「幸せ」から続いている一連の話の一つです。




　幻




「なんだか嬉しそうな顔をしてるわね。なにかいいことでもあったの？」
　廊下で通りがかりに会った芙蓉に言われて、花は喜びを認めるようにさらに笑顔を見せた。
「そうなの！　やっぱりわかる？」
「そりゃあわかるわよ。そんなに嬉しそうな顔をしていればね。孔明殿とのこと？」
「えっ、違うよ。別に私が喜ぶのはいつも師匠に関することばかりとは限らないよ」
「そんなこともないわよ。ここ最近の花の嬉しかったことの報告ときたら、十回に九回は孔明殿に関することだもの」
「そ、そんなことないって」
「だって、孔明殿と一緒にお休みが取れたとか、その日に二人で街に行くことになったとか、それがすごく楽しかったとか、昨日は仕事で出かけていた孔明殿が思ったより早く帰ってきたとか、それから……」
「わーっわーっ。詳しく言わなくてもいいよ。とにかく、今は別に師匠とは全然関係のないことで嬉しかったの」
　芙蓉が指を折りながら数えるのを止め、花は言った。そんなに師匠に関することばかり言っていたかなと内心でひそかに反省する。
「なにがあったの？」
「あのね、さっき偶然、武将さんたちが私のことを話しているのを聞いちゃったんだ。私が、最近頼もしくなったとか、軍師らしい風格がでてきたとか！　もちろんまだまだ頼りないところも多いんだけど、そんなふうに言われてすごく嬉しかったんだ。頑張っていることを認めてもらえたみたいで！」
「そう。確かに、ここのところさらに頑張っているし、軍師としての落ち着きも出てきたみたいね。私もだんだん頼もしくなってきたとは感じるわよ。最初に会ったときとは全然違うもの」
「ありがとう芙蓉姫！」
　芙蓉に言われて、さらに花が破顔する。その喜びぶりを見て、芙蓉はかすかに考え込む表情を見せた。
「でも……。――ま、あなたらしいと言えばあなたらしいから、今はそれでいいのかしらね」
「え？　なに芙蓉姫」
「ううんいいのよ。あなたがそれで喜んでいるなら。花らしいわよね」
「え？　その言い方、ちょっと気になるよ。なに？」
　芙蓉の言葉を聞き咎めて花が聞くと、芙蓉からは、
「あのね、どうせ人に褒められるのなら、年頃の女の子としてはきれいになったとか、女らしくなったって言われるほうがもっと嬉しいんじゃないかしらって思っただけよ。でも花なら頑張っていることを認められることのほうが大きいのかもね」
との答えが返ってきた。
「えっ、そんなの…」
　自分がきれいだの女らしいと言われているところを想像して、花は顔を赤くした。そんなふうに褒められてしまったら、照れて恥ずかしくなってしまう。日頃全然思っていないだけに、素直に嬉しいと感じる前に、どう反応すればいいのか戸惑ってしまいそうだ。
　そんな花の心情を見通して芙蓉が笑った。
「だから花らしいんじゃない？って。実際、かわいくはなったけど、女らしいというのとはまたちょっと違う感じがするし」
「う…それって…」
「別にけなしているわけじゃないのよ。うーん、愛らしい？　花はそういう部分では不思議と変わらないのよね。ある意味貴重かもしれないわね」
「芙蓉姫…？」
　そんな、貴重とまで言われてどこがけなしていないのか。そんな意味を込めて言うと、
「だって、花は孔明殿とのことがあっても急激に変わったりしてないでしょ。前にも言ったけど、あなたたちはほんと変わらないんだもの。二人になにかあれば普通はもうちょっと雰囲気が変わるような気もするけど」
芙蓉からはそんな返事が返ってきた。
「花のそばにいていろいろな話を聞いていなかったら、やっぱりあなたたちはただの師匠と弟子なんだと思うわよ。深い関係の男女だったら、もうちょっと親密な雰囲気になりそうなものなのに」
「ふっ、深い関係ってなに!?」
　芙蓉が口にした言葉に驚いて花が声をあげると、芙蓉が逆に不思議そうな顔をした。
「え？」
「……」
「深い関係。だって恋人同士でしょ？」
「そ、そうだけど」
「だったら……ねえ？」
「ねえってなにが!?」
「……」
　そこで芙蓉はあたりを見回した。周りに人がいないことを確かめてから小声で言う。
「だから、もう夜をともに過ごしたことだってあるでしょ？」
「いっ!?」
「そこまでいかなくてもそういう雰囲気になったこととか。それで変わらないのはある意味貴重だなって思うのよ」
「ふっ、芙蓉姫！」
　先程の比ではないくらいに顔を赤く染めた花が、さらに大きな声をあげた。
　その様子を見て芙蓉がきょとんとした顔をする。
「……え？　あら？」
「……っ」
「もしかしてまだ？　なにも？」
「……」
「そういう雰囲気になったことも？」
「……」
「…大事にされているのねえ……」
　しみじみとそう言って、芙蓉が深い溜息をついた。
「な、なにその言い方は」
「花の話にはそういうことはなにも出てこなかったけど、でもそれは恥ずかしくて私には隠されているだけだと思ってたわ。そうよねえ……あなたの性格を考えたら、そんな器用なことができる子じゃなかったものね。じゃあまだまだ親密な雰囲気にならないのも当然なのね。あなたと孔明殿が恋人同士になってからもうしばらく経つし、そういうふうになってもおかしくないと思ってたけど……」
「……」
「あ、それとも孔明殿ってまさか、そういうことに全然興味のない人なのかしら。もしくはもうあの年で……」
「芙蓉姫っ!?」
　不意に考え込んだ芙蓉の言葉に花は慌てる。どこに突っ込んでなにを言えばいいかわからないくらいに頭が混乱してくる。そもそも今はまだ昼日中なのに、なんの話をしているのだか。
「冗談よ。ただ、本当に大事にされているだけだと思うわよ。多分、あなたのことを思って待ってくれているのだと思うわ」
　芙蓉が花に向けて優しく微笑む。
「ごめんなさいね。不躾な話をして。あなたたちのことだし、もう私からはなにも聞かないから」
「――」
　芙蓉の柔らかい口調で話される言葉を聞きながらも、花の脳裏に浮かんだのは別のことだった。
　先程芙蓉が口にした言葉に引っ掛かりを覚えたのだ。
　――“待ってくれている”。
　確かに、普通に考えたらそうかもしれない。自分はまだまだいろいろな面で幼くて、そういう関係に進むにはまだ早いのかもしれない。
　けれど。
　なぜだろう。待たれているという気がしないのは。
　この先、時間さえ過ぎれば自然とそういう関係になっていくという想像が花にはまったくできなかった。
　未知のことだから思い浮かばないというのとは違う。そういう雰囲気になることさえも、遠い別世界の話に思えてしまう。
　自分はちゃんと好きだし、相手に想われているという実感も今ははっきりとある。それでもそういう未来を考えることができなかった。
　好かれている。大事にされている。優しく想われている。
　けれど――求められてはいない。そんな気がした。
「花？」
　呼びかけられて花ははっと現実に立ち戻る。目の前には花の顔を覗き込んだ芙蓉がいた。
「どうしたの？　ぼーっとして」
「ご、ごめんね、話している途中に」
「それはいいんだけど。どうしたの？　大丈夫？」
　花は芙蓉の顔を見上げる。自分の胸のうちにあるもやもやを芙蓉に話してしまおうかと一瞬考えたが、自分でも整理しきれていないことをそのまま話しても心配させるだけだと、その考えを思い直した。
「うん、大丈夫。それより私、頼まれていた用事を思い出したから行くね。ごめんね」
　言いつけられた用事など今はなかったが、それを理由に花は芙蓉とわかれた。頭の中がぐちゃぐちゃで、自分ひとりで整理してみたかった。
　今、不意に気づいてしまったこと。
　自分たちは本当に恋人同士で、親密な言葉を幾度も交わし、確かな繋がりを築いてきたはずなのに。何故かその繋がりが、急に細く頼りないもののように感じられた。



　花は芙蓉とわかれたあと、自室に戻った。
　そして寝台の上で、今までのことを思い返しながら、頭の中を整理してみようとする。
（待って待って。ちゃんと落ち着いて考えてみなきゃ……）
　このまま自分の考えが暴走してしまったら、どんどん怖い考えになってしまいそうで、花は動揺する自分の心を必死に宥めた。幾度か深呼吸を繰り返し、どうにか落ち着こうとする。それでも頭のどこかで痛みにも似た疼きが起こり、それはなかなか引かなかった。
　自分が孔明と、芙蓉が言った一夜をともにするような関係になる――もう一度そんな二人を頭の中に描いてみようとするが、やはりまったく浮かんでこなかった。恥ずかしいと思う以前に、自分たちにはそんな雰囲気がまったくないのだということに気づかされる。自分が精神面でも幼くて、そんな想像もしていなかったし、そういう雰囲気になろうとも考えていなかったというのはある。自分にとっての恋愛といえば、現代の高校生の恋愛のイメージで、普通にデートを繰り返すだけで充分満たされるものなのだから。
　けれど自分たちにそういう雰囲気がないのは自分の側だけの理由だろうかと考えて、すぐに否という答えが浮かんだ。孔明の側にも、そういう要素はまったくなかった。恋人同士であり、気持ちはちゃんと通じ合っているが、ある部分今までの関係と変わりがない。芙蓉が、自分たちを変わらないと言い続けていたように。
（…ううん、違う…。それでも、ちゃんと少しずつ変わってきてたよ。師匠の気持ちも感じられたし、ただの師匠と弟子だったときとは全然違ってたよ）
　花は自分の考えに首を振った。
　いくら怖い考えに傾きかけているからといって、そこからはずれる要素をすべて切り捨てたらだめだと思った。これまで起こった数々の出来事に、自分はそのたびに本当に幸せを感じていたのだから。
　――以前は、ずっと不安を抱いていた。この世界に残ることを決めたあとも、孔明はそれまでと変わらず、あまり自分の気持ちを見せてくれなかった。そのうえ一時は、まったく触れることすらしなくなったのだ。そのときは想いが通じ合っていることすら不安になった。だがそれが、そのあとに重ねる日々の中でだんだん薄れてきたのだ。
　それに。
　花は以前のことを思い出す。
　そういえば一度だけ、“そういう雰囲気”を感じたことがあった。
『誘ったら、のってくれるんですか？』
『――』
『師――！……っ…んっ…』
　孔明とかわした一度目のくちづけは、思いのほか激しいもので。
　またそのあとには。
『し、師匠？』
『ボクに、もっと触ってほしいって言ったよね。なら、かまわないだろ』
『し、師匠。だって、私に触ったら、よ、く、が……』
『あ、覚えてた？　それはなによりだね。――で、触れてていいんだよね？』
　孔明の言う“欲”がまじった触れ合い。あのとき確かに、花はそれを感じた。そしてそのあとの孔明の口ぶりでは、今後もそういうことがあると匂わせていたのだ。
　けれど実際にはそのとき以降、どんな触れ合いをしてもくちづけをかわしても、あんな雰囲気になったことは一度もなかった。まるで初めからあのときのような触れ合いはまったくなかったとでもいうように。
　幼いから、だろうか。自分が幼いから孔明はそんな気にならないのだろうか。
　その可能性は大いにあると花は思う。
　どう見ても自分が女としての魅力にあふれた人間でないことはよくわかっていた。身体面でも精神面でも成熟した女性の魅力には程遠い。だから孔明は幼い自分にはそういう魅力を感じないのかもしれない。
　もしくは、こんなふうに考えること自体が気のせいかもしれない。ただ自分が暴走して思い込んでしまっているだけで、すべては勘違いという可能性も否定できない。相手から確かな気持ちをもらっているのに心を疑うことは、一種の裏切り行為じゃないかとも思う。もしすべてが気のせいでただ待ってくれているだけだとしたら、その優しい気持ちを無にしてしまっていることになるのだ。
　――でも、直感が告げる。
　この感覚はあのときに似ている。
　いらない、君には関係ないと突き放されたときの感覚に。
　確かに心は受け取っているのに、やはりどこかで見えない線を引かれているように感じた。
　そして花はふと思う。
　孔明の本質は以前とほとんど変わっていないんじゃないかということに。好きだって言っても、好きだと言ってくれていても。
　自分を想ってくれていながらも、それを完全に隠し通し、元の世界に帰そうとした以前。恋人でありながらも、避けるように自分に触れなかった以前。今は気持ちを伝えてくれるし、触れてくれるけれど、それでもその本質は変わっていないとしたら。
（……そういえば…）
　花は少し前に、引っ掛かりを覚えた孔明の言葉を思い出す。
『でもそうだね……ずっと。初々しい君の姿で楽しめるといいね』
　あのときはなにに引っ掛かりを覚えたかわからなかった。ただ漠然となにかを感じただけだった。
　だけど今なら、その引っ掛かりの原因がつかめそうな気がした。
『……それって、私が変わっちゃうってことですか？』
『違うよ。本当に君はいつまでも君のままだと思うよ』
『じゃあ…』
『ただ、普通に君のかわいい反応を楽しみたいっていう気持ちを口にしただけだけど。なに？　ボクはなにかおかしいことでも言ってた？　それともこんな言い方はいやだった？』
『いえ…』
　孔明の望み。自分が変わることはないだろうと保障した言葉。
　では彼はなにを望んでいる？
　――“ずっと”？
　もしかして彼は、ずっととは思っていないのだろうか。
（――っ！）
　指先から、体が冷たくなるような感覚がした。全身から血の気が引いてくる。
　それは、自分たちが離れる可能性、もしくはわかれる可能性を考えているということだ。いつか終わりがくると思っているから、あんなふうに言ったとしたら。
　執務室で一緒に仕事をしているときも。休みの日に街に行ったときも。二人でたわいのないやりとりをしながらゆっくり過ごしているときも。常に孔明の頭の中には二人の終わりの可能性があるとしたら。
　全身が震えだしてしまいそうだった。花は無意識に自分の体を抱きしめる。
　自分がここに残る決意をし、本が消えた。もう元の世界に帰ることはない。だからこれから先、孔明とずっと一緒にいられると花は当たり前のように思っていた。
　でも孔明のほうはそうは思っていなかったかもしれないのだ。――もしかすると初めから。
「……っ！」
　それは花にとって、とてつもない恐怖だった。
　そしてまたそれがありうると思ってしまったことがとてつもなく悲しかった。ここで、そんなことは絶対にないと強く否定できればよかった。けれど花はもう知っている。自分を想ってくれながらも、ずっと自分を帰すことを考えていたその人のことを。
『約束、してください』
『わかったよ』
『じゃあ約束ですよ』
『うん』
『……よかった』
「――っ…」
　花の頬を涙が伝い落ちた。
　二人で交わした新しい約束。手を繋いで一緒に楽しんだにぎやかな街。
『……孔明さん』
『なに？』
『大好きです！』
『知ってるよ』
　二人で過ごした時間の数々が、ひどく儚い幻のように思えた。



　ひとしきり泣いてしまってから、花は涙を手でぬぐった。
　頭の中を整理しようと思いながらも、自分のことなのにまったく整理できなかった。まだ頭の中がごちゃごちゃしていて、いろんな考えがあふれていた。
　孔明は、終わりの可能性を考えているから、自分にさらに深く触れようとはしないのだろうか。
　それとも別の理由があるのだろうか。
　そもそも、こう考えること自体が自分の暴走だという可能性もあるのだ。初めから全部が自分の勘違いで、彼はまったくそんなことを考えてはいない――その考えにすがってしまいたい気持ちもある。
　自分一人でこのまま考えていても、不安が増すばかりだと花は思った。考え続けていても答えが見えてくるわけじゃない。はっきりさせるためには、やはり孔明の元に行くのが一番だと思った。
　彼がなにを考えているのか知りたい。今抱いている不安をなくし、安心させてほしい。
　そしてその気持ち以上に――会いたい、と強く思った。会って、言葉を交わして、抱きしめてもらえたら。それだけで今ある悲しみは薄れていくに違いなかった。
　そして花は決意する。夜に、孔明の部屋を訪れることを。そうすれば孔明の気持ちははっきりするだろうと思った。
　単なる杞憂かもしれない。あるいはやはり、自分が幼いからかもしれない。
　でも花は、そうでない答えが出たときのほうが怖かった。
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