夜。食事もとうに終わり、大半の人間が部屋で休もうとする時間になって、花は自室を離れた。深夜には至らなくとももうだいぶ夜もふけり、部屋の外はとても静かだった。無論、夜番の兵士はどこかにいるのだろうが、花が見回す限りあたりに人の影はない。そんな中を歩き、花は孔明の部屋を目指す。
　なにをしているんだろうという自覚はある。こんな時刻に一人で孔明の部屋に行くなんて、すごく愚かなことをしているんじゃないかと、部屋を出る直前はしばらく足が止まっていた。けれどやはり、自分の中にある不安を解消するには、孔明の元に向かうしかないとの結論に達したのだ。自分の部屋を出てからは誰にも会わないようにと足取りは慎重だったが、もう花に迷いはなかった。
　いくら恋人とはいえ突然の夜の訪問を、手放しで喜んでくれる人だとは、花も思ってはいなかった。それでもどうしても会いたかったからと言えば、受け入れてくれるのじゃないかと考えた。あるいは部屋に戻りなさいと言われたとしても、そこで顔を見て言葉を交わせば、今の自分が抱えているもやもやになんらかの答えが見つかりそうな気がした。
　孔明の部屋の前に辿りつき、扉を叩いてみる。一度目は返事がなく、二度目は扉を叩いたあと小さく、「あの、師匠…。花です」と中に向けて呼びかけてみた。
「すみません。夜に突然…」
　それでも返事はなく、花はもう一度扉を叩いてみようと手を動かそうとした。
　そのとき、
「……花？」
扉のそばで孔明の声がした。
「師匠」
「なに？　どうしたのこんな時間に」
「あの、すみません。私、師匠に話があってきました。中に、入れてもらえますか？」
「……」
「…師匠？」
「話って、急用？　仕事の話？」
「仕事の話ではないですけど、今、師匠と話をしたいんです」
　扉にすがるように手を置き、中に向けて話す。先程から扉を挟んで孔明の存在は感じられるのだが、扉が開く気配はなかった。
「師匠」
「……なにを話したいのかは知らないけど。もう遅いんだから部屋に帰りなさい」
「師匠！」
「話なら明日時間をとってちゃんと聞くから。もう人を訪ねるような時間じゃないだろ」
「それはわかってます。でもどうしても今話したいんです」
「花。ボクももう寝ようとしていたところだったし、聞き分けなさい」
「それは…できません。今、師匠と会って話がしたいんです。どうしても今じゃなきゃだめなんです。お願いします師匠。ここを開けてください」
「……」
　ややして扉が開いた。そして扉の間から憮然とした表情の孔明が見えた。
「師匠……」
　それでも扉はそれ以上開かれようとはしなかった。花はその隙間に手をかけたが、孔明が押さえているのか開けることはかなわなかった。
「突然来てすみません」
「ほんとだよ」
「中に、入れてくれますか？」
「それはだめ。話ってなに」
「……」
「ここで話せないというなら、ボクも聞けないよ。また明日以降にすべきだね」
　孔明の態度は頑なだった。その顔を見ても冷たい拒絶の色がある。淡々とした口調なだけに取り付く島がなかった。
　花は黙ったまま俯く。
「国の大事というわけでもないのにこんな時間に人の部屋に来て。ボクはきみにもっと常識的なことも教えるべきだったかな」
「……」
「もういいから戻りなさい。送らないけど、気をつけて部屋に……」
「……会いたいと、思ってはいけませんか」
「――」
「好きな人に会いたくて、どうしても話がしたかったと、思っちゃいけませんか。孔明さんに、会いたかったんです」
　想いを込めて孔明を見つめる。孔明はいくらか驚いたようだった。
　花は体当たりするように扉を押し開け、そのまま孔明に抱きついた。
「……花…」
　花の耳に、孔明が溜息をついたのが聞こえた。呆れられてしまっただろうか。すぐに叱られるのだろうか。そんな不安がよぎったが、花の体は突き放されなかった。背中に、優しい手を感じた。宥めるように。
「……本当に、どうしたの。なにかあった？」
　花は返事の代わりに孔明に抱きつく腕の力を強くした。
「わかったよ。ちゃんと話を聞くから、まずは離れて」
「……」
　花はすぐに孔明から離れる気にはならなかった。
　孔明はちゃんと話を聞くと言ってくれた。その声は優しく、背中に触れている手もあたたかい。今の孔明からは、自分を受け入れてくれている気持ちが伝わってきた。
　それでも花は離れられなかった。
「花」
　離れて、それから孔明の部屋の中に入って。思っていることを話して、それでどうなるのだろうという気持ちがだんだんとわきあがってきた。
　孔明は確かに話を聞いてくれるだろうが、ただこの場で話すだけでは根本的なことは何も解決しないように思えた。
　会いたかったし、顔を見たかったし、言葉を交わしたかった。そうすれば自分が持っている不安が少しでも薄れるような気がした。
　けれどこの訪問をはじめ、頑なに拒んでいた孔明の態度や、背中に触れてはくれても自分を抱きしめ返さない腕が、もう答えを示しているように思えた。
　おそらく話を聞いてくれても本当にそれだけで、それ以上のことはなにも起こらないだろうというのがわかる。
　孔明は――目の前にいる人はちゃんと自分に気持ちを向けてくれてこんなに優しく接してくれているのに、花はそれだけでは安心できない自分に悲しみを覚えた。
　そんなことを考える自分がひどい人間のように思える。けれどやっぱり感じてしまうのだ、自分と孔明との間にある見えない線を。
「花……。とにかく中に入って」
　孔明は再び溜息をつくと、花を部屋の中に促した。自分から離れない花を、そのまま自室に誘導する。
　扉を閉めてから、孔明はもう一度「どうしたの？」と聞いてきた。
「なんだかものすごく思いつめているみたいだけど。なにかあったのならちゃんと言わないとわからないよ。全部、聞くから。今思ってることをそのまま出してしまいなさい」
　孔明に促され、花は孔明に抱きついたまま顔を上げずに小さな声で言った。
「……師匠。今、私の頭の中、すごくぐちゃぐちゃなんです……」
「うん、わかるよ。それで？」
「師匠が優しいのに、私を受け入れてくれているのに、それじゃあ足りなくて、すごくすごく不安なんです……」
「……」
「だから、師匠…」
　花は孔明にはっきりと自分の気持ちが伝わるように、他の意味にとられないようにと、声に力を込めて言った。
「師匠を、誘ってもいいですか？」
→