「啓太。ここ数日の記憶が曖昧なんだろ？」
　会計室を辞して、並んで廊下を歩きながら和希が啓太に聞いた。
「うん…。よーく考えると思い出せそうな感じもするんだけど、なんかはっきりしなくて。夢の中で体験したことみたいな感じかな。特に授業内容とか、勉強については真っ白」
「はは。そういうのは俺が啓太のそばにいてフォローしてやるよ。わからないことや困ったことがあったらなんでも言えよな」
「和希…。迷惑かけてごめんな」
「迷惑じゃないよ。俺の言葉で啓太を悩ませたんだから当然のことだよ。……授業の内容の他には…たとえばここ数日自分がしたこととか言ったこととか覚えてるか？」
　和希は啓太から目をそらさずに続けて問う。啓太が自分や他の人間にした言動を覚えているかどうかが気になった。なによりも自分を優先して、二人きりでいることを望んでいたあのときの啓太。
「ん……よく思い出せないな。あ、和希。俺もしかして和希にものすごく迷惑なことしてた!?　もしそうだったらっ…」
「してないよ。それは安心していい。ただ、いつもより俺に優しくて積極的だったかな。あ……思い出すと今でも顔がにやけそう」
「な、なんだよそれ！」
　口元を押さえた和希に啓太が頬を染めて声を上げた。和希はそれに対して手で宥めるようなしぐさをする。
「冗談だよ。……七条さんの暗示にかかっていた間に自分がしたこと、やっぱ気になるか？　どんなことがあったか知りたい？」
「うーん……。気にならないと言ったら嘘になるけど…でも別にいいかな。これからの生活において支障がない限りは、少しずつ教えてもらえればいいよ」
「そうなのか？」
　啓太の答えが少々意外な気がして、和希は啓太の顔をまじまじと見つめた。
「自分の記憶が曖昧なら、もっと知りたがるんじゃないかと思ってたけど……」
「だって結局は過去のことだろ。いまさら知っても大した意味はないよ。それとも和希は、俺にここ数日の出来事を全部知っててほしい？」
「いや……。啓太がいいならそれでかまわないけど…」
　和希はここ数日の出来事を頭の中で振り返る。啓太がどんな言動をしたかというよりも、その啓太に対して自分がどう思ったのかを今の啓太に問われたくなかった。直接問われないまでも、あのときの啓太の言動を話すだけで、そのときの自分の様子まで啓太に伝わってしまいそうな気がする。
　啓太の記憶が曖昧なのは和希自身にとってもありがたいことじゃないか――和希の脳裏に先ほど突きつけられた西園寺の言葉が蘇った。あの皮肉はまさに事実だった。啓太は暗示をかけられた日から今日まで、自分と和希がどんなふうに過ごしていたか今のところ興味はないようだが。
　啓太の異変に気づいたあとなぜすぐに動こうとしなかったか、和希の中にそこを追求されたくない思いが存在していた。啓太に本心をさらけ出してしまった今だからこそ、自分の過去の醜い独占欲を啓太に知られたくなかった。
　そのまま過ぎ去った過去として封印されてしまえばいい。
「……和希？」
「あ、ああ、ごめん。ちょっと考えごとしてた」
「俺のことで何か…？」
　心配そうに聞いてくる啓太に、和希はことさら明るく振る舞って答えた。
「うん、ちょっと啓太が今言った『これからの生活に支障がありそうなこと』を振り返って整理してみたんだ」
「なにかあるのか？」
「まあ、対人関係のほうでちょっとな。フォローが必要だと思うことを思い出したんだ」
「そっか…」
「あ、でも、そっちについても全部俺がうまくやってやるよ。啓太はここんとこ体調が悪かったことにしてさ。今の啓太がいつもどおりでありさえすれば、大丈夫、心配することないよ」
「わかった。和希に任せる」
「任しとけって。あ、早速だけど啓太、あとで俺と一緒に俊介のところに行こうな。俊介が啓太に手伝ってほしいことがあるみたいだったからさ」
「俊介のところ？　わかった」
　それ以上事情を問わずに、啓太は頷いた。和希も啓太が聞いてこない以上、啓太が滝の誘いをどんなふうに断ったか教える気はなかった。勿論滝と会ったときには知られてしまうのかもしれなかったが、とりあえず今は黙っておくことにした。
「……和希」
　隣を歩いていた啓太が、不意に和希の腕に抱きついてきた。
「啓太？　いくらもう授業が始まっているとはいえ、西園寺さんたちみたいに授業がない人たちもいるんだから、こんなにくっついてたら人に見られるかもしれないぞ」
「いいよ。見られたらそのときはそのときで。今は俺、和希にくっついていたいんだ」
「啓太…」
「和希、ごめんな。本当にごめん」
　うつむいて謝罪の言葉を口にする啓太の表情は和希には見えなかった。けれど震える声が啓太の気持ちを伝えてくれた。
「啓太にそんなこと言われたら、俺もさっきの続きで啓太に謝らないといけないな。――啓太。もう俺は啓太のよさをちゃんとわかってるから。だから啓太は俺に謝らなくていいんだ」
「うん。でもごめん……っ」
「啓太」
　それから啓太は和希の腕に抱きついたまま足を止めた。顔を上げた啓太の潤んだ瞳が、まっすぐに和希を見つめていた。
「和希。俺は、本当に和希が好きだよ。今までも好きだったけど、これからもずっと和希のことが好きだ。だからちゃんと和希のことを想って、本当の意味で和希のそばにいるからな」
　啓太が和希の腕から自分の腕をとく。その腕を、今度は和希の首に回した。
　そのまま背伸びをして、啓太は自分から和希にくちづけた。




「――今頃、伊藤くんはあの人への罪悪感に悩まされているころでしょうか」
　パソコンのキーボードを叩いていた手を止め、和希と啓太が出て行ったドアに目を向けて七条が呟いた。
　その呟きを聞いた西園寺が、ソファに優雅に寝そべったまま答える。
「さあな。でも啓太が言っていたように啓太が自分で決めたんだ。私たちが口を挟むことではないな」
「それはそうですが…」
「遠藤への罪悪感なんか、もとから啓太も覚悟していたことだろう。それでも啓太が自分で臣の提案を却下したんだ。臣の暗示は受けないとな」
「そうですね……」
　七条は目を伏せた。頭の中に、数日前に聞いた啓太の言葉が思い浮かぶ。
『でも七条さん、それじゃあ意味がないと思うんです』
　あのとき啓太ははっきりとそう言ったのだ。悩んでいる啓太への提案として、暗示の話を持ち出したときに。
『どうしてですか？　少なくとも伊藤くんが言うように、あの人が望むとおりの伊藤くんをあげられますよ。なによりもあの人のことを優先してあの人のことだけを考える伊藤くんを生み出すことができます。暗示にかけられていることで、伊藤くんも他の人間に気を使わなくてすむでしょう。それともやはり、素人の僕の暗示では心配ですか？』
『そうじゃありません。ただ、七条さんに暗示をかけられた場合は、かけられている間の記憶は曖昧になってしまうんでしょう？　七条さん、さっきそう言いましたよね』
『はい。確かに暗示をといたあとは、暗示をかけている間の記憶はあやふやになってしまうでしょうが……』
『それじゃあ、意味がないんです。暗示がかかっている間――俺が和希だけを見つめている間、和希がなにを思い、なにを言い、どんな表情をするか……そういうのをあとで忘れてしまったらだめなんです。それじゃあ今までと同じで、和希の本心をつかめないままです。俺は、そのときの和希がどんなふうに思うか、変わってしまった俺に対して和希がどんな顔を見せるか、全部ちゃんと知っていたいんです。迷惑に思ったり、重く感じてしまうかもしれない……だけどそこで和希が安心しているようなら、やっぱり俺は和希に対してずっと不安を与えていたっていうことなんです。和希に対する気持ちを和希が望むほどにあげられていない、全然足りてないっていうことなんです。俺が好き勝手してきたばかりに、和希を満たされない気持ちにさせていた……俺の、今までの行動が…！』
『落ち着け啓太。そんなに思いつめていてもろくな考えは浮かばないぞ』
『西園寺さん…。俺は、俺の意思で和希を見て、和希のことだけを考えるようにします。和希のことをちゃんと見て、和希のことを一番にして、ずっとそばにいて、二人きりでいるようにして。だって俺は和希が好きだから、和希が望むのならそうしてあげたいんです』
『啓太…。遠藤も遠藤だが、啓太も啓太だ。それが遠藤と啓太のためになるとはとても思えないな。今の啓太に必要なのは頭を冷やして冷静になることだろう。いつもの啓太ならそんな馬鹿なことは考えつかないだろうな』
『だって…だって和希が……。俺に、自分だけを見てほしいって。他の誰よりも自分のことを優先して、自分だけのものでいてほしいって言ったんだ。それから……でもそんなのは自分のつまらない願いで、やっぱり無理だよなって寂しそうに笑って……そしたら俺はっ……！』
『伊藤くん。遠藤くんは、すぐに自分の過ちに気づくと思いますよ』
『……過ちとは思いません。それが和希の本心なんですから』
『まったく……処置なしだな』
『郁…』
『それなら啓太。いっそ自分が思うとおりに行動してみればいい。それに対して遠藤がどう思うか、どうするのか。お前のその目で確かめればいい。……暗示を受けて変わるのはいやなのだろう？』
『はい。俺は俺の意思で行動します』
『そうは言っても、優しい伊藤くんには、他の人間を切り捨ててまで遠藤くんを優先することはできないと思いますけどね…』
『できます。します。今はとにかく和希の気持ちにこたえたいんです。俺がちゃんと和希を好きだってことや、和希と一緒にいたら嬉しいんだってことを伝えたいんです』
『なら啓太の好きにすればいい。……とはいえ、啓太が急に変わるのは不自然だろうな。もし遠藤にその理由を聞かれたら、啓太は遠藤に全部説明するのか？　遠藤がそう望んだから今自分がこうしていると』
『――いいえ』
　決意を秘めた瞳で、啓太は否定の言葉を口にした。
『俺から和希にはなにも説明しません。少なくとも和希の本当の気持ちを知るまでは』
『……どういうことだ？』
『昨日の和希は酔っていたみたいだから、昨夜のことはほとんど覚えてないと思います。今朝もかわした言葉は少なかったけど、いつもどおりの和希でした。だからきっと俺が全部言葉で説明しても、和希は気をつかわせてごめんとか、そんなこと気にしなくていいとか、そんな言葉で全部片付けてしまうと思うんです。きっと俺にはそれ以上の本音は話してくれなくなる…。だから和希には俺からは何も言いません。俺は、和希の本当の気持ちを知りたいんです。俺がなにも知らないまま“変わった”だけなら、和希はきっと俺に本当の表情を見せてくれる――だから。七条さんの暗示を受けて、それで俺が“変わった”ことにします』
『……つまり、遠藤を騙すということか？』
『――』
『啓太にそれができるのか』
『和希に…和希にすでにひどいことをしておきながら、そのうえでそんなことまでする俺を軽蔑しますか？　でも俺はちゃんと知らなくちゃいけないと思うんです。和希の気持ちを……和希が本心を呑み込んで隠してしまう前に』
『伊藤くん……』
『いえ、言い訳です。俺が和希にさらにひどいことをしようとしているのは事実ですよね。でも今はそれをさせてください。俺が和希のことを、和希の行動や言葉、表情……和希のすべてを見ていたいんです。和希のことだけを見つめていたい……』
　――思いつめた表情で、自分の気持ちを語った数日前の啓太。
　七条はその啓太の姿を思い返し、溜息をついた。
「……今回のことは、僕にはやはりあの人のただのわがままとしか思えませんね。伊藤くんはまったく悪くありません。あの人が子供みたいに駄々をこねているだけでしょう。ああそれから、あの人は伊藤くんのことがまったくわかっていませんね」
「確かにな。あれはまさに男の嫉妬はみっともないという典型的な例だな。啓太のことも、今は冷静な判断ができないんだろう。だから本当の啓太とやらを見誤る」
　七条の言葉に、西園寺も同意した。
「伊藤くんが今このときもどれほど苦しんでいるか……そのことに、あの人はまったく気づかないんでしょうね。伊藤くんがこの苦しみから解放され、心が軽くなる日が早くくるといいのですが…」
「そうだな。でもそれは、案外そんなに遠くない日のことかもしれないな」
「郁？　それはどういう意味ですか？」
　七条の問いかけに、西園寺はソファの上で目を閉じて答えた。
「啓太がなにも言わなくても、そのうち遠藤が気づくという可能性もあるだろう。最初から暗示にかけられた啓太などいなかった。啓太は啓太……そのことに気づく可能性が」
「そんな可能性はあるのでしょうか？」
「私はあると思っている。今回のことで啓太が本当に変わるわけだろう？　勿論それは遠藤と話をしたあとだからとも解釈できるだろうが、啓太が遠藤を見続けていれば、臣の暗示にかかっていたときの啓太と今の啓太とさほど変わりがないことに気づくかもしれないだろう」
「僕は郁ほどあの人に期待をかけることはできませんが……それでもそうなったらいいとは思いますよ。そうなれば伊藤くんの心が楽になりますからね。あの人に対する罪悪感から救われる…」
「まあ、先のことはわからないがな」
「それにしても…」
　七条は数日前の啓太と、今日この部屋を出たときの啓太の笑顔を思い出す。
　数日前の啓太は恋人の言葉に動揺してかなり思いつめていたが、それでも今の啓太と根本的な部分では変わっていない。まさに啓太は啓太、なのだと思う。
「遠藤くんが伊藤くんの“暗示”をとくまでに三日かかりましたが…それだけ、伊藤くんを手放したくなかったんでしょうね。暗示にかかって変わった振りをしていても伊藤くんは伊藤くんですしね。あの人の言葉を借りれば、もともとあの人が惹かれた“この世界にたった一人の”伊藤くんなんですから、その伊藤くんを手放したくなかったのは当たり前のことですね。初めからあの人の求める本当の伊藤くんだったわけですから」




「……け、啓太…？」
「――」
　学園の廊下で自分から唇を重ねてきた啓太に、和希は驚く。
　唇が離れたあとも、啓太はそのまま和希から目をそらさなかった。
　そのまっすぐで強い瞳には覚えがあるような気がした。和希の頭の中をなにかがかすめていく。
「啓太……」
　和希は手を伸ばして、今触れた啓太の唇を親指でそっとなぞった。
「……っ」
「そんなに見つめられたら、もう一回したくなるよ。そしてもう一回したら、止まらなくなる。今は話をしようとしているだけだし、放課後は用事があるんだし、これ以上の誘惑は禁止」
「ゆ、誘惑なんてしてないだろ。俺はただっ……」
　和希は啓太の唇から指を離すと、その手で啓太の手をつかんだ。指を絡め、啓太としっかりと手をつなぐ。
「わかってる。啓太の気持ちはちゃんと伝わったよ。啓太が俺を好きでいてくれること」
「……うん。伝わったのならいいんだ。でもこれからももっともっと俺は…」
「啓太。本当は最初からわかってたんだ。啓太の気持ちが俺にあることは。でも……」
　だからこそそれ以上を望んだ。この想いに果てはなく。
「……和希？」
　そして自分の望みをかなえてくれる啓太を手離したくなかった。いつもの啓太と違うことに気づきながらも、このままでいいと思った。自分だけの欲望にまみれた、醜い心。
　過ちに気づき、元の啓太を取り戻してからも、今度はその前のことをなかったことにしようとした。啓太の記憶が曖昧なことに安心し、そのまま自分の歪んだ想いと執着を封じてしまおうとした。今はもう自分の過ちに気づいたのだから、過去のことはこれからの自分たちには関係ない――そう思って。
　けれど。
　和希は啓太の顔を見つめた。啓太のこの強い瞳の前では、自分の心を隠すことに意味がないように思えた。たとえ本当に気づかれることはなくても、啓太にこうして見つめられている限り、自分の執着や欲望を取り繕う必要はないのかもしれない。
　啓太がそばにいれば、そんな自分も許され、受け入れられる気がした。
「和希？　どうしたんだよ」
「啓太。俺、啓太に聞いてもらいたいことがあるんだ」
「え？」
「歩きながら話すから、聞いてくれるか？」
「うん、それはいいけど…」
　和希は啓太の手を引いて歩き出した。そしてどんなふうに話すべきか少し逡巡し……和希は口を開いた。
「啓太、俺さ。このまえ、夢を見たんだ――」


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