教室を飛び出した勇気はそのまま外に出て、あてもなく歩いて中庭に差し掛かった。 そこで楽しげな声に呼び止められる。 「あれ？ 勇気くんじゃないか。これから堂々とサボり？ いーね、なかなか大胆なことするね」 「……ジョーカーさん……」 「そっちの方に行くと職員棟だけど、もしかして見つかるか見つからないかのスリルを楽しんでいるところかな」 「違います…」 城河に会った勇気は足を止めて目を伏せた。 声をかけられたことで、なにも考えずに勢いよく教室を出てきてしまった自分を恥じる気持ちが湧き立つ。今きっと自分はひどい顔をしている。 「…ジョーカーさんは？」 「ああ、僕は今は授業がないんだよ。だから退屈しのぎに外に出てきたんだけど、勇気くんと会うなんて外に出て正解だったみたいだね」 「うう…俺は退屈しのぎの道具じゃないんですけど……」 「似たようなものだよ。だって今の勇気くんは僕の退屈を紛らわす匂いがぷんぷんしてるからね」 「……」 心の底から楽しそうな表情の城河に言われて、勇気は複雑な気持ちを抱く。確かに今の自分は、城河にすれば退屈しのぎにはもってこいなのかもしれない。 「勇気くんのその顔の原因は、今学園内で広まっている例の噂かな。笠原くんにかわいい彼女がいるっていうね」 「……」 「笠原くんはその子のことがすごく好きでとても大切にしてるんだってね。勇気くんは知ってるのかな、その子のこと」 「……知らないです……」 「おやおや。勇気くんにすら会わせたくないほどべた惚れってことなんだね。あの笠原くんが大切にしている子なんて、どんな女の子なのか非常に興味があるね。あの面倒くさがり屋な笠原くんがその子のことをどんなふうに見つめてどんな言葉を囁くのか……そして、どんなふうに抱くのか」 「――っ、俺、もう行きます！」 城河の言葉を聞いていたくなくて、勇気はこの場を離れようとした。だが城河がすぐさま勇気の腕をつかんでその体を引き止めた。そして勇気の耳に唇を寄せて囁く。 「勇気くんだって本当は興味があるんだろう？ 僕が聞いた話ではけっこう具体的な話もあったよ。会う場所はいつもその子が一人暮らししている部屋で、だから笠原くんは誰に気兼ねすることなく毎回その子と激しく……」 「やめてくださいっ！」 頭の中に浮かんでしまった映像を振り払うために勇気は大きな声で叫んだ。 そのあとで誰になにを言ったのかに気づき、顔を歪ませたままもう一度力なく呟いた。 「……やめてください。俺、そんな話聞きたくないです……」 その話が事実でないことはよくわかっている。それでも実際にそうであるかのように語られた話に、勇気の心が悲鳴を上げた。 現実ではない。それでも智友が、自分以外の相手を――なんて、聞きたくなかった。 「……やれやれ。そんな顔をするくらいなら、笠原くんの恋人は自分ですって、今からでも勇気くんが公言すればいいのに」 つかんでいた腕を離した城河が、勇気に向けてそんなことを言った。 「……え？」 「ま、退屈しのぎとしては充分だったけどね。ただこれ以上やると勇気くんが本気で泣いてしまいそうだしね。泣かせるのも楽しいけど」 「え？ ジョーカーさん!? 今の…っ」 「なに？ 僕に泣かされたかった？」 「じゃなくて今…っ！」 「笠原くんの恋人が君だって話？ だってそれが事実だよね」 「なんで……」 これまでに城河の前でばれるような態度を智友に対してとっていただろうかと、勇気は今までの言動を慌てて振り返った。自分は上手に嘘がつける人間じゃないから、とうにいろいろとボロが出ていたのかもしれないが。 「だって笠原くんと親しい人間なんて勇気くんぐらいしかいないし、笠原くんに勇気くん以上に大事にしている人間なんていそうにないしね。笠原くんの落し物も、勇気くん相手に使っているんだと考えたらすぐに納得できたし。学園内で落とした物なんだから、普通、学園で使っているって考える方が自然だよね」 「……でも、それがある意味不自然だから、みんなそんなふうには考えなかったんですよ…」 その言葉を否定するよりも先に、勇気の口をついてふとそんな言葉がこぼれた。学園の中で使っているイコール、同性相手に使っている。それが世間の常識と照らし合わせると不自然だから、今、あの噂が飛び交っている。まだ自分でするときに使っているとか、興味本位で持っていただけと言われたほうが他の生徒には受け入れられやすいのだろう。 「まあ、大半の人間がそう考えるのも納得できるけどね。きっと笠原くんは、大多数は異性相手に使っていると考えること、そして僕みたいな一部の人間は勇気くん相手に使っていることに気づくことを見越して、故意にこの騒ぎを起こしたんだろうね」 「――え？ 故意に？」 「そう。ここまで噂が大きくなったのは、笠原くんがそうなるように意図したからだろうね」 「――」 「勇気くんも心当たりがあるんじゃないかな。笠原くんの行動に」 クラスメートから彼女のことを話しかけられて、遠まわしの否定すらせず、適当に答えて噂が広がっていくのを助長していたように感じた智友の態度を勇気は思い出す。 積極的に答えていなくとも、クラスメートたちは智友の受け答えにより、ますます想像を膨らませていったのだ。 「そんな…トモがどうして……。噂を故意に広げるなんて…」 落としたのも、噂が広がったのも、最初から智友が仕組んだことだった…!? 自分の考えに浸りはじめた勇気の顎に指をかけて、城河が勇気の顔を上げさせた。 「ジョーカーさん…？」 「笠原くんは、勇気くんのこの顔を見たかったんじゃないのかな」 「……この顔って…」 「笠原くんの彼女に嫉妬してる複雑そうな顔」 「……そんなの……」 勇気は目をそらす。城河に指摘された顔をしているという自覚はあった。 智友が故意に噂を広げたなんて、なんのためにと勇気は思う。 自分は、智友の架空の恋人に対してこんなに苦しんでいるのに。 まさか本当に自分を嫉妬で苦しませるためだけに噂を広げたとは思いたくなかった。 「あと、勇気くんの身近にいる人間への牽制の意味もあるんだろうね」 「え？」 「事実に気づくほど勇気くんや笠原くんを知っている人間に対しては、勇気くんは自分だけのものだと主張したかったんじゃないかな」 「……」 押し黙ってしまった勇気の肩を、城河が軽く叩いた。 「ま、それは笠原くん本人に聞いてみるといいよ。じゃあ、もう僕は行くよ」 そのあと城河は勇気をその場に残して去っていった。 一人になった勇気は物思いにふけりながら、勇気を追いかけてきた智友に声をかけられるまで、しばらくそこに立ち尽くしていた。 「……勇気？ 勇気！」 「え？ あ、トモ」 「どうしたんだよ。こんなところで。……誰かと一緒だったのか？」 「うん、今ジョーカーさんと話してた」 「……ふうん」 後ろから声をかけてきた智友の方を振り返って勇気は普通に話をする。そのあとで今が授業中であることや、教室で別れたときのやりとりを思い出した。 「トモ。俺のあとを追いかけてきたのか？ 今授業中なのに……」 「勇気を放っておけないだろ」 「……」 「なんだよ」 放っておけないと言ったわりに、昨日から今日までのやりとりの中には、智友の優しくない言動もたくさん含まれていた気がする。それを思い出して勇気は智友をじっと見つめた。智友の態度はその自覚があるんだかないんだかわからなかったが。 「……トモ、トモが落としたあれの話だけど……」 勇気が智友に、城河に言われたことの真相を聞こうと口を開くと、智友からは「あれって？」ととぼけたような返事が返ってきた。一瞬躊躇した勇気だが、ここで恥ずかしがっていては話にならないと決意し、はっきりとその単語を口にする。 「トモが落としたコンドームの話だけど」 「……」 「トモ、昨日教室でコンドーム、わざと落としたのか？ それから、トモの彼女の話。あの噂も故意に広めたのか？」 勇気のまなざしの強さに、智友は勇気の方にちゃんと体を向けたあとで一度溜息をついた。そして顔を上げて、「そうだと言ったら？」と言った。 「トモ！ なんでっ！」 「なんで？ 今回のことは俺にはメリットはあってもデメリットなんて一つもなかったよ。どう転んでもいいと思ってた。正確に言えば落としたのは本当に偶然だった。けど、落としたとき、これで騒ぎになれば利用できると思った」 「騒ぎになったら、場合によっては俺とのことがみんなにばれるんだぞ!?」 「そうだな。だから俺は、勇気とのことがばれたっていいと思ったよ。むしろ俺はそっちに期待してたんだけどな。ま、架空の彼女の存在も悪くはないけど。なんせ勇気がいっぱい妬いてくれたしな」 「そっちに期待って……トモ、本当に？」 「本当に。――勇気。俺は、勇気とのこと全校生徒にばれたっていいと本気で思ってるよ。お前が、俺のものだと主張できるなら」 「トモ……」 「今回は架空の彼女が浮上してきたからそこまでは広がらなかったけど、でもきっと勇気のそばにいる人たちには、俺が落とした物が誰とするときに使っているものか充分知られたと思う。だから今回はまあそれでいいかな。今までにもひそかにしていたけど、昨日のことははっきりした牽制になったと思うから」 「牽、制……」 まさに城河が言っていた通りのことを智友本人が言うのを聞き、勇気はなかば呆然とその単語を繰り返した。 「……勇気はあまりそんなことを考えないんだろうけど、俺はいつもいつも勇気のことを独占したくてたまらないよ。勇気は周りからすごく信頼されているエースで、人気もあって、誰からも声をかけられて、誰といても楽しそうな笑顔を見せている。けど俺は、それが無性にたまらなくなるときがあるんだ。俺たちのことが誰に知られたってかまわない。その分、勇気は俺だけのものだって知ってもらえるなら。――勇気。俺はお前にとって重いか？」 「――」 「勇気と俺じゃ、元から俺の方に気持ちの天秤が傾いていたのはわかってたんだ。お前は周りの人との繋がりを大切にしてるけど、俺が自分から繋がりを持ちたい相手なんてわずかだ。その分勇気に比重が偏っている。言ってしまえば、俺には勇気だけがいればいい。でもお前は違うだろ？ お前にとって俺は重い存在じゃないかと思うんだ」 智友が今まで内に秘めていた思いを勇気に向けて吐露する。智友からすれば、それは初めから持っていた気持ちだった。勇気を好きだと気づいたとき、ベルワンで勇気と感情をぶつけ合いさらに強く勇気に惹かれたとき、そして告白し勇気に想いを受け入れてもらったとき――どのときも勇気を好きだと感じ、それとともにこんなに強く勇気を想っているのは自分だけだと思っていた。勇気と両想いになってからも勇気の周りの人間に嫉妬するのは自分だけ。そもそも子供時代、公園で勇気を待ち続けていたときから、自分の気持ちの方が勇気の何倍も強かったのだと智友は思う。 勿論ここで勇気に重いと言われたからって自分の気持ちは軽くはできないし、もう解放してやることもできないのだが。 「……重いとか、重くないとか、そんなこと考えたこともないよ……」 智友の気持ちを受けて、勇気は戸惑いながら口を開いた。自分を見つめる智友の視線を受け止めているだけで、智友の気持ちが伝わってくる。熱ささえ感じるそれ。 ここで返す言葉を間違ったら、智友を傷つけてしまうのだろうということは勇気にもわかった。だから勇気は慎重に言葉を選ぶ。 「ただ重いって、言いかえれば負担とか、圧迫感とか、苦しい、ってことだよな？ だったら俺は違うよ。トモの気持ちがすごく嬉しいと思う。今まで俺にはトモほど強く好きになった相手はいないけど、本当に好きになった相手には、その相手の気持ちを全部向けられたら幸せだって思うし、束縛されるのもいやじゃない、むしろ嬉しいって思うよ」 今まで思ってもみなかった智友の気持ちを知らされて、そのことでの驚きはあるが、だからといって勇気はいやだとはけして思わなかった。ただ智友がそんな気持ちを抱いていたことをまったく知らなかったなんて、智友に対してすまないという気持ちがわく。 智友は勇気を見つめている。勇気はさらに、智友に自分の思いを伝えるべく言葉を続けた。 「それに俺も昨日と今日、トモの架空の恋人の話を聞くたびにすごくもやもやした。実際にはいないのがわかっててもこれなんだから、もし本当にトモと親しい子がいたらすごく嫌だと思う。俺はずっとその可能性に気づいていなかったけど、トモの中学時代、当たり前だけど女の子の友達だっていたよな。もしかしたらトモがつきあってた子だってその中にはいたかもしれないし、そんなふうに考えたら俺だって嫉妬してたまらなくなって、トモを独り占めしたいって思うよ。もしその子と街中で会っても、話をしてほしくないって思う。俺だけを見ていてって。……俺のそういう気持ちは、トモにとって重いか？」 「いや、すごく嬉しいよ。俺は、勇気に妬かれれば妬かれるほど嬉しくなる。それこそ勇気に束縛されるのは本望だよ」 「なら、俺たちの気持ちは同じってことじゃないのか？ 片方だけに傾く天秤じゃなくて」 「……そうだな」 智友は頷く。勇気に自分の気持ちを否定されず、また勇気にそこまで妬いてもらって嬉しいと思う。 それとともに、実際街で自分たちが知り合いの女子に会ったとしても、勇気はけして邪魔をせず、自分とその子の会話を距離を置いて見守っているのだろうとの想像をする。内心はどうあれ、勇気ならそれぐらい許容しないとときっと思うのだろう。 自分の独占欲よりも、人を気遣うことを優先できる優しい勇気。そこがやはり勇気と自分との大きな差異なのだと智友は思う。 「トモがそんなふうに妬いているのは知らなかった…。そして妬くということ自体、今まではちゃんと意識していなかった。でも今回のことでトモの気持ちを知ることができたし、俺自身、嫉妬するというのがどんなにもやもやすることなのかよくわかったよ。今も勿論もやもやしているし、それはこの先も続いていくんだろうけど……でももう今回のことが起こらなければよかったとは思わない。トモがどんなに俺を想ってくれているか、俺がトモのことをどんなに好きか、よくわかったからさ」 「勇気……。なら、全校生徒に俺と勇気のことを公表していいか？」 「えっ!? いや、さすがにそれは……っ」 「俺は勇気を独占したいし、勇気が俺のものだってみんなに知らせたい。勇気だって、公表しちゃえば架空の俺の彼女に妬かなくてすむだろ」 勇気は智友の真意を問うように智友を見た。智友の表情は智友が本気で言っているようにも見えるし、ただの話の流れで軽くそう言っているようにも見えた。 勇気はそのあとしばらく自分の頭の中で考えてみたが、やはり結論は変わらなかった。 「そりゃあ、トモの彼女の噂が消えたら嬉しいけど、でもさすがに俺たちのことを全校生徒に公表はできないよ。中には俺たちみたいにつきあっている生徒もいるみたいだし、公表したあと好意的に見てくれたり、態度を変えない人もいるだろうけど、全員そうとは限らない。どんな目で見られても大丈夫、という覚悟までは……難しいよ……。トモはもうそこを乗り越えているというなら、俺は謝るしかないけど……」 「別に勇気が謝らなくてもいいけどな。ただ、まあ俺の彼女の噂がもっと広がるだろうけど」 「う……」 「俺が広げるし」 「トモが広げるなよっ！」 反射的に勇気がそう突っ込むと、智友からは楽しそうな声とともに「だって勇気が、俺たちのことを公表しちゃいけないって言うからさ」との言葉が返ってきた。 「トモ、それは脅しなのか……」 「別に？ もっと噂を広げて勇気を妬かせて憂さ晴らししようなんて俺は考えてないけど？」 「充分考えてるだろっ。……今回のことは、とりあえず、け、牽制になったからいいんじゃなかったのか……？」 自分で言ってて恥ずかしさが込み上げたが、それをどうにか耐えながら勇気が言った。 「でも俺としてはやっぱり勇気は俺のものだって声を大にして主張したいよ。だから誰も俺の勇気に触るなって」 「俺だってそういう気持ちはあるけど、でもそれとこれとは別だろ……」 平行線の気配を見せ始めた自分たちのやりとりに、勇気は困惑する。もうこれ以上智友と喧嘩したくないのに、終着点が見つからない。とりあえず今結論を先延ばしにしたところで、いずれまた意見がぶつかるときがあるように思えた。 「――まあ、勇気がそこまで嫌がるなら諦めてやってもいいけど」 「トモ……」 「他の方法探すし」 「えっ、他の方法ってなんだよ!?」 「それはこれから考える。とりあえず全校生徒に公表はしないから安心しろよ」 「……なんか、安心できないような……」 そう言いながらも、やはり智友の気持ちが嬉しいと改めて勇気は思う。自分が智友以外の人間を好きになる可能性なんてないが、智友がそれを心配し、自分たちのことをみんなに知らせたいと思ってくれる気持ちは。 自分も、そんな智友に精一杯応えたいと思う。 「公表なんてしなくったって俺はトモのものだし、俺の気持ちはトモにしか向かってないよ。それをトモにわかってもらえるように、これから俺がトモにたくさんたくさん伝えていく。そうすればトモは安心できるかな。俺も、トモと同じ重さでトモのことが大好きだからさ！」 「――具体的にはどんな方法で？」 「え、具体的にはっ!?」 「勇気が俺のしてほしいことを全部叶えてくれたら、俺も安心するかもしれないな。……主にベッドの中で」 「ト、トモ……」 勇気は引きつりながらも。 「うう……善処、する……」 と、答えた。その途端智友が嬉しそうに笑う。 「へえ。善処してくれるんだ？ これはいいネタ手に入れたな。勇気は俺と同じだけ俺のことが好きなんだから、当然これぐらいはできるよな？って言ったら、けっこういろいろ楽しめそうな気がする」 「トモっ！」 「勇気が頑張ってくれたら俺も満足して、全校生徒に公表するなんて考えなくなるかも。勇気のこれからの頑張り次第だな」 「脅し!? やっぱりトモ、俺のこと脅してるだろっ!?」 「そんなことないって。――俺の彼女のことは、そのうち別れたって言うよ」 「え…？」 「彼女と別れたって言えば、噂も落ち着くだろ。一時的にはいろいろ聞き出されるにしろ、そのうちそれもなくなる」 「トモ……」 勇気は、智友の噂は自分が恋人だと公表しない限り、卒業までずっと続いていくと思っていた。それだけに智友が切り出した話は勇気に驚きをもたらした。よくよく考えればその通りで、今つきあっている相手とその後別れたとしてもなんの不自然さもない。そうなれば智友が言ったとおり噂は消えていくのだろう。 「せっかく……今は外部にかわいい彼女を持ってるすごい奴ってことで周りから一目置かれているのに……いいのか？」 「そんなことに意味なんかないだろ。それに、そんな晴れない顔して言われてもな。……勇気としては噂が消える方がいいんだろ？」 「そりゃあ俺としては勿論……。でも、本当にいいのか？ 別れた原因がなんにしろ、トモに新しい彼女の存在がない限り、きっと今度はトモがふられたってことが広まっちゃうんだぞ。それともまた、別の彼女の存在を作る……？」 「作らないよ。噂でなに言われてもかまわないし。本当に恋人にふられない限り、俺は平気だ」 「そんなの……トモが恋人にふられる日なんて永久に来ないよ」 「なら勇気が心配することない。それに」 そう言って、智友は勇気に向けていたずらっ子めいた笑みを浮かべた。 「俺がベタ惚れしてるかわいい彼女と別れたってことにするのは、もうしばらく先だしな。もっともっと勇気にたくさん妬いてもらって、俺が充分満足したら別れたことにする。それまでは俺の彼女ともどもよろしくな」 「……トモ、さっきからわざと俺の彼女なんて言い方してるだろ。トモの架空の、偽物の、本当にはいない幻の彼女だからなっ！」 「そうだったかな？ あーでも最近、俺の彼女像がいやに具体的すぎて、そのうち本当にそれでヌけるかも」 「だめだめ、それはだめだってっ！ それ、浮気と一緒だからなトモっ！」 「じゃあやっぱり勇気の頑張り次第？ 今夜から楽しみだよな」 「き、昨日もおとといもしたのに今夜って。ト、トモっ、さすがにちょっと……！」 「勇気の気持ちは俺と同じ重さなんだから、それぐらい当然、なんだろ？」 「……っ！」 智友の言葉に勇気が顔を赤らめながら困り果てている。そんな勇気を見て、ますます智友は楽しげに笑った。 数日経っても、やはり智友の架空の恋人の噂は消えなかった。智友が相変わらず噂を否定せず、適当な答えで相手の想像を膨らませているせいもある。勇気はその噂を聞くたびに複雑な気持ちになるのだが、勇気の表情を覗き込んでは嬉しそうに笑う智友に対して悔しさが込み上げ、できる限り普通でいようと努めていた。 この日の昼休みも、チャイムが鳴って早々に教室内で智友とクラスメートの会話がはじまり、智友の隣に座って教科書をしまっていた勇気は席を立つタイミングを窺っていた。 「なあなあ、それで笠原の彼女ってどんな子なんだよ。笠原はその子のどんなところに惚れたんだ？ やっぱ顔と胸？ それとも陸上やってるっていう脚？ 太腿？」 「おまえ、女の子の内面まるっきり無視かよ。笠原はおまえみたいに体だけが基準じゃねえよ」 「――そうだな。顔もかわいいし、体もいいし、ヤってるときの相性もばっちりだけど」 「へえ〜。それで？」 「でも俺が好きになったのは、心、だな。内面の強さとか、優しさとか、かわいさとか、かっこよさとか」 「内面がかっこいい？ 女の子が？」 「女の子だってかっこいいこと普通にあるんじゃねえの？」 「……俺が好きになったやつは本当にかっこいいよ。明るくて、前向きで、いつでも一生懸命で、人をまとめる力もあって、誰に対しても誠意をもってぶつかっていく。こっちが妬いちゃうくらいに誰とでも仲良くなれて、たくさんの人から好かれる人気者で。ほんと、俺じゃもったいないくらいにすごいやつだよ」 「――」 智友はクラスメートだけを見て話していて、隣にいる勇気のことをまったく見ていなかった。だから智友が話している内容が、なんだか……と思うのは、自分の自惚れだろうかと勇気は思う。 だが恋人のことを話す智友の声がとても優しくて、勇気はその声に惹きつけられた。 「……なんか、本当にベタ惚れなんだな。笠原、今までは彼女の話を聞いても全然楽しそうじゃなかったから、ただつきあっているだけで恋愛感情はあんまりないのかとも思ってたけど。でも今は、彼女のことがすごく好きなことがこっちにも伝わってきたよ」 「ああ、むちゃくちゃ惚れてる。俺がすごく大事にしたいって思ってる相手が同じように俺のことが大好きだなんて返してくれたら、そりゃあドハマりするのも当然だって。このまえなんか俺がベッドの中でしたいこと全部叶えてくれるか？って聞いたら、戸惑いながらも善処するなんて言ってくれて、その日も俺のためにけっこう頑張ってくれてさ……」 ガタン！と大きな音を立てて机に足をぶつけた勇気が勢いよく立ち上がった。 「朝比奈？ 大丈夫か。どうした？」 「あれ？ 朝比奈すげえ顔赤いけど？」 「だ、だだだって、そりゃあ友達の、そんな恥ずかしい話が聞こえてきたらさ……っ」 「あー。まあよく知ってるだけになんとなく照れくさいよな」 「でも善処する、なんて、ちょっと固い言い回しをするんだなその子」 「……っ俺、学食行ってくる！」 誰にともなくそう言って、勇気は慌てて教室を飛び出した。 「朝比奈、初心だよなー。笠原の親友なのに全然染まってないっていうか……」 去っていく勇気の背中を見ながらクラスメートの一人がそう口にする。それに対して智友も勇気が出て行った方向を目で追いながら笑って、 「ほらな、かわいいだろ」 と呟いた。 「――えっ!?」 「さて。じゃあ俺ももう学食に行くから」 智友はそこで話を終わらせると、席を立って悠々と教室を出て行った。 「い、今の……？」 「あれっ……？」 その場に残されたクラスメートたちは、今の智友の発言の意味を、その後しばらく悩み続けることになった。 終 |