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　「気にしていない」と和希は言っていた。
　だから啓太も、もう噂のことは気にしないことにした。
　そのうち時が経てば自然に消える。だからそれをおとなしく待っていればいいのだ。
　噂が事実から離れてさらに腹立たしいものになっても、西園寺の言ったとおり否定する手段がない以上、最初から耳に入れないようにするのが賢明だと思えた。
　だから啓太は噂が、『本当に理事長は学生に手を出しているらしい』という方向に流れたことにもしばらく気づかなかった。理事長らしき男と学生が外に出ていくところを見ただの、肩を組んでサーバー棟に入っていく二人連れを見ただのという、真偽もあやふやな『目撃証言』も耳に入らなかった。
　教室で啓太にその話を振ろうとしたクラスメートもいたのだが、実際に啓太の耳に新しい噂が流れる前に、そばにいる和希によってシャットアウトされた。
　ゆえに啓太が新たに広まったその噂を知ったのは、和希が仕事のために慌しく教室を出て行った日の放課後のことだった。
　――その日、啓太は和希がいないので授業が終わるとすぐに寮に帰ったのだが、部屋についてしばらくしてから明日提出するレポートに必要なノートを忘れたことに気づいた。和希に見せてもらおうかとも思ったが、和希がいつ帰ってくるかわからなかったし、またやはり自分で取ったノートのほうがまとめやすい。そう思って啓太は仕方なく自分の教室にノートを取りに戻った。
　西日が差し込む廊下は人気がなく、啓太は急ぎ足で教室を目指した。
　てっきり教室も廊下同様人がいないものと思っていたのだが、啓太の教室にはクラスメートが残っていたらしく、啓太が教室に入る前に中から数名分の話し声が聞こえた。忘れ物を取りに来ただけなので啓太はすぐに教室の中に入ろうとしたのだが、その啓太の耳に「やっぱ理事長に騙されてるんだろ」という声が飛び込んできた。
「やっぱ騙されてるんだって。だって相手は権力持ちの狡猾なおっさんだぜ？　俺たちみたいな一介の学生が逆らえるわけないって」
　理事長という単語ですぐに例の噂に関する話だと気づく。啓太はクラスメートたちがその話をしているというだけで、たちまちもやもやした気持ちになった。
　このまま教室に入ってもいいのだが、この状況だと中にいるクラスメートとどうしても言葉を交わさなきゃいけないだろうし、向けられる話題が噂に関することという可能性もある。その場合もしかすると応答がけんか腰になってしまうかもしれないし、そこまでいかなくてもあからさまに不機嫌なのが顔に出てしまうだろう。
　啓太が少しだけ開いているドアから中をのぞくとクラスメートたちはそれぞれに帰り支度をしているようで、啓太はそれを見て話題が変わるか、このままクラスメートたちが教室を出るところまで少し待ってみることにした。
「だから退学をちらつかせられてみろよ。学生だったらびびるだろ。それ見越して学生に手出してんじゃねえの、理事長もさ。もしくは逆にこっちに有利な進学とか就職とかぶら下げてくるとかな。あとぶっちゃけ金な。百万でも出されたら、俺なら相手がおっさんだろうとデブだろうと速攻でおとなしくなるね」
「バーカ！　おまえの場合それ以前の問題だろーが」
「結局騙されてるか脅されてるかか。理事長って確か鈴菱の重鎮だろ？　警察やマスコミにもぶっといコネ持ってそうだし、だまされた学生が訴えようにもすぐに握りつぶされそうだよな。それだけ理事長の好き放題ってことか。理事長に喰われてるヤツ、すっげえことさせられてそうだよなあ」
「――」
　数日ぶりに聞いたその噂の内容は、啓太にとって衝撃的なものだった。
　クラスメートたちの口から『理事長と学生』の話が当り前のように次々と出てくる。
　これはいったいどういうことだろうか。よもや誰かに自分たちのことが見られていて、それで･･････。
　ここ数日の自分たちの行動を慌てて振り返りはじめた啓太の耳に、さらにクラスメートたちの声が飛び込んできた。
「でもよ、俺思うんだけど、理事長が本当に鈴菱のお偉いさんならやっぱそういうスキャンダルはまずいんじゃねえの？　だから俺はこれは単なる噂だと思うけどな」
「でも実際見たやつがいるんだろ？　四十くらいのおっさんと制服きたヤツが歩いてたっていうの、ここんとこよく聞くぜ」
「だって淫行なんて教育者として一番まずいものだろ？　理事長をやめさせられるだけじゃなくて、鈴菱の中でもすぐにほされんじゃねえの？　だからこそそんな危険なことなんかしないだろ。鈴菱の重鎮なら釣り合う家柄の女と結婚しているだろうし、もし独身にしたってこれからそういう女と結婚する身だぜ？　自分の出世をそんなくだらないことで投げ出したりしないだろ」
「うーん･･････そうだよなあ。確かに自分の将来と天秤にかけたらそんな馬鹿なことしないか。警察やマスコミなら多少のコネがあったとしても、鈴菱のライバル企業にでも流されたらすげえやばいもんな。鈴菱の中だけなら握りつぶせる話でも、外に流れたらたちまち大変なことになるよな」
「まあな。言われてみればそうかなって気もするか」
「だろ？　やっぱこれはただの噂なんだよ」
　クラスメートたちの声に混じって、机や鞄などの物音が聞こえてきた。こちらに近づいてくる複数の足音に、啓太はとっさに引き返して隣の教室に飛び込んだ。立ち聞きしてしまったことが顔に出てしまいそうで、今はクラスメートたちと顔を合わせられないと思った。
　暗い教室に身を潜めた啓太に気づかないまま、クラスメートたちが廊下を歩いていく。息を殺して彼らが通り過ぎるのをやり過ごしている啓太に、さらに一人のクラスメートの声が壁の向こうから聞こえた。
「でもよ、もし万が一本当に理事長が学生の誰かを喰ってるとしたらさ、そいつ、鈴菱のライバル企業に売れるいいネタを持ってるってことだよな。学園の理事長が学生に手を出してるなんてイメージダウンにもつながるしさ、事実ならけっこうな金になるんじゃねえの？　実際に売らなくても鈴菱に対するいい脅しの種になりそうじゃん。それって、なかなかおいしい立場だよな」
「あほか。ホモのおっさんに喰われるんだぞ。まあもし本当にそういうことがあったとしたら、理事長もその学生を切るに切れないだろうな。なんせ自分のそばにおいてちゃんと監視しとかなきゃ怖いだろうしな。金渡して口止めして解放するより、自分の身近な場所において適当に甘い汁吸わせながら見張っとくほうが確実だよな」




「･･･啓太･･･。どうしたんだ？」
　サーバー棟の理事長室で啓太を迎え入れた和希は、啓太の目が濡れていることに眉をひそめた。パソコンのキーボードを叩いていた手を止めて椅子から立ち上がる。サーバー棟の入り口で立ち尽くす啓太をカメラ越しに捕らえ、啓太のためにセキュリティを解除しながら何事か起きたことは予感していたのだが、まさか啓太が泣いていたとは思わなかったのだ。
　その瞳に涙が残っているのにも関わらず理事長室のドアの前から足を進めようとしない啓太に、和希は自分から近づいていった。
「なにかあったのか!?」
　啓太の腕を強くつかんで聞くと、啓太は濡れたままの瞳でじっと和希を見返した。唇が少し震えながら言葉を紡ぐ。
「･･････和希は、俺のこと、切るに切れないわけじゃないよな？　単に俺を自由にするのが怖くてそばにおいているわけじゃ･･･ない･･･よな？　俺は絶対にそんなことしないし、和希が心配する必要なんか全然ないんだからさ･･･」
「啓太。なにがあった。全部俺に話して」
「･･････」
「啓太」
「･･････噂を、聞いたんだ」
「――どんな噂」
「いろいろ･･･。理事長が学生に手を出しているとかいないとか、もしそれが本当なら、理事長は事実が外に流れるのを恐れてその学生を切るに切れないだろう、とか。そばにおいてちゃんと監視しておかないと･･･って･･･」
「俺はそんなふうに考えたことはないし、そんなふうに啓太を見たことも一度もないよ。心配なんかしていないし、そもそも啓太が本当にそうしたくてしたことならなんだってかまわない。まあそれ以前に手離したいなんて思ったこと自体ないけどな」
「和希･･･」
　和希の名を呟いた啓太の目元に、和希が唇を寄せて涙を吸い取るように口づけた。
「それがこの涙の理由？」
「･･････うん」
「馬鹿だな。一人で泣く前に俺のところに来いよ。一人で考え込んで俺の知らないところで泣かないで欲しいよ、啓太･･･」
「だ、だって和希、仕事忙しいだろ」
「それでも。啓太が泣いていたことをあとから知るのはいやだよ。それに俺は本当に啓太のことをそんなふうに考えたことなんかないんだからな。俺の知らないところで俺のこと見損なうなよ」
「･･･ごめん･･･」
　うつむく啓太の髪に口づけて、和希は「わかってくれたらいいよ」と呟いた。
「･･･それより啓太。ここに来るとき、誰かに見られたりしなかったか？」
　啓太の髪を撫でながら発された和希のその言葉に、啓太の肩がぴくりと揺れる。
「･･････学生と理事長の噂のこと？」
「まあな」
「･･･誰にも会っていないし、見られてもいないと思う」
「そっか。ならいいんだ」
「噂のこと、やっぱり和希は知っていたんだな」
「そりゃあ、自分に関することだからな」
「和希、気にしていないって言ったのにな」
「自然に耳に入ってくるんだよ」
「でも俺は今まで全然知らなかった！」
　そう言って、啓太は和希の身体を両腕で強く押し返した。
「啓太･･･」
「今流れている噂、極力俺の耳に入れないようにしていただろ和希」
「･･････聞いて楽しいものじゃないからな」
「そうやって一人で抱えて。もし俺が今ここに来るとき人に見られてたって言ったら、和希、俺になにを言うつもりだったんだよ！」
「･･････もし啓太の姿が人に見られていたとしても見られていなくても、俺が言おうと思っていたことは同じだよ。啓太はしばらくここに来ないほうがいい。そして――俺ともしばらく会わないほうがいい」
「――」
　啓太の目が驚きで見開かれる。その変化を和希は目をそらすことなく受け止めた。
「･･････サーバー棟で･･･？　理事長室でこうして会うのはまずい･･･？」
「･･････」
「た、確かにそうだよな。噂が噂だけに今俺たちがここでこうしているのはまずいよな。別にここで会えなくても、和希とは教室でも寮でも会えるんだもんな。――今の、そういう意味だよな？」
「違うよ。教室でも、寮でも、どこであっても。啓太はしばらく俺と関わらないほうがいい」
「･･･っなんでだよ！　噂が消えるまで俺がここに来ないほうがいいのはわかるよ。ここにいる和希は理事長なんだし、理事長と一介の学生である俺が今ここで会っているのはまずい･･････けどっ、教室や寮で制服着ている和希と会うのは全然かまわないだろ!?　クラスメートの和希と会っていても、誰からも文句を言われる筋合いはないだろ。なのになんで和希、そんなふうに言うんだよ!?」
「俺の気持ちの問題なんだ。少し、整理する時間がほしい」
「整理ってなんだよっ!!」
　和希の、もう自身の中で決定づけてしまったような淡々とした口調に、啓太は自分の感情を爆発させた。
「なにを整理する必要があるんだよ!?　なんでいきなりそんなこと言い出すんだよ！　今まで噂が流れててもずっとそんなこと言わなかったのに！」
「･･････噂が流れはじめてから、ずっと考えていたことだよ啓太」
「だから、どうして和希はいつもそうやって一人で･･････っ」
　先程押し返した和希の身体に手を伸ばし、啓太は感情のままに和希のスーツの胸元を両手で握り締めた。指に悔しさが絡む。和希にくちづけされた目元が再び熱を持ち、新たな涙が込み上げてくるのを啓太は自覚した。
　うつむいた啓太の頭上から、淡々とした和希の声が下りてくる。
「――今日、学生会から理事長への要望書が送られてきた」
「･･･え？」
「学生たちの声を取りまとめたのは学生会だろうが、書面には何人もの学生たちの名前が連ねてある。･･･多分、他の学生たちからつつかれて、これ以上騒ぎが大きくならないように仕方なく学生会が取りまとめて提出してきたんだろうな。それには今回の噂について事実をはっきりさせてほしいと書かれてあったよ。そして事実ならそれなりの態度を示せと。要するに学園の風紀を乱すような疑惑のある理事長はいやだという、学生たちの正直な気持ちだろうな」
「そんなっ」
　うつむけていた顔をあげて和希を見る。和希は啓太のその視線を受け止めて苦い笑みを浮かべた。
「事の真偽を問いただすメールなら、俺の元にいくつか来ていたんだ。どう答えるべきか考えあぐねて、まだ一つも返信してはいなかったけどさ。だからおそらく個人で出したメールならそのままうやむやにされると思って、学生会を担ぎ出したんだろうな。学園のことを思えば、王様もここで学生会長として動かないわけにはいかなかったんだろう。リコールでなくて返答を求める要望書でとどめているあたりに王様の俺への気遣いが窺えるって言ったら、自惚れかな」
「和希･･･っ」
「俺が学生たちの前に現れて釈明できない以上文書で答えるしかないわけだけど、でも実際本当のことだから釈明もなにもないよな。――理事長が学生の一人に手を出している。権力を利用して自分の学園に通う学生に身体を強要している。年端もゆかない子供を言葉巧みに騙して無理やり犯した上に、他人に言わないようその立場を使って口止めしている。その学生は理事長の呼び出しに応じて、いつでもどこでも理事長の相手をさせられている――全部俺が聞いた噂で、そして事実だ」
「全然違うだろそれっ!!」
　瞬間的に頭の中が灼熱したような激しさで、啓太が思いきり叫んだ。
「全然違うじゃないか、そんなのっ!!　強要とか無理やりとか、そんなの無茶苦茶だ！　全然事実じゃないだろ、和希っ!!」
「事実だよ。はたから見ればまさにその通りだろ。当事者が違うと言ったところで、証明する手立てがない」
「証明できるよ！　だって俺は和希のことが好きだし、和希に抱かれたことだって強制的にされているわけじゃないんだから！　全部俺が和希のことを好きで、自分から望んでそうしているだけなんだからっ」
「俺たちの気持ちなんて、他人には関係ないんだよ。事実だけがすべてなんだからさ。啓太の言う証明だって、そのまま、それだけ理事長に言葉巧みに騙されているだけだってつながるだろ。それに実際未成年でもある学生を自分の欲望でよごして繋ぎとめていることには変わりない。分別ある大人、理事長職についている教育者の端くれとして、今俺がしていることは明らかに問題が――」
「そんな言葉で片付けるなよっ！　俺たちのことをそんな言い方でまとめるな！」
　ずっと握りしめていたスーツから手を離し、啓太はその手で拳を作って和希の胸元を勢いよく叩いた。一度だけでは終わらず、何度も繰り返して和希の胸を叩く。啓太の瞳からは涙があふれてあとからあとから啓太の頬を濡らした。
「だって俺たちはちゃんと恋愛してるだろ!?　噂で流れているような状況じゃなくて俺は子供のときから和希のことを知ってて、ベルリバティで再会するまでに長い時間があって、そのうえで俺たちはここに立っているんじゃないか！　理事長だとか学生だとか関係ない！　今がたまたまそうだっただけだ！　俺が和希を好きで和希も俺のことを好きでいてくれて、だから俺たちが互いの気持ちのままに身体を繋げたことを、世間の価値観なんかで判断するなっ。そんなふうに軽く片づけてほしくない！　だってそんな簡単な言い方で片づけられるものじゃないだろ、俺と和希のことは！」
「啓太･･･」
「･･････理事長が学生に手を出したっていうことがそんなに引っかかるのか？　ベルリバティの理事長として体裁が悪い？　世間の風評が気になる？　――だったら新たな噂を流せばいい。理事長が学生に手を出したんじゃなくて、学生の方が理事長を誘惑して利用しているだけだって。堅実なレールの上を歩いてきた理事長を身体で誘惑して、自分の都合のいいように振り回しているのはその学生の方なんだって！　理事長はただその学生に騙されただけだって広めればいいっ！」
「啓太っ」
　啓太を抱きしめようとした和希の腕からするりと身をかわし、啓太は和希から離れた。
「和希は、和希はただスキャンダルが怖いだけだろ!?　このまま俺と変わらずにつきあって決定的な証拠をつかまれて俺たちのことが表沙汰になったら困る――だから今のうちに俺を切り捨てたいだけだろ!?」
「それは違う。俺自身はスキャンダルなんか怖くないよ。ただ、啓太を巻き込むことだけが怖いんだ。･･････今の俺の立場じゃ学生たちの顔は堂々と見られても、きっと啓太の家族の顔はまっすぐ見られない――」
「･･･っ理事長と学生の立場をそんなに気にするなら、和希が理事長をやめればいいんだ。やめられないで俺を切ろうとするなら、和希はそれぐらいにしか俺のことを思っていないってことなんだろ。もう･･･いいよ。和希の望むとおりにしてやるよ」
　流れる涙を拭おうともせず、啓太はそのままあとずさって理事長室のドアに手をかけた。
「ここにも来ない。教室でも寮でも話しかけない。それでいいんだろ。――和希は矛盾しているよ。一人で抱え込んで泣くななんて言いながら、その当の和希が俺をこんなに泣かすんじゃないか！」
　そう言い捨てて、啓太は理事長室のドアを開けて部屋を飛び出した。