花が目覚めたとき、そこは自分の部屋の寝台の中だった。 あのまま倒れて、意識を失ってしまったらしい。 「気がついた？」 ふと顔を上げると、寝台のそばには憮然とした表情で椅子に座っている孔明がいた。 「師匠……」 「覚えてる？ 君、倒れたんだよ」 「ああ、はい」 「まったく、やっぱり熱があったじゃないか。君の様子に早く気づかなかったボクにも責任があるけど、君も自分の体調管理ぐらいできなきゃだめだよ。軍師がここぞというときに倒れてたんじゃ仕事にならないだろ」 「そうですね。すみません」 どこかぼんやりとした意識で花が答えた。なんとなく現実感がないような気がして、そういえば…と、いまさらのように熱があると言われたことを理解する。先程はまったく感じていなかったが、こうして横になっていると自分の身体が本調子でないことがよくわかった。 「……あとで芙蓉殿が来るから、ずっとここでおとなしく横になっていること。いいね」 はい、と返事をして、花は少しだけ頭を動かして部屋の中を見回した。部屋に差し込む日はもう夕日の色を帯びていた。そしてこの部屋には、自分と孔明しかいない。 「ここまで私を運んでくれたのって師匠ですか？」 「あの場にはボクしかいなかっただろ」 「そうですよね。すみません、師匠に迷惑をかけて」 「ほんとだよ。君のおかげでまだ玄徳様の用も済ませていないんだからね」 孔明の言葉で、花は、自分が目覚めるまで孔明がずっとついてくれていたことを知った。どのくらいの時間かはわからなかったが、それは十分やそこらではないように思えた。 「師匠が、ずっとそばにいてくれたんですか？」 「……他に人はいなかったからね。でも君も目を覚ましたし、ボクはもう行くよ。あとのことはちゃんと頼んでおくから」 「……行っちゃうんですか。もう少しだけ、ここにいてほしいです」 花は自分の素直な願いを口にした。だがそれはあっさりと断られる。 「仕事がたくさんたまっているからね。ボクだってここにいたいのは山々だけど」 「…本当に？」 「本当にって、それはどこにかかるの？」 孔明からは苦笑いが返ってきた。 「仕事がたくさんあるのは本当だよ。君だってよく知っているだろ。……ボクがもっとここにいたいのも本当だよ」 最後だけ花を見るまなざしに優しさが混じる。 「じゃあ、いてください」 だから花はさらに言い募った。そんなふうに言ってくれるならどうして自分を避けているのか。そんな恨みが声にこもってしまう。 「もう少しだけでいいですからそばにいてください。そして、私の手を握っててください。師匠にそうされたらすごく安心できますから」 「安心てね…。こうして話しているから熱が上がってきたんじゃないの？ ほらほら、また少し寝たほうがいいよ」 「師匠！ 私の手を握るのもいやなんですか？ 私のことを避けてるからそれくらいのこともしたくないんですか？ 私のこと、嫌いになっちゃったんですか…？」 寝台から起き上がり、花は孔明に自分の感情をぶつける。言っているうちに感情が昂ぶり、目元が熱くなってきた。 「前は気兼ねなく触ってくれたのに、今は……全然触れてくれないじゃないですか。私のこと避けないでください。師匠にもっと……触ってほしいです」 「――花。君ね……」 はーっと孔明が大きな溜息をつく。 「自分の言ってることわかってる？ 熱のせいでもう自分がなにを言ってるのかわかんなくなっちゃってるんじゃないの？」 「そんなふうに話をごまかさないでください。ちゃんと、わかってます。私は師匠に…っ」 「あー、わかった。わかったからもうそれ以上言わなくていいよ」 孔明が右手を軽く上げて花の言葉を制止した。花は黙って孔明を見つめ、次の言葉を待つ。 孔明はちらりと花を横目で見たあと、再び溜息をついた。 「……まったく、君は…人のことをなんだと思っているのかな」 「それはどういう意味ですか？」 「別に。こっちの話だよ。で、話を戻すけど、気兼ねなく触ってくれたというのは、たとえばどういうときのことを指してるのかな」 「そのままのとおりです。前は肩を叩いたり頭を撫でたり、そんなの普通にしてくれてたじゃないですか」 「手をつないだりとか、そういうこと？」 「そうです」 「で、君はまたボクにそうされたいというわけだね」 「はい」 「……やっぱり熱のせいで普段しない言動をしているとしか思えないけどね。まあいいよ。それならボクも君が忘れてくれるのを期待して話すけど。――花」 もう一度孔明は自分の右手を花に向けてかざす。 「確かにボクは君に触れることを避けている。些細な接触すらもしないようにしているよ。でもそれは君が思ってるような理由じゃない。前は冗談に紛らわせて簡単に触れることができたけど、今はそれができないということだよ」 孔明のまなざしが花を捕らえていた。 かざされていた手がそっと花の頬の近くに伸ばされる。花には触れないまま、その手が花の頬や首をなぞるようにゆっくりと降りていった。 「君に指一本触れるだけで欲がまじる。前のようにそれをうまく隠すこともできないし、一度触れたらどこまで抑えられるかわからない。だから……」 「それでも、いいです」 花は手を伸ばして孔明の手に自分の手を重ねた。その手を握り、そっと自分の左頬に押し当てる。 久しぶりに触れた孔明の熱に、全身にあたたかさが広がる。花はその熱をもっと感じていたくて目を閉じた。 「私は師匠に触れられていると安心します。いつも、どんなときでも、師匠の手に触れられたり、抱きしめられたらすごく安心するし、すごく嬉しいんです」 「……だからほんとにさあ……。君は自分の言動が人に与える影響というものを、もっと学んだほうがいいよ。想う相手に手を握っていてだの触ってだのかわいいことを言われて、図に乗らない男はいないんだよ？ そんな言葉は誘ってると言われても言い訳できないんだからね」 「さ、誘…っ!?」 花は驚き、目を開けて孔明の手から自分の手を離した。 そんな、誘ってなんか――と、慌てて言おうとして、言葉を止めた。 孔明の瞳をまっすぐ見つめて、もう一度口を開く。さして考えることなく出された、一つの疑問。 「誘ったら、のってくれるんですか？」 「――」 自分の手が孔明につかまれたと感じたときには、視界が揺れ、重力が背中にかかっていた。背中に感じる柔らかい感触が寝台のものだと花が認識する前に、自分の身体にのしかかる重みを感じた。 「今のは熱のせいってことにしてあげるけど！ 君は自覚もなく人を煽る癖をどうにかしたほうがいいよ。それと、人を聖人君子かなにかのように思ってるならそれは大きな間違いだからね」 「師――」 匠、と呼びかけることはできなかった。 唇をふさがれていた。目の前の、男によって。 「――!?」 呼吸ができない。左腕を強く掴まれている。押さえ込まれた肩。身体にかかる圧迫感。 自分が今どういう状況にいるか知った途端、花は新たな混乱の中に落とされた。 「！……っ…んっ…」 単に唇を重ねられているだけではなく。 無遠慮に、一方的に与えられる熱に侵される。 無意識に首を振って逃れようとしても、ただ角度を変えられただけで状況は変わらなかった。 「……っ」 花は混乱した頭で自分の上にいる男の腕に手を伸ばした。突き放したいのか、すがりたいのかわからないまま、男の服を強く握りこむ。 花にできたのはそれだけで、あとは与えられる熱に翻弄されるままだった。 「っ…は…ぁっ……」 唇からの熱が頭の中を痺れさせ、身体が甘くざわめく。今まで知らなかった感覚に意識が奪われそうになった。 ――呼吸が楽になり新鮮な酸素を感じられるようになって、花は目を開けた。視界は潤んでいたが、自分にのしかかる重みは消えていた。孔明の服を掴んでいた手がいつの間にかはずされていたことを知る。 「ボクまで熱を出すわけにはいかないから、君にうつされる前にもう行くけど。花、君はちゃんと寝ていること。これは師匠命令だから。いいね」 花の方を振り返ることなく、淡々とした口調でそう言って孔明は部屋を出て行った。 足音が遠ざかってから、孔明が、花のそばにいてほしいという言葉を聞き入れずにさっさと仕事に戻ったことに気づかされた。 今でも、一人になって寂しく思う気持ちもあるが。 （……でも、今師匠がそばにいたら、もっと熱が上がっちゃうかも…） それは確信に近かった。 「うーん、とりあえず少し寝ようかな…」 花は布団をかけなおすと、そのまま眠ることにした。 今はもうなにも考えずに。 深く考えるとまた意識を飛ばしてしまいそうな気がした。 一方花の部屋から離れた場所では、孔明がこの日何度目かの溜息をついていた。 「熱のせい。あれは、どう考えたって熱のせいだから」 目を閉じて、自分に言い聞かせるように呟く。 潤んでいた目も、服を掴んでいたときの震えていた指先も。なにより凶悪な言葉の数々も。 単に熱で浮かされていただけなのだから、それに引きずられることはない。 （だいたい、人が抑えられないって言ってるのに安心するってなに。意味をちゃんと理解したとも思えないし。……まったく、うつされなくてもこっちのほうが熱が出そうだよ） 孔明は思わず頭を押さえる。 ――本当に、人の気も知らないで。 花という熱にほだされて、今にも眩暈を起こしそうだった。 終 |