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　まばたきをしても、目の前にいる人は消えたりはしなかった。
　手を伸ばして服をつかんでも、その手が素通りすることはなかった。
「か、和希っ！」
　呼ぶ声に、すぐさま笑顔で返してくれる。そこにいるのはまぎれもなく和希本人だった。
　――七日ぶりに。
「和希、おまえ、今まで･･････いや、じゃなくて、俺宛てのメール、あれはなんだよっ。それに和希うちに･･･っ」
　両手で和希の服をつかみ、慌しく問いをぶつける啓太の背中を、和希が笑いながらあやすようにさすった。
「質問なら全部、あとでちゃんと答えてあげるよ。まずは啓太、少し落ち着けよ。俺は消えたりしないし、もうどこにも行かないよ。ちゃんと啓太のところに帰ってきたんだから」
「お、落ち着いてなんかいられるわけないだろ。だって和希っ」
「質問よりも先に俺は啓太に言ってほしいことがあるんだけどな。俺は、啓太にただいまって言ったんだよ」
　啓太の額に自分の額をくっつけて、和希が啓太に向けて囁く。
　久しぶりのその距離に動揺し、啓太はいっそう落ち着きをなくした。
「･･･っ、ちょ、ちょっと待てよ和希、少し離れろよ。そんなに近づいたら」
「近づいたら？」
「し、刺激強すぎるだろ。久しぶりなんだからもっと加減しろよ。じゃないと俺っ」
「じゃないと？」
「――おまえらいい加減にしろよ！　特に遠藤、わかってて人のこと無視してんだろ」
　唐突に割り込んだ声を聞いて、啓太はこの場に丹羽がいることをいまさらのように思い出した。
「お、王様っ」
「王様、まだいたんですか？　無粋ですよ」
「ふざけんな。あとからやってきて割り込んだのはてめえのほうだろうが。出てきたら出てきたで発情期みたいに啓太に擦り寄りやがって」
「発情期はまあ否定しませんけど、ベルリバティでは恋愛は自由なんですから王様に咎められる理由はありませんよ。だから邪魔しないでください」
「けっ、初耳だな。男だけの学園に恋愛の自由もなにもねえだろうが。第一自由じゃねえからこそ、今回みたいな問題が起こってんじゃねえのか遠藤理事長さんよ」
「自由ですよ。理事長が恋愛しちゃいけないなんて決まりは、校則にも理事会の会則にも載っていませんからね」
「･･････和希、理事会の会則にそんなことが載っていないのは当り前じゃあ･･････」
　小声で突っ込みをいれた啓太は、目の前に立つ和希が制服姿でないことに気づいて声をあげた。今まで和希が現れたこと自体に驚いていて、そこまで注意が向かなかったのだ。
「か、和希！　その格好っ！　そんな格好でこんなところにいたらやばすぎるだろ!?」
「ああ。でも大丈夫だよ。人に見つかったときの言い訳はちゃんと考えてあるからさ」
「言い訳って･･･なんだよ。またコスプレとかなんとか言うんじゃないだろうな」
「よくわかったな」
「馬鹿！　そんなんでごまかせるわけないだろ!?」
「じゃなかったら手芸部の作品とでもなんとでも。･･････ほんとは、早く啓太に会いたくて着替えまで気が回らなかったんだ」
「和希･･････」
「･･････おまえら今が昼休みだってこと忘れてるだろ。啓太も遠藤も午後の授業があるんだろうがよ」
　白々とした声が再び割り込み、啓太に現実を思い出させた。啓太ははっと我に返り、自分の腕時計で現在時刻を確かめようとする。
　だが時刻を読み取る前にその腕が時計ごと和希の手につかまれた。
「和希!?」
「俺がいない間学園のことや啓太のこと、いろいろとありがとうございました王様。王様みたいな人がいて俺も助かりますよ。もちろん啓太をいじめていたのはいただけませんけどね」
「いじめてなんかいねえだろうが。ただ今回のことはてめえの自業自得で、相変わらずの詐欺師野郎だって話を啓太としていただけだ。てめえの卑怯さは、前んときと全然変わっちゃいねえよ遠藤。いや、面の皮は前よりも厚くなったのかも知れねえけどな」
「それくらい、俺が啓太と付き合えて、そして啓太を守れるのならたいしたことじゃありませんよ。むしろ褒め言葉と言ってもいいくらいです。さっきも言ったように理事長だからって恋愛しちゃいけないわけじゃない。俺が俺であることで啓太を守れてそして啓太と一緒にいられるのなら、嘘くらい平気でつけますし、他人になんて言われようとかまいませんよ。俺には啓太がいれば充分なんですから」
　啓太の腕をつかんだまま言った和希のその言葉に、丹羽はさらに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「啓太と似たようなことを言ってても性根の腐り具合が明らかだな遠藤。嘘をついてでも一人の学生に手を出すことを優先するようなそこらのスケベ親父と変わんねえやつがこの学園の理事長なのかと思うと、頭痛いぜ」
「王様、そんな言い方って！　それに俺はっ」
　丹羽に向けて反論しようとした啓太を腕にやんわり力を込めることで制し、和希は落ち着いた声で丹羽に言い返した。
「啓太の次ぐらいには、ちゃんとこの学園のことも学生たちのことも考えてますよ俺は。王様にも送ったメールでそれは伝わったと思いますけど？」
「あんなふざけたメールでなにが伝わるってんだよ」
「王様に感謝しているのも、王様の能力を認めて期待しているのも全部本当のことなんですけどね。まあとにかく王様に心配されなくても俺は啓太を守りますし、この学園だって俺のことでこれ以上の騒ぎにはさせませんよ。それに次に今回のような事態になったときの覚悟もできています。そのときはできるだけ学園の中をかきまわさないように潔く手を引きますよ」
「けっ。その言葉しっかり覚えとくんだな」
「言われなくても忘れませんよ。それじゃあ啓太、行こう」
「和希!?　行こうって、どこに行くんだよ」
　和希に腕を引っぱられたものの、丹羽の視線が気になって啓太は躊躇した。結局まだ時間を確かめられていないが、そろそろ昼休みが終わるころじゃないだろうかと思う。スーツ姿の和希はともかく、啓太自身は本来このまま教室に戻らなくてはいけないのだが。
「着替えに行くんだよ。やっぱりちゃんと制服に着替えなきゃいけないだろ？　啓太もつきあってくれよ」
　和希は自分のネクタイを軽く引っ張って、啓太を振り返った。
「ああ、そうか。それぐらいなら･･････」
「いい大人が一人で着替えもできねーのかよ」
「一人でできることを人にやってもらうのが大人の醍醐味なんですよ。王様もそのうちわかりますよ」
　丹羽の声に悠然とそう返し、和希はさらに啓太の手を引いた。
「冗談だろ。あーあ、時間と場所も考えられねえようないい加減な大人にはなりたくねーな」
　和希と啓太の背後で丹羽がそうぼやいたのが、啓太の耳にも届いた。



　中庭を離れて二人でサーバー棟へ向かう。和希が手の位置を替えてくれたので啓太にも現在の時刻が確認できたが、やはり昼休みは終わりかけていた。この分だと和希の着替えの途中で授業が始まってしまうだろうと啓太は推測する。
　それでもここで和希の手を振り払って一人だけ教室に戻る気にはなれなかった。つないだ手から感じる和希の体温がやけになつかしくて、人に見られる可能性もあるのにずっとこのままでいたかった。会えなかったのはたかが数日なのに、少しでも和希と一緒にいたくてたまらなかった。
　昼休みの終わりという時間が幸いしたのか、サーバー棟につくまで二人はだれにも会わなかった。和希はすぐにサーバー棟の鍵をといてドアを開け、啓太に中に入るよう促した。啓太は念のためにあたりを確認してから、サーバー棟の中に体を滑り込ませた。
　和希についてサーバー棟の中を歩くうちに、啓太はここでは本当に和希と二人きりなんだという実感がわいてきた。周りの目を気にせずどんな話でもできる。和希にはたくさん聞きたいことがありたくさん答えてもらう必要があったが、まずは一番最新の疑問から答えてもらうことにした。
「なあ和希」
「ん？」
「さっき王様が言ってた、時間と場所も考えられないようなって、どういう意味だろうな」
「･･････」
「着替えるのに時間とか場所とかって関係ないよな？　和希が今理事長室で着替えたって、別に悪いことじゃないだろ。それとも学園に戻ってくるんならあらかじめちゃんと制服を着とけとか、どうせ着替えるんなら寮で着替えろとか、王様、そういうことを言いたかったのかな。でもその格好で寮まで帰ったら確実に人に見られることになるし･･････」
「啓太、おまえ全然わかってなかったんだな」
　和希が小さく溜息をついたのが、後ろを歩く啓太にもわかった。
「え？」
「じゃあ俺が着替えに行くって言った意味もわかってないんだな」
「な、なにがだよ」
　そこで和希は足を止め、辿り着いた理事長室への扉を開けた。
　手をつないだまま啓太を部屋に招き入れ、そして扉を閉めるなりすぐさま啓太の身体を抱きしめた。
「えっ、和希!?」
「俺はもう、待てなかったんだ」
「――」
「ここまで我慢するのがやっとだった。中庭で･･･王様の前で、啓太にキスしなかっただけでも褒めてほしいよ俺は」
「和･･･っ」
　希、と言いきる前に和希の指にあごをすくわれた。そのまま、和希の唇が押しつけられる。
　突然のキスに驚いた啓太の唇をすぐに割り、和希の舌が強引に差し入れられた。
「っ･･････！」
　和希の勢いによろけた啓太の身体が、和希に抱きしめられたまま理事長室のドアにあたる。和希は自分の腕を解き、さらに啓太を追いつめるように強引なくちづけを仕掛けながら、啓太をドアと自分の身体との間に挟みこんだ。
　逃げ場のない啓太の口腔を和希が犯す。丹念に歯列をなぞり、動揺して奥に縮こまった啓太の舌を引き出し、執拗に絡み合わせた。二人の唇の合間からもれる濡れた音は激しさを増し、啓太の震える吐息は和希の中にのみこまれていく。
「ん･･･っふ･･･っ、か･･･んんっ･･････」
　顔を動かしてキスから逃れようとしても和希の手がそれを許さず、和希の身体を押しやろうとしても啓太の身体に密着した和希が離れることはなかった。
　啓太の背中をぞくりとなにかが駆け抜けるころになって、ようやく和希が啓太を解放した。
「･･････か、和希、やり･･･すぎ･･･っ」
　顔を真っ赤にさせた啓太が、手の甲で唇を拭いながら和希を睨みつけた。
「やりすぎてなんかいないよ。やりすぎっていうのはこんな程度じゃなくてもっと･･････」
「ちょ、ちょっと待て！　ちょっと落ち着けよ和希！」
「やっぱりまだ足りないな･･･」
「だから待てって！　俺にも心の準備ぐらいさせろよ。じゃないと集中できなくて俺がつまんないだろ！　俺のこと置き去りにして和希だけで楽しむなよ――って･･････」
　啓太に再び顔を寄せていた和希が、それを聞いて思わず、といったふうに吹き出した。口元を手で覆ってしばらく笑い続ける。
「つ、つまらない、って･･････集中できないとキスがつまらないって･･･。啓太の発想てほんとに･･････」
「わっ、笑うなよ！　だって本当にこんなのは――」
「そうだな」
　笑いをおさめた和希が改めて啓太を見た。それから手を伸ばし、啓太の頬に優しく触れる。
「ごめんな。さっきは啓太に落ち着けって言っといて、今は俺が落ち着いてなかったよな」
「そうだよ。お、俺は消えたりしないし、もうどこにも行かないんだからな！」
　中庭での和希の言葉を使って啓太が言い返すと、和希の唇がかすかに笑みの形になった。頬に触れていた手をゆっくり滑らせながら、和希が啓太の耳元に唇を寄せる。
「それに、今日はもう時間はたっぷりあるんだから焦ることはないよな」
　耳元で囁いたあとそのまま啓太の耳朶を甘噛みする。途端、啓太の身体の中を先程のキスのときのようななにかが走り抜けて、啓太は困ったように和希を見返した。
「――おいで」
　そんな啓太の気持ちを知ってか知らずか和希は啓太から離れると、その手をとって部屋の中へと導いた。理事長の机の前まで進み、そこで改めて啓太を振り返る。窓から差し込む午後の陽光を背に、和希は机に軽く寄りかかって啓太の視線を正面で受け止めた。
「啓太、もう一度だけ言うけど。ただいま」
「･･････あ、おっ、おかえり！」
「なんでそこでつまるんだよ」
「･･････いきなり言われたからすぐに返せなかっただけだよ」
　和希の視線での追求を、目を伏せることで避ける。こちらを振り返った和希に思わず見とれていたなんて、なんだかしゃくで、とても口にできなかった。
「まあいいけどな」
「それより、いつまでこの手つないでるんだよ？」
「ずっと」
「和希」
「せっかく啓太のところに帰ってきたんだからこれぐらいいいだろ。ちゃんと啓太のところに帰ってきたんだって、俺に実感させてくれよ。それとも、やっぱりさっきの続きしてもいいか？」
　つないでいた手の指の組み方をより深いものに変えて、和希が啓太に向けて視線を流す。
「焦らないって言ったのはどこの誰だよ･･･」
「焦ることはないって言ったけど、俺が今ものすごく我慢してて、啓太が全然足りてないのは変わらないよ。ただ俺は啓太の『心の準備』を待ってるだけだよ。やっぱり啓太もその気になって集中してくれないと、俺もつまらない、からな」
「か、和希･･････」
　困り果てたように啓太は和希の名前を口にした。そう言われてみると、今は和希の言動が比較的落ち着いているものの、視線の熱っぽさはさっきと変わっていないように思えた。
　和希の瞳に誘われ、つないだ手は和希の肌と熱を思い出させる。――触れているのは和希の指。
「･･････っ」
「そういえば啓太、俺に聞きたいことがあるんだろ？」
　啓太が息苦しさを感じはじめたころ、つないだ手は離さないまま和希が別のことを口にした。
「･･･え？」
「聞きたいこと、なんでも言ってみろよ。全部、ちゃんと答えてやるからさ」
　和希に促され、啓太は無意識に安堵の溜息をこぼした。
「そ、そうだよっ。和希に聞きたいことや言いたいことなら山ほどあるよ！　ちゃんと全部、順番に答えてもらうからな！」
「わかってるよ。まずはなにが気になるって？」
「み、みんな理事長からの突然のメールに驚いてたぞ。あれ、やっぱり学生全員に送ったのか？」
「ああ、全員に送った。みんな俺の学園の大事な学生だし、俺が日頃思っていることをなにかの機会に伝えたいってずっと思っていたからな。啓太には俺のところに学生たちからいくつかメールがきているって話したと思うけど、そのメールの返事だけじゃなくて、他の学生たちにも俺からメールを送りたかったんだ」
「全員に送るのは大変だったんじゃないのか？　書くだけでも大変だし、ましてや一人一人内容が違うんだろ？」
「同じ内容のものなんて送れないよ。それじゃあメールを送る意味がない。学生一人一人は別個の人間で、俺が彼らに伝えたいこともそれぞれに違うんだからさ」
　落ち着き払った態度で返事を返す和希を、啓太はまじまじと見つめてさらに質問を重ねた。
「･･･和希がメールを送りたかったのは、理事長に対する学生たちの信頼を取り戻すため？」
「別にそこまでの明確な目的はなかったよ。勿論この時期にメールを送ったのは今回のことがあったからだけど、ただ俺はこれまで、理事長として自分の学園の学生とちゃんと向き合うということをおろそかにしていたかなって思っただけだ。それが理事長への不信を生み出す原因の一つでもあったなら、俺が日頃思っていた言葉だけでも学生たちに伝えようと思ったんだ。勿論ずっと返事を返していなかった学生たちの質問や要望書には答えなきゃいけなかったし、とりあえず結果は二の次にして、学生たちに誠意を持って対応しようと思ったんだよ。だから、単に俺が普段思っていたことを書いただけだし、メールを送ること自体は特に大変とも感じなかったな」
「――」
　そう言った和希の表情を見て、啓太は目の前にいる人が“理事長”であることを改めて実感した。自分がよく知る恋人でもあるけれど、今目の前にいるその人は広い視野と深い見識とを感じさせる大人の顔をしている。これまでメールや要望書の返答の話を聞いて、和希の行動に“理事長”を感じたときにもぼんやりと想像してはいたが、実際に見たその表情に啓太は惹きつけられた。
「そういえば、理事長からのメールについてみんななにか言ってたか？」
　和希に逆に質問されて、啓太ははっと我に返り、少々意地悪く答えた。
「うん、言ってたよ。いきなり変なメールがきて気持ち悪いって」
「･･････」
「誰かの悪質な嫌がらせかと思ったって」
「･･････」
　啓太の言葉に、和希が憮然とした表情を浮かべる。それを見て啓太は吹き出した。
「なんて、嘘だよ。俺が知る限りみんな喜んでたよ。理事長からのメールに感激してた。理事長のこといい人だって言ってて･･････だからそれ聞いて、俺もすごく嬉しかった」
「啓太･･･」
「ただ、王様や西園寺さんには本当に不評だったみたいだけどな。突然あんなメールを送るなとか、虫唾が走るとか、ウィルスよりたちが悪いとか言って、西園寺さんは本当にいやそうだったぞ」
「ウィルスって･･･。あの人たちには、より本気で日頃思っていることを書いて送ったんだけどな。いつも感謝しているのは本当だし、頼みにしているのも、今後に期待しているのも事実なんだけどな」
「たとえ事実だとしても、やっぱりそこは本人を知っている分気持ちが引くんじゃないか？　っていうかそもそも和希、本当は西園寺さんや王様の反応なんとなくわかってて送ったんじゃないのか？」
　啓太がふと思いついて確認すると、和希は視線をそらしてごまかすような笑みを見せた。
「さあ･･･どうだったかな」
「やっぱり･･･」
「でも王様たちはともかくとして、他のみんながそのまま俺のメールを受け止めてくれたのならよかったよ。メールを送ったあと、学生たちからいくつか返事をもらったから、多少なりとも喜んでくれた学生がいることはわかってたんだけどな。でもそういう学生は一部という可能性もあったしさ」
「え？　返事!?」
　これまでまったく考えもしなかったことを言われ、啓太が驚いて声をあげる。確かに考えてみれば送られたメールに返事を返すのはけして不思議なことではない。ただ自分がメールの内容に驚きすぎていて、その選択肢をすっかり忘れていただけなのだ。
「俺は一方的に送ったつもりだったんだけど、中には律儀な学生もいたってことさ。篠宮さんなんか速攻で返信してきたよ。メールの内容も篠宮さんらしくて、読んでいるこっちのほうがそこまで恐縮しなくていいからって言いたくなったよ」
「返事･･････」
「ああ、そういえば啓太からの返事はなかったな。俺、啓太だけは期待してたんだけどな･･････」
「なっ、なっ、だってあんなメール･･････そうだよ、なんだよ俺宛てのあのメールはっ！　和希の本名であんなの送ってきて、それこそ人に見つかったら大問題だろ!?　みんなに俺にきたメールの内容のこと聞かれたら、なんて答えればいいんだよ。俺、嘘ついてうまくごまかす自信なんかないぞっ!?」
「そりゃあ啓太にメールを送るとなったら、やっぱり俺が一番伝えたい言葉があれだったんだ」
「だからってあれはやりすぎだろ･･････」
　啓太が脱力してそう呟くと、啓太の腰をさらうように和希の腕が回され、和希が啓太の顔を覗き込んで聞いてきた。
「啓太はあのメール、嬉しくなかった？」
「･･････っ」
「むしろあんなの送られてきていやだった？」
「いやなわけ･･･ない。そりゃ、すごく･･･嬉しかったよ･･････。でもそれとこれとは･･･」
「ならよかった」
　啓太が答えた途端に和希が嬉しそうに笑ったので、啓太は続けようとしていた言葉を飲み込むしかなかった。
「やっぱり啓太に喜んでもらえないとさみしいもんな。まあ、ちょっとは啓太を驚かせてみたいっていう悪戯心もあったんだけどな」
　啓太の身体をかき抱いたまま、和希が啓太の頭にキスを落とす。
「悪戯であんな危ないことするなよ･･････」
「俺の名前のことなら大丈夫。実はあれ、メールを開いてから一定の時間が経つと自動的に削除されるようになっているんだ。だからもう今頃は消えているはずだよ。残っているのは啓太と俺の記憶の中だけ」
「えっ!?」
「安心した？」
「安心･･････う、うん･･･」
　そう言って頷いたものの、啓太の中には消えてしまったことを惜しむ気持ちもあった。
　人に見られたら問題になるとわかっていても、和希からの想いのこもったメッセージだからできたらそのままずっと取っておきたかったのだ。人目を心配する気持ちと矛盾するけれど。
「『ほんとは消さずに取っておきたかったのにな。だって大好きな和希からの愛の言葉だから』」
「か、和希!?」
「って、啓太の顔に書いてあるよ。本当は消してほしくなかったんだろ。かわいいな、啓太は」
「わっ」
　目の縁に、和希の唇を押し当てられる。啓太は驚いて身を竦めた。
「そ、そんなこと･･･」
「あるんだろ？」
　優しい声でそう言われると、啓太としてはもうそれ以上否定できなかった。小さく頷いてその気持ちを素直に認める。
「あれぐらいいつだって言ってやるよ」
「形に残るものと言葉とはまた違うんだよ･･･」
「そういえば、俺はまだ啓太の返事を聞いてないんだけどな」
「返事？」
「俺が送ったメールの返事。ここで聞きたいな」
　啓太の身体を抱く腕に力が込められた気がした。和希とずっとつないでいる手も、お互いの熱で熱くなっている気がする。
　こうして密着していると、本当に和希が目の前にいることが身体で実感できた。
　和希からのメールが送られてきたときは、部屋に一人きりだった。だからメールに込められた想いは嬉しかったけれど、でもどこか寂しさも感じさせられた。
　今はこうして、和希がそばにいて自分を見つめてくれている。
　だから啓太は面と向かって答えることの恥ずかしさを押しやって、和希の目をまっすぐに見返した。
　メールを見たときと同じ気持ちを、さらに熱を込めて口にする。
「俺も、愛してるよ。だから和希に早く帰ってきてほしかったんだ。ずっと、会いたかった――」