腕　章


「ん……」
　窓から朝の光が差し込んできて、勇気は眩しさから目を開けた。
　ここが自分の部屋でないことに気づいたとき、自分の身体に乗せられていた腕を意識した。腕の主はまだ眠っているようだ。
（そうだ、昨日は……）
　智友と夜の散歩を楽しんでいるうちにだんだん気持ちが盛り上がってきて、智友の部屋に戻ったときにはドアが閉まるのももどかしく、すぐに抱き合ったのだった。くちづけを深めながら互いの服に手をかけ、そのままベッドに倒れ込んだ。
　夕べの一連の出来事を思い出し、勇気は顔を赤らめる。
（あれはちょっと……いつにないほどおかしな気分だったよな。トモになにをされてもすごく気持ちよかったし……いやいや。朝からそんなこと思い出してたらダメだろ俺……！）
　今日は休日で、時間を気にしなくていい朝とはいえ、昨夜の気分を朝の光の中で引きずっているのもどうかと思う。勇気は自分の身体にまわされていた智友の腕をそっとどけると、気怠い身体をどうにか起こした。
（……まるで脱皮。……というかこの脱ぎ方って……）
　部屋の様子を振り返り、入り口からベッドまで続く二人分の脱ぎ散らかした服を見て顔を引きつらせる。しかも智友の制服のジャケットやシャツがドア寄りに落ちているのに対し、勇気の服はズボンや下着から脱がされていて、ベッドのすぐ近くにあるのがジャケットとシャツだった。
（……一回目のときはそういえばまだジャケットも脱いでなかったような……）
　上衣は中途半端に片腕に絡んだまま、足を開かされてほぐされて、そのまま。
（動物的すぎる……。あーあ、ジャケットだってしわになりそうだし…）
　勇気はベッドの下に落ちている自分のジャケットに手を伸ばす。すると袖口をつかんだ途端、するするっとそこから生徒会長の腕章が抜けた。
「わっ、腕章！」
　慌てて腕章を拾い、手元に引き寄せる。ピンがはずれて、制服から取れてしまったようだった。
「危ない危ない。ちゃんとまた留めておかないと」
　ピンを確かめるが、特に壊れたわけではないようだった。何度かピンを触り、まだ使えるピンであることを確認する。しばらく前の腕章がなくなったときのことを思い出し、もう二度とあんなことにならないように気をつけなければと自分を戒める。あのときは不注意で落としたものではなくて、人に取られてしまったものだったが。
「制服からはずすと、またなくなるぞ勇気」
　勇気の腰に手がまわされたと同時に背後から声をかけられた。
「トモ！」
「ちゃんとつけておかないと」
「わかってる、ちゃんと直すよ。それより起きたんだな。おはようトモ」
「おはよう勇気」
　智友が勇気に挨拶を返しながら、横になったまま勇気の脇腹にくちづけた。
「ト、トモ！」
「おはようのキスだろ」
「……そこにしなくていい」
「夕べのことを思い出しちゃうから？　あ、キスマーク発見」
「だからっ」
「だって勇気の唇が遠かったんだから仕方ないだろ。ほら、勇気」
　智友が人差し指一本で勇気においでおいでをする。
「……トモが起き上がってくればいい話…っていうか、いつもしているわけじゃないくせに」
「いつもしてないけど、たまにしてるだろ。特にこんなふうに勇気と迎えた朝は」
　軽く文句を言いながらも勇気は智友を振り返って身をかがめる。そして智友とキスをかわした。
「ん…」
　軽く触れるくちづけだけのはずが、智友に誘い込まれだんだん深くなる。座ったままかがめている姿勢が辛くなった勇気の身体を智友が両腕で自分の方に引き寄せた。バランスを崩し、そのまま智友の方に倒れ込む。
　それでも智友から解放されなくて。
「……んっ……はぁ……。…トモ、朝から濃厚過ぎ……」
「俺は夕べ勇気が寝落ちした分の元を取ってるだけだろ」
「寝落ちなんてっ……したかもしれないけど、もう回数的には充分だろ」
「俺にとっては充分じゃないな」
「……っ――ていうか腕章！　それこそなくなっちゃうだろ」
　手の中の腕章の存在を思い出し、勇気はそれを智友につきつける。そのあとで自分のジャケットを拾うために身体を起こそうと思いかけて、勇気の身体が止まった。
「勇気？　…その腕章がどうかしたか？」
「ん……改めて見て、この腕章にはいろいろなことがあったなあって思い出してさ」
　智友の隣に寝ころんだまま、勇気は両手でしっかりと持った腕章をしみじみと見つめた。
「俺がベルリバティに来た最初の日に渡されたものなんだよな。それから生徒会に入って、生徒会の活動を頑張って、そのあとでこの腕章をなくして……また戻ってきて……。本当にいろいろなことがあったよな」
「そうだな。俺と再会したときの勇気はもうすでにその腕章を身につけていたしな。途中なかった時期もあるけど、その腕章は勇気のベルリバティでの生活の大半を一緒に見てきたわけだからな」
「言うなれば俺の相棒ってところかな。よ、相棒、これからも一緒に頑張ろうな、なんてな」
「……相棒、ね。俺よりも勇気と長く一緒にいるのかと思うとちょっと複雑だな」
「なに言ってるんだよ。……この腕章を見ていて思うけど、俺、本当にこれを託されてよかったなって思うよ。エースでよかった」
「でもエースになったから、学食のいろんなメニューがしばらく食べられなかったし、そのあとも大変なことに巻き込まれたわけだろ。それでエースでよかったなんて……」
「エースでよかったよ」
　智友の言葉を遮るように、勇気はもう一度はっきりと繰り返した。
「だってエースになったからこそ、一段と頑張れたし、生徒会の活動でたくさんの人と話してすぐに学園に慣れることができたしな」
「確かに勇気はエースになってすぐにいろんな人と仲良くなったよな。俺がよく知らないような上級生からもかわいがられてるし」
「……さっきからなんだよ」
「人気者の恋人はつらいなって話」
「トモがそんなことを思う必要はないだろ。だって……今俺がエースでよかったって実感してる理由の一つはトモにあるんだし」
「……俺？」
　自分に向けられた話の流れに智友が驚く。それに対して勇気は腕章から智友に視線を移して笑みを浮かべた。
「そうだよ。……俺がエースじゃなかったとしても、クラスメートなんだし、トモとはすぐに出会えて仲良くなれたと思う。トモとたくさん遊んで楽しい学園生活を送って充実した毎日を過ごせていたとは思う。でも俺がエースじゃなかったらトモがベルリバティの理事長だってことに気づく機会はなかっただろうし、なにより……」
　勇気は片手を腕章から離し、智友の頬に手を伸ばした。笑みを浮かべたまま優しく触れる。
「トモが抱えていたいろいろなことを知らないままでいたと思う」
「勇気……」
「俺は俺自身のためにエースでよかったって本当に思うよ。トモの本音を聞けてよかった。トモを深く知ることができてよかった。トモと――こうなれてよかった」
　本当に幸せそうに笑う勇気を、智友は目を細めて見つめ返す。そのあとで自分の頬に触れている勇気の手に自分の手を重ねた。
「……勇気がエースじゃなくったって、俺は勇気に惹かれたし、勇気を欲しいと思ったし、だから、こんなふうに恋人同士になってたかもしれないだろ」
「それはそうかも。だって俺たちがここで再会したことは運命的だしな。俺も、トモのこときっと好きになってた。……けど、俺がエースじゃなかったらもっと時間がかかってたと思う。トモのことを好きになってゆっくり気持ちをあたためるのも幸せだけど、やっぱり今こうしてトモと一緒にいられるのが嬉しい。トモは俺のものだって今はっきり言えるのが」
「――確かに今俺がここまで勇気に惚れこんでいるのは、勇気がエースで、学園の存続に関する一連の出来事があったからかもな。そうじゃなかったら勇気を抱くのにももっと時間がかかっただろうし、確実に今より何回分かは損して……痛っ」
　勇気の手が触れていた智友の頬を軽くつねる。
「そ、そこまでは言ってないだろ」
「冗談だって。とにかく、それなら俺もこの腕章に感謝だな」
「トモ？」
　智友が勇気の持っていた腕章を奪った。そして数秒見つめたあと、智友は目を閉じてその腕章にそっとくちづけた。
「トモっ!?」
「俺の感謝の気持ちだよ」
「い、いつも身につけてるものだからきれいなものじゃないぞ!?」
「別に気にしないって。勇気がつけてるものだしな。勇気の相棒、だろ？」
「で、でも元々は俺のものじゃないし、それに……」
　勇気は顔を赤らめる。
　腕章を優しい視線で見つめたあと、キスを落とした智友。その一連の様子を、勇気は見てしまったのだ。これからその智友がくちづけた腕章をまた腕につけ続けるなんて、まるで智友にずっと腕にキスされているような錯覚を起こしそうだと思った。
　腕章を見るたびにキスする智友の顔を思い出さずにはいられなくなる。
「……っ」
「なんて顔してるんだよ、勇気」
「だって、トモが……」
「ただのキスだろ。俺は、勇気自身にもっと直接的なことたくさんしているだろ？」
「そ、それとこれとは……」
　困り果てた顔で智友を見返す勇気を見て、智友は楽しげに笑った。
「今度から定期的にこの腕章にキスしてやるよ」
「もうだめだって。そんなことされたらいつもキスのこと意識しちゃうだろ」
「それがいいんだろ。それなら俺も勇気が腕章をずっとつけててもなんとも思わないですむし。むしろつけてる姿に興奮するかな。俺のものだって証明になるし……指輪とか首輪とか鎖とか、そんな感じ？」
「トモっ、変なイメージつけるなよ！　これから腕章を見るたびにトモのこと思い出して顔赤くなったら困るだろ!?　生徒会の仕事してるときに思い出して体まで変になったら、ほんとに…困るから……」
　ますます顔を赤くした勇気の腕を取り、智友は持っていたままの腕章を勇気の腕に直接通した。肌にすれていく腕章の感触に、勇気が身じろぎする。
　そして智友は今度は腕章ではなく、腕章を通したあとの勇気の腕の内側にくちづけた。
「トモ…っ」
　腕の柔らかいところにキスされ、昨夜の名残の熱が刺激される。
「勇気、今度、この腕章つけたまましようか。あ、靴下は履いててもいいかな」
「トモ！」
「勇気がエースだからこそできるプレイだよな。そして俺もエースの恋人だから楽しめる」
「バ、バカっ、神聖なエースの腕章をなんだと思ってるんだよ！　この腕章は今は俺が持ってるけど、でも一時的に託されているだけで、俺のあとも別の人に譲られていくものだってこと、トモだって知っているだろ！　だからそんなことできるわけないだろっ」
「んー、じゃあそれを人に譲るときには同じものをもう一つ作るってどうだ。そしたら気兼ねなく扱えるだろ」
「そういうものじゃないってことはよくわかってるだろ。これは唯一無二のエースである証なんだから。これ以上おかしなことしたら、俺、他の人に顔向けできなくなるだろ」
「これ以上？」
「そうだよ。もう十分だよ。さっきのあれだって……」
　勇気の脳裏に、再び先ほどの智友が腕章にくちづけた様子が甦ってきた。智友は勇気が困っているのを見て楽しそうに笑っているが、あれだけで充分しゃれにならない事態だと勇気は思う。
　この腕章は一時的に自分が持っているものであって、この先、別の相手に託していくものなのに。あんなふうに優しい目で見つめられてキスなんかされたら。
　勇気は自分の腕に通された腕章を、もう片方の手で上から握りしめた。
　――誰にも譲りたくなくなっちゃうだろ。
　ひっそりと心の中で呟く。
　腕章を通して触れている肌が今も熱く感じられた。
　智友は腕章を他のものにたとえた。そんなふうに言われたらもう普通の腕章とは思えなくなってしまう。智友の気持ちが込められた、智友の束縛の――。
「……勇気。それ本当に抜かないと、今からそのまましちゃうぞ」
「それはだめ……」
「じゃあ今からするのはいいんだ」
「……」
　勇気は智友をじとっと睨みながら腕章を腕から抜いた。そしてなくさないように、床に落ちている自分のジャケットの上にそっと置く。
　腕章を抜いたのに腕がまだ熱い気がした。勇気はひりつく腕の熱さを感じたまま智友に向き直り両腕を伸ばす。
「……トモのバカ。もう普通に腕章を見られなくなっただろ。いつも意識しちゃうし、それに……」
「それに？」
「……俺だって腕章に嫉妬したくなっただろ。あんな顔してキスするなんて……ずるい。俺にももっとして」
「了解」
　勇気の腕を引き寄せて、智友はそう言って勇気に優しく笑いかけた。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　終