最初は些細なことだった。
「啓太、どうした？　寝坊したのか？」
「んー、なんだかだるくて、起きられなくてさ」
「最近忙しかったから疲れていたんじゃないか？　だからいい加減、学生会の手伝いなんかやめればいいのに。啓太は会計部にも顔を出しているし、働きすぎなんだよ」
「別にそんなにたいしたことはしてないって。とにかく今着替えてくるから、もうちょっと待っててくれよ和希」
　お人よしの啓太の行動をとがめた和希を、啓太は笑ってとりなした。
　

「あれ、啓太これ嫌いだったか？　全然食べていないじゃないか」
「嫌いってわけじゃないんだけど、今は食欲がなくて。もう腹いっぱいって感じなんだ」
「そんなこと言って、今朝だってほとんど残していたよな･･･」
「そうだっけ？　最近あんまり食べたいとか腹減ったとか感じないんだよな。少食になったのかな？　でも全然食べていないわけじゃないからさ」
「そうか？　ちゃんと栄養取らないとだめだぞ啓太」
「大丈夫、それなりに栄養は摂ってるって。それより俺は和希のほうが心配だよ。和希、今朝部屋に帰ってきたんだろ？　仕事仕事でろくなもの食べてなさそうでさ。和希こそちゃんと栄養のあるもの食えよ？　倒れたりしたら許さないからな！」
　目の前にある料理にはあまり手をつけず、それでも和希の食生活を心配する啓太。
　いつのころからか、啓太の顔色が冴えないような気がして。
　けれど啓太はいつも笑顔を浮かべていたから、和希はそれに安堵してしまっていたのだ。
　本当はもっと早く気づくべきだったのに。
　――もっと早く、気づかなくてはいけなかったのに。






　ずっと一緒にいたいから。




「――啓太っ!?」
　和希の声とともに後ろから腕をつかまれ、啓太は少し驚きながらも足を止めて振り向いた。
「和希、おはよう。二時間目から来たんだな。今日も一日ずっと休みなのかと思ってた」
「思ったより仕事が早く片づいて、今朝帰ってくることができたんだ。それより啓太、おまえ、どうしたんだよ」
「どうしたってなにが？　あ、今ここにいる理由か？　今日の二時間目の化学、第二化学室で授業することになったから、ちょうど今移動しているところなんだ」
「そうじゃなくて。おまえ、今すごく顔色悪いぞ!?　熱でもあるのか？」
「熱なんか別にないって。それより和希こそ、今帰ってきたばかりなら疲れてるんじゃないのか？　もっとちゃんと休んだほうが･･･」
「バカ、俺のことなんかいいんだよ。今重要なのは啓太のことだろ!? 　なんでそんな顔しているのに休まないんだよ！」
　二日ぶりに会った啓太に向けて一喝してから、和希は昨日今日と啓太のそばにいられなかった自分に舌打ちした。ちゃんと啓太についていればこんなふうに無理をさせることがなかったのにと思うと、悔しさがつきまとう。急な仕事とはいえこんな状態の啓太のことを知っていれば、こちらを優先させることも可能だったのに。
　今の啓太は、和希が啓太のもとを離れた二日前よりもずっと、顔色が悪く覇気がないようだった。見慣れた後ろ姿を見つけて喜んだのもつかの間、その影の薄さに驚いて慌てて引き止めたのだ。
「そんな顔ってなんだよ。俺は至って普通だろ」
「啓太･･･」
「でも、今日も会えないかもしれないと思っていただけに和希に会えてすごく嬉しい。やっぱり和希に会えないとさみしいし、つらいよ。和希の顔を見られて、俺ほんとに――」
　啓太が和希の顔を見つめて、ふっと微笑んだ。その儚げな微笑みが和希の目の前でくらりと揺れる。
「啓太っ！」
　そうしてそのまま、啓太は和希の腕の中に倒れこんだ。
　和希が啓太の体を両腕で支えたとき、すでに啓太は意識を失っていた。
　


　 学園内で倒れた啓太は、本来なら保健室に運ばれ、しばらくそこに寝かされて回復を待つはずだったが、啓太の様子に大きな不安をかきたてられた和希によって、すぐさま病院へ運ばれた。鈴菱と関連の深いその大学病院には優秀な医師がそろっており、啓太が倒れた理由も現在の健康状態も、診察直後にわかるはずだった。
　 だが啓太を心配する和希にもたらされた医師の診断結果は、「現在のところ原因不明」とされるものだった。啓太の正確な健康状態を把握するには、数日間の入院と詳しい検査が必要だというのだ。
「馬鹿な･･･！　啓太の体に特別な異常は見られない。なのになんで原因不明ということになるんだ!?」
「それが･･･詳しい検査をしてみないとわからないのですが、特別な異常の影が見受けられるのです。一見すると単なる貧血のようですが、それではおさまらないなにかに、彼は冒されているようでして･･･」
「――」
　特別ななにか。
　それを調べるために、啓太はそのまま数日間その病院に入院することになった。病院で意識を取り戻した啓太は「入院なんて大袈裟な気がするけどな」と笑ったが、和希はそれに対して明るい笑顔を返すことはできなかった。
　漠然とした不安が和希を押し包んでいた。
　白いベッド。そこに横たわる啓太。あんなに明るく力強かった表情から生気が失われつつある姿。そんな啓太の様子は、和希に強い既視感を引き起こさせた。
　――高い熱。うなされる少年。苦しげな呼吸。
　小さな身体がつらそうに何度も身動ぎし、うわごとのように母親を求めていた。
　焦点の定まっていない瞳から零れ落ちる涙に胸がしめつけられ、自分の無力さを呪ったあのとき。二度と少年をこんなつらい目に合わせないから彼を元気にしてと必死になって祈り、もっと強く確かな力を持った人間になるために留学を決意したあのとき。
　今の啓太の様子は、和希にそのときのことを思い出させた。当時と変わらない痛みが和希の胸を締めつける。
　それでも、あのときと違うのはベッドの上の啓太はちゃんと和希の顔を見て笑ってくれることであり、つないだ手は互いに大きく、力強くなっていた。
　だから和希は不安を感じながらも、これは一時的なものだと自分に言い聞かせることができた。すぐに原因がわからなくても、そのうち病名がわかり治療法も明らかになる。啓太はもとのように元気になり、そうしてまた一緒に学園に通えるのだ。
　なにより今の自分には子供のころにはなかった確かな力があるから大丈夫なのだと、昔の記憶を引き出されるたびに和希は自分を宥めた。
　明るく笑えるほどの余裕はなくても、どうにか平静は保っていられる――そんな和希の元に啓太の体の検査結果がもたらされたのは、啓太が入院して三日目のことだった。
　詳細な検査の結果、啓太の体の異常は非常に特殊なウィルスによるものだと診断されたのだった。


　医師の口から、啓太の現在の健康状態とともに、検査結果が和希に伝えられた。その医師はこの大学病院の中でも一、二を争うほどの名医で、それだけにその診断に誤りはなかった。
　「特殊なウィルス」の詳細が語られるにつれて、和希の表情から血の気が引いていく。医師は啓太の病状と合わせてそのウィルスの特徴を話していっただけだが、説明されれば説明されるだけ、和希にはそのウィルスがどういうものかわかっていった。
　――昔。
　和希が子供のころ、亡き祖父が行っていた研究。
　偶然とミスが重なって出会って間もない年下の少年を苦しめたもの。
　あのときは幸運なことにワクチンが完成し、それで少年を元気にさせることができた。
　そのあとも念のためにさまざまなデータをとり、経過を見守ったが、これまでなんら異常はないはずだった。
　少年を苦しめたものだからこそ研究は即刻凍結され、すべて過去に追いやった。
　なのにそれが、今になって発症することになるとは。
　――口の中が異様に渇いていた。
　和希の耳の奥ではさきほど医師に説明された内容が幾度も繰り返されていた。
　膝の上で組んでいた手に無意識に力が入り、その指先が白くなっていることにも和希は気づかなかった。



「あ、和希。どうだった」
　ベッドの上で横になって本を読んでいた啓太は、病室に入ってきた和希に明るく声をかけた。
　この病院が完全看護ということもあり、息子の入院に対して忙しい両親は少し顔を出しただけでつきっきりというわけではなかった。だから検査結果も和希の口から聞くことになっていた。
　まったく不安そうな様子のない啓太に、和希は落ち着いた声で答えた。
「うん、少し入院すれば平気だろうって。啓太ここのところ動きすぎてたから、栄養不足や疲れもあったらしくてさ」
「そうかなあ･･･。ま、あんまり食べてなかったか」
「･･････」
　和希は啓太のベッドに近づくと、しばらく無言のまま啓太の顔を見つめた。
「･･･和希？」
　啓太が問いかけると、和希はそのまま身を屈めて啓太の唇にくちづけを落とした。
「！」
　唐突なキスに驚いた啓太の身体が一瞬固くなる。だがそれを気にせず和希はそのまま啓太にのしかかるように上半身を預け、さらに深いキスを仕掛けた。
「ん･･･っんんっ、か、和･･･っ」
　いくら個室でも、病院でそんな気にはなれない。啓太が声で抗議しようとしたが、それはたちまち和希の唇に押さえ込まれた。
「は･･･バカ、なにいきなりそんな気になってんだよ。このシチュエーションに煽られたなんて言ったら殴るからなっ」
　キスのあと啓太に睨みつけられた和希は、かすかな間のあと口元に笑みを作ってみせた。
「･･････なんとなく今の啓太、しどけなくてな。ついキスしたくなったんだ」
「し、しどけないってなんだよっ！　あーもう、今は俺病人なんだからそんなことするなよ。もし和希にうつっちゃったらどうするんだよ」
「･･･本当にうつればいいのにな。俺にうつったら、啓太が早く元気になるだろうし。啓太、なんならもう一回キスするか？」
「馬鹿なこと言うなよ。俺はそんなのやだからな」
「ひどいな。俺は本気なんだけどな」
「本気ならなおさらだめだろ！　って、和希･･････？」
　和希が浮かべている表情に啓太はひっかかりを覚えた。笑顔なのに、キスの直後のからかいを含んだ笑みとは違うなにかを感じた。
『本当にうつればいいのにな』
　疲れや栄養不足が人にうつるわけはない。ただ風邪のように反射的にうつるなんて言い方をした自分の言葉を、和希は否定しなかったのだ。
　和希はただ自分に合わせてくれただけ、なのだろうか。
「和･･･」
「じゃあ啓太。俺そろそろ帰るな」
「あ、ああ」
「ゆっくり休んで、ちゃんと栄養のあるもの食べろよ」
「うん、わかってるって。俺だって早く元気になってまたベルリバティに戻りたいしな」
「そうだな」
　本当は啓太は和希に、「もう帰ちゃうのか？」と声をかけて引き止めたい気持ちもあったのだが、忙しい和希にこれ以上自分のために時間を割いてもらうことはできなかった。さみしい気持ちを飲み込んで、啓太は和希を笑顔で見送ることにした。
　それにきっと和希は、またすぐに会いに来てくれるだろうから。
「じゃあな、和希」
「ああ」
　和希は啓太に向けて軽く手をあげてからドアを開けた。
　――部屋を出て行く瞬間、
「････････････ごめんな、啓太」
　和希のかすかな呟きが聞こえた。
「え？　和希？」
　すぐに聞き返したが、啓太の声は閉まったドアに阻まれてしまった。
「和希!?」
　啓太は和希の様子が気にかかり、慌てて身体を起こしてベッドから降りようとした。だがその途端めまいに襲われ、ベットから滑り落ちてしまった。
「いった〜・・・」
　床にぶつけた腰をさすりながら、啓太は病室のドアに視線を移した。啓太が落ちたときの大きな音で和希が戻ってくる――ということはなく、ドアはずっと閉ざされたままだった。


　そしてその日から、そのドアが和希の手によって開けられることはなかった。