(刻印２　時間が少し戻ります)　





『……帰る方法は永遠に失われたわけじゃないかもしれない。あのときの本が唯一のものとは限らない。突然消えたようにまた現れる可能性がなくもない。それに本がなくてもあの不思議な現象がまた起こる可能性もある。だから、この先も君が望めば帰れるかもしれない』
　想いが通じて、少しずつ一緒にいられる幸せを噛み締めていたときだったのに。この地に残ったことに今もって後悔はなく、この先ずっとここで暮らしていくんだと実感してきていたときだったのに。
　帰りたくないと願った唯一の理由であるその人が、淡々とそんなことを口にした。
　今もまだこの人は自分が帰る可能性を考えている。それを知らされたときには一気にいろんな感情が湧き上がってきて、だったら帰りますという宣言とともにその部屋を離れた。
　自分の部屋に帰ってきたときにはもう人に見せられないくらい涙でぼろぼろの顔になっていて、そのまま寝台に倒れこんで朝まで泣いた。悲しさとともに悔しさとか憤りとか虚しさとか、自分でもわからないさまざまな感情に押し流されて、次の日のことなどなにも考えられなくて、とにかくわあわあ泣き尽くした。
　朝になっても部屋に呼びにくる声はなく、花はならばこのまま部屋にいようと、寝台に横になってぼんやりと天井を見つめていた。昨夜のことを振り返ればまた自然と涙は出てきたけれど、それでもだんだんと孔明の部屋を飛び出したときの激情は引いてきていた。
　孔明を責めるようなことも言ったけれど、結局、自分にそれだけの魅力がなく、また孔明に自分の気持ちを信じ込ませることができなかったというだけなのだ、と花は思う。いつか帰ってもいい存在。思いがけなく出会って、ちょっと気持ちを通わせたからしばらくそれにつきあっているだけの、そんな相手。本心から選んで、ずっと側に置いておきたいとは思えないぐらいのちっぽけな人間。
　本当にそんなふうには思いたくないけれど、これまで自分に向けられた言葉や優しい表情がそうではないと否定するけれど、でも帰っても困らない存在だと思われているんじゃないかという不安はずっと拭いきれなかった。
　だったら、いっそのこと。
「……帰ってたほうがよかったのかな……」
　自分で呟いて、また涙がこぼれる。
　孔明のことを思えば、孔明が本を開いたあのときにそのまま帰ってしまえばよかったのかもしれない。そうすれば自分と一切の繋がりがなくなって、彼は安堵したかもしれない。
　無理やり帰されなくてよかったと確かに思ったはずなのに、今は自分に自信がなくてそんなことを考えている。わかっている。彼の中に自分への気持ちがまったくないわけじゃない。今までの行動からもちゃんと理解はしているけれど、それでも結局本当には選び取られていないのだ。
「……このままここで消えてしまえばいいのかな……」
　両腕で目元を覆って呟く。このまま自分という存在が跡形もなく消えてしまったら、彼はどう思うだろう。
　元のところに帰ったと思い、安心するのだろうか。それとも突然いなくなったことを少しでも心配してくれるだろうか――。




　そのあと花はいつしか寝てしまい、しばらくたって芙蓉に叩き起こされた。
　芙蓉はずっと部屋にこもっていて、まったく食事をとる様子もない花を心配して来てくれたのだ。芙蓉は花の顔を見て、「原因は孔明殿ね」と言い当てた。花が違うと否定しても、「ここ最近の花の落ち込みの理由は、十回に十回は孔明殿に関することだもの」と、いつかの言葉と似たようなことを言われた。
「このまえ不躾な話をしてしまったから、もう私からはなにも聞かないからと言ったけど、こうなったら話は別よ。花のこの泣きはらした顔の理由はなんなの。勿論嘘やごまかしは許さないわよ」
　芙蓉にそう詰め寄られ、花は仕方なくかいつまんで昨夜の出来事を芙蓉に話した。
「それで…ちょっと落ち込んじゃって、食欲もわかなくて。もう少ししたらまた食べられるようになるから。心配してくれてありがとう。……ごめんね」
「別にあなたに謝ってもらう理由はないわよ。でも本当になにも食べないのは体に悪いわ。あとでなにか持ってくるから」
「い、いいよいいよ。芙蓉姫にそこまでしてもらわなくて大丈夫。別に病気ってわけじゃないんだし、おなかがすいたら自分から動くよ。……師匠のことも大丈夫、もう少しだけ一人で考えてみたいんだ」
「なにも食べないでいたら本当に病気になるわよ。……今は花の意思を尊重するけど、今度くるときにはちゃんと目の前で食べてもらうからね」
「うん、わかった」
「それにしても……昨夜から、孔明殿はあなたのところに全然顔も出してないんでしょ」
「……うん」
「普通、そういうときには引き止めてもう一度ちゃんと話をするべきじゃない？　もしそのときは気持ち的に冷静でいられなかったとしても、一晩おいたら駆けつけて顔を見て話すべきよね。孔明殿はそのどちらもしないんだもの。どういうつもりかしら。今日だって普通に仕事をしていたわよ」
　仕事をしていたという芙蓉の言葉に胸が痛んだが、それでも孔明らしいとの思いも浮かんだ。おそらく周囲にはいつもと変わりなく仕事をしているように見えていることだろう。実際、孔明にとっては昨夜のことなどとるにたらないことかもしれない。
「………今は…師匠と離れていたいから、これでいいんだよ。今の顔を見られたくないし、なにを話していいか整理もついてないし…」
「花……。まったく…花が自分の故郷に帰る気がないことは見ていればわかることなのにね。どうして孔明殿はいつか花が故郷に帰るかもしれないなんて考えたのかしら」
「それは……」
　花の中でいくつか推測が浮かんだが、要するに帰ってもかまわない存在なんだろうという思いに集約されていった。
「…芙蓉姫、私……本当に故郷に帰ったほうがいいのかな。師匠はそのほうが安心してくれるのかな…」
「馬鹿ね…。私としては孔明殿なんて見限って、花が花の故郷でもっといい人を見つけるのもいいとは思うけど、でもそんな顔で言うことじゃないと思うわよ。そのときには堂々と、花から孔明殿を捨てて故郷に手を振って喜んで帰るくらいの気持ちがなくっちゃね」
　芙蓉の言葉に、花は自分が孔明を足蹴にしてうきうき気分で帰る姿を思い浮かべて、かすかな笑みがこぼれた。
「元気出しなさいよ。あなたは悪くないんだから。ただ孔明殿が情けないだけなのよ」
「ありがとう芙蓉姫…」
　花は自分を元気づけようとする芙蓉に感謝する。勿論芙蓉の言葉通りに考えることはできなかったが、その気持ちが嬉しかった。



　その日はそのまま帰った芙蓉だったが、翌日、次に部屋を訪れたときには花のためのあたたかな食事を携えていた。
「結局、昨日はあのあとも全然っ食べてないんでしょ？　いい加減、今日は食べてもらいますからね」
「芙蓉姫…」
「なあに？　まだ食欲がわかないとか言うの？」
「うん…。あまり…おなかがすいてないんだ」
「なに言ってるのよ!?　あなた全然食事を取ってないんだからそんなわけないでしょ。おなかがすきすぎて体の感覚がおかしくなっているだけなのよ。それに昨日、ちゃんと約束したわよね？　今日こそ私の目の前でしっかり食べてもらうわよ！」
　寝台に座っている花の目の前に、盆にのせられた食事が渡された。それは湯気が立っていていい匂いもしてきたが、花の食欲を刺激するまでには至らなかった。昨晩も今朝もぼんやりと考え事ばかりしていて、食事をしたいという気がわかなかった。
　ただ、こんな自分のためにわざわざ食事を作って持ってきてくれた芙蓉には悪いとの気持ちが浮かぶ。
「わかったよ芙蓉姫。とてもおいしそうだし、少しいただくね。わざわざありがとう」
「……花、ちょっと口をつけて終わりにしようなんて考えていないわよね？　私にありがとうと言うくらいなら、ちゃんと全部食べてもらうわよ。もともとそんなに多くないし、軟らかく煮てあるし、全部食べたところであなたの負担にはならないんだもの」
「そ、そうだね。多分全部食べられる…かな」
「多分、じゃ許さないわよ。全部食べきれなかったら私とあなたの縁は今後一切ないものと思ってちょうだい。もう話もしないし顔を合わせることもないでしょうね」
「ふ、芙蓉姫、そんな……。えっと、じゃあ、いただきます…」
　芙蓉のその言葉は、それだけ自分のことを心配しているからなのだと花もよくわかっていた。芙蓉にそこまで言わせてしまったことをすまないと思う。本当に胸がいっぱいで空腹を感じていなかったが、それでもそこまで言って自分に食事を取らせようとする芙蓉のためにも、花は食べることにした。
　芙蓉の作った食事はやはりおいしくて、花は無理なく、すべて食べきることができた。
「これで少しは栄養を取れたわね。まったくもう…心配かけないで」
　食べ終えた花の頬に手を滑らし、芙蓉が苦く笑う。
「今日は昨日よりも顔色も悪くなってたし、食べないでいたら本当に倒れるところよ」
「……心配かけてごめんなさい…」
「ほんとに…。もしかしてあなた、孔明殿が来るまで食事を取らないつもりだったのかしら。でもいくら孔明殿に怒っていても、そんな方法は――」
「え？」
「……孔明殿への抗議で食事を取らなかったんじゃないの？」
「ええっ!?　そんなつもりは全然ないよ。ただ本当におなかがすいてなかっただけで…」
「…そうね。人のいいあなただものね。そんなあてつけみたいなこと思いつくはずもないわよね。でも――」
「…芙蓉姫？　なに…？」
　なにかを思いついたとばかりににこやかに笑った芙蓉に、花はいやな予感をかき立てられた。
「あなたが今まで食事を取らなかったのは、孔明殿への抗議ってことにしましょう」
「…え？」
「んー、そうね。花は国に帰ったも同様のつもりで部屋にこもっているから、だからここでの食事はもう一切取る気がないんです…っていうのはどう？」
「は!?」
「これが孔明殿の耳に届くときが楽しみねえ。花が自分を恨んで食事をしないとなったら、さすがの孔明殿もここにすぐに駆けつけてくるんじゃないかしら？」
「待って待って、芙蓉姫。そんなの……師匠にいやな子だって思われちゃうよ…」
　花の語尾が小さくなる。本当にそんなあてこすりみたいなことをしたら、孔明に呆れられる気がした。もしかしたら数日前の言動とともに、今度こそ見放されてしまうかもしれない。
「大丈夫よ。私の推測では、孔明殿は花のことを心配したり自分の行動を反省することがあっても、花に呆れたりしないわよ。それくらい、あなたのせいでこんなに悲しい思いをしているんですって、わかりやすく訴えればいいのよ。うん、そうしましょ。じゃあ私はこのことがそれとなく孔明殿の耳に入るように広めてくるわね。あなたはそこでゆっくり休んでいて」
「芙蓉姫っ」
「仕事のことも他の人のことも考えず、あなたは孔明殿がもし来たらどんな恨み言を言うべきかを考えているといいわ。これだけ悲しい気持ちにさせた分を本人にぶつけたら、きっとすっきりするわよ。――じゃあまたあとでね」
　そう言って、芙蓉は手をひらひらと振って部屋を出て行った。
→続