熱

ＥＤ後の話

　　　　　熱　　

「師匠、玄徳さんが呼んでましたよ。ちょっと来てほしいって」
　花が孔明の部屋に入ってそう呼びかけると、孔明は持っていた書簡から顔を上げた。
「玄徳様が？　そう、わかった。じゃあ行ってくるよ」
「はい」
　孔明は立ち上がり、花とすれ違う。
「ありがとう」
　短くそう言って、そのまま花の横を通り過ぎた。かすかに空気が揺れる。
「……師匠」
「え？　なに」
「……なんでもありません」
「そ。じゃあまたあとでね」
　花が振り返ると、孔明は後ろ手に手を振って部屋から出て行った。
　花は孔明が去っていったあとをしばらく見続ける。孔明とすれ違ったとき、かすかな違和感を感じたのだ。それは呼びかけてもすぐに訂正してしまうような、自分でも正体のつかめない違和感だったが。
『ありがとう』
　花は孔明の言葉を反芻する。そういえば数日前に同じような状況があったことを思い出した。あのときも孔明に伝言したことについて簡単に礼を言われたのだ。
　そしてあのときは。
　花は自分の肩にそっと手を置いた。
　数日前は「ありがとう」の言葉とともに軽く孔明に肩を叩かれたことを思い出す。すれ違うときに何気なく触れていった手。
　今は同じような状況なのにそれがなかったから違和感を感じたのだと気づく。そして花は自分の思考にへたり込みそうになった。
（……なにそれ…。ただ師匠に肩を叩かれなかっただけなのに、なんでそんなふうに……）
　まるで肌寒さを感じたかのような。別に無視されたわけでもなんでもないのに。
（師匠にちょっとでも触れて欲しかったなんて、頭おかしいよ…）
　こうして毎日顔を合わせているのに足りないと思ってしまうなんて恥ずかしすぎる。花は自分の思考に後悔しながら、そのことをもう忘れようとしたのだが。
（――あれ。でも、そういえば）
　孔明に、前に触れたのはいつだったろうか。
　今日、昨日、おととい……と順番に思い返していく。振り返ればここ数日、ほんの軽い接触すら一度もないことに気づかされた。
（えええ？　ちょっと待って。だって師匠と手をつないだことだってあるし、ひ、ひざまくらしたこととか、それから……）
　抱き合ったことも。
　孔明の背中に自ら手を回し、強く抱き合ったこともまだ最近のことだ。そのあとだってなにも触れ合わなかったわけではない。
　けれどここ数日、本当にまったく孔明と接触していないのは事実だった。
　だから恥ずかしい思考とはいえ、自分が“足りない”と思ってしまったのも仕方のないことだと花は納得する。それとともに、どうしてこんなに接触がないかを考え――そして思い至った。孔明から、避けられているんじゃないかということに。
（――）
　無視はされていない。言葉はしょっちゅう交わしているし、笑顔も向けてくれる。
　けれどそういえばここ最近はどんな状況でもまったく触れられていないのだ。そのまえなら何気なく頭に触れられたり、肩を叩かれるぐらいはよくあったのに。
（な、なんで……）
　慌ててその原因を探ってみるが、花にはまったく浮かばなかった。
　――孔明から触れられていない。以前手をつないだときには、その手にドキドキしたけれどとても安心感を覚えた。抱きしめられたときには、本当にこの人のそばにいていいんだと思えて、とても嬉しかった。おでこに触れられたときも、ひざまくらをしたときも思わぬ近い距離に慌てたけど、全然いやではなかった。孔明の、好きな人の体温を感じられて、本当に嬉しかったのだ。
　なのに。
（……もっと触れてほしいなんて考えるのってやっぱりおかしいよね？　女の子としてどうなのかな…。でも、師匠に全然触れられてないのって…いやだ）
　ただの日常の中での触れ合いさえもまったくないなんて。
　――もっと、もっと、あの人の熱を感じていたいのに。
　先程感じた肌寒さがさらに強まったような気がした。花は肌寒さから身を守るように、手で両腕をさすった。
　言葉に出したら、また何気なく触れてくれるだろうかと考え、避けられているならそうしたところで無駄かもしれないと落ち込みそうになる。そもそもそんなことを口にすること自体どうなんだと、花はその場に立ったままあれこれと思考をめぐらせた。
　すべてが誤解で、単に触れるような機会がたまたまなかっただけならいいと願い、でも最近の孔明の態度を振り返ると、やはり避けられているような気がして怖くなった。――そのとき、孔明が出て行ったはずの扉が再び開いた。
「あれ？　君まだそんなところにいたの？　もしかしてずっとそこにいた？」
「師、匠…どうして？」
「ああ、玄徳様のところに行ったんだけどねえ、ちょうど玄徳様を頼ってこられたという客人がいらしたとかで、いったんその場を辞したんだよ」
「そう、ですか」
「……顔色がよくないよ。それに、もしかして今寒い？　熱でもあるの？」
「熱……」
「ほら、そんなにぼーっとして。ひょっとしてずっとここにいたのも動けなかったから？」
　花を心配してくれながらも、孔明は触れてこない。以前ならおでことおでこをくっつけて熱を測ってくれたことだってあったのに。
「…そうですね。熱、が、あるのかもしれません。でも自分じゃよくわからなくて……師匠、確かめてくれませんか？」
　手でも、いつかのようにおでこででも。
　とにかく触れてほしい。そして自分の中の不安を取り除いてほしい……花は、そう願って言ったのだが。
「――具合が悪いなら、今日はもう部屋で寝ていたほうがいいかもね」
　孔明は花に背を向けた。
「今日は特別に急ぐような仕事はないし、君に手伝ってもらわなくても大丈夫だから。もう部屋に戻ってゆっくり寝てるといいよ。芙蓉殿に声をかけて、あとでなにか栄養になるものでも……」
　花は確信した。やはり孔明に避けられているのだ。
（どうして、師匠？　私が師匠に何かしちゃったから？　それとももう私のことなんてどうでもよくなっちゃったんですか？　どうしてそんなに……）
　事実を確信してしまったショックに、花の身体がふらりと揺れ、足元が崩れる。それに気づいた孔明がすぐに振り返って花の身体を支えた。
「花!?　花っ！」
　避けられていても、やはり倒れそうになったらこうして支えてくれるんだ――久しぶりにしっかりと触れられたことにかすかな喜びを感じながら、花の意識はそこで途切れた。

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