「…もうっ、いやだ…っ」
　なにも見えない暗黒の中、自由を奪われた身体に、男の手が這い回る。
「こ、こんなこと……もう、や…ぁっ…！」
　必死になって声をあげると、忍び笑う男の声がかすかに聞こえた。
　よりいっそう啓太の肌を執拗に辿る男の指先。汗ばんだ身体には、ときおり男の唇が滑る。
　その唇がほんのわずか胸の粒に触れただけで、啓太はびくりと身体を揺らした。啓太の反応に気をよくしたのか、男はさらに固く立ち上がったそこに舌を絡めてきた。熱く濡れた感触と濡れた音が啓太の身体をいっそう感じさせていく。
「やっ、あぁ…っ」
　すでに一度男の手でいかされた啓太自身は再び勃ちあがり、先端を濡らしていた。しかし男は一度いかせたあとは啓太のそこには触れずに啓太の肌や胸に手を這わせ、また気まぐれに啓太の後孔に指を挿入し、かき回した。
　抱くというよりも、男はあきらかに啓太を嬲っている――服を脱がされてからどのくらいの時間が経っているのか、両目とも布で覆われている啓太には知るすべはなかった。また手を縛られたままベッドに押さえ込まれ、この状況を打破するすべもなかった。
　ただいつ触れてくるか、なにをするかわからない男の愛撫に弄ばれ、啓太は望まない喘ぎ声をあげるしかなかった。
「いや、だ……あ…っ…ああ、もうこんなのは……っ」
　自分の理性を溶かそうとする指先。恥ずかしさをいっそう高めるためのひそやかな笑い声。
　直接触れ合っている肌はこんなにも男の存在が近くにあることを示しているのに、その心はひどく遠くに感じられた。
「や、やめてくれよ……和、希……っ！　もう……っ！」
　悲鳴に近い声で男の名前を呼んでも。
　聞き慣れた明るい声は返ってこなかった。
　啓太に、解放は訪れない。
　啓太の呼び声に答えたのは、啓太の両足を強引に開いた腕と、それから。
「っ……あっ、あああ……っ！！」
　啓太の双丘の奥に押し当てられ、予告もなしに繋げられた男の熱い欲望だけだった。





　贖〜あがない〜　２




「あーあ。また食べなかったのか、啓太」
　テーブルの上の手付かずの皿を見て和希が溜息をついた。
「ちゃんと食べないと、身体がもたないぞ」
「……」
「なんなら俺が食べさせてやろうか。啓太はただ口を開けるだけでいいよ」
　和希の手が皿とスプーンを取る。それに対して啓太は「いらない！」と大声をあげた。
「でも少しぐらい食べないと。昨日もその前も食べてないだろ」
　持ち上げた皿とスプーンをテーブルに戻し、和希はベッドの上でうずくまっている啓太に近づいた。ベッドに膝をつき、啓太に手を伸ばす。
「触るな！」
　だが和希は啓太の声を無視すると、その手首を強引につかんだ。
「……っ」
　啓太の身体が反射的に震える。
「ほら、やっぱり少し痩せたじゃないか。啓太は育ち盛りなんだから、ちゃんと食事でも栄養摂らないとだめだろ。味が気に入らなかったのなら、もう一度作り直すから食べてくれよ」
「……」
「な、啓太」
　和希の口調は優しく、その表情も一見啓太を思っているように見える。ベルリバティに転入したばかりの啓太に対してなにかと親身になってくれた和希。
　だが啓太は、今の和希が本当に啓太を思っているわけではないことを知っている。自分に呼びかける声の中に潜む優越に満ちた笑み。
「いらない…。手を離せよ和希」
「どうして？」
　啓太の手首をつかむ力がぐっと強くなった。
「痛…っ。和希っ」
「ああ、ごめんな。啓太のここ、痕になってるな。昨日、強く……縛りすぎたかな」
　和希は啓太の手首をじっと見つめると、そこに残る紐の痕に口づけた。そのあとで舌でぺろりと舐める。
「……っ」
　身を竦めたあと、啓太は自分の腕を引いた。和希はもうその手をつかんでこようとはしなかった。
「啓太。そんなふうにいちいち反応されると、よけいかまいたくなるよ」
　そう言いながらも、和希はそれ以上啓太には触れず、ベッドから降りた。啓太が小さく息を吐く。
「さすがにもう俺に対して無防備ではいられないか。まあ、あれだけわからせてあげたんだから当然かな。今までが無警戒すぎたんだよな。――馬鹿みたいに」
「……和希っ」
「とにかく食事は摂らないとだめだよ啓太。今夜のことも考えて栄養つけないと。ハンストなんてしたって意味ないくらい、啓太ももうわかっているはずだろ」
「……無意味じゃない」
「無意味だよ。薬でも点滴でも、食事分の栄養を摂らせるのなんか簡単にできるんだから」
「それでも俺の意思は伝えられる」
「この状況に甘んじてないって？」
「そう、だよ」
「啓太の意思なんて――身体はだんだん慣れてきたくせに。そのうち啓太の意思とやらも身体に引きずられるんじゃないのか。夕べだって…」
「和希！」
　嘲りを込めた和希の声を啓太が遮った。笑みを浮かべた和希の目とその和希を睨みつける啓太の目とが合う。
　どちらもそらすことなく。
「…あれだけ何度もイっておいてこの状況に甘んじてないなんてよく言う。俺の前であんなにいやらしく腰を振っておいて――」
　啓太は手近にあった枕を和希に向けて投げつけた。それは当たらずに和希の手に受け止められた。
「事実だろ」
「和希っ！　もう、もうこんなことやめろよ！　いい加減目を覚ませよ！　これがおかしいってことぐらい、和希にもわかっているはずだろ！　俺をここから解放しろよ、和希っ！」
　啓太は必死な思いで和希に訴える。それはもう何十回と言った言葉だった。
　和希に抱かれ、自由をなくした日からずっと言い続けてきたこと。そしてずっと和希の心に届かない言葉。
「こんなのは、おまえらしくないだろ和希……っ」
「――俺は、もともとこういう人間だよ。啓太に俺という人間を勝手に決めつけてほしくないな。俺のことをなにも知らない啓太なんかに。……それに」
　和希が受け止めた枕を床に落とし、ズボンの後ろポケットからあるものを取り出す。取り出されたそれを見て、啓太はびくりと身を竦めた。
　和希の手に握られていたのは白い紐だった。夕べ、使われたもの。
「和、希…っ」
「これがおかしい状況だというなら、そのおかしな状況の中でさんざん感じていた啓太はなんなんだろうな？　おかしい状況だからこそ、啓太は余計に感じていたんじゃないのか。手を縛られて目隠しまでされて俺に抱かれた気分はどうだった？　くせになりそうなくらい気持ちよかった？　今夜も、これを使ってやろうか」
　故意に紐を広げる和希に、啓太はベッドの上で後じさる。初めから啓太がいた場所は壁際で、それ以上、下がりようもなかったのだが。
　身体の自由を奪われることよりも、和希が手にしている物で別のなにかを思い出してしまうのが怖かった。
　だが和希は啓太がなにを怖がっているか見透かすように言い継ぐ。
「夕べ、初めは啓太もちゃんといやがっていたよな。手が使えなくても足や身体で必死に抵抗してた。けど、俺が挿れたあたりからかな、啓太の身体が俺に応えてくれるようになったのは」
「違う…」
「まあ、俺がわざと啓太のいいところを突かなかったから、だんだんじれったくなったのかもしれないけど。啓太はゆっくりされるより激しいほうが好きだから、物足りなくなると自分から動いちゃうんだよな」
「違うっ！」
「違わない。そんなのは、俺よりも啓太のほうがよくわかっているだろ。そのシーツだって、啓太が何回も出して汚したんだよ」
「……っ」
　シーツをまとっていた啓太の身体が強張る。すぐにシーツを放り投げたい衝動に駆られたが、自分の身を隠すものがこのシーツ一枚きりしかなかったので、啓太は唇を噛むことでその衝動に耐えた。
　夕べの記憶なら啓太の中にもはっきりと残っていた。
　手荒く自分の自由を奪い、無理やり衣服を剥いだのに、そのくせ触れる手は優しく、唇はゆっくりと啓太の肌をすべっていく。
　身体を繋げたあともすぐには動かず、和希はじわじわとそこを侵蝕していった。己の快楽のためと言うより、啓太の中にある官能を導くように、故意に緩やかな動きで啓太を犯す。
　啓太の感じるところを知りながらも、かすめるようにしか触れず、徹底的な快感を与えない。そんな時間が長いこと過ぎ、やがて啓太は男がときおり気まぐれのように与えてくれる強烈な快感の甘さを自ら求めざるを得なかった。
　自分の中で悲鳴をあげる矜持。目を覆う布は涙で濡れ、唇は拒絶の言葉を紡ぎながらも。
『…んっ…っ…あっ、ああっ……』
『啓太、もっと？　もっと、これがほしい？』
『や…っぁっ……っ』
『ここが、いいんだろ？　ほら、もっとおねだりしなきゃ……もうやめちゃうよ…？』
『あっ…んっ、んんっ……っ』
『――そう、なかなか上手だよ啓太。でも、啓太にはこれじゃ足りないだろ？　ここが、足りないって言ってる』
『ひぁ…！　あっ…ああっ……っ』
『もっと激しく動いてごらん。自分に正直になっていいんだよ。そうすればもっともっと気持ちよくしてあげるよ。ね、啓太』
　愉悦に満ちた誘いの声。自分から求めるとあっさりと与えてくれる快感。
　拒否したい気持ちとは裏腹に。
『んっ…ふぁっ……ああっ……！』
　最後には自分が快感を望んでしまったことを、啓太はよく覚えていた。忘れたくても忘れられない浅ましい記憶。
「啓太も、本当にだんだん慣れてきたよな。やっぱりもともと素質があったのかな。淫乱ていう、素質がさ」
「そんなんじゃない…っ」
　和希の言葉をすぐに否定する。だがその言葉には夕べの記憶が絡み、啓太の声に力はなかった。
「でも気持ちよさそうだったよ、昨日の啓太は。あとは、そんなふうに意地を張らないで、全部俺に明け渡してしまえばいいのにな。一人だけいい子な顔をしないで、俺と同じところまで堕ちてしまえばいいのに」
　和希が啓太を見つめながら呟く。和希の瞳に浮かんだ翳りから、啓太は目をそらせなかった。
「和希…」
「啓太がそうやって一人だけいい子ぶろうとするのは、この時間に終わりがあると思うからだろ。この生活が終わったとき普通の世界に戻れるように、懸命に理性を保とうとしている。……でもあいにくだったな。この時間に終わりはないよ、啓太。今は短い夏の日々とは違う。誰にも邪魔されない、終わりはこない。ここは永遠に俺たち二人だけの世界なんだよ」
　手にしていた縄を床に落とし、和希はそれを踏みつけて啓太のいるベッドに数歩近づいた。
「……そんなのはありえない。ありえないだろ」
　その和希の言葉に対して、啓太はゆるゆると首を横に振る。
「いつか終わりはくる。こんな異常な状態は長くは続かない。だからその前に和希が自分で…っ」
「それは、俺たち以外の誰かがここにくることを言ってるのか？　たとえばこの家の存在を知っている俺とつながりのある誰かだとか、啓太の家族とか……警察とか」
「……」
「人間一人を無理やり監禁することは犯罪……だからいつかここに誰かが踏み込んでくると啓太は思っているかもしれないけど。でも残念ながら、もとから啓太がいないことを不思議に思う人間が一人もいなければ、警察も動かないし、なにも起こらないんだよ」
「俺が帰らなければ家族が心配する。学園に絶対問い合わせがくる。そうなったら和希、すべては露呈するんだぞ」
「でも啓太はまだ、退学になったから家に帰るなんて、自分の家族に伝えてなかっただろ」
「伝えてあったよ。理事長に…おまえに会いに行く前に、夜には家に着くからって連絡を入れておいたんだ」
「嘘だな」
　啓太の言葉を和希は一蹴した。
「嘘じゃない！」
「啓太の携帯の履歴には、啓太の家の電話番号なんて載ってなかったよ」
「それは、だって……って、俺の携帯見たのか!?」
「啓太の部屋のパソコンからメールを送ったわけでもない。学園内のどこかの電話から啓太の家にかけたという記録も残ってない。唯一俺がチェックできないのは学園にいる誰かの携帯を借りてかけた場合だけだけど……啓太はわざわざそんなことしないもんな。よって啓太はまだ家に帰るなんて言っていない」
「だから連絡をもう入れてあるって言ってるだろ!?　人の携帯で……そう、最後の挨拶をしにいったときに、たしか西園寺さんに借りて――」
　考え考えそう言った啓太に向けて、和希は晴れやかな笑顔を向ける。
「そんな嘘つかなくていいんだって。俺はもうわかってるんだからさ」
「だから」
「だって啓太が退学のことを伝えて家に帰るって言ってあったとしたら、俺が送った『今度の休みは帰れない』というメールに、啓太の家族から普通に返事が返ってくるわけないだろ？」
「――!?」
「『わかった。くれぐれも身体には気をつけなさい』って返ってきたよ。あと、『大変だと思うけど、お兄ちゃん、勉強頑張ってね。朋子より』ってさ」
「――和希っ！！」
　啓太はその瞬間に湧き上がった衝動のまま、ベッドから降りて和希の身体に体当たりしようとした。
　だが身体を覆っていたシーツに足をとられそうになり、また和希に難なくよけられて勢いのまま床に倒れこむ。
「和希っ！」
　それでも啓太はすぐに起き上がろうとした。それを、シーツを踏みつけ、シーツに絡んだままの啓太の動きを制限し、和希は啓太を見下ろした。
「啓太の携帯は俺が持ってるよ。だから心配しなくていいんだ。俺が啓太の代わりに、ちゃんと伊藤啓太として誰からのメールにも啓太らしく答えてやるからさ。『俺は元気でやってるから心配することなんてないよ。ただこのところすごく忙しくて、電話はできないけど。落ち着いたらこっちから連絡するからそれまで待ってて。啓太』とかさ」
「和希っ」
「勿論メールがきたらちゃんと啓太にも教えてやるよ。啓太がいなくても誰もなにも心配してないって、そのメールでわかるからさ。啓太の家族は啓太がまだベルリバティにいると思っている。ベルリバティの人間は啓太はとっくに家に帰ったと思ってる。啓太がここにいたって、時間は毎日平和に過ぎていくんだよ。――この時間に、終わりはないんだ」
　先ほど啓太に聞かせた言葉を、和希はもう一度繰り返した。