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　理事長室を飛び出したあと一気に下まで下りて、ドアの前で足を止める。両手で顔を覆い、啓太はうなだれた。
　胸に後悔ばかりが押し寄せる。
　本当は、和希にあんなことが言いたいんじゃなかったのに。
　和希を本気で責めているわけでもない。
　ただしばらく会わないほうがいいと言われて、さみしさのあまり和希に自分のぐちゃぐちゃな感情をぶつけてしまっただけなのだ。
　頭では、わかっている。
　和希がしばらく距離を置こうと言ったこともけして恒久的なものではないのだと。単に噂が落ち着くまでの間だけのことだろうとも。
　それでも気持ちを整理したいと言われて、すごくショックだったのだ。
　――和希は『噂が流れはじめてからずっと考えていた』と言っていた。噂が流れたときにすぐに客観的に事実を見据えていた和希と、噂の表面しか見えていなかった自分。
　今になってようやく啓太は、数日前に西園寺が言っていた言葉の意味を理解した。そしてあのとき和希がふさぎこんでいた理由も。
　常に年長者として自分のことを考えてくれる和希と、自分のことしか考えていない子供の自分との差を改めて知らされたような気がした。
「――なんなんだよ、もうっ！」
　学生たちの間に今流れている噂に対して、啓太は思わず癇癪を起こす。
「人のこと面白おかしく言いまわって！　くだらない噂なんかのせいで、なんで俺と和希がけんかしなきゃいけないんだよ！　理事長と学生が恋愛してたって別にいいだろっ。和希だってちゃんと理事長として仕事しているんだし、俺だって学生として勉強も頑張っているんだしさ！　そりゃあ、和希はたまに職権乱用するときもあるし、それは俺もどうかと思うときもあるけどさ･･･でも理事長だって学生だって、俺が和希をすごく好きになっちゃったんだからしょうがないじゃないか･･････」
　一度は涙を止めたのに、言葉の途中でまた涙があふれてきた。啓太はいつまでもうじうじ泣いている自分がいやで、切り替えるように制服の袖口で涙を拭った。
　好きになっちゃったんだからしょうがないというのが理屈になっていないことも、世間にはそんなのまかり通らないこともよくわかっていた。それでも自分の中に和希への想いがたくさんつまっているのは真実で、自分にはそれしかないのだ。
　啓太は噂に振り回されている自分自身に悔しさと憤りを感じ、また同時に和希への想いを再確認した。和希にずっと会えないくらいだったら、いっそ事実が表面化して世間にも親にもどう思われてもかまわない――そんなふうにさえ思う。自分のそばに和希がいてくれさえすれば。
　それでも今はとりあえず、この姿を誰にも見られないようにして寮に帰らなければならなかった。ここはまだサーバー棟の中で、今制服姿の学生がサーバー棟にいることを人に見られたらもっとまずい事態に陥る。だから啓太はドアを開けたら走ってここを離れられるように、気持ちと呼吸を整えた。
　だが。
「･･･あれ？」
　入るとき簡単に開いたドアは、なかなか開いてくれなかった。
　新たに手動で開かなきゃいけない鍵でもどこかにつけられたのだろうかとドアの上下を見直すが、それらしいものはどこにも見当たらない。
　いつもなら自分ひとりでも簡単にここから外に出られる。それが閉まっているということは。
　ドアのロックに何者かの意思が関わっている――そう啓太が気づいたときには、目の前にあるドアの取っ手に人の手がかかっていた。
　そしてもう一方の手が後ろから啓太を抱きしめる。
「――っ」
　視界に飛び込んできた手と自分の身体を抱きしめる腕の感触に、啓太は自分の心と身体がかすかに震えたのを自覚した。自分を強く抱きしめるその腕の感触は振り返るまでもなくこの身体にしみこんでいる。
　啓太の肩に、頭の重みが加わった。
「な、に･･･してるんだよ。ここ、サーバー棟の入り口だぞ。和希、スーツ着てるだろ。こんなとこ人に見られたら、ますます大変なことになるんじゃないのか」
「･･････」
「ここ外から見えるんだぞ。なのにこんなことしたら･･････和希っ！」
「･･････ごめんな。俺の力が足りなくてさ。本当に啓太の言うとおり俺は矛盾しているよな。･･･また、啓太を泣かせちゃったな」
　背後から啓太を抱きしめる和希の腕にも肩に乗せられた頭にも、わずかな揺らぎもない。ガラス製のドアを通して外からここの様子が見えるにも関わらず啓太から離れない和希の腕に、啓太は自分の手を重ねた。自分の中にある想いのままその手に力を込める。
「･･･和希にあんなこと言われたら、俺がショック受けるの当然だろ。そんなこともわからなかったのかよ」
「俺の問題に、とにかく啓太だけは巻き込みたくなかったんだ。少しでも俺から離れてなにもない安全なところにいてくれればって、そう思ってさ･･･」
「俺の問題ってなんだよ！　噂のことは俺たちの問題だろっ。そんなふうに俺だけ突き放す言い方よせよ。もう俺だって、なにもできない子供じゃないんだからな！」
「そうだな。でも啓太が大切すぎてさ、どうにか守りたいってつい思っちゃうんだよな」
「守りたいって言われるより、一緒に頑張ろうって言われたほうが俺はずっとずっと嬉しいよ。和希に突き放されたらさみしいし、俺が和希のためにできることはなにもないって言われているみたいでつらいよ」
「･･････俺は、啓太に甘えてばかりいるよ」
「だったら今度だって甘えればいい。俺に助けてほしいってしがみつけばいいだろ。･･････俺は和希さえいてくれればなにも怖くないよ。和希が気にしていることも俺にすればたいしたことじゃない。人にどう思われても、和希が俺を好きでいてくれれば全然関係ないよ。和希さえかまわなければ･･･」
「啓太･･･」
　ドアにかかっていた和希の左手が啓太の顔に触れた。そのまま首をゆるく曲げられる。
　後ろから抱きしめられたまま、啓太の唇は和希の唇によってふさがれた。
「･･････馬鹿。ほんとにこんなとこ人に見られたら、どんな言い訳もきかないぞ。ここ、外から丸見えだろ。中に俺たちがいるのばればれ･･･」
「もし今人に見られたら、そのときはそのときだな。俺も覚悟を決めるよ」
「･･･覚悟ってなんだよ」
「啓太の言うとおり、俺がベルリバティの理事長をやめればまた少し事態が変わるだろ。情報漏洩問題のときにもＭＶＰ戦のときにももう何度もやめる心積もりはしていたんだから、もう一度そういう気になっても大して変わらない」
「変わるよ！　あんなの俺が無茶言っただけなんだから本気にするなよ。和希が理事長をやめなくったって、どうにかこの状況を落ち着かせる方法はきっとあるよ。今までは全然なんの問題もなかったんだし、とにかくこの噂が落ち着けばいいんだから･･･」
「今までも本当は問題だらけだったんだよ。噂がなくても俺が自分の立場も省みず学生である啓太に手を出している事実は変わりないだろ」
「和希、だからそれはっ」
　自分たちは互いの恋愛感情で対等に恋愛しているのに、まるで和希が一方的に自分に手を出したような言い方をされて啓太は先程のようにすぐに言い返そうとした。
　だが、啓太はその続きを口にすることができなかった。
「･･････っ」
　和希が後ろから啓太の首筋に顔をうずめ、啓太を抱きしめていた手が制服の上をすうっと滑る。また和希の左手が啓太のブレザーの中に忍び込んだ。
「でもこれまでは俺がその問題を無視してきただけだ。啓太が欲しくて、啓太を手離したくなくて、全部わかってて無視してきた。理事長室で学生である啓太を抱くことが世間的にどういう意味を持つか、俺は最初から知ってた――わかってて、なにも気づいてない啓太を巻き込んだんだ」
「た、確かに俺はそのときなにも気づいてなかったけど、でも世間的にどうであっても、俺と和希が恋愛していることには変わりないだろ。俺が和希に巻き込まれたわけじゃないよ。それに最初から気づいてたのならそのままずっと無視し続ければいいじゃないか。いまさら周りの目を気にすることなんかないだろ」
「･･････じゃあ、開き直ってもいい？　啓太を巻き込むかもしれないけど、俺は理事長でありながら自分の学園のいたいけな学生に手を出してますって認めても？」
　和希の右手が啓太の脇腹を滑り下り、左手はシャツの上から啓太の胸に触れた。
「！」
「もともと事実は変わらないけど、啓太と距離をおいてそれを隠す努力ももうしなくていいのかな？」
「だから、理事長と学生だけど恋愛してますってことなら俺は誰に対しても堂々と言えるよ。でも――隠さなくていいことと、こっちからあからさまに見せることとは全然別なんだからな、和希っ！」
　脇腹を滑る和希の手がさらに下がるのを感じて啓太は声をあげた。和希の手をどうにか止めようとその手をつかんだが、それでも和希の手の動きは止まらなかった。
「でも、いっそこの方が話が早いだろ？」
　和希の手が躊躇なく啓太のズボンに移り、その一方でシャツごしに啓太の胸を探る。
「ば、馬鹿っ、やめろって。ここ･･･っ」
「外から丸見え、だろ。わかってるよ」
「わかってるならやめろよ、和希･･･あ･･･っ」
　和希に首筋をきつく吸われ、思わず啓太の唇から甘い声が漏れた。
　足元がふらつき、啓太は自分の身体を支えるために目の前のドアに手をつく。
「ここで人に見られたら、話は簡単だろ。噂が噂でなく事実として認識される」
「和希、変わり身早すぎ･･･。ほんとにしゃれにならないだろ。誰かにこの姿見られたら、和希が理事長だってこともばれちゃうんだぞ」
「ここでコスプレして啓太と遊んでましたって言っても、ごまかせないかな」
「なんのコスプレだよ。第一、サーバー棟の中に学生がいること自体おかしいだろ」
「じゃあ、俺と啓太の二人して理事長に呼び出されたってことにするとかな」
「だから和希、スーツ着てるだろ。和希はスーツ着てるとちゃんと大人にも見えるんだから無理だよ！」
　啓太が声をあげると和希の手が一度とかれ、再び制服の上から啓太を抱きしめてきた。
「――ややこしい立場の人間でごめんな」
「･･･なに言ってんだよ。和希は和希だろ。俺は和希を好きになったんだからな。和希の立場とか抱えているものが俺には関係ないとは言わないけど、ただの一人の人間としての和希を好きになったんだからさ」
「･･････噂のこと、どうにかするよ。だから少し時間がほしい。啓太にはそれまで待っててほしいんだ」
「待っててってつまり、結局はさっきの、しばらく会わないほうがいいってやつだろ」
「･･････」
　啓太の拗ねた口ぶりに、和希が押し黙る。なによりも雄弁な和希の答えに、啓太はますます唇を尖らせた。
「和希は結局、俺がなにを言っても自分の考えを変えないんだよな。俺がいやだって言っても、二人で一緒に頑張ろうって言っても、子供のたわごとだって決めつけて流すんだ」
「そういうわけじゃないよ」
「実際そうだろ。――開き直るって言ったくせに」
「･･･啓太･･･」
「和希は俺をほったらかしにしても平気なんだよな」
　そう口にしながら、啓太は自分でも嫌な言い方だなと思った。
　これが自分のわがままだということは、啓太も自覚しているのだ。和希はなにも自分を嫌いになったからそんなふうに言い出しているわけではないと、重々承知している。むしろ自分のためを思ってそう言ってくれているのに。
　それでも和希に「しばらく会わないほうがいい」と言われた心が悲鳴をあげるのだ。
「啓太･･･」
　啓太を抱きしめていた和希の手が、啓太の身体を優しく振り向かせた。肩に手を置かれ、和希が自分を見つめている視線とぶつかる。
「啓太。俺はもう開き直ってるよ。でもやっぱりこれは俺の問題なんだ」
「だからそれはっ。和希一人の問題じゃなくて、俺たちの問題だろ！」
「学生たちから理事長に対する不信の声があがったのは、やっぱり俺の理事長としての責任なんだよ。学生たちが理事長に不信を抱くような土壌を俺が作っていたってことだ」
「そんなことないよ！　あんなのみんなが好き勝手に言ってるだけだろ！　和希の責任なんかじゃないっ！」
　和希の瞳の中にある揺るがない光に負けたくなくて、啓太は声を張り上げる。だがそうしたところで、和希の視線は変わらなかった。
　啓太を説得しようとするような、啓太の気持ちをときほぐそうとするような視線。
　大人としての、譲らない瞳。
「啓太とまた堂々と会えるために、俺は理事長として学生たちの声に答えてくるよ。啓太と付き合うことはやめられない、啓太を手離すことはできない。そうするぐらいなら俺は理事長をやめる。でも啓太がやめるなって言ってくれたから、俺は俺なりに自分の義務を果たしてくるよ。啓太と向き合うために」
　和希の真剣な表情に、啓太の胸がちくりと痛んだ。和希がここまで決めてしまったのなら、もうどんなに言っても和希の意志を変えることはできない。
　和希は実際に、自分と距離を置こうとしているのだ。
「――どのくらい」
　啓太は震えそうになる声をどうにか押さえて聞いた。
「･･･事態が落ち着くまで」
「人を待たせるなら十日以内にけりをつけろよ！」
「わかった。頑張るよ」
「･･････」
　その返事を聞いたあと啓太は和希から顔をそらした。
　顔をそらした啓太の視界に、いまさらのように飛び込んできたものがあった。啓太はそちらにゆっくりと手を伸ばす。
　向こう側が透けて見えるガラスの冷たさに、啓太はふと呟きを落とした。
「･･････でももしここで、本当に俺と和希の姿が人に見られて俺たちのことがばれたら、俺が待つなんてことも意味のないことになるよな」
「そうだな。今人に見られたら、俺が啓太と距離をおく必要はなくなるだろうな。勿論もっとすごい状況になると思うけど、そのときはずっと啓太のそばにいるよ。啓太のすぐそばでおまえを守りたいから」
「――じゃあ･･･」
　啓太は触れていたガラスのドアから手を離した。
　和希に向き直って、自分が着ている制服のジャケットのボタンに手をかける。視線は和希に定めたままで。
「和希、キスしてくれよ。ここで、さっきみたいな軽いキスじゃなくて本当のキスを」
　啓太の指によってボタンがはずされていく。ジャケットのボタンをすべてはずし終えたあと、啓太の指はネクタイとシャツにかかった。
「和希と会えない間、俺が寂しくないようにキスして」
　ボタンがはずされた白いシャツの下から啓太のなめらかな肌が露になっていく。それから啓太は和希に向けて手を伸ばした。
「――いいよ」
　啓太の瞳を受け止めて、和希は自分のネクタイをゆるめた。