囚われ身の怪盗４ （前） 二人きりの、時間がほしかった。 他の人間と同じ笑顔で残酷にかわされてしまうくらいなら。 どんな手段を使っても、どんなに自分をおとしめても。 またあのときと同じように、自分と彼だけの時間がほしかった。 想う相手と共有する時間を求めて。 もう一度彼の肌や熱を感じたくて。 それくらいに心と身体が、一人だけを求めているから。 もう一度、ちゃんと自分を見てほしくて。 「コレ、だけど。マジで使う気かよ羽柴」 友人から渡された小瓶を手のひらに収めると、空はそれを一瞥することなくすぐさま制服のポケットにしまった。 「サンキュ。変なことを頼んで悪かったな。オレ、そういうのよくわからなくてさ･･･」 「別にコレぐらいかまわねえけど。でも、本当にそれ、けっこうクるみたいだぜ？ まあ副作用はないらしいから、安心して飲ませることが出来るんだけどな」 「ああ、わかった」 頷いて、空はその場を立ち去ろうとする。なんとなく今はこの友人と長くいたくはなかった。 受け取ったものの使用方法を詮索されることを恐れたのかもしれない。 だが、空が話を持ちかけた友人のほうは、まだ空に言いたいことがあったらしい。耳にようやく届くほどのかすかな声で、名前を呼ばれた。 「羽柴･･･」 「・・・・・・」 「･･･こういうやり方が卑怯だっていうのはよくわかってるんだけどさ。それでも、どうしても手に入れたいって思ったら、こういうのもありだよな？ ・・・いや、行為そのものを正当化しようとしているんじゃなくてさ。ただ、こういうものすら使ってしまいたくなるくらいに強い想いっていうのは、確かに存在するだろ・・・？」 友人の声に、不安そうな響きが混じる。 空は、特別に彼を励まそうとする意味合いもなく、言葉を告いだ。 「――だと、オレは思う・・・」 「ただヤりたくて誰にでも使うわけじゃないんだ。本当にほしい相手に･･･自分のことを意識してもらいたくて・・・。――羽柴も、本当に好きな子にそれを使うんだろ？」 友人に問われて空は一瞬動揺したものの、ややしてからゆっくりと頷いた。 自分の場合は本当は「誰か」に使うわけではない。 でも、どうしても手に入れたいのは事実なのだ。 「そう、本当に好きだから・・・だからほしくてほしくてしょうがなくて、こんなにあがくんだ。こんなやり方が間違っているのはわかっているけど。こんな方法じゃ、心までは手に入れられないだろうけどっ。でももう他にどうすればいいのか、オレだって全然わからないんだ･･･っ」 話しているうちに胸の中の激情があふれてきて、空の唇からこぼれた。 彼のすべてを、手に入れるために。 彼の心の奥にある、本当の彼自身に触れるために。 そのためにこんなやり方をするのは、きっと間違っているのだろうけど。 友人の手が、空の肩を軽く叩いた。 空ははっと現実に立ち返る。同じように思いつめた想いを抱いているらしい友人が、空に向けて片手をあげた。 「ま、羽柴の健闘を祈るぜ。じゃあな」 「ああ。ほんと、サンキューな」 それだけを言うと空も、改めて友人に背を向けた。振り返ることなく、まっすぐに廊下を突き進んでいく。 先ほど受け取った小瓶が、歩を進めるたびに制服のポケットの中で揺れていた。 これを手に入れるために協力してくれた友人にも話せなかったけれど。 本当は、自分でこれを飲むつもりなのだ。それも、かの少年もよく見知っている人間に抱かれたくて。 「――七海ちゃん・・・」 誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いて、空は唇を噛みしめた。 静まり返った室内に、万年筆を走らせる音だけが聞こえる。 今この部屋には一人の存在しかなく、校内の喧騒も、ここ特別棟の奥まった場所には届いてこなかった。 普段なら賑々しく怪我をしただの、具合が悪くなっただの言ってやってくる生徒も、今日は先程一人現れただけだ。その分仕事がはかどっていいのだが、一人きりでいるとなんとなく心寂しい気がするのも否めない。 以前はそんなことを思う暇もないほど、放課後頻繁にここを訪れてくる少年たちがいたのだが。 「・・・・・・」 七海は軽く息を吐き出して万年筆を机の上に置いた。椅子の背もたれに寄りかかり、軽く伸びをする。今日はかなり集中して仕事をこなしたので、ここらで一休みしようと思いついた。 ――本当は。 一人の少年の存在を思い出してしまったから、だ。 これからしばらくは、仕事に集中できなくなるということが自分でもよくわかっていた。頭の中に浮かべてしまったら、その少年のことだけに思考が席巻される。 そう、以前はよくここに通ってきていたのだ。その訪問に深い意味はなかったけれど、それでも嬉しかったのを自分はよく覚えている。息を弾ませて少年がここを訪れるたび、自分は本当に嬉しくて笑顔で彼のことを迎えたのだ。 けれど、今、その少年はここに姿を見せなくなった。七海が最後に見た彼の表情は少年の泣き顔。 強引に身体をつなげたことで少年を傷つけ、そして、泣かせてしまったのだ。 少年の友人も彼のことが気にかかるのか、それとも別の用事で忙しいのか、あれ以来ここに来てはいなかった。 七海は目を閉じた。 たちまち脳裏に、彼の明るい笑顔が浮かんできてしまう。 自分が小さいころから見知ってきて、大切に思ってきた少年――羽柴空。 その少年がここを訪れなくなったことはとてもつらいことではあるのだけれど。 でも七海はその一方で、このままでもいいのかもしれないとも思っていた。 再び少年がここを訪れるようになったら、自分が、すごく苦しい状況に追い詰められることは目に見えていたからだ。 いくら普通に接しようとしても。 いくらあのとき貪った甘い熱を忘れようとしても。 それでも想いが溢れて、身体の奥の欲望に火がつきそうになってしまうから。 そのときもし少年が一人きりだったら、自分は、果たして笑顔と理性を保てるだろうか。七海には自信がなかった。 我慢できると思ったのに、抑えきれない気持ちがある。 数日間会っていないからこそ、よけいに求めたくなってしまう。 いっそ、せめて身体の熱を散らすために、別の相手を探したほうがいいのかもしれない。七海は、そんなことさえ考えた。 別の人間との快楽に溺れられれば、いつか少年のことを忘れられるかもしれない。少なくとも体の中にある熱は鎮められるだろうから。 カタッ・・・と、小さな音が七海の耳に届いたのはそのときだった。 保健室のドアがかすかに開いたのだ。 わずかな隙間から手が差し入れられ、それからドアがゆっくりとスライドしていった。 「失礼・・・します・・・」 「――」 ドアの木枠に寄りかかるようにして、一人の少年がそこに立っていた。 七海はとっさにいつもの笑顔と挨拶を向けられなかった。 他の人間ならともかく。そこに･･･いたのは。 「・・・羽柴、くん・・・」 「・・・な、なみちゃん・・・」 今ちょうど頭の中で思っていた少年――空、だったのだ。 「羽柴くん・・・。どうか、したんですか・・・？」 七海は声が強張らないようにと気をつけながら、どうにか普段どおりの表情で言葉を告いだ。 「・・・・・・」 「羽柴くん・・・？ どこか具合でも悪いんですか？ もしかして熱でも？」 空は、七海になにも答えなかった。ただだるそうに寄りかかったまま、潤んだ瞳で七海を見つめている。 七海は私情を脇に置いて、保健医としての顔で空の様子を検分しはじめた。 少年の顔はいくらか赤く染まっており、呼吸が忙しなかった。その唇から熱い吐息が断続的にこぼれ、ときおり少年が深い息を吐き出す。 熱にも似た症状。 ――だけれど。 「･･･な、七海ちゃん・・・。オレ･･･っ」 小さな声でそう呟いて、空はどうにか身体を保健室の中に運んだ。すぐさま壁にもたれかかり、それでも後ろ手でドアを閉めた。 「あ・・・っ・・・ん・・・」 それだけの動きが少年になにをもたらしたものか、空がすぐさま自分の身体を両腕で抱きしめた。いくらか眉根が寄せられ、視線が泳ぐ。 そうして自らを抱きしめたままいくらか呼吸を整えたあと、少年は再び七海を見つめた。 濡れた、瞳で。 「羽柴くん、まさか・・・」 七海が少年の身体の状態を正確に把握した。薬学に長けている七海だからこそ、少年の様子を見てぴんとくるものがあった。 今の少年は身体がただその気になっているだけではなくて。 明らかに薬による･･･催淫効果だった。 「誰かに、飲まされたんですか？ それはどんなものでした？ 元の薬がなにかわかれば、すぐに私が解毒剤を調合しますから」 「･･･違う･･･。オレ、が、自分で･･･飲･･･」 「――」 「･･･だから･･･。な、みちゃ･･･今、すっげ、苦しいから･･･相手、して･･･よ･･･」 少年の身を案じて七海が少年のそばに寄って問いかけた言葉に、空はゆるく首を振った。 せつなげな吐息をこぼしながら、七海を誘う。 「･･･つまり、羽柴くんは快感を求めて自分で薬を飲んだ、というわけですね」 七海が静かな声で確認した。そう言いながら、自分の心が急激に冷えていくのを感じていた。 今の少年は薬を飲んでしまうくらい、とにかく快感を得たがっているのだ。誰でもいいから気持ちよくしてもらいたくて。 この前身体をつなげたのがたまたま自分だったから、手っ取り早くここを訪れただけなのだろう。もし自分がいなかったら、少年はきっと他の相手を求めていたはずなのだ。 「ふっ・・・な、なな・・・っ」 「――そこをどいてください羽柴くん。私、急用を思い出しましたから」 「・・・っ行かせない・・・っ」 凍りつきそうなぐらい冷ややかな七海の声に空の心が震えたが、それでも空はすぐに身体をずらしてドアの前に立ちふさがった。 「行かせない、だなんて。イきたがっているのは、羽柴くんのほうでしょう？」 「･･･っ･･･」 くすくす笑いながら、七海が空の頬に手を滑らせる。 「でも、そんなに相手を必要としているのならここに来るのはお門違いですよ羽柴くん。他のところに・・・ああ、ベッドがあるからここに来たんですか？ だったら、真一朗でも呼んできましょうか。真一朗なら、そんな状態の羽柴くんを見たら喜んで相手をするでしょうからね」 「・・・・・・」 別の人間の名前を出されて、空が七海の真意を問うようにその表情を窺った。そうして七海の言葉が、けして冗談ではないのだと悟る。このままただ立ち尽くしていたら、本当に七海はこの部屋を出て行ってしまいそうな怖さがあった。 自分の身体と心を置き去りにして。――七海に抱かれなければ、なにもかもが無意味なのに。 空は自分の頬に触れている七海の手に、左手を重ねた。そのまま七海の手を握りしめる。 そうしてその手を自分の口元に運んだ。 「――」 七海の手が、びくんと反応する。 空が、七海の右手の手のひらを舌で舐めたのだ。その手を逃がさないようにしっかりとつかんだまま、手のひらや指と指の間を幾度も往復しながら舐めとっていく。 七海は自分の手の形をなぞるように動く少年の赤い舌を見た。唾液で濡れたそれが、つうっ・・・と移動していく。 ときおり指にかかるかすかな吐息と少年のその舌のくすぐるような動きに、七海の身体がだんだんと甘い熱に煽られていく。 想う相手が目の前にいるというだけで心が暴走してしまいそうになるのに、今はその少年があからさまに自分を誘っているのだ。薬によって熱くなった身体をもてあましながら、淫蕩にけぶった視線でこちらを見つめてくる。 そんなふうに少年に誘われて、劣情を抑え込めるほど七海は理性的でもなく、そして逃げ出せるほど純粋でもなかった。 「そこを、どいてください」 強引に自分の手の自由を取り戻し、七海は空に告げた。 「七海ちゃ・・・っ」 「ドアの鍵を閉めますから。人に、邪魔されたくはないですからね」 |