啓太が入院して五日目の午後、両親と和希以外の人間が初めて啓太の病室を訪れた。
「よお、啓太！」
「王様!?」
「久しぶりだな。どうだ、調子は」
　大きなバスケットを抱えて現れた丹羽の姿に啓太は驚く。学園の外だからか丹羽は私服姿だったが、それでも丹羽が運んできたベルリバティの空気に啓太はなつかしさを覚えた。数日戻っていないだけなのに、丹羽の顔一つでこんなにも嬉しくなる自分を自覚する。
「王様、わざわざ俺の見舞いに来てくれたんですか？」
「おうよ。篠宮から啓太が入院したって聞いて、啓太の様子をちょっと見にきたんだ。おっと、いいから啓太はそのまま横になってろよ」
　ベッドから起き上がろうとした啓太を、丹羽が止める。啓太は丹羽の言葉に甘えて、再びベッドに横になった。
「そうですか？　すみません。実のところちょっと体がだるくて･･･」
「･･･やっぱ顔色が冴えねえな。調子、よくないのか？　ま、入院したやつがそんなに元気なわけもねえんだろうけどよ」
　丹羽は持っていたバスケットをサイドボードにどかっと乗せると、啓太の顔をまじまじとのぞきこんだ。
「熱はなさそうだな･･･。啓太、おまえちゃんと食ってるか？」
「食べてますよ。それより王様、さっき篠宮さんに聞いたって言ってましたよね」
「ああ、啓太が入院したからしばらく授業も休むし、部屋も不在にするという話を篠宮から二日前に聞いたが･･･それがどうかしたのか？」
「ええと、篠宮さんが俺の入院のこと、よく知ってたなあと思いまして」
「そりゃあやつは寮長だからな。啓太んちから学園に連絡が入ってすぐ、篠宮には知らされたそうだ。でなきゃ啓太が無断外泊扱いになっちまうだろ」
「あっ、それもそうですよね」
「で、篠宮から俺にもすぐに話がまわってきたってわけだ。それで篠宮と話をして、啓太の入院中に起こる寮での雑事は篠宮が、学園でのことは俺が引き受けることになった。だから啓太、入院中のことは俺と篠宮に任せろよ。もし啓太がなにかやらなきゃいけねえこととか、片づけなきゃいけねえことがあったら言ってくれ。俺たちがやってやるからよ」
「ありがとうございます」
　ベルリバティを離れても頼りがいがある学生会長の気質をうかがわせる丹羽に、啓太は笑みをこぼしつつ礼を言った。
　それから啓太はまだ丹羽を立たせたままであることに気がついた。
「あ、すみません王様。俺、自分は横になってるのに王様には椅子も勧めてなくて」
「あーいいって。入院してるやつが見舞いに来たやつにいちいち気ぃ使うなよ。俺は好きにするから啓太は気にすんな」
「そうですか？　す、すみません」
「いいからおまえは寝てろ。･･･ったく、この分じゃやつらを出し抜いて俺一人で来たのも正解だったかもな。それに緘口令もあながち間違いじゃなかったってわけだ」
「王様？」
　丹羽の独り言を耳に入れ、啓太が問い返した。丹羽は啓太の顔をちらりと見ると、その大きな体躯をそばにあった椅子におろしてから説明し始めた。
「ほんとは明日の休みに郁ちゃんや七条、中嶋や篠宮たちと一緒に啓太の見舞いに来るはずだったんだよ。だがまあ･･･一足先に啓太の顔を見たくなってな。ま、俺はベルリバティの学生会長として、入院した仲間の様子をいち早く知ることは当然の義務だしな」
「王様、それ体のいい言い訳でしょう？　それに、じゃあもしかすると王様、学生会の仕事をさぼって俺の見舞いに来てませんか？」
　啓太が笑いをかみ殺しながら丹羽に聞くと、丹羽からは「細けぇことは気にするんじゃねえよ」との返事が返ってきた。
「啓太の入院は、今名前をあげた以外の人間には伏せてある。成瀬なんかは毎日うるせえが、啓太は今家の用事で自宅に戻ってることになってる。入院なんていうとまた騒ぐし、きっと病院はどこだってしつこく聞いてくるだろうしな。それでさっきの啓太の気の使いようからして、大勢でいきなり押しかけなくて正解だし、成瀬や滝みてえな来るだけで啓太を気疲れさせるような人間には伏せといてよかったってことを実感してたわけだ」
「･･･いろいろ、気を使っていただいているんですね俺。それに王様たちにも心配かけてますよね。本当にすみません」
「だからいちいち気にすんじゃねえよ。俺たちの仲間が入院したら啓太でなくてもそうするさ。ま、多少は啓太だから特別ってところもあるにせよ、啓太は俺たちのことを思うなら早く元気になって退院することだな」
「そうですね。俺も･･･早くベルリバティに帰りたいです」
　啓太は自分で口にして、「ベルリバティに帰る」という言葉がしっくり馴染んでいることに気づかされる。家族が住んでいる本当の家は別にあるのに、まるで第二の家のような感覚がした。
「退院するのがいつか、まだ確定してないんだってな」
「みたいですね。手術するって話は聞かないし、毎日検査ばかりだからもっと早く帰れると思ってたんですけどね」
「まさか啓太がいきなり入院するとはな。初めて知ったときは驚いたぜ。啓太の運の良さもたまには通用しないこともあるんだな」
「そうですね。でも俺初めての入院ですから、もしかしたらこれまでその運に助けられていたかもしれませんね。まあ俺に運のよさがあるなら、その運で早く帰れるようになってほしいですよ。あんまり休むと、授業についていけなくなるから困るんですよね」
「勉強のことでわからねえことがあったら、それこそ俺の出番だな。なんでも教えてやるよ」
「ありがとうございます。王様にそう言っていただけたらすごく安心します。でも･･･」
　そこで啓太はいったん言葉を止めた。丹羽が来てからずっと気にしていた、でもまだ一度も聞かれていないその名前を少し緊張しながら口にする。
「多分授業のことは和希に聞けばわかると思うんですよね。きっと俺が休んでいる分のノートをとってくれているだろうし、わからないことがあれば和希に聞きますよ。･･････そういえば、その･･･和希、どうしてますか？」
「遠藤？　遠藤のことなら啓太の方が詳しいんじゃねえのか？」
「か、からかわないでくださいよ王様。俺は本当に知りたくて聞いているんですから」
　丹羽の返答に、啓太は顔を赤らめて言い返した。だが丹羽は、そんな啓太を不思議そうな顔で見返す。
「別にからかってるつもりはねえよ。遠藤のことだ、授業は休んでてもここにはしょっちゅう顔を出してるんだろ？　遠藤がいないのは啓太のそばに入りびたりなのかとも思ったがな」
「え？　和希、休んでるんですか？」
「ああ、寮でも見かけねえな。啓太が入院したころから見かけねえから、ほんとに俺より啓太のほうが詳しいと思ったんだが、違うのか？」
「･･････一昨日は来てくれました。でもすぐに帰っちゃってあんまり話をしてないんですよね･･･。昨日今日は全然来てません。･･･授業も休んでいるってことは、和希、また仕事が忙しくなったのかな･･･」
「･･････仕事が忙しくなったとはいってもやつのことだ。合間合間に時間を見つけて啓太のところに顔を出すだろ。･･･普通なら」
「さあどうでしょうね。本当に忙しいのかもしれないし、王様たちと同じように明日の休みに来るつもりなのかもしれないですね」
　ふと胸によぎった寂しさを消すように、啓太はつとめて明るい声を出す。丹羽もそれに合わせて、故意にちゃらけるように言った。
「――ま、今日これから顔を出す可能性もあるしな。遠藤なら面会時間外であっても深夜でも、強引に話をつけて部屋まで押しかけそうだしな」
「そうですね。ここの病院の院長と懇意だって和希も言ってましたから、そういうこともありえるかもしれませんね」
「やつに常識や人の都合ってもんは通用しねえみてえだからな。権力と財力をかさにきて、強引に自分の意志を通すあのやり方は常々どうかと俺は思うんだがよ。特に啓太がからむと手段を選ばねえからな、遠藤は」
「常識や人の都合を考えないで強引なところ、ちょっと王様と和希似てますよね」
「･･････俺をあんな非常識な極悪人と一緒するんじゃねえよ、啓太･･･」
　憮然とした顔でそう言った丹羽の声に啓太が吹き出す。しばらく笑い続けている啓太を見て、丹羽は啓太を見る目を和ませた。
「やつが顔を出さない間はやつに対する罵詈雑言をためとくといいぞ。そして遠藤が来たときにぶつけてやれ。とにかく、少しは笑える元気もあって安心した。また明日、今度はちょっと大勢で押しかけるからよ」
　手を伸ばして横になっている啓太の髪をくしゃくしゃと撫でる。啓太はその手に心地よさを感じながら、丹羽の目を見返した。
「はい、ありがとうございます王様。明日も来ていただけるなんて、俺すごく楽しみにしてます。･･･ほんとは、俺のためにわざわざこんなところまで足を運んでくれなくていいですって断るところなんですけど･･･すみません、やっぱりちょっとホームシックにかかってるみたいで、みんなに会えるなら会いたいって思っちゃうんです。･･････この年にもなって少しぐらいの入院で寂しがっているなんて子供みたいですよね、俺」
「啓太が俺たちの顔を見たいって思ってくれたら純粋に嬉しいさ。俺たちもやっぱ啓太がいないとつまらねえし、おまえの元気な顔いつでも見たいって思うからな」
「あ、でも俺、来てもらえるだけですごく嬉しいですから、あんなふうに気を使わなくていいですからね。明日来られる人たちにもそう言っておいてください。なにかいただいてしまったら、その分退院したときにお返ししなきゃって焦りますしね」
　サイドボードに置いてある、丹羽が持ってきたバスケットに目を向けて啓太が言う。丹羽は啓太の髪から手を離すと、椅子から立ち上がった。
「そんなのは啓太がそれぞれの手伝いをして働いて返せば充分だがな。少なくとも学生会はそれをあてにしてるぜ啓太」
「最初からそれ目的だったんですか!?」
「そういうのもありだろってことさ。それじゃあな啓太。ゆっくり休めよ」
「はい。本当に来て下さってありがとうございました。ベルリバティのみんなにも、よろしくお伝えください」
「ああ。またな」
　啓太との簡単な挨拶を終えて、丹羽は啓太の病室を出る。
　――廊下に出てから丹羽は、啓太に向けていたやわらかい表情をすぐに消し、今少し前自分の中にうまれた疑問について考え込みはじめた。
　病室の中で啓太と交わしたいくつかの会話。
　啓太の前では、あれ以上啓太を不安にさせるようなことは言えなかったが、実際聞き流すには引っかかる出来事だった。
　たかが二日。されど二日。
　和希の性格を思えば、入院中の啓太を二日間も放り出すことがありうるのだろうか。ましてや寮にも学園にも顔を出していない、いわば一日フリーな状態であるにも関わらずだ。
「･･･会議や出張にしたって、やつならそれこそどうとでもするだろ」
　おそらく和希にすれば啓太の入院は「緊急時」なはずだ。もしどうしても抜けられない仕事が入ったのだとしても、それならそれで啓太に言い訳の一つや二つ残していくだろう。
　啓太になにも伝えていないまま顔を見せない和希。
　啓太の入院理由も、入院の期間もはっきりしてはいないのに。
　そのことが丹羽の中で大きな疑問としてくすぶっていた。



『仕事が忙しくなったとはいってもやつのことだ。合間合間に時間を見つけて啓太のところに顔を出すだろ。･･･普通なら』
　丹羽の一言が突き刺さる。
　啓太はベッドの上で寝返りをうったあと、見るともなしに目の前の白い布団を眺めながら先ほどの丹羽との会話を振り返っていた。
　『普通なら』。
　確かに、和希なら一日に一回は顔を見せに来てくれてもいいはずだと思う。仕事が忙しいならなにかメッセージを残してくれるはずだし、二日もなんの連絡もないというのは、和希自身になにか問題が生じてしまったからなのだろうか。
「それとも、そんなふうに思うのは俺の勝手な考えなのかな･･･」
　たったの二日。
　入院して心が弱くなっているからそう考えてしまうだけで、二日といえばたったの二日だ。和希がまったく連絡をとってこなくても二日ぐらい大したことないかもしれないし、少なくとも和希はそう考えているのかもしれない。和希の性格なら自分の入院なんて事態になったら、それこそ心配してしょっちゅう会いに来てくれるはずだというのは自分だけの思い込みで、実際には和希はそこまで考えていないのかもしれない。
「別に二日程度で寂しがっているわけじゃないけどさ･･･」
　でも次にいつ会えるかわからないまま置き去りにされたら、やはりこの白い部屋の中ではろくでもないことばかり考えてしまう。せめて仕事でいついつまで会いに来れないと、知らせておいてくれれば全然平気で待てるのに。
　――二日前この病室を出て行くときにも、なぜか引っかかるような表情を浮かべていた和希。
　去り際に和希が呟いていた言葉は、今思うと「ごめん」の一言だったかもしれない。
　たかが二日程度でこんなふうにぐるぐる考えて、女々しい自分は嫌いだけれど。
　でも。
「･･････逢いたいよ、和希･･･」
　入院してから初めて、啓太の唇からそんな呟きがこぼれた。
　そしてその呟きは次第に、入院中の啓太にはなじみのものになっていくのだった。