和希が自分のそばにいる。
　ちゃんと自分を包み込んでくれている。
　そう思ったら、啓太はとても安心できた。つかの間の幸せを与えるだけの切ない夢とは違い、これは現実なのだと痛みと快感が教えてくれた。
　久しぶりに感じた和希のぬくもりに、思わず笑みがこぼれる。
　和希が大好きだ――そう実感した。


「――っ和希!?」
　深い眠りから唐突に意識を覚醒した啓太は、和希の名を呼び慌ててベッドから飛び起きた。和希がいたという記憶はあるが、それが本当に現実だったのか、それとも逢いたい気持ちが見せた儚い夢だったのか、眠っていた啓太には確証がなかった。もしまた夢だったらどうしようと、絶望的な気持ちで辺りを見回す。
「そんなに慌てなくても、俺はちゃんとここにいるよ」
　だがすぐさま柔らかい声とともに窓際に立っていた和希の姿が視界に入り、啓太は張り詰めていた身体の力を抜いた。
「和希･･･よかった。和希と会えたことは夢じゃないかと思って心配した」
「夢じゃないことは、啓太の身体が一番よく知っていると思うけどな。それに、心配したのはこっちのほうだよ。まさかあの状況でナースコールするわけにもいかないから焦ったよ」
　和希がベッド脇まで歩いてきて啓太の顔を覗き込む。
「大丈夫か啓太。身体･･････それに、他にもおかしいところはないか？」
「う、うん」
　和希の真剣な表情に、啓太は自分が和希に抱かれている最中にそのまま意識を飛ばしてしまったことを思い出した。赤くなる顔を見られたくなくて心持ち布団を引き上げる。目覚めたときは和希の存在を確かめることだけでいっぱいで感じなかったが、言われてみれば抱かれたあとの違和感が身体に残っていた。
　あのとき、和希に抱かれてすごく気持ちよかったのもあるが、やはり体力がついていかなかったのだろう。自分のわがままで和希には心配をかけたと啓太は反省する。
「俺の身体は大丈夫だけど、その、ごめんな。あんなときに倒れちゃって、和希に心配かけて･･･」
「本当だよ。俺に理性が残ってなかったら、あの状況のまま大声で人を呼んでたぞ」
「それはちょっと、あまりにも･･････」
「だから、俺に感謝しろって話だよ。自分の身体が本調子じゃないときに、もうあんなわがままは言わないこと。次は聞かないからな」
「だって･･･本当に和希に飢えててどうしようもなかったんだから、しょうがないだろ･･･」
　和希を上目遣いで見て言い訳めいた言葉を口にすると、和希は一瞬言葉に詰まったようだった。
「･･･そんなかわいい顔してもだめ。とにかく啓太は、早く元気になるように専念すること！」
「うん。もう和希で栄養補給したし、和希が俺のそばにいてくれたらすぐに元気になるよ」
　そう言って和希に向けて笑顔を見せる。――途端、和希が大きなため息をついた。
「？　和希？」
　呼びかけると、ふわりと和希の両腕の中に優しく包まれた。
「和希!?」
「本当に早く元気になってくれよ。このままだと啓太がかわいすぎて力加減ができなくなる。今も、思いっきり抱きしめて啓太のことを抱きつぶしてしまいそうなのを懸命に我慢してるんだからな」
「和希･･････本当に心配かけてごめんな。それから、あとのこと全部してくれてありがとう。俺の身体、拭いてくれたんだろ？　パジャマも･･･着せてくれてありがとう」
「そりゃあ啓太をあのまんまにして、誰かがここに来たら困るからな。といっても啓太をゆっくり休ませるためにできることしかしてないけどな。たとえば」
　そこで和希は言葉を切り、啓太の耳元に口を寄せた。小声でその続きを口にする。
「シーツは簡単に拭いただけなんだよ」
「･･････っ」
「啓太は寝てるし、シーツがよごれたので取り替えてくださいなんて言えないだろ。理由も理由だしな」
「･･････馬鹿」
　そのあとで啓太は改めて辺りを見回す。ベッドサイドの時計を見て、和希に抱かれてから思ったよりも時間が経っていないことを確認した。また先ほど閉められていた窓は開け放たれ、ゆるやかな風が室内に流れ込んでいた。
「窓、開けたんだな」
「そりゃあな。空気入れ替えないと、まずいだろ」
「確かに･･･」
「それより本当に身体大丈夫か？　今のところ熱はないようだけど、もしこれから啓太が熱でも出したら俺のせいだよな」
「和希、そんなに心配しなくても、俺の身体はそんなにやわじゃないって」
「･･････倒れた人間が言えることじゃないだろ、それは」
　呆れたように和希がそう言って、啓太から腕を解いた。啓太は自分から身体を離す和希の服をとっさに掴む。
「啓太？」
「俺の身体のことより、和希はどうなんだよ」
「なにが･･･」
「俺が、意識を飛ばしちゃったから？　だから和希、“いけなかった”のか？　俺が意識を飛ばさなかったら、和希、あのまま俺の中でちゃんといけた？」
「･･････啓太、そこは突っ込むところじゃないよ･･･」
　啓太から視線をそらし、和希が気まずそうに頬をかく。
「だって俺ばかり二回もいって、和希は一回も」
「だからそれはいいんだって。啓太は気にするなよ」
　啓太の額を指でぴんとはじき、和希は啓太に続きを言わせなかった。
「俺は啓太を抱けて嬉しかったんだから、そのあとのことはもう関係ないよ」
「でも」
「俺が啓太の中でいって、それで？　啓太にとって大事なのは俺に抱かれることだろ？　俺にとって大事なことは、啓太のお願いを聞きながらも、これ以上啓太に無理をさせないことだったよ。俺のことなんか二の次で、あのときもし啓太の意識があっても、俺は啓太の中でいくつもりはなかったよ」
「――」
「今日はもともと啓太に会うために来ただけだからなにも持ってなかった。啓太がかわいすぎて、俺が本当に暴走したら啓太の身体にかまわずどこまでも無茶をしそうだった。ここは病院で、啓太は病人で、終わったらすぐにシャワー、なんて状況じゃなかった。･･････理由はいろいろあるけど、そんなわけで今回はおあずけ。俺のこと、最後までちゃんとほしかった？」
　和希に揶揄するように言われ、啓太の顔が真っ赤になる。
「そ、そういうわけじゃないけど･･･っていうか、おあずけってなんだよっ」
「心配しなくても、啓太が退院したら俺にたくさんたくさんつきあってもらうよ。それこそ啓太が泣いてもやめないし、手加減もしないし、朝まで寝かしたりもしない。安心した？」
「和希･･････」
「だから、とにかく早く元気になれってこと。啓太が入院しているままだと、俺が寂しいよ」
「たまには和希も、逢いたいのに逢えない気持ちを思い知ればいいんだ」
　拗ねた口ぶりでそう言った啓太だが、そのあとすぐに笑って一言付け足した。
「――でも、俺も早く帰りたいな。ベルリバティに･･･和希のところに」
「ああ、待ってるよ。･･････と言っても、俺も啓太が帰ってくるまでのんびりしていられないんだけどな。今回の休暇はかなり強引にねじ込んだものだから、たまっている仕事がたくさんあってさ。実は今日もこのあと仕事なんだよ」
　啓太のベッドにばったりと上半身を預けて和希がぼやく。
「和希･･･大丈夫か？　無理して今度は和希のほうが身体を壊したりするなよ。今までだってろくに寝てなかったんだろ？　･･･そうだよな、ただでさえ和希は忙しいのに、今は俺のせいで･･････」
　目を伏せた啓太の頬に、和希は手を伸ばした。以前より少し白くなった頬を優しくなぞる。
「啓太。啓太が気にすることじゃないよ。ごめんな。俺がつい愚痴っちゃったから啓太を心配させちゃったな。ただ俺は、少しの間好きなときに啓太に会いにこられないかもしれないと思ってさ。電話もかけられないし、ここだと夜這いにも来られないだろ？」
「さ、さっきさんざんしないってごねてたやつがなに言ってるんだよっ」
「でも仕事でストレスがたまったら、やっぱり啓太に触って癒されたいって思うよ。啓太を抱かなくても、こうして啓太に触れているだけで、俺は本当に癒されるんだよ」
　ベッドに身体を預けたまま、和希がさらにゆっくりと手を動かす。和希に微笑みとともに下から見つめられて、啓太の頬が再び赤く染まった。
「――そうそう、俺の仕事といえば西園寺さんの意趣返し、だったか。あれには焦ったよ」
　ふと手を止めて、和希が先ほどの出来事を振り返って言った。
「え？」
「西園寺さん、いきなりなにを言い出すんだろうって外で聞いててひやひやしたな。でも、啓太がそれにつられなかったからほんとに助かったよ」
「あれは･･････だって前に和希がウィルスのことは企業秘密だって言ってたからさ。昔のことも、俺たちが兄弟だなんていうあからさまな嘘をついて、他の人に隠そうとしていたし。それに――それにもし西園寺さんの言っていたことが本当だったら、俺には西園寺さんと和希レベルの難しい話はよくわからないし、なにより和希の居場所を知っているっていう西園寺さんに話を合わせたくなかったんだ。あのとき王様に対してもそうだけど、俺の知らないところで和希と一緒にいたっていうだけで、すごく悔しかったから」
　そうはっきりと言った啓太の身体に、和希の両腕が伸びてきた。
「うわっ、和希!?」
　腰に手を回され、そのまま顔を摺り寄せられる。
「まずいなー。俺、誰に会っても顔がにやけっぱなしで当分の間元に戻らないかもしれないな。啓太が嬉しいことばかり言ってくれるから、どうしても顔の筋肉緩んじゃうよな。俺たちのことを知っている人に会ったら、啓太がこんなにかわいいことを言ってくれた！ってのろけてしまいそうだよ。七条さんには啓太に無理させるなって言われてたのに、こんな顔してたらここでなにをしてたかばればれだよな」
「な、なにをしてたかって･･････え？　俺に無理させるな、って？」
　和希の言葉に気恥ずかしくなった啓太が、ふと聞きとがめて繰り返した。
「だから、七条さんがここを出て行くときに念を押して言っていただろ。啓太は療養中だから無理は禁物、身体を酷使するな、安静が一番だって」
「そういえばそんなことを言われた気もする･･･」
「あれは俺に対して言ってたんだろうな。ま、そう言ってても、いろいろお膳立てしたのもあの人たちなんだけどな。俺と啓太が二人きりでいられるように手を回してくれたようだし。勿論それは俺のためじゃなくて、啓太のためなんだろうけどさ」
「･･････」
　和希にそう言われて、啓太は今のこの二人きりの空間が意図的に作られたものであることに気づいた。こうして二人きりでいられるように、他の人間のことを気にせずちゃんと和希に触れられるように。自分が本当に和希に飢えてて、ただ顔を合わせただけや言葉を交わしただけでは足りないと、西園寺や七条は察してくれていたのだ。そう考えると恥ずかしさもあるが、やはり嬉しいと思う。
「和希･･･」
　啓太は自分の身体に顔を摺り寄せている和希の頭にそっと手を乗せた。このぬくもりが本当に大切で、本当にいとおしい。
「なに、啓太」
「仕事で忙しいかもしれないけど、ちゃんと休んだあとでいいけど、俺のところにも来て。俺に、会いに来て」
「啓太･･･」
　啓太の腰にまわしていた手を離し、和希が身体を起こして啓太と目の高さを合わせた。
「もう俺のこと放っておかないで。俺に和希の顔を見せて」
「勿論。啓太が退院するまで、時間を作って何度でも会いに来るよ。啓太がもういいって言うくらい何度も押しかける。――ほんとにごめんな、ずっと会いにこなくて」
　啓太の両手を握り締め、和希が啓太の額にそっと自分の額をくっつけた。
「もう、啓太を寂しがらせたりしないよ。絶対に会いに来る」
　そこで一呼吸つき、和希は啓太から離れ、その目をまっすぐ見つめて言った。
「――病めるときも健やかなるときも。俺は啓太とともにいるよ。もう絶対に離れないし、離さない」
「俺も。今はまだ入院中で自分からは動けないけど、俺が動けるようになったらただ待つだけじゃない。俺が自分の足で和希のそばに行くよ。俺だって和希から離れないし、和希の手を離したくない。だって和希と、ずっと一緒にいたいから」
「ああ。ずっと一緒に、いよう」
　両手をつないだままどちらともなく目を閉じ、そうして二人は神聖な誓いのようなくちづけを交わした。





「うわあ、やばい。約束の時間をもう過ぎちゃってるよ〜」
　腕時計を見ながら、教科書とノートを抱えた啓太が渡り廊下をバタバタと走る。
「――啓太っ！」
　前から歩いてきた人間が、通りすがりに啓太の腕を掴み、声をかけた。
「えっ、あ、和希！」
「そんなに急いでどこに行くんだ？　ちゃんと前を見ないと危ないぞ」
「これから学生会室に行くところなんだ。王様や中嶋さんと約束しててさ。二人に、物理や古典のレポートを手伝ってもらうことになってるんだ」
「物理や古典？　昨日は数学がどうとか言って、会計部に行ってたよな？」
「そう、昨日は西園寺さんたちに助けてもらったんだ。とにかく消化しきれない課題がいっぱいあってさ。休んでた分の単位をここで取っておかないと、あとで大変なことになりそうなんだよ。ただでさえ、授業が先に進んでて追いつくのに大変そうだしさあ」
「ほんとに大変そうだな。ごめんな、啓太が休んでいた分のノートを俺もとってなくてさ」
　すまなそうにそう言う和希に向けて、啓太は慌てて首を横に振った。
「和希が気にすることじゃないだろ。和希だって、俺と同じくらい休んでたわけだしさ。それに今日だって、和希は一日仕事だっただろ。今も、制服着てるけど戻ってきたわけじゃないんだろ？」
　啓太の言葉に和希は肩をすくめる。
「当たり。まだこの時間だからさ、このあたりを行き来するには制服のほうが都合がいいんだ。今日も帰るのは夕飯ぎりぎりの時間かな」
「そっか。じゃあ和希も頑張れよ。俺も頑張るからさ。――ここで会えて嬉しかった」
　教科書を抱えなおしながらはにかむような笑顔を見せる。
　そのあと啓太は和希に手を振って駆け出そうとしたのだが、その啓太の腕が再び和希に掴まれた。
「啓太！」
「和希？」
「あとなんの課題が残ってるって？」
「んー、物理と古典が終わったら、あとは英語かな」
「じゃあそれは、今日の夜俺と一緒にやろう」
「和希と？」
「だめか？」
「だめってことはないけど、和希は今は少しでも早く休んだ方がいいんじゃないのか？　無理して俺に付き合うことないよ」
「無理してないって。俺も英語だけ残ってるんだ。――それに、俺は啓太と一緒にいられるだけで癒されるんだよ」
「うん･･････わかった。じゃあ夕飯のあと、部屋で待ってるからな。じゃあな和希！」
　啓太は再び話を切り上げようとしたが、和希が自分をじっと見つめているままなのに気がついて足を止めた。
「･･････和希？」
「パジャマ姿もしどけなくてかわいいけど、やっぱり啓太の制服姿っていいよな」
「･･････それ、変な意味で言ってないよな？」
「ひどいなあ、ただ純粋にそう思っただけだよ。やっぱ啓太の制服姿はかわいい！ってさ」
「･･･和希の言葉が純粋かどうかはともかく、俺も、この制服好きだよ。この制服を着ていると、ベルリバティに帰ってきたって感じがするからな。身が引き締まる感じがするよ」
　自分の制服を見下ろして、啓太が笑う。当たり前のように制服を着ていたときはなんとも思わなかったが、着たくても着られない時間を味わったあとでは、制服に袖を通せるのがとても嬉しいと感じる。
　和希はそんな啓太の制服姿と笑顔を眩しそうに見つめたあと、自分の意識を切り替えた。
「それじゃあ啓太。またあとでな」
　そう言って、啓太に向けて手を上げる
「――うん」
　和希の意図を察して、啓太は和希が向けた手のひらに、思いきり自分の手を合わせた。
　パン！という高らかな音とともに二人は離れた。
　合わさった手が伝え合う一瞬の熱で充分だった。振り返らずとも。別々の方向に歩いていても。
　心は、離れることなく。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ＥＮＤ