――目を開けたとき、俺の腕の中には小さなトモの体ではなく、あたたかくて柔らかい布団があった。
　視界に広がっているのは見慣れた天井で、俺は夢から覚めたことを知った。
「……トモ…っ」
　だけど夢の中で感じた気持ちは強く残っていて、俺はすぐに小さなトモを思い出さずにはいられなかった。
「トモ、ごめん…っ」
　夢の続きのようにまた涙があふれてくる。いつもなら悲しさだけが残って理由は忘れちゃうのに、さすがに今日はなにもかも覚えていた。
「トモ……っ」
　今起こった出来事は夢。でも夢の中でトモが経験したことはもしかしたら現実なんじゃないだろうか。
　だとしたら俺の腕の中で倒れたトモはあのあとどうしたんだろう。
「……いきなり人の名前を連呼しながら泣くって…どんな夢見てたんだよ」
　そのとき俺が寝ているベッドの横で声がした。
　俺は涙を拭いていた手を止めてそちらを見る。
「……トモ！」
　そこにはトモが――俺と同い年の高校生のトモがいて、俺を呆れたような顏で見ていた。
「トモ、どうしてここに……」
　俺はベッドからすぐに身体を起こして、隣にいるトモを見た。ここは、ベルリバティの俺の部屋なのに。なんでトモがここに……昨日どうしてたっけ？
　俺の疑問にトモはすぐに答えをくれた。
「どうしてって、昨日は俺もここにいたからだろ。一緒に勉強して、そのまま眠くなったからベッドに……って、勇気、大丈夫か？」
　トモが俺の顔を見つめている。そのトモの顔がたちまち涙でぼやけていった。
　――トモだ。
　現実だから当たり前なんだけど、俺の目の前にトモがいて、普通に話している。
　顔色もいいし、元気そうだし、あのときのトモとは違う。
　トモが変わりなく俺のそばにいることの安心と、でもこのトモが本当に夢の中のトモと同じ経験をしていたかもしれないという不安とがないまぜになる。
「勇気…」
「トモ、ごめん…本当にごめん。俺…なにも知らなくて…っ」
　夢の続きのように。俺はトモの前で涙をこぼす。
　今謝ったってしょうがないのに。いきなり泣いて謝っても、今のトモにはなんのことか全然わからないのに。
　それでも涙は止まらなかった。
「……トモ…っ」
「――」
　泣き続けている俺の体を、トモの腕が引き寄せた。トモに抱きしめられ、背中をあやすように撫でられる。
　俺はトモの優しさに、また新たな涙をこぼした。



　ひととおり泣いてから、俺はトモに夢の話をした。
　今日が休みの日でよかった。こんなに泣きはらした目じゃ恥ずかしくて学校に行けないところだった。
　トモは俺の話を黙って聞いてくれて、そして最後に大きな大きな溜息をついた。
「そんなのただの夢だろ」
「でもっ」
「勇気が俺に泣いて謝るから、俺をこっぴどく振った夢か、思いきり浮気してる夢でも見たかと思った。あ、あと、俺に内緒で一人だけうまい料理をたらふく食った夢な。勇気ならそっちの方がありそうだよな」
「なっ、そんな夢で泣くわけないだろ！　それに浮気…だって…」
「まあな。そんなの夢でもむかつくしな。とにかくただの夢なんだし勇気が気にすることないだろ」
「本当に？」
　話を終わらせようとするトモの顔を必死に見つめて、俺はトモに聞いた。
「トモ、俺の夢の話に覚えがあるんじゃないのか？　子供のころ、あの公園で雨の日に倒れたことが……」
「ないよ。大体おかしいだろ。俺が公園で今の勇気に会うなんて。そんなのあくまで夢であって、現実的にありえないだろ」
「だから今の俺に会うのはともかく、昔の俺を待ってて具合を悪くしたこととか、ナオ兄が入院したこととか」
「……兄さんの入院なら確かにあるよ」
「じゃあ」
「でもそのとき雨の日に公園になんか行ってない。勇気を待ち続けた覚えもない。その頃には勇気のことなんかすっかり忘れてたしな。そんなの、勇気が昔のことを心配しすぎて見た夢だろ」
「……」
　トモの言葉に、俺はまだ納得できなかった。
　本当にただの夢の話であればいいと思う。
　でもやっぱりなんとなく、あの夢は現実に起こったことなんじゃないかって気がしていた。
　だからトモに本当のことを話してほしいという気持ちを込めて、俺はさらにトモを見つめた。
「トモ、ほんとに？　本当にただの夢の話なのか？　俺はあれが現実なんだとしたら、知らないままでいたくない。トモのことならなんでも、昔のことも今のこともちゃんと知っておきたいんだ」
「――」
　トモは俺の顔を見返し、そしてまた溜息をついた。
「勇気がもう泣かない、俺に謝らないって約束するなら話す」
「え…？」
「約束できないならこの話は終わりだな」
「や、約束するよ。わかった！」
「ほんとか？」
「本当だって！」
　俺がはっきりと返事をすると、トモは俺の顔に自分の顏を近づけてきて……そして俺の目元にキスをした。左右の目元に一回ずつ、トモの唇が俺の閉じた目と、涙に触れる。
「トモ……」
「約束したからな。もう泣くなよ」
　そう言って、トモは俺に、夢の中の出来事が現実にあったことを教えてくれた。
「さっきも言ったように今の勇気には会ってないからな。ただ兄さんの入院のときに公園に行って……しばらく雨にあたってたのは事実だな。でも俺は倒れる前にちゃんと自分の足で帰ったからな」
「そう、なのか？　具合が悪くなったりしなかったのか？」
「全身濡れたけど元気だったよ。考えてみろよ、勇気。兄さんが入院した上に俺まで倒れるなんて、そんな周りにはた迷惑なことできるわけないだろ？　ただでさえ兄さんの入院でいろんな手を煩わせているのに、さらに俺まで倒れて迷惑をかけるなんて、絶対有り得ないな」
　トモの言葉にそれはそれで胸がぎゅっとしたけど、でも納得することはできた。できるだけ人に頼ろうとしないトモなら、確かに雨の中倒れて人に迷惑をかけたりしないんだろうな。たとえ子供のころでも。
「でもやっぱり雨の中にいたんだな……」
　一人で帰れたとしても、でもやっぱりあの公園にトモはいた。冷たい雨に打たれたまま、人のいないあそこに。
　そして来ることのない昔の俺をずっと待っていたんだ。そのときの俺は、多分屋根のあるあったかい場所で、トモがそんな状況でいることなんて思いもしないで過ごしていたんだ。
「トモ…俺、あのとき……」
「やっぱり兄さんが入院したのはショックでさ、兄さんのことばかり心配していたな。このままもう病院から帰ってこなくなったらどうしようとか、早く面会時間がきて兄さんに会いたい、とか。あのとき俺の頭の中は兄さんのことだけだったな」
「……え？」
「そこも勇気の夢とは違うよな。俺は兄さんのことを考えて雨の中にいたけど、勇気のことなんてこれっぼっちも考えてなかったよ」
「そうなのか？」
「そうだよ。俺に会いたいって思ってほしいっていう、勇気の願望が見せた夢じゃないのか？　自信過剰だよな」
「え？　そ、そうなんだ……」
　トモにからかうように言われて、俺は恥ずかしくなってうつむいた。別に自信過剰だろうと俺の願望だろうと、小学生のトモが本当に雨の中で俺を待っていたわけじゃないなら、その方がずっといい。ナオ兄のことを考えて一人きりで雨の中にいたってことも勿論心配だけど、でもそれは今考えてもどうしようもないことだし、そのことで俺が今ここでトモに言うべき言葉はなにもないし。……あれ？　でも。
「夢と違ってて残念だったか？　それだけ、勇気が俺のことを考えてくれてたってことだよな」
「別に残念てわけじゃないよ。トモが雨の中で俺を待っていなかったのなら、その方がずっといいんだ。安心する。たとえ俺の自信過剰であったとしても。ただ……」
　トモはさっき、俺にもう泣くな、謝るなって言った。
　今のトモの話のとおりなら、俺が謝る理由はどこにもない。勿論この日以前にトモを待たせていたことはあるから、そこはやっぱり俺が悪いわけだけど、でもあの雨の日限定の話なら。トモは俺に、「勇気には関係ないことだからもう謝るな」って言いたかったんだろうか。それとも――。
「ただ？　なんだよ」
「トモ、さっき、俺にもう謝るなって言ったよな？　俺がもう泣かない、謝らないなら話をするって。トモの今の話なら、俺が謝る理由はなにもないよな」
「そうだよ。だから勇気が俺に謝る必要なんて最初からないんだって」
「俺が泣く理由も、トモがナオ兄のことを心配して一人きりでいたのに、そのことを俺はまったく知らなかったとか、トモがつらいときに側にいてやれなくてごめんとか……」
　そう言いながら、俺は自分の考えに没頭していく。
「……勇気？」
　トモは、俺がその理由でも泣くと考えたんだろうか。それとも深い理由は特になくて、ただ単にもう泣くなって言いたかっただけだろうか。
　その可能性も確かにある。でも、俺の直感が告げる。トモが俺を気遣うようにそんな約束を持ち出した理由を。
「――トモ、ナオ兄が入院したとき、勿論ナオ兄のことがショックだったんだろうけど、でもやっぱりあのとき雨の中で俺のことを待っていたんじゃないのか？」
「勇気、だから」
「最初はそのことまで話すつもりでいたけど、でもなんとなく丸め込めそうな流れになったから、そのことはごまかしてしまおうと考えたんじゃないのか」
　俺がそう言うと、トモは、
「……別に勇気を丸め込もうとかごまかそうと思ったわけじゃないけどな」
と言った。
「トモ」
「もう昔のことなんだし、気にしてほしくないんだよ。俺が勝手にしていたことだしさ」
「……夢の中で、トモは俺に、勇気は俺のことを嫌いになったのか…って言ってた…」
「そんなのは知らない。重なっていることも確かにあるけど、違うところもたくさんある。だから夢は夢なんだって、勇気！」
「……雨に打たれて、トモの身体すごく冷たかった……。そしてすごく悲しそうな声で、俺の名前を……俺のことを呼んでた。トモのことを忘れて……公園に来るはずのない俺のことを……一人きりで……」
　――ああ。
　やっぱりあれは現実だったんだ。現実にも起こっていたことだったんだ。
　俺の自信過剰であっても、実際には違っていればいいと本当にそう思っていた。でもあれが現実で、俺は改めて自分が今まで平然と忘れていた過去の罪を実感した。
　引っ越した新しい家で。学校に通って、友達と楽しく過ごして。
　公園のこともトモのこともナオ兄のことも思い出して考えることはあったけど、時々は公園にも行ったけれど。
　でもトモとうまく会うことができないうちに、だんだん足を運ぶのが億劫になってきて、学校の友達と新しい家の近くで遊ぶことが楽しくなってきて。
　そうして俺は、トモのことを完全に忘れていったんだ。
「――」
　夢は夢。
　トモの言葉は真実だと思う。本当にあれが全部そのまま現実だったわけじゃない。俺が勝手に、自分で思い込んでいることだってあるんだろう。
　でも、俺が雨の中、小さいトモを一人きりで待たせ続けていたことは事実なんだ。
「勇気。だから約束しただろ!?」
　トモが俺の両腕をつかんで揺らす。
　ああ、そっか。トモと約束してたっけ。
　でもその約束、思いきり破っちゃったな。
　俺はトモの顔を見た。ぼやけた視界の中、トモが心配そうに俺を見ている。
　俺はトモに向かって口を開いた。
「……トモ、ごめ…――」
　トモに謝ろうと思った。今の約束を破ったことと、昔のことを。
　でも俺はトモにちゃんと言うことができなかった。
　トモの唇が俺の唇に重なって言葉を封じる。
　触れ合うだけじゃなくて、すぐにトモの舌が俺の口の中に入ってきた。
「!?　…っ…んっ……」
　濃厚なくちづけは俺の思考を麻痺させる。
　そのままベッドに押し倒されて、さらに角度をかえて深く口づけられる。
「ん〜っ！」
　急なくちづけに冷静になれず呼吸もままならなくなって、俺はトモの背中をたたいて離れるように合図した。
「……は…ぁ、トモ……」
　俺は俺たちをつなぐ濡れた糸が途切れるのを呆然と見ながら呼吸を整えた。
　だが息が整ったところで、再び唇を重ねられる。
　そのあとも何度も繰り返されたキスに、俺は別の理由から涙目になりながらトモを見上げた。
「……トモ、やりすぎ……」
「約束を破った勇気がいけないんだろ。夢は夢。以上、話は終わり」
「……」
　俺は言いたいことを目に込めてトモを見る。そのまま口にしたら、またトモにキスされそうな気がした。そして多分、その予感は間違いじゃないんだろう。
「そんな顔してももう勇気の話は聞かないからな。――もう充分に勇気の謝る言葉は聞いたよ。俺は聞きたくなかったし受け入れたくもないけど、勇気が納得できるように、今までの分はちゃんともらっておく。だからもうこれ以上は禁止な」
「……充分て、全然充分じゃないだろ。俺は今のトモには寝起きにしか謝ってない。トモになんで謝ったか事情を説明してからは一回も」
「だからいいんだって。泣きながらも謝ってたし、夢の中でも謝ってたんだろ？　そんなにぽんぽん安売りしてたら、言葉に込めた気持ちが薄まるぞ」
「……」
　安売りなんて言葉を使われて、俺はむくれる。
　勿論、俺をムッとさせるために、わざとそんな言い方をしたんだろうけど。
「……今のトモにちゃんと謝りたい」
「却下。言っても意味ないし、そんなのただの勇気の自己満足だろ。俺が一人でさびしーく待ちぼうけくわされたあの時間が取り戻せるわけじゃないし、そんなのに付き合わされるのはごめんだな」
「……なんか今ので、逆にトモに謝ってほしくなった」
　トモが俺に対してひどい言い回しをしてまで俺に言いたいことはちゃんと伝わってる。トモの優しさは十分わかってる。
　けど、それにしたってトモの言葉のチョイスが、人の痛いところを的確に抉りすぎる…。
「なら、勇気への謝罪の気持ちを込めて優しくキスしてやるよ」
　トモが楽しそうに笑って、また俺にキスをしてきた。今度は触れるだけの軽いキス。……これにトモの謝罪の気持ちが込められているんだとしたら、軽すぎないか？　勿論、本当にトモに謝ってほしいわけじゃないけど。
「……」
　俺がいろんな意味を込めて不機嫌に黙っていると、トモが俺の服に手をかけてきた。
「!?　トモ!?」
「要約すれば、勇気の気持ちは俺が大好きってことだろ？　だったらその気持ちをこっちに全部込めて付き合えよ。勇気に何回もキスしてたら、おさまらなくなってきたしさ」
「……今トモとしたら、本当にうやむやにされるだろ。だからしたくない」
「全部出してすっきりして、それで流そうぜ」
「……」
　納得できない気持ちがある。俺は今のトモに、冷たい雨の中一人きりにさせてたことをちゃんと謝ってはいない。
　けど、トモは聞きたくないって言うし、確かにトモに謝りたい気持ちはトモが好きだって気持ちに変換できる。……昔のことを謝るより、その気持ちを込めて今のトモを大事にしていくことの方が大切だとわかる。
　これからも心の中ではあのときのことをトモに謝ることもあるだろうけど。でも、とりあえず今は。
「本当はまだ納得できないけど、でも今の俺の中にある気持ちを全部トモにぶつけるよ」
　俺はそう言って、トモの首に両腕を回した。そしてトモに思いっきり笑顔を向ける。
「トモ、大好き。トモを好きになって本当によかった」
「俺も。勇気がめちゃくちゃ大好きだよ」
　そうして俺たちは、またキスをした。気持ちのこもった、深いキスを。




　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊　　　　＊　　　　＊　　　　＊　　　　＊　　　　＊




　――夢を見た。
　見た瞬間に夢だってわかった。
　だってそれは、現実には起こりうるはずのない出来事だったから。
　小学生の俺が、高校生の勇気と話している。
　夢の中の俺は同い年の「朝比奈勇気」は知っているくせに、目の前の高校生がその勇気の未来の姿だということはまったくわからないようだった。勇気はちゃんと「ゆうき」って名乗ったのにな。
　小学生の俺と高校生の勇気は近所の公園で何度も会い、そしてあの日を迎えた。
　実際にも起こったように、兄さんが倒れてすぐに病院に運ばれていった。このときは大したことなくて、兄さんはすぐに退院したんだけどな。でも夢の中の俺にはそんなことわからなくて、病院から帰るように言われた俺は、雨の中傘も持たずにあの公園に立ち寄った。
　無性に勇気に会いたかったから。
　でも同い年の勇気は現実と同じように来なくて、そこに、高校生の勇気が現れた。
　勇気は俺を悲しげに見て、俺のことを強い力で抱きしめてきた。
「――っ、ごめん、トモ！　トモごめんっ!!　来なくなってごめんっ!!　嫌いになってない、でも俺っ、ごめんトモ――っ！」
　夢を見ている俺には勇気の気持ちがすごくよく伝わってきた。
　でも小学生の俺には勇気の言葉は届いてないようだった。
「ごめん、トモっ。俺なにも知らないで、ずっとずっとトモにひどいことしてきた……っ！」
　勇気が、涙をこぼす。
　俺に謝りながら、止まることなくあとからあとから勇気の目から涙がこぼれ落ちる。
　雨の中なのに、不思議と勇気が泣いているのがわかった。
　そうして小学生の俺も、ようやく高校生の勇気に気づいた。
　雨で、全身ずぶぬれになった勇気。いつも跳ねて元気よさそうな髪もべったりと重く、髪の先からいくつもの雫が流れ落ちていく。
　その勇気が、小さい俺を見つめる。
　俺は、こんなときなのに、きれいだと思った。
　雨に濡れて泣きながら俺を見つめる勇気に、もう泣かないでほしいってことと、抱きしめたいという気持ちを抱く。
　俺に触れている勇気。勇気の体温はあたたかく、触れられているところから安心感が伝わる。
　それは小学生の俺も同じだった。夢の中の俺と、現実での俺の気持ちが重なり合う。
　俺は目の前にいる雨で濡れたその人のことをすごくきれいだと思い、そうしてその悲しげな表情とこぼす涙に、俺がこの人をずっと守っていかなきゃいけないんだって、強く思った。




　　　終