理　事　長　と 　　　　　学　生　の　恋

最初は単なる疑問だった。 　――『なあ、ここの理事長ってどんな人間なんだろうな？』 　それはいまさら取り沙汰されるまでもない、今年になって初めて出てきたわけでもない学生たちの些細な疑問だった。 　就任当初から謎だらけのベルリバティスクールの理事長に関する噂や推測なら、いつでも慢性的に学生たちの中に広がっている。 　だから最初は、誰もその問いの答えを深く考えようとはしなかった。 　これまでその疑問が一時的に学生たちの間に流れたとしてもすぐに立ち消えていたように、本来ならこのときもすぐに学生たちの頭の片隅に追いやられるはずだった。 　だが、たまたまなにかの弾みでか、なんらかの意思が関わっていたものか、このとき学生たちの間に流れたその疑問はすぐに立ち消えずに思わぬ方向に広がっていった。 　このとき、その疑問があがるたびに囁かれる理事長の年齢や容姿、経歴や性格に関する推測にまじって、『理事長の嗜好』が噂されはじめたのだった。 　一部の学生たち曰く。 　――『理事長って実はホモなんじゃねえの？　ベルリバティに男子学生ばかり集めたのは理事長にそういう趣味があって、自分好みの学生を選んで自分のそばにおくためだったりしてな』 　そしてその噂はさらなる疑問や憶測、軽薄な好奇心などを飲み込んでさらに広まっていった。 「やっぱあの噂本当なのかな」 「ああ、理事長がホモじゃないかっていう噂だろ。確証はねえけど、案外当たってるかもな。だってたかが学園一つにすげえ金かけているわけだろ？　よほどの教育熱心か、よほどの道楽人間か･･･もしくはやっぱ、そういう趣味の持ち主だから男子学生集めに金を惜しまないとかな」 「そうだなあ。自分の学園の中なら適当につまみ食いしてもすぐにもみ消すこともできるしな。案外、もう喰われたやつの二人や三人いるんじゃねえの？　あ、理事長が表に出てこないのは、実は何人もの学生を同時にもてあそぶためだったりして。面がばれてないほうが自由に動けるもんな」 「うげ。ほんとにもし理事長がホモで変態だったとしたらさ、俺たちもそういう目で見られて選ばれたかもしれないってことだろ？　冗談じゃねえよなっ」 「いや。それについてはおまえは安心していいと思うぜ」 「なんだよ、それ〜」 　――教室内で今一番旬な話題、理事長に関する憶測がそこかしこで飛び交っていた。啓太は話に興じるクラスメートの声を、怖々とした気持ちで受け止める。自分一人ならそんな気持ちにはならないが、今は啓太の隣りに和希がいるのだ。クラスメートたちの声が聞こえてから、ずっと黙り込んだままの和希が。 「か･･･和希･･･」 　啓太は和希の表情を確かめながら小さく声をかけてみた。 「だ、大丈夫か」 「･･････大丈夫だよ」 　そう答えつつも、和希の顔が少し引きつっていることは啓太の目にも明らかだった。理事長の噂が流れはじめて、最初は平然と聞き流していた和希も、理事長ホモ説が流れはじめるとだんだんと苦虫を噛み潰したような表情が多くなった。学生たちの好き勝手な噂とはいえ、やはり自分のことを面白おかしく噂されているのはいやなものなのだろう。啓太はそう推測する。 「前にも言ったと思うけど、和希、気にするなよ。どうせ今だけのものなんだしさ」 「気にしてないよ。今はどこもかしこもその噂だらけだし、いちいち気にするほうが馬鹿みたいだしな。ま、こんなくだらないことで騒げるなんてそれだけ学園内が平和だってことだよな」 　他の人間には聞かれないよう、小声で会話する。今は放課後で、ホームルームを終えた二人はすでに自分の物を鞄にしまい終えていた。 「それより啓太。今日はどうする？　このまままっすぐ帰るか？」 「あ、今日は俺、ちょっと会計部に寄らなきゃいけないんだ。西園寺さんに頼まれていた書類を渡さなきゃいけなくてさ」 「会計部か･･･。久々だな」 　もともと機嫌がよくない和希の顔が、いっそう苦いものに変わる。和希がなにを考えてそんな表情になったのか簡単に想像できた啓太は、和希に慌てて付け足した。 「あっ、でも、会計部には俺一人で行ってくるよ。和希は先に帰ってていいからさ」 「いいよ、俺も行くよ。七条さんたちが啓太になにを言うか気になるしな。俺のいないところで啓太にあることないこと吹き込まれちゃ、そっちのほうがいやだしさ。会計部に行こう」 「うん･･･わかった」 　和希に促されて啓太は鞄を手に持った。教室を出るときにこっそりと和希の表情を窺うと、和希は会計部に行くことに対してもう特別に構えている気配はなさそうだった。啓太はひそかに安心して、和希と並んで会計部に向かった。 　だが会計部に行った和希と啓太を出迎えたのは、七条の、「おや。時の人のおでましですね」という一言だった。 「七条さん･･･」 　その一言に、和希がげんなりとした表情を見せる。 「どうかしましたか遠藤くん。僕はなにかおかしなことを言いましたか？」 「七条さん、今はちょっとその話はしないであげてくれませんか。今俺たち、教室でもさんざんその話を聞かされてきたんですよ」 　和希の様子を見かねて、啓太が助け舟を出す。 「そうだったんですか。すみません。遠藤くんの顔を見たら、つい最近よく耳にする理事長のいろいろな噂のことを思い出しましてね」 「みんな、『理事長』のことをよく知らないから好き勝手に言っているだけです。プラチナペーパーを送って自分をベルリバティに呼んでくれた理事長を悪く言うことが、自分たち自身をも貶めてるって気づいてないんだ。ちょうど試験もなくてみんな退屈してたから、その話に面白おかしく乗って･･･」 「と、啓太は言ってるがな。実際火のないところに煙は立たないという言葉を的確に表した噂だな」 　七条の後ろにあるソファに座っていた西園寺がこちらを見ないままで口を開いた。手にしていたティーカップをゆっくりとソーサーに戻す。 「西園寺さん」 「郁の言うとおり当たらずも遠からず、といったところですからね。確かな証拠があっての噂ではないと思いますが、この場合まるっきり的外れというわけでもありませんからね。とにかくお二人とも奥にどうぞ。今伊藤くんと遠藤くんの分のお茶も用意しますよ」 　七条がドアの前に立ったままの啓太と和希を促したが、啓太はそこを動く気にはなれなかった。 「そんなことないです！　ひどいですよ西園寺さんも七条さんも。実際に和希がみんなに言われているような目的で理事長をしているわけじゃないことは、お二人もよくご存知じゃないですか。この学園のために一生懸命働いている和希をそんなふうに見るなんて･･･っ」 「では、啓太は今の噂をまるっきりの嘘だと思っているわけか？」 「当然です。だって実際に嘘じゃないですか」 「ふ。そうか。では当の遠藤はどうだ？」 　西園寺が啓太の隣に立つ和希に視線を送る。どこか面白がる光を浮かべている西園寺のその瞳を、和希は避けることなく受け止めた。 「――証拠のない噂は長続きするものじゃない。啓太の言うとおり今は他の話題もなく特別な行事もなく、退屈をもてあましている学生が口々に言っているだけです。もうすぐ試験も始まるし、目の前に大きな大会が迫っている部もある。そのうちこれぐらいの噂、あっさりと消えますよ」 「そうだな。そのうち今流れている噂など、事実として学生たちの中に定着して消えていくかもしれないな。当り前すぎて取り沙汰されるまでもない現実として、な」 「西園寺さん！」 「そうだろう、啓太。誰もこの噂を否定する証拠が出せない以上そうなる可能性もあるだろう。理事長自ら学生たちの前に姿を現して、身の潔白を証明するなんていう手段は取れまい」 「で、でも」 「それに事実が事実だしな。数々の噂、おまえにとっては耳が痛いな遠藤？」 「なんのことですか？　俺は噂されているような理由で学生たちを見たことはないし、勿論そんな理由で学生たちを呼んでいるわけでもありませんよ」 「確かに。『学生たち』とひとくくりにした場合はそうだろな」 「――」 　西園寺の言葉に、和希が押し黙る。影をともなった表情で西園寺から視線をそらした和希を見た途端、啓太はすぐにその場で自分の鞄を開けて中を探り始めた。 「伊藤くん？　どうかしましたか？」 　自分の鞄の中を荒々しい手つきでかき回す啓太に七条が不思議そうに声をかける。啓太はそれには答えず目的のものを見つけると、開いたままの鞄を抱えて西園寺のそばに近づいた。 「西園寺さん、これ、西園寺さんに頼まれていた書類です。見ればわかると思うので中身の説明はしません。もしこの中に俺のミスがあったらなおしますから、また明日以降にでも声をかけてください。じゃあ今日は俺たち、このまま帰ります。和希、行こう」 　西園寺の手に持っていた数枚の紙を押しつけると、啓太はくるりときびすを返した。和希の制服の袖口を引っ張ってドアに促す。 「早く帰ってもきっと寮で理事長の噂を聞くことになるぞ」 「だったら部屋にこもってますよ。和希の努力も大変さも知らない人間にもうこれ以上好き勝手言われたくないです」 「啓太は･･････啓太自身の気持ちに一点の曇りもないからまだ見えていないようだな」 　そのまま会計部を出ようとドアに手をかけた啓太の耳に、西園寺の謎かけのような言葉が届いた。思わず啓太が足を止めて振り返る。 「どういう意味ですか？」 「噂は単なる噂だからこそ客観的な見方を含んでいるということだ」 「好き勝手な憶測だらけのこの噂に、客観的な見方もなにもありませんよ。じゃあ俺たち、これで失礼します！」 　啓太は勢いよくドアを開け、会計部を出た。啓太のあとに続いて和希も部屋を出ようとする。だがその背にも西園寺の声がかけられた。 「遠藤。啓太はああ言ってるが、おまえは噂の側面に気づいているのだろう」 「西園寺さんがなにを言いたいのか俺にはよくわかりませんが。ただ、同性とはいえ同じ学年の人間がつきあうことなんかごく当り前のことで、なんの問題もないことですよね」 　和希はそう言い捨ててドアを閉めた。 「･･････なんの問題もない人間のする顔じゃないだろう、それは」 　ドアが閉まった部屋の中に西園寺の声がぽつりと落とされた。 「啓太」 　早足で廊下を歩く啓太を追いかけながら和希が声をかけると、啓太はほんの少し歩く速度を落とした。和希が啓太を追い抜かしてその顔をのぞきこむと、啓太は唇を尖らせ、むくれた顔を見せていた。 「啓太･･･」 　思わず笑みを浮かべてその頬を軽く指で押すと、啓太は和希の手を振り払いながらも口を開いた。 「西園寺さんまであんなことを言うとは思わなかった。あんな、噂に乗るようなことを言うなんてさ。西園寺さんなら和希に『くだらない噂なんか気にするな』ぐらい言ってくれると思ってたのにな」 「俺は気にしてないよ。西園寺さんはいつもながらただまっすぐなだけだよ。噂の全面を見てちゃんと判断してる。中途半端な慰めは口にしないし、曖昧な言葉でことを濁したりもしない。西園寺さんの資質は評価されるべきものだと思うけどな」 「うん、俺もそう思うけど。でも･･･」 「おかしいな啓太。教室ではそんなふうに怒ってなかっただろ。俺を気遣ってくれていたけど、噂している人間にいちいち腹を立ててはいなかったように思うけど。西園寺さんだと別なんだな」 「だって西園寺さんや七条さんは本当の和希を知ってるだろ。教室で好き勝手に言ってるやつらは結局理事長のことをなにも知らないからしょうがないけど、西園寺さんたちは和希のことを知ってて言ってるんだから、腹が立つのも当然だろ。本気じゃなくて、単に和希をからかいたかっただけかもしれないけど、それならそれでなにもこんなときに言うことないしさ。･･････そりゃ、結局は会計部まで和希をつき合わせた俺がいけないのかもしれないけどさ」 「啓太。それは全然違うだろ」 「でも」 「俺が勝手についてきただけだろ。それに本当の俺、なんて、結局は啓太しか知らないだろ」 「和希･･･」 　啓太が足を止めて和希を振り返る。和希はそんな啓太を安心させるように笑いかけた。 「俺も、啓太だけに本当の俺を知っててもらえれば充分だよ」 「――和希。根も葉もない噂なんか、本当に気にするなよ」 　念のために廊下に人がいないことを確かめてから、啓太は和希の両腕を強くつかみ、その目をまっすぐに見つめて言った。 「俺は和希の言ったとおり、本当の和希を知ってる。和希が誰よりもベルリバティのことで頑張っているのを知ってるし、和希はあまり口にしないけど、和希が俺たち学生一人一人を大事に思ってくれていることも知ってるからな。学生たちの自主性に任せながらも、和希が理事長として俺たちを見守ってくれているんだってわかってる。だから和希はなにも恥じ入る必要なんかないし、ただ噂が消えるまで無視していればいいんだからな」 「･･････理事長の義務と責任を果たし、学生たちの健やかな成長と輝かしい未来への飛翔を見守る･･･」 「え？」 「俺が理事長に就任したときに自分の仕事として意識したことの一つだよ。啓太の言葉で不意に思い出したんだ」 「思い出すまでもなく、それは実際に和希がしていることだろ」 「･･････そうだな」 　啓太の言葉にそう答えたあと、和希は自分を見つめ返す啓太に向けて顔を傾けた。 「和、希･･･？」 「――」 　そのまま啓太の唇に自分の唇を重ねる。 「･･････っ!?　か、和･･･ちょ、ちょっと待･･･んんっ･･････っ！」 　一度は啓太の手に身体を押し返されたものの、和希はすぐに再び啓太の唇を奪う。自分の腕をつかんでいた啓太の手を振りほどき、自由になった手を啓太の頭の後ろに回した。 「･･･ん･･･ふっ･･･」 「――」 「ん･･･な、なんだよ。いっ、いきなり･･･っ」 　キスのあとも和希は啓太の頬や耳に唇を押し当てた。耳朶をかすめる和希の吐息に、啓太が思わず身を竦める。 「こんなところでそんなことして、も、もし人に見られたら･･･っ」 「･･･啓太。今流れている噂、本当に俺は気にしてないから。平気だよ」 　啓太の耳に囁くと、啓太は再び和希の腕をつかんできた。 「･･･本当に？」 「本当に。啓太が心配しすぎるんだよ。心配してくれるのは嬉しいけど、啓太ももう気にするなよ」 「和希が気にしてないならいいけどさ。ただなんかさっきは･･･」 「さっきは？」 　和希が聞き返すと、啓太は目を伏せて小さな声で答えた。 「和希、あまり･･････しゃ、喋らなかったから。会計部で･･･」 「そりゃあなにを言っても西園寺さんたちに言い返されそうだったし、それが面倒くさかっただけだよ。他にしたい話もなかったしな」 「だったらいいんだ」 　安心したように息をついた啓太に向けて、和希が改めて口を開く。 「･･････啓太は、ほんとにあの噂を頭から否定してるんだな」 「当り前だろ！　だって俺は和希が理事長として頑張っていることを知ってるし、学生たちをそんなふうに見てないこともよく･･･」 「――でも俺が」 　そう言いかけて和希は口を閉じた。代わりに、目の前にある啓太の体を両腕で強く抱きしめる。 「か、和希!?　だからこんなところでいきなりっ」 「救われるよ」 「え？」 「啓太が啓太だから俺は救われる。ありがとう啓太･･･」 「和希･･･」 　和希に抱きしめられて、啓太から和希の表情は見えなかった。 　和希も、故意に自分の表情を見せなかった。 　心からの本音でありながら、その言葉には啓太が解釈したのと違う意味が込められていたからだ。 　まだなにも気づいていない啓太だからこそ、救われる。 　啓太が純粋なままでいてくれることに安堵する。 　本当に、理事長という自分の立場を利用してなにも知らない学生をたぶらかしているような気持ちになれるからだ。 　よごれているのは自分一人。 　和希には、そう思えた。