囚われ身の怪盗５　（前）


〝七海ちゃんが好きだよ･･･〟

　夢うつつの中で、そう言う自分の声を聞いた気がした。
　それとともに心に広がる安心感。
　ああ、これで自分はもう、七海に気持ちを伝えられたんだ。七海は、もう自分の気持ちを知ってくれたのだ。
　そう考えることはとても照れくさいことでもあったけれど、それでも想いを告げたという安堵が空を押し包む。
　これからは保健室にも気軽に遊びにいける。
　遊びにいって、そうして自分の想いを七海に向かわせればいいだけなのだから。
　おそらく七海も、自分の気持ちをくんで微笑むくらいのことはしてくれるだろう。たとえその微笑みが恋愛感情からくるものではなかったとしても、相手に理解してもらっているというだけで、空の胸はほのかにあたたかくなった。
　だから空は考えてもみなかったのだ。
　保健室に遊びに行ったとき、七海が――自分の顔を見ようともしないだなんて。



「七海先生、こんにちは～」
「･･････な、七海ちゃん、お茶飲みに来た･･･から･･･」

　最初は気がつかなかった。
　照れを押し隠して祭と一緒に保健室に遊びに行ったとき、七海はいつもと変わらない笑顔を見せてくれた。

「こんにちは。今、ちょうどお茶を入れようとしたところだったんですよ。どうぞそこに座って？」
「うん･･･」
「いつもすみません、七海先生」
「いえいえ、私も楽しんでいるんですから気にしないでください」

　七海は自分たちに椅子を勧めたあと熱いお茶を入れ、菓子を出してもてなしてくれたのだ。

「今日のお茶もおいしいですね。やっぱり七海先生のお茶が一番ですよ。寮の食堂にあるのなんか出がらしでおいしくなくって」
「ふふ。ほめてももうお菓子はここにあるのだけですよ」
「そんなつもりじゃありませんよ、僕はただ本当のことを言っているだけですよ。な、空」
「そうだよ七海ちゃん。やっぱ、七海ちゃんのお茶ってすごく･･･特別だしさ」
「でも生徒会室にあるお茶はとてもいい銘柄のものがおいてあるっていうのを、担当の先生から聞きましたよ？」
「銘柄の問題じゃないですよ。入れる人の技術と愛情の問題です」

　きっぱりとそう答えた祭に、七海はくすくすと笑う。

「愛情･･･そうですね、少しでも私のお茶でみんなの気持ちを癒せたら、とは思っていますからね。たとえば生徒会の仕事で忙殺されている副会長さんとか。それが愛情というならそうなんでしょうね」
「おかげでここに来ると日々の忙しさも忘れて、ゆったりとした気分になれますよ」

　そのうちに空はあれ、と気づいたのだ。
　自分が、どこか期待した気持ちで七海を見ていたせいかもしれない。
　一瞬でも目が合うことを期待して胸を高鳴らせていたから、どれほど七海を見続けていても、七海が一度たりともこちらに視線を与えてくれないことに気づいたのだ。
　七海が話すときは常に祭だけを見ていた。
　まるで、自分の存在など初めからないように。
　ほとんど無視されていたのだ。

「･･･七海ちゃん、おかわりっ」

　空は湯飲みの中の緑茶を一気飲みすると、その湯飲みを音高く机に置いて言った。
　本当に七海に無視されているのかどうか確かめたかった。

「空、もっと静かに言えばいいのに･･･。まったく空ってば空だよなあ」
「うるせーよ、祭っ」

　空が置いた湯飲みを、七海が手に取った。
　自分のそばに引き寄せ、急須にポットからお湯を注ぐ。
　その間も七海は、空を見ようとはしなかった。
　おそらく最初の挨拶も、七海は祭だけに向けていたのだ。空の直感がそう告げていた。
　そして、七海はこのときも口に出しては。

「生徒会のお仕事って、なかなか大変でしょう？　来年もこのまま続けるんですか？」

　祭だけに関わる話題を向けてきたのだ。
　その優しい手はいつもどおりの手順で緑茶を入れている。ちゃんと入れ終わったあとは湯飲みを空の前に置いてくれた。
　存在が見えていないわけじゃないのに。
　それでも無視されていることに、空は愕然とした。

「七海ちゃ･･･熱っ」
「空！　なにやってんだよもう。そんなところを触ったら熱いに決まってんだろ!?」

　迂闊に湯飲みに触れてしまって、空は慌てて手を引っ込めた。祭はすぐさま立ち上がって心配してくれたけれども、生徒の健康を任されている「保健医」七海は･･･ただ、机を拭いていた布巾を、こちらの方に押しやっただけだった。

「――」
「こぼさなくてよかったよね、空。ズボンの上にひっくり返していたらやけどものだったよ」

　もし本当にそうなっていたら。
　そしたら少しは七海も心配してくれていただろうか。その柔らかい声で話しかけてくれて、視線を与えてくれただろうか。
　空はそんな考えに陥った。
　今ここで、湯飲みを傾けたら。
　だが空が見つめていた湯飲みは細い手によって持ち上げられた。七海の手が、机の真ん中に空の湯飲みを移動させたのだ。

「そうだね、空は少し冷めるまで待った方がいいのかもね。七海先生も見てて危なっかしいと思うだろうし」

　七海の意を汲んで、祭が言った。当の七海はなにも言わずに今度は祭の湯飲みに緑茶を注いでいた。
　本当に、とことんまでこちらを無視する気なのだ。
　七海が自分を無視する理由･･･それは、空にすればたった一つしか思いつかなかった。
　自分の、告白。
　それに対する七海の返事がこれなのだ。
　七海に気持ちを伝えたことは迷惑だったのだろうか。七海と新しい関係を築きたいと思わなければ、こんなふうに無視されることはなかったのだろうか。
　けれど、もういやだったのだ。
　これまでのように、他の生徒と同じように扱われるのが。
　その穏やかな笑顔を向けられ、七海の心に残らない対応をされるのがいやだった。
　彼にとって特別な存在になりたかった。今の関係を打破したかった。
　だから自分は彼に想いを告げたのに。
　七海は、それを拒絶しているのだ。

「――っ」

　たまらなくなって椅子から立ち上がった空の耳に、校内放送の呼び出し音が聞こえた。空は音が流れてきたスピーカーを見上げる。
　それは、生徒会役員である祭を呼び出した放送だった。

「あーあ、せっかくゆっくりしていたのになあ」
「本当に本城くんは忙しそうですね。ご苦労様です」

　ぼやく祭の苦労を、七海がねぎらった。
　祭は自分が使っていた湯飲みを七海のほうに寄せると、「ごちそうさまでした」と言って、軽く頭を下げた。

「でもおかげでだいぶ疲れが取れましたよ。やっぱ七海先生のお茶は格別ですね。空、そんなわけで僕呼び出されたからもう行くけど。空はどうする？」
「オレも･････帰る」

　小さな声でぼそぼそと答えて、空は七海に背を向けた。
　おそらく自分の言葉を聞いて七海は安堵しているのだろう。そう思うと、怖くて七海の顔を見られなかった。

「･･････ふうん？」
「じゃあな」

　七海に挨拶もせず、空はふらりと保健室を出ようとする。だが空の制服のジャケットのすそが、祭の手によって握りこまれた。まるで先に行くなと言わんばかりのその行動に、空は仕方なく足を止める。

「じゃあ七海先生、失礼します」
「頑張ってくださいね。またなにかのときにはここに遊びに来てください」
「はい、ありがとうございます」

　祭は笑顔で七海に挨拶し、そうして空を連れ立って保健室を出た。
　保健室のドアが閉まった途端、空は小声で祭に聞いてみる。

「なんだよ祭。手、離せよ」
「空も、出てきていいの？」

　空の制服から手を離した祭が、少し身をかがめるようにして、下から空の顔を覗き込むようにして聞いてきた。

「なんだよ。だってオレ一人でいたって仕方ねえだろ」
「そうかな？」
「おまえ、なにが言いたいんだよ」

　飄々とした祭の声にむっとして、空が故意に声を低めて聞いた。
　その空の強張った頬が、つん、と、祭の指につつかれた。

「祭っ！」
「空はあからさますぎるんだよ。そんなに喜怒哀楽が激しいと、ますますかなわないと思うよ。この前だって空、ぼろぼろだったしね」
「･･････え？」

　呆然と祭の顔を見つめると、祭は。
　口元にかすかな笑みを浮かべて空を見つめていた。
　まるで空のことを包み込むようなやわらかい笑みだった。

「大人、だよね。全然隙がないし。あの人は笑顔で嘘がつける人だよね」
「･･････ま、つり･･･」
「でもけしてまったく揺らいでいないわけじゃないと思うよ。空が･･･空だけが揺らがしているんだよ、あの人を。この前だってそのときは意味が全然わからなかったけど、あのあと冷静に振り返ってみたら動揺、していたと思う。突然空に出て行かれて」
「･･････」

　言葉を失った空の胸を、祭は片手で軽く押しやった。
　そうして笑顔のままで空を･･･促す。

「言っておいで空。そんなふうに我慢しないで押さえ込まないで、ちゃんと全部をぶつけておいで。そうすれば揺らがせることはできると思うよ。第一そんなに簡単に引き下がるなんて、空らしくないだろ？　ちゃんと自分の全部をぶつけた上で、新しい答えを見つけておいで」

　　　　　　　　　　　　　　　　　　

ＮＥＸＴ