は気がついていないけれど、この学校内にこそ空に邪念をいだく人間が複数存在していたりするのだから｡ 「･･･でも、わがままだけど、オレはやっぱり七海ちゃんが他のヤツからチョコレートをもらうのやだよ｡チョコに限らず、他のヤツが渡すものなんか受け取ってほしくない･･･」 「私が好きなのは羽柴くんだけですよ? それでも気になりますか?」 優しく説くように七海が言う｡その静かな声が、空の心にしっとりと染み渡っていく｡ 空は七海の肩に頭を預け、抱きつく腕にきゅっと力を込めた｡ 「ん･･･わかってる、けど･･･。でも七海ちゃん、みんなに人気ある、から――」 七海の手で軽く体を押されたと思ったときには、唇が、塞がれていた｡ 甘いキス｡まさかこんな寮内の廊下なんかでされるとは思わなくて、これまで何回も繰り返してきたキスなのに、妙にドキドキした｡ 抱かれているときのくちづけのような激しさはないけれど――激しくはないからこそ､空は目を閉じてその甘さに浸る。性急さのないゆっくりとしたキス。 だから七海の唇が離れたとき、空の意識はどこかに飛んでいた。ぼうっと夢心地のような目で相手を見返す。 甘いくちづけがもう終わってしまったなんて認めたくない気持ちが、現実を拒否していた。 くちづけ一つで陶然とこちらを見つめてくる空の様子に七海はくすりと笑って、その耳元に口を寄せた。 「実は、私も羽柴くんにチョコレートを用意してあるんですよ」 「え・・・っ!?」 空の意識がたちまち正気に返る。 「でも羽柴くん、もういくつかチョコレートをもらったみたいですし、私のなんかもういらないかもしれませんよね」 「そんなことない！ だってやっぱり七海ちゃんからのは――･･･あ、でも、もしかして七海ちゃん、今日学校や寮でみんなに配ったりしてた？」 七海からチョコレートをもらうことはなにも特別なことではないかもしれない――そう不安がって尋ねた空に、七海は苦笑する。そんなの､まったくの杞憂なのに。 「『男が用意するのはそれ相応の気持ちがあるから』、でしょう? いくら私でも好きでもない男の子にわざわざ渡す義理はありませんよ｡羽柴くんのためだけに作ったんです」 「な、七海ちゃんの手作りっ･･･!?」 「女の子のイベントなのにそこまでするのはおかしいですか? でも､実際おかしいんでしょうね。実は私自身もそう思ってますから。ただ女の子たちのように、ではなく･･･好きな人へのプレゼントということで羽柴くんになにかあげたかったんです｡二月十四日にわざわざ人にプレゼントをあげようとするなんて、初めてなんですよ?」 それだけ、羽柴くんのことが大好きなんです――笑顔とともに付け足された七海の言葉に、空は照れてうつむいてしまった。それでも自分の気持ちだけはどうにか伝えようとする。 「す、すごく嬉しい。ほんとに･･･ものをもらうからじゃなくて､七海ちゃんの気持ちがすごく･･･嬉しい。ありがとう七海ちゃん･･･」 「どういたしまして」 空が礼を言うと､まぶたに軽く七海の唇が触れた。 くすぐったそうに一瞬目を閉じた空が､少し声のトーンを落として言葉を続ける。 「でもオレ･･･オレは､七海ちゃんになんにも用意してねーよ･･･」 「いいんですよ、そんなの。羽柴くんのその気持ちだけで充分です。私自身、羽柴くんにプレゼントをあげて羽柴くんが喜んでくれる顔が見たいとは思いましたけど､羽柴くんからもらいたいなんて全然考えていませんでしたから。基本的に私は羽柴くんになにかしてあげたいって思うんです｡自分がされるよリ､してあげるほうがずっと嬉しいんですよ。だからこれからも､迷惑がらずに受けてくださいね」 「迷惑だなんてそんなことないよ! 絶対にありえないっ!!」 予想したとおりの反応を返す空にさらに七海は笑みを誘われる。ここが寮内の廊下で､ずっとこうして触れているわけにはいかないことが、本気でうらめしかった。できるならば、このままさらってしまいたいところなのに。 そう･･･すごく､愛しい存在だから。 七海はするりと腕をといて、空から離れた｡ 自分を包んでいた腕が唐突になくなり､空が七海の気持ちを問うように顔を上げた。空自身は意識していないのだろうが、その心細そうな顔は簡単にこちらの理性を砕かせるほどかわいくて、七海は本気で困ってしまった。 それでも、ここはあえて引くべきなのだ。ここで故意に空にさみしさを感じさせることで、その先につなげることができるのだから。 七海はそう決意して､話題を移した。 「それより、チョコレートを渡すのは明日でもいいですか? 今は持ってませんし､私の部屋まで取りに行ったとしても、ここで渡したらだれかに見られてしまうかもしれませんからね」 「･･･いやだ。やっぱりどうせもらうなら今日の方がいい」 「でもおなかをこわすかもしれませんよ? 私が作ったのは､正確に言うとチョコレートケーキなんです｡羽柴くん､もうチョコレート食べたんですよね? だったら明日渡しても――」 「食ってない! オレまだ一つもチョコなんか食ってねーよ？ それに七海ちゃんからもらったもののほうが､他のだれかにもらったものより､何十倍も何百倍も嬉しい！ だから今日もらいたいっ」 声高に叫んで空が力いっぱい主張する。今日はこのままなにもなし､だなんて納得できなかった。せめて七海からチョコレートをもらってその幸せにひたらなければ、もっと七海といたいという気持ちを静めることができない。 「そうですか？ でも今は持ってないんですよね」 じゃあどうしましょうねえ･･･、と呟いて視線を投げかける七海に､名案を思いついたとばかりに空が顔を輝かせた。 「じゃあオレがあとで取りに行くよ！ 七海ちゃんの部屋に取りに行く！ そんとき大きめの紙袋でも用意しとけば、他のやつらに見つかったってわからないしさあ。もう少し経ってみんなが部屋に落ち着く頃にささっと行ってささっと戻れば、ぜったいへんなふうには思われないって!!」 どうしても今日中に欲しいらしい空が､さらに力を込めて言う。それを聞いて七海が、「じゃあそうしましょうか」と呟いた。 「わかりました。じゃあ、あとで私の部屋に来てくださいね」 「うん、絶対行く！ だからチョコ用意して待ってて、七海ちゃん!」 「ええ、もちろん――」 そうして七海は、空が思わず見とれてしまうほどのあでやかな微笑みを浮かべた。 「ちゃんと準備して、羽柴くんが来るのを待っていますからね。羽柴くんに、たっぷりと甘いチョコレートを差し上げますよ」 ３ さっきよりも、鼻歌の調子がはずれている。心ここにあらずという感じで部屋に戻ってきた空には､直の存在も目に入っていないようだった。ただ自分のベッドに座ったかと思うと､椅子に座ってみたり、なにやら時計をちらちらと気にして落ち着かない。 「･･･どうしたの？」 空がこんな態度をとる原因に興味があると言うより､部屋の中をうろうろして目障りだからという理由で､直は空に声をかけた。 「なんか､さっきよりも機嫌がいいみたいだけど」 「そりゃ――やっぱり、さ･･･」 「――」 直が一瞬空のその表情に目を奪われる。 先程､自慢げにチョコレートをもらったことを語ったときの顔とは全然違うのだ。 蕩けそうなほどの甘い表情。日頃､どちらかというと直と違って男らしいとも言える顔立ちが、不意に優しくなったのだ。 目元にも､唇にも､あどけないとも言える素直さが漂っていて。空を､いくらか幼く見せていた。 「チョコレートケーキ､もらうんだ。それも手作り､なんだって。オレのためだけに作ってくれたんだってさ･･･」 「――七海先生?」 とつとつと話す空のその様子に､彼がそんなふうに話すのはたった一人のことしかありえないと悟り､直がその名前を口にした。 「ん･･･。もちろん、ここだけの話だぜ藤守」 「・・・わかってるよ･･･」 気恥ずかしそうに小さく頷いてから､空が直に確認する。 以前たまたま空と七海の関係を知った直は、それ以来ずっと空たちと秘密を共有することになった。やはり在校中の生徒と職員がデキていると周囲に知られれば、それなりの処分が待っているだろう。だから、空と七海のことは秘密の恋、なのだ。直もとりわけ二人を守ろうとは思わないが、わざわざこのことを学校側に知らせる気もなかった。 「それで、もらうっていつもらう気なのさ。明日、七海先生のところで？」 直が聞くと、空がさらに至福の表情を浮かべる。 「いや、実は今日これからもらうんだ。もう少し経ってみんなが部屋にこもるようになった頃、こっそり部屋を出て、オレ、七海ちゃんのところに行くんだ」 「･･････羽柴が、七海先生のところに行くの?」 「そう。へへ、楽しみだなあ。部屋に帰ってきたら速攻で食ってるかもな」 「･･････」 「あ、でもしばらく飾っておくかもな。せっかくの七海ちゃんのチョコレート、すぐになくなっちゃうのは惜しい気もするし」 嬉しそうに語る空の顔を､直は呆然と見つめる。 「･･･羽柴･･･」 「え？」 「いや･･･なんでもない」 「なんだよ、藤守。あ、もしかしておまえも七海ちゃんのチョコ食いたいんだろ? まあその気持ちもわかるけどな、でも今回ばかりはぜってぇだめだぜ。悪いけど、ほんと誰にもあげたくないんだ。オレだけのものとして全部、ちゃんと味わいたいんだ･･･」 最後はしんみりとそう言う空に、直は内心で「まあいいけどね･･･」と呟く。 本当は直は空に、今夜部屋に戻る気かと聞きそうになったのだ。戻る気と言うか､戻れる気でいるのかと。この様子では、多分空はまったく考えていないのだろうが。 （･･････この分じゃ､今夜も一人なんだろうな･･･） 直は心の中で密かにそんなことを思う。 浮かれている空は気がついていないが、「彼」が本当にチョコレートを渡しただけで空を解放するはずはないのだ。 部屋を訪れた空をすぐに帰すわけはないというより、もともと、チョコレートを渡すこと事体が「彼」の罠のような気がする。無邪気な空に対して巧妙に仕掛けられた、文字どおり甘い――罠。 （まあいいけどね。どうせもうそういう仲なんだしさ） 恋人からの手作りチョコレートの代価は高くつく。 でもそれも、甘いからいいのかもしれない。 ――聖バレンタインデー。 おわり |