――あなたがほしいのはどんな啓太ですか？



　その日、和希は夢を見た。
　深い森の中を啓太と手をつないで二人で歩いている夢だった。
　隣を歩く啓太は相変わらずかわいくて、ただ一緒に歩いているだけでも和希としてはとても楽しかったが、やがて二人は大きな池の前で足を止めることになった。どこか神秘的な雰囲気が漂う池を見て和希は躊躇したが、啓太は子供のようにはしゃいで池のそばに近づいていった。
　その啓太が和希の目の前で足を滑らせた。慌てて啓太を助けようとしたが、啓太はそのまま池の中に落ちてしまった。和希は自分も池の中に入って啓太の身体を引き上げようとしたが、和希が飛び込む前に、池の中から白い服を着た半透明の人間が現れた。
　実際には生きている人間とはとても思えず、またただ布を巻きつけただけとしか思えない服を身に着けたそのあやしい人物は、和希の姿を認めるとおもむろに言葉を発した。
「今あなたは、この池の中に伊藤啓太を落としましたね？」
　呆然としている和希の目の前で、その人物はさらに続けた。
「ではあなたに、あなたが望む伊藤啓太を返してあげましょう。あなたがほしいのは普通の啓太ですか？　それとも積極的で甘えっこの啓太ですか？　それとも、あなたなしでは生きられない啓太ですか？」
　問いを向けられて和希は口を開いた。
　数瞬のためらい。
　そして――。
「……俺は…」



　和希が目を開けたとき、隣りにはぐっすり眠っている啓太がいた。夕べ仕事から帰ってきたときに、そのまま啓太の部屋を訪れてことに及んでしまったらしい。いつもながらに年下の恋人にいれ込んで節操のない自分に苦笑しつつ、和希は身を起こした。
　夢の中の記憶がぼんやりと残っている。
　よくわからない夢だったが、和希は展開が似てる寓話があったことを思い出した。寓話はきこりが斧を落とす話だったが、夢の中で池に落ちたのは啓太だった。そのうえ、どんな啓太を返してほしいか問われて。
　普通の啓太と積極的な啓太と自分なしでは生きられない啓太。
　はたして、夢の中で自分はなんと答えたのか。和希の記憶の中には、自分が口にした答えに関する記憶は何も残っていなかった。
（積極的な啓太っていうのも、まあおいしいけどな…）
　隣りで眠っている啓太の寝顔を見つめながら和希は思う。もう何度も抱いているのに、いつまで経っても慣れず、初々しい啓太。その啓太が、たまには自分から大胆に誘ってみせるというのもいつもと趣向が違ってなかなかいいかもしれない。
「なんてな」
　呟くと、啓太の頭がもぞりと動き、啓太が目を開けた。
「おはよう啓太」
「…おはよう和希」
　ぼんやりとした声で挨拶を返してくる啓太に、和希は悪戯心を刺激されてそのまま啓太の唇を自分の唇で塞いだ。
「……んっ…和希！」
「おはようのキスだよ。目が覚めたか啓太」
「……覚めたよ」
「ならよかった。そろそろ起きて仕度しないとな」
「わかってるよ…」
　和希に促され、啓太がベッドから身体を起こす。和希も、自分の服を拾い朝の仕度をはじめた。
　顔を洗い、髪を整えたところで、和希はふと啓太の視線を感じた。振り返ると、まだベッドに座り込んだままの啓太がこちらを見ていた。
「啓太？　まだ寝ぼけているのか？　もう一回目覚めのキスをしてやろうか。うーんと濃いやつな」
「い、いいよ」
「じゃあ俺の背中に見とれてたとか？　心配しなくても、ゆうべは背中に傷なんかつけられなかったよ」
「そんなこと誰も言ってないだろっ」
　からかうように言った和希の言葉にむくれて、啓太がベッドから下りて立ち上がる。
「じゃあな、啓太。俺いったん自分の部屋に帰るよ。また食堂でな」
「うん。十分後には俺も食堂に行くよ」
「ああ。…と、そういえば啓太。今朝は教室に行く前に学生会室に寄らなきゃいけないって言ってたよな。それ、俺も付き合ってやるからな」
　自分の部屋に帰るためにドアに足を向けた和希がふと思い出して言った。昨日の昼に啓太から聞いた話だ。またいつものように、丹羽からの頼まれごとを引き受けたらしい。
「なんでもかんでも啓太に頼むなって、王様に文句も言いたいしな」
「あ、それならもういいんだ」
「え？」
「学生会室に寄らなくてよくなったんだ。昨日の夜、王様にメールで送ったからさ」
「そうなんだ？」
「うん。それに文句のほうも。これぐらい自分で頑張って片づけてくださいってメッセージもつけたから」
「へえ？」
　ちょっと意外な気がして、和希は啓太の顔をまじまじと見つめる。人の好い啓太が相手にそんなことを伝えるなんて、今回の頼まれごとはよほど面倒なものだったのだろうか。
「なんだか珍しいな、啓太が王様にそんなことを言うなんてさ」
「俺だって――俺だって言うべきときには言うよ。だから、とにかく学生会室に寄るのはなし。教室まで、ずっと和希とだけいられるよ」
「……啓太？」
「じゃあ俺、ちょっとだけシャワー浴びるからまたあとでな」
　啓太の言葉を聞きとがめた和希をおいて、啓太が着ていたシャツを脱いでバスルームに駆け込む。
　バスルームのドアが閉まっても、和希はすぐに動き出せなかった。
　――教室まで、ずっと和希とだけいられるよ。
　そう言って頬を染めた啓太の表情が脳裏に焼きついていた。



「お〜っす。今日も伊藤と遠藤は二人で登校なんだな」
　教室に入った途端からかうような声がクラスメートからかけられ、和希はそれに対して笑って言い返した。
「同じ目的地で時間帯が一緒だから自然にそうなるだけだろ」
「そっか〜？　お前らほんとはちゃんと時間合わせてきてんだろ。いっつも一緒だもんな」
「俺と啓太の仲に妬いてるなら妬いてるって正直にそう言えばいいだろ」
「ばか、誰が妬いてるかよ。それより『俺と啓太の仲』なんて言うほどおまえらってやっぱり…」
「和希」
　クラスメートがさらに言い継ごうとする途中で、和希の後ろに立っていた啓太が、和希の制服のすそを引っ張った。
「啓太？」
「俺、自分の席に行くから。また、あとでな」
　物言いたげに和希の顔を見つめたあと、啓太が意識を切り替えたかのように目を伏せた。
「ああ…」
　掴んでいた和希の制服のすそからゆっくりと手を離し、啓太はそのまま自分の席に着いた。
「遠藤、どうしたんだよ。なんか今日の伊藤変じゃねえ？」
「……そうか？」
「そうだよ。いつもなら伊藤の突っ込みがすかさず入るはずだろ。それに伊藤、今」
　俺の顔、全然見なかったぜ――クラスメートの小さな呟きが聞こえたとき、席に着いた啓太のそばで別のクラスメートの声があがった。
「伊藤〜。伊藤、今日の英語の課題やってきたか!?　俺ら今日あたるだろ、見せてくれよ。頼む！」
　啓太のそばにやってきた一人のクラスメートが、啓太に向けて手を合わせたところだった。その様子を何気なく視界に入れた和希は、啓太の目が、困惑を浮かべたまま自分に向けられたのを見た。
　目が合った瞬間にほんの少し啓太の瞳が安堵の色を浮かべる。だが再び困惑の色は濃くなり――。
「……俺のでよかったら、やってきてあるけど」
　気がつくと和希は、そのクラスメートに向けてそんなことを口にしていた。
「本当か!?　サンキュ、遠藤。助かる！」
　満面の笑顔を浮かべているクラスメートにカバンから出したノートを渡してやる。クラスメートがノートを受け取り、自分の席に戻ったとき、啓太が和希に向かって笑いかけるのが見えた。その唇が静かに動く。
　――あ、り、が、と、う。
　はにかんだ啓太の表情に、和希は数秒目を奪われた。かすかに紅潮した頬。
　それから啓太は和希に向けて軽く手を振ると、カバンの中から教科書を取り出し、授業の準備をはじめた。その横顔はいつもの啓太となんら変わらないのだが、和希の中にどことなく違和感がつきまとっていた。
　クラスメートに話しかけられたときの、あのすがるような瞳。
『悪い、俺も実はやってない！』
『え〜。しょうがないなあ。一つ貸しだからな』
　楽しそうにクラスメートと話していた啓太の様子が思い出される。これくらいのことなど、自分を介さなくても啓太ならどうとでもできただろう。あそこで自分を見る必要性などまったくないはずだ。
　まるで、話しかけられてどう答えればいいかわからないみたいに。
　まるで、自分では話せないみたいに。
『それに伊藤、今、俺の顔全然見なかったぜ』
　和希が先ほど聞いた言葉を思い出したとき、予鈴が鳴った。
　ふと啓太のいるほうを見ると、すぐに目が合い、啓太は和希を見てにこやかな笑顔を浮かべた。



「啓太、さっきはどうしたんだ？」
　昼休みになって、和希は啓太の席までくると思い切って啓太に尋ねた。教科書をしまっていた啓太が顔をあげて不思議そうに和希を見返す。
「さっき？　って、なにが？」
「英語の課題。確か啓太、昨日はもうやってあるって言ってただろ？　だったらあのとき啓太がノートを見せてもよかったんじゃないかと思ってさ」
　あのとき、俺を頼る必要はなかっただろう？――その言葉を飲み込み、和希は啓太の返事を待った。
「ああ、実は今回の課題、けっこう難しくって答えに自信がなかったんだ。間違っている答えを見せるのも悪い気がしてさ。英語なら俺より和希のほうが得意だろ。だから、さっきは本当に助かったよ」
　啓太はそう言って和希に笑いかける。それは啓太らしい、自然な笑顔にも思えた。
「実際俺より、和希にノートを借りられて嬉しそうだったしな。和希が英語得意だってこと、みんなだんだんわかってきてるんだな。和希がわざと間違えていても、基本的に和希の英語は当てになるって思われているみたいだ」
「…そうなのか？」
「そうだよ。――俺は、和希がみんなに認められていると自分のことのように嬉しいよ。俺の和希はすごいんだぞって自慢したくなるよ」
「俺の和希って…。啓太、ここ教室だぞ」
　周囲の様子を確かめながら、和希が小声で言う。それに対して啓太は躊躇なく繰り返した。
「俺の和希。なんだよ。いつもは和希のほうがよく言ってるだろ」
「だからだろ。啓太から言われると、すごく…」
「照れる？」
　啓太の口元にいたずらっ子めいた笑みが浮かぶ。和希は啓太から視線をそらした。
「……それより啓太、昼食、早く食べに行こうぜ」
「あ、和希ごまかしたな」
「ごまかしてないよ。ただ、ゆっくりしてると学食混んでくるだろ」
「それなんだけどさ」
　啓太は席を立つと、カバンを開けて中から紙袋を引っ張り出した。
「今日は天気もいいし、中庭かどこかにいって食べたいな。俺、パン持ってきたんだ。和希の分もあるから、一緒に食べよう」
「パン？　持ってきてたのか？」
「いやだった？」
「いや、別にかまわないけど。ただ、用意がいいなと思ってさ」
「だってパンだったらどこででも食べられるだろ。俺、和希と一緒に食べたくて昨日買っておいたんだ。屋上でも中庭でも他のところでも。和希と二人でいられる場所を探して食べよう」
「……二人で」
「うん」
　引っ掛かりを覚えて呟いた和希に、啓太が明るく頷く。
「飲み物までは用意してないから、途中で適当に買おう。ほら、早く行こう」
　和希の腕をつかまえて啓太が引っ張る。いつもなら二人で学食で食べているのに、今日に限って外で食べたがるのはなぜだろうと和希は疑問に思う。
　学食なら――。
『よう、啓太。啓太たちもこれから食べるのか？』
『啓太のメシうまそうやな〜。ちょっとオレにもわけてくれへんか？』
『伊藤くん遠藤くん、こんにちは。僕たちの隣が空いてますから、よかったらこちらの席で食べませんか？』
　いつもの昼食風景が和希の脳裏をよぎった。学食なら、いつも誰かしら知り合いやクラスメートから声をかけられる。近くの席にと誘われて、そのまま昼食を一緒に食べることも多い。それだけ啓太は周囲の人間から親しみを持たれていて、啓太もそれによくこたえていたのだ。
　外で、二人で食べることを望む。それはつまり、啓太が他の人間を避けているということに他ならないだろうか。
「和希、どうしたんだよ。……外で食べるの、やっぱりいやだった？　和希は学食で食べたい？　和希が学食で食べたいなら俺も行くけど…」
「いや、そういうわけじゃないよ」
　和希の腕を引いている啓太の顔に翳りが落ちる。啓太の突然の提案が気になるなら、本当はそこで頷いてもよかった。やはりいつものように学食で食べたいと言えば。
　だが和希は、うなだれた啓太を見てそのままにしておくことができなかった。
「いいよ、外で食べよう。本当に今日は天気がいいしな」
「だろ!?　和希もそう思うよな。…よかった」
　啓太が安心した声でそう呟く。そんな啓太の様子を見ながら、和希は教室の入り口に足を向けた。啓太も和希に続いて歩き出そうとしたとき――二人のすぐそばで携帯が鳴った。
「あ、悪い。俺だ」
　和希が制服のポケットから携帯電話を取り出す。電話に出ながら、和希は足早に教室を出た。
「――だから、あれについてはそのまま通せばいい。変更はなしだ。予定通り明日までに……」
　短いやりとりをすませ電話を切ると、和希のそばに紙袋を抱えた啓太が立っていた。
「ごめんな、啓太。突然電話が来て」
「それはかまわないけど。……仕事の電話だったんだろ？」
「ああ。俺にちょっと確認したいことがあってかけてきたらしい」
「……和希、このあと……すぐに仕事に行っちゃうのか？」
　啓太が和希を見上げて聞いてきた。不安に揺れる瞳はなにかに怯えているようにも見えた。
　和希は啓太を安心させるように、その背中を軽く叩いて笑いかけた。
「今のはほんとにただの電話だけで、俺はどこにも行かないよ」
「ほんとに!?」
「ああ」
「とりあえず昼休み中は、っていうんでなくて、放課後も仕事に行かない？」
「行かない。今日はフリーなんだ」
「よかった。じゃあ今日は放課後、街まで出かけよう！　俺、和希と一緒に行きたいところがあるんだ。勿論、和希に行きたいところがあればそこにも寄ろう！」
「街か……久しぶりだな。この前の休みは俺に急に仕事がはいってだめになっちゃったからな」
「そうだよ！　だから今日こそは絶対出かけよう。今日は二人でデートしよう！」
　不安げな表情がかき消えて、啓太が満面の笑顔を浮かべる。持っている紙袋さえなければそのまま腕に抱きついてきそうな啓太の勢いに面食らいながらも、和希は啓太の笑顔につられるように笑った。
「デートって…」
「なんだよ。デートだろ」
「でも今はまだ昼休みだぞ。とりあえず早く昼メシ食べないと、このまま食いっぱぐれるぞ」
「あ、そうだな。じゃあ放課後の相談は食べながらしよう。とりあえず今は場所移動だな。和希、早く行こう！」
　和希の腕を引き、早く早くと啓太が急かす。和希は自分の腕を掴んでいる啓太の手を見たあとで、自分たちの周囲に目を走らせた。
　昼休みのざわめきに包まれた廊下には啓太たちの動向に目を向けるものなど皆無だった。デートという会話も、腕を掴まれているこの状況も、誰も気にしている様子がない。たかがこれぐらいのことを深読みする人間はいない――頭の中でそう理解している一方で、たかがこれぐらいのことにさえ恥ずかしがっていた啓太のことを思い出す。多少の触れ合いにさえ過敏に、周りの目を気にしていた啓太。
『ちょっ…！　か、和希、腕！』
『腕が、どうかしたか？』
『わかってるくせに聞くなよ！　腕からませるなよ。ここ、廊下だろ』
『別にこれぐらい、誰も見てないって。見られててもみんななんとも思わないだろうしさ』
『俺が思うんだよ。もうちょっと普通の距離とれよ』
『普通の距離って？　俺にとっての普通の距離って言うなら、もっとこう…啓太と密着しないとな』
『和希！　もう……人前ではそういうの、少し考えろよな』
『恥ずかしいから？　それとも、スイッチ、入っちゃうから？』
『そうじゃなくて！　……ほんとに、さあ…』
『――啓太は気にしすぎだよ』
『和希が気にしなさ過ぎなんだろ…』
　ただ照れているというより、本当に困っていた啓太。
　和希はふと自分の腕を掴む啓太の手を振りほどき、その手を自分から掴んでみた。啓太の手のひらを捕らえ、自分の手で包み込んでみる。
　啓太は一瞬驚いたようだが、その手を振りほどくことはなかった。むしろその手に、自分からも力を加えてきた。
　――いつもと違う啓太。どこかしら違和感を感じさせる啓太。
　けれど啓太は確かに目の前にいて、そうして自分と触れ合い、笑ってくれるのだ。
　頭の中で警鐘が鳴っている。なにかが違うと教えてくれている。
　それでもデートだと喜んでいた啓太の笑顔を思い出すと、和希はこの手を離せなかった。
　歩きながら和希が指を絡めても、啓太は和希の手を振りほどくことはなかった。