「熱」の続き






「花ー？　今いいかしら？　食事を持ってきたんだけど」
　花が再び目覚めたとき、ちょうど部屋の扉がノックされた。
　返事を返すとすぐに扉が開き、盆を手にした芙蓉が入ってきた。盆の上には湯気が出ている皿や匙がのっていた。
「どう？　食事できそう？」
「うん。ちょうど起きて、お腹がすいたなって感じてたところ。ありがとう芙蓉姫」
「いいのよこれくらい、大したことじゃないもの。…うん、顔色もいいし、熱も下がったみたいね」
　寝台のそばの卓に盆を置くと、芙蓉は花の顔を覗き込んでほっとしたようにそう言った。
「休んだせいか、身体も楽になった気がするよ」
「そう。じゃあやっぱり、悔しいけどあなたの師匠の言ったとおりにしてよかったみたいね」
「え？」
「あなたが倒れたとき、あなたを休ませたいから自分がいいというまでは誰も花の部屋に近づくなって言ったのよ。心配してるのはみんな同じなのに。玄徳様も例外じゃないなんて、何様かしらとかちんときたものよ。ま、あなたの師匠なら平然と、自分で『師匠様』とでも言いそうだけど」
「そうだったんだ…。あ、もうみんなにも玄徳さんにも、私が熱を出したこと知られちゃってるんだね。お騒がせしましたとあとで謝りに行かないと」
　花は食事をするべく、身を起して卓の上の盆に手を伸ばした。その手伝いをしながら芙蓉が答える。
「謝るなんてそんなのはいいのよ。ただ、確かにちょっと心配はかけたかもね。あなたが倒れたとき、居合わせた人間も何人かいたし」
「……え？　私が倒れたとき、そばには師匠しかいなかったよ？」
　盆にのっていた匙を取った花の手が止まった。倒れたのは孔明の執務室で、あのときあの場には自分と孔明しかいなかったはずだ。
「そうね、倒れたときはね。でもあのとき孔明殿の部屋のそばに翼徳殿がいたみたいで、部屋から出てきたあなたを見て大きな声をあげたのよ。それで私なんかもその声で気づいて…」
「そ、そうだったんだ…。全然知らなかった」
「まああなたはね。孔明殿の腕の中で青い顔して倒れていたし。それで翼徳殿があなたを部屋まで運ぶって言ったんだけど、『その必要はありません』て孔明殿がぴしゃりと言い切ったのよ。そのうえ自分がずっとついてるから誰の手助けもいらないし、自分が許可を出すまではあなたの部屋に誰も近づくなって私たちに言って。それであなたをさっさと連れ去ったのよ」
「……え…」
「今だって、私はいいけど、玄徳様をはじめ他の人は明日までここには出入り禁止なのよ。枕元で騒がしくして、花を疲れさせるからって。じゃあずっとついてた自分はなんだというのかしらね。あのとき私だっていたんだし、部屋まで運ぶことは無理でもそばにいることぐらいできたのに。忙しいあなたの師匠がずっとついてることなかったのよ」
　花は頭の中で孔明としたやりとりを反芻した。
『ここまで私を運んでくれたのって師匠ですか？』
『あの場にはボクしかいなかっただろ』
『師匠が、ずっとそばにいてくれたんですか？』
『……他に人はいなかったからね』
　淡々とそんなふうに答えていた孔明だったが、他に人がいないというのは嘘だったことを知る。他の人間もいたのに、それを断って。
「――っ！」
「結局のところ、単にあなたを独り占めしたかっただけなんでしょうね……って花？　また熱でも出たの？　顔が赤いわよ」
「え、だ、だって……」
「……初耳？」
　軽く息をついた芙蓉が、かすかな笑みを浮かべて問いかける。
「孔明殿はそんなこと全然言ってなかった？」
「う、うん。運ぶのも、そばにいるのも、他に人はいなかったから自分がって…」
「またわかりにくいことをしているのね、あなたの師匠は。あのとき、他の人間なんかまったく寄せつけなかったわよ。誰にも触れさせないって感じだったもの」
　――どうして。
　花の中でそんな疑問が浮かぶ。
　芙蓉の言うように『独り占め』したかったんだろうか。ずっと二人でいたいと思ってくれたんだろうか。
　そしてもし二人でいたいと思ってくれていたなら、それは何故――。
　そこまで考えた花の脳裏に、不意に自分の言葉が思い出された。
『もっと、触ってほしいです』
「――」
『誘ったら、のってくれますか？』
　それから、寝台に倒され、そして。
（――――――――っ！！！！！！）
　唐突に思い出された先程の出来事に、花はそのまま寝台に倒れてしまいそうになった。
　カーッと顔は勿論、全身まで赤くなってしまうんじゃないかと思えた。
（あああああああ、あれって！！！！）
　あのときは深く考えずに寝てしまったが、こうして目覚めて現実を把握し、深く深く考えてみれば。
（あ、あああ、あれって！　あれって！）
　あれは紛れもなく。
「花？」
　芙蓉に呼びかけられてはっとする。そうだ、ここには今芙蓉もいる。芙蓉の顔を見たら先程の出来事の詳細を追及されそうな気がした。今は自分でもうまく考えられないのだから、説明を求められたらさらに混乱して間違いなくまた熱を出すと花は思った。
「え、えっと芙蓉姫、本当に食事をありがとう。せっかくの料理が冷めちゃうから、これからいただくね」
　顔を俯かせ、食事ののった盆を起き上がっている自分の膝に引き寄せる。匙を手に持ち、俯いたまま皿の中の粥を少しずつ食べ始めた。
「あら、ごめんなさい。私と話してたら全然食べられないわよね。またあとでくるから、あなたは焦らずゆっくり食べてて」
「ありがとう」
　花を気遣って部屋を出て行こうとする芙蓉を引き止めることはできなかった。今はとにかく動揺しているこの顔を見られたくはなかった。
「じゃあ、またあとでね」
　芙蓉が部屋を出て行く。扉が閉まった途端、花は盆をまた卓に戻し、寝台にぱったりと倒れた。
「――――――――っ！！！」
　一人になったことで再び一気に先程のことが思い出されてくる。
　あのとき孔明に避けられているのが悲しくて、手をつないでだのいろいろわがままを言った覚えがある。それからいくらかのやりとりをしたあと、寝台の上で。
　重なった唇。与えられた熱さ。ただ数秒触れたなどという軽いものではなく。
　映画やドラマで見たり、話に聞いたことはあっても、それを孔明と自分が本当にしたなんて。
　ただ触れ合っただけのキスだって経験値のない自分は動揺しただろうに、それがその程度ではなくて。
　倒れこんだまま、花は自分の唇を手で覆う。
　ここに、あのときは。
　――孔明の。
（わ〜〜〜っ、待って待って！！！　なに思い出してるの、私は！！！）
　花は慌てて頭を振った。
　口の中には今、食べたばかりの粥の味が残っている。なのにそれを越えて、熱さと……感触が。
（や〜〜〜〜っ、だからだから！！！）
　花は一転してがばっと起き上がると、改めて粥ののった盆を引き寄せ、パクパク食べ始めた。なにも考えないようにして一心に粥を食べ続ける。そうして口の中が料理の味だけに占められれば落ち着けるとでもいうように。
（……芙蓉姫、ごめん…。おいしかったけど、あまり味わって食べてない…）
　食べ終えてから心の中で芙蓉に向けて謝罪する。とにかく自分の中の混乱をどうにかすることで精一杯で、せっかくの料理の味がよくわからなかった。
　盆を卓に戻してから再び横になる。眼を閉じて眠りに逃げようとしても、もう充分休んだ身体は逃がしてはくれなかった。
（ううう……。師匠と明日にはまた顔を合わせるよね。どんな顔して会えばいいのかな…）
　忘れた振りなんて絶対にできない。一目でも顔を見られたら、自分の思考など簡単に伝わってしまうだろう。特にあの聡い人には。
　――ずっと触れてほしかった。たとえ話をしていても、そばにいられても、まったく触れられなくてさみしかった気持ちは変わらない。今も、そう思っている。
　しかし。
（うう……でもあまりにも一気にいろいろ越えすぎですよ師匠……）
　特にここ数日は孔明との接触がまったくなくて、孔明に対する免疫がなかったのに。
　肩を叩くとか、頭を撫でるとか、そんな些細な接触で充分だったのに。
（キス、なんて…。――ああ、本当に私、師匠とキスしちゃったんだ……）
　いまさらながらに実感が押し寄せてくる。花はかすかな吐息をついた。
（……孔明さんと、キスしちゃったんだ……）

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