その言葉を発したとき、孔明の返事はすぐに返ってこなかった。 そのことで、花は自分の言葉の意味がちゃんと孔明に伝わったことを知る。孔明は花に、その言葉の意味を問い返したりはしなかったのだ。 ――ややして。 「花。そういうのは思いつきで言うことじゃないよ」 孔明からは淡々とした声が返ってきた。 「思いつきじゃありません」 「じゃあまた具合が悪くなった？ 熱があるときの君の言葉は突拍子もないからねえ」 「熱もありません。元気です！」 「んー、まあどっちにしてもボクの返事はだめ、ってことになるんだけどね。君はいいですかと質問した。それに対するボクの答えはだめ。じゃあ、そういうことだから」 「し、師匠に拒否する権利はありません」 「えー？ だって今ボクに確認を求めたよね？ じゃあそれを受け入れない選択もありなんじゃないの」 「だからっ……師匠…」 勢い込んで返事をしようとして花は思いとどまる。ここでこんなやりとりを続けていたら、間違いなくそのまま宥められて帰されることに気づいたからだ。この部屋を訪れた決意も薄れてしまうような、日常めいたやりとり。 そんなふうにしてこの人は、この場を流そうとしている。 「茶化さないでください。……ひどいです」 顔を上げて孔明の顔を恨みがましげに見つめる。勿論抱きついたままの腕は解かなかった。ここで離れてしまえば本当に体よく部屋を追い出されそうな気がした。 「この場合ひどいのは一体……まあいいや。それでもう一度聞くけど、なにをそんなに思いつめてるの。…不安って言ったね。なにが不安？」 孔明の右手が花の頬に触れた。そのまま優しく頬を撫でられる。普段ならこの人は滅多にこんなことはしない。だからこそこの手のあたたかさに慰められそうになるけれど、それでも花は自分が根本的に持っている不安を忘れることはできなかった。ごまかされず、流されずに、その不安を解消すべく口を開く。 「……私と師匠はお互いを想っている…本当に、ちゃんとした恋人同士ですよね。だったらそう望んでしまうのも、自然なことですよね」 「そう言う花の言動が不自然なことは、自分でも気づいてる？」 「それはつまり、私らしくないってことですか？」 「そうだよ。あまりにも突飛だし、あまりにも花らしくない」 「もしそうだとしても、その私らしくない言動をさせているのは師匠です」 「――」 「私たちは恋人同士ですよね？ ちゃんと想い合っているんですよね？ それともそれは私の独りよがりな思い込みですか？」 「そんなことはないよ」 「だったら…っ」 花は孔明を見上げ、必死な目で訴えた。 ここで触れられたら、自分は安心できる。逆を言えばここでなにもなく帰されたら、それは孔明の拒絶だと思った。本当には相手にされていない。自分を心の底からは受け入れていない。いつか別れる可能性を考えているからこそ、そこまでの繋がりを持とうとはしない――そう思えたのだ。 「……君は、こんな時間に男の部屋に来てそんな言葉を口にすることの意味を、本当にわかってる？」 どこか痛みをこらえるような表情で孔明が聞いた。 「わかってます」 花はその問いにはっきりと答えた。 「それは本当に覚悟もしてるってこと？」 「してます！」 「そう……」 孔明は花の頬に触れていた手を下ろすと、両手で花を抱き寄せた。それから深い溜息をつく。 「師、しょ――!?」 そのあとで花は強い力で孔明に抱きしめられた。 今までされたことのないほどの力で抱きしめられ、花は驚く。 そして何故か、花にはその腕が震えているように感じられた。 「…師匠…？」 孔明の名を呼ぶと、花を抱きしめる腕からわずかに力が抜けた。そして孔明の手が再び花の頬に触れた――と花が感じたときには、唇が孔明によってふさがれていた。 「――」 触れてすぐに角度がかわり唇を軽く舐められた。驚いた花が思わずわずかに口を開くと、そこにするりと舌を滑り込ませられて。 「……!?」 すぐに深く重なるくちづけに、花は孔明の熱を感じた。はじめは窺うように絡んできたそれが、だんだんと性急で遠慮のないものになっていく。 こんなくちづけを孔明と交わすのは二度目だったが、以前は驚きしかなかったものが、今は分け与えられる熱さや動きまでもが花にはっきりと伝わってきた。 「んっ…」 自分の吐息が熱くなっているのを感じる。わずかに離れた距離が再び噛みつくように捕らえられる。孔明の腕はいつしか背中に回り、花をしっかりと囲んでいた。 深いくちづけにめまいを起こしそうになる。自分が孔明とこんなくちづけを交わしているなんて、実際にそうしている今でさえ信じられなかった。 ときおり耳を侵す濡れた音に、だが羞恥を感じる余裕はなかった。 「んっ…ふ…」 このくちづけだけで翻弄されそうになるけれど、望んだのは自分なのだ。孔明とのこの先を。 だから花は縋りつくように、受け入れている証しのように孔明の服を強くつかんだ。 くちづけを交わしながら孔明の手が花の背中を滑る。ゆっくりした動きだったが、そこに先程宥めてくれた穏やかさはなかった。花の服を辿り下りてきた指先に、花は男の手だと感じた。以前孔明が言った欲をまとった手が背中から腰へと移る。 「――っ」 その手を意識したとき、どきりとした。これからなにが起こるのか実感がわいてくる。 これから、本当に。 「――花。こっち」 くちづけのあと、花は孔明に手を引かれた。 「え、あ……」 部屋の奥、寝台のある方へと。 繋がれた手は熱く、引く力は強かった。花の視界に映ったのは初めて見る孔明の寝台と振り返らない背中だった。 ――寝台。 ここに自分がこの部屋を訪れた意味がある。 「花」 さらに手を引かれ、寝台に乗るように促される。一瞬足が止まってしまったのは、無意識だった。 花が寝台の端に腰を下ろすと、孔明が優しく花を押し倒した。それから花の足も寝台に乗せられる。そのあとで花の顔に孔明の影がかかり、再びくちづけられた。 軽いくちづけとともに孔明の手が花のリボンにかかり、するりとほどかれる。 「……っ」 襟元が開かれる感覚を感じたときには、孔明の唇がそこに落とされていた。そして体に男の重みがかかる。 「――」 花は改めて本当にと実感する。今から本当に、この場所で。 孔明の体に触れるという考えはまったく浮かばなかった。その背中に手を回すなんてことはできない。 花はただはやる鼓動が外に漏れないようにと願いながら目を閉じていた。 さらに胸元が開かれ、服の上からゆっくりと体のラインを辿られる。孔明の指先からじわじわと感じる今までにない感覚をやりすごすように、花はよりいっそう目を閉じた。 「……鼓動が早い。震えてる？ ……怖い？」 孔明に問われて目を開けると、間近でじっと見下ろされていた。花はすぐに強くかぶりを振る。 「そう……」 再び身を伏せた孔明の手が次に触れたのは花の足だった。スカートの裾の下からそっと、内側に向けて滑る指。 「――っ」 わずかながら、花の体が反射的に震えた。今まで膝枕はしたことがあったが、そのときはこんなふうに触れられたことはなかった。あとほんの少しで、他人に触れさせたことのないところにその手を受け入れることになるのだ。 「……花、やめよう」 だが、孔明の手はその先に触れなかった。そう言って、花から身を起こす。 その声に、花はすぐに孔明の顔を見た。 「強がって無理することじゃない」 「無理なんかしてませんっ」 「でも震えてるし、体が固くなってる。まだ本当には心の準備がされてないってことだよ」 「そりゃあ初めてのことなんですから、緊張して体が固くなったりもします。でも心の準備なら充分してます！」 花は自分も起き上がり、孔明に訴えた。 「花……」 孔明は花の額に手を伸ばした。撫でるように、その前髪に触れる。 「なにを焦っているのか知らないけど、そんなふうに無理してことを為しても意味がないだろ。ボクだって、花に無理を強いたくない」 「だから、無理なんかじゃっ」 「花。ボクは待てるから」 「――」 「花の気持ちが本当にそこに辿りつくまで待っているから。だから今は意地を張らないこと。こんなことは別に急ぐことじゃない」 「……本当に気持ちがそこにないのは…そう望んでいないのは、師匠のほうじゃないですか……」 ゆるく首を振りながら花が呟いた。 「待つってなにをですか？ 私の心がもっと成長するのを？ それとも……私の気が変わるのを？」 「……」 「師匠は今日に限らず、初めから私になにかをする気なんてないんじゃないんですか？」 「それは花の思い込みだよ」 「……私の心も体もまだ幼くて、私自身の覚悟が本当には足りてないのかもしれません。でもそれを待っていることを、逃げる口実にしないでください」 「――」 花のその言葉に対する返事はなかった。あえて逃げるという言葉を使った花に否定は返ってこなかった。花は、この人はそれを自覚しているのだと感じ、目元が熱くなった。 「……師匠は私がずっと触れないでって言ったら本当にそうするのでしょう？ 私が、今までいたところに帰りたいって言ったら、その手をあっさりと離すのでしょう？ 今すぐにでも」 「――うん、そうだね」 「……っ」 「君が望むのなら、ボクは今でもそうするよ」 「――どうして…」 ほとんど反射的に花は呟いていた。孔明に対して明確な問いがあったわけではなかった。 ただ頭の中を占めるさまざまなことに対する疑問や悲しみが押し寄せて、その言葉を呟かせた。 「初めから、君が許してくれるだけそばにいてほしいと望んでいたから。だから、君が望むのならボクに否やはないよ」 孔明の目に迷いや罪悪感が浮かんでいない事実が花の胸に突き刺さる。そうして、やはりこの人の本質はなにも変わっていないのだと知らされた。 なにも変わっていない。あのとき、自分はちゃんと好きだと伝えたのに。そのあとも繰り返し、そばにいたい、ずっと一緒にいたいと伝え続けてきたのに。 そして花は不意に気づかされた。以前、花のことをここにいない人間だとずっと思っていたという孔明。孔明の中では、自分は今もまだ同様の存在なのだ。本当にここにいる人間ではなくて、いつか消えてもおかしくない、幻のような存在だということに。 自分は幻でも夢でもなんでもなく、確かにここにいるのに。そんなふうに思われているのなら、ここにある自分の気持ちはどこにぶつければいいのだろう。 「…師匠にとっては私は今もまだ、ここにいない人間も同様なんですね。師匠の目に本当には見えていなくて、触れられることもなくて。いつか消えてなくなる存在としか思われていないんですね。……もう、本は消えて、私はちゃんとここにいるのに……」 「……帰る方法は永遠に失われたわけじゃないかもしれない」 孔明が目を伏せて言った。 「――！」 「あのときの本が唯一のものとは限らない。突然消えたようにまた現れる可能性がなくもない。それに本がなくてもあの不思議な現象がまた起こる可能性もある。だから、この先も君が望めば帰れるかもしれない」 「――師匠は……そんなに私を帰したいんですか!? だったらいいです、帰ります。そんなに帰ってほしいなら、師匠を恨んで恨んで泣きながら帰りますからっ！」 そう言うと、花は孔明に背を向けた。そのまま走り出して孔明の部屋を飛び出す。 後ろから、自分を呼び止める声も、足音もしないことは頭のどこかでわかっていた。 わかっていたけれど、それはやはり花の涙をあふれさせるほど悲しかった。 終 |