身体検査（前） その日から、自分のすべてが変わったと空は自覚する｡ 望む望まないに関わらず、自分の世界は自分一人のものではなくなった｡中心にいるのは自分ではなく、別の人間――絶対の支配者｡ 選択権など与えられず、ただ服従を強いられるのみ｡ 時間も生活も体も｡すべてがただ一人に侵されていく｡ すべてがただ一人に、慣らされていく｡ 「最近、朝のジョギングはしてないんですね」 昼休み、廊下で偶然会った保健医――七海が、空に一言呟いた｡ 廊下の向こう側から歩いてくる彼を見て、空は気づかぬ振りをして通り過ぎようとしたのだが、七海のほうが空を逃がさなかった｡ 「羽柴くんの、日課だったじゃないですか。毎朝元気に挨拶してくれましたよね。でも･･･いつからか、ずっと走っていませんよね」 空の進路をふさぐようなかたちで立つ七海が、まっすぐな瞳で空をとらえていた｡空はその瞳を正視できずに目を伏せる｡ 「なんか･･･飽きてきてさ｡朝はもっとゆっくり寝ていたいし」 「体が、つらいんですか？」 「――」 空が思わず顔を上げる｡ だが七海の顔を見た途端、再び視線をそらした｡ 「まあそれもあるかな。毎朝起きて走んのしんどいし｡よく考えてみれば､他のヤツなんかずっとそうしてラクなことしてきたんだよな｡オレもその方がラクでいいかなと思って――」 「見ていると、歩くのもつらそうなときがありますよね」 「――」 「手首や足にあざがついているときも｡羽柴くんは懸命に隠しているようですけど、洋服でごまかそうとしたって保健医である私の目はごまかせませんよ」 「･･･七海ちゃんなに言って･･･」 視線をそらしたまま、空はかわいた笑いを口元に浮かべる｡それから、「あ、オレそろそろ教室にもどんねえと」と言って、後ろを振り向きかけた｡ 「羽柴くん！ 逃げる方法ならいくらでもあるんですよ!? 羽柴くんさえその気になればいくらだって！ あんなに元気で明るかった羽柴くんの今の痛々しい姿は、けして見過ごせるものではないんです！ ･･･それとも私は相談にのることさえも――」 七海の最後の一言が、空の足を止めさせた｡ 声に宿っていた哀しい響き｡七海が、心底自分の身を案じてくれていることはそれだけで空にも充分伝わった。 「･･･七海ちゃん･･･」 呟いて、空が一歩七海のほうに戻りかける｡ だが。 「教師がそんなふうに廊下で大声を出したら、生徒たちに示しがつかないでしょう七海先生」 「――」 空の体がびくんと揺れた｡ すでに全身に刷り込まれている、たった一人の声｡自分の心を縛りつける絶対の存在感。 「あ･･･」 「羽柴は教室に戻れ｡もうすぐ次の授業がはじまるだろう」 「･･･失礼します」 この場に現れた自分の征服者たる水都真一朗に言われて、空は七海の目を避けつつ頭を下げた。そのまま足早に教室に戻る｡ 「羽柴くん！」 「七海先生」 教室に立ち去る空を引きとめようと呼びかけた七海に、水都の威圧的な視線が絡んだ｡ 「保健医としてのあなたの立場は尊重するが、羽柴に関しては口出しは無用です。アレは私が管理してますから」 「･･･生徒に示しがつかないのはどちらでしょうね、水都先生」 切り返した七海の言葉に、水都はふっと口元に笑みを浮かべた｡優越感をたたえた瞳で見下ろす｡ 「羽柴が泣きついたときはあなたの自由にすればいい。もっとも――羽柴がそうするかどうかは知りませんがね」 自信に満ち溢れた男の言葉に、七海はたった一人の生徒の安全も健康も守れない無力な自分を悔しく思いながらも、この場は引くしかなかった｡それ以上なにも言い返すことなく、そのまま男の横を通り過ぎる｡ 七海が横を通り過ぎる瞬間、水都がひどく冷酷な目で見下ろしていたことに、七海は気づかなかった。 半端でない、氷のような冷ややかな憎悪｡ そしてそれは当の七海にではなく、別の人間に向けられることになる――。 放課後｡ その日、いつものように水都に呼び出された空は、数学教諭室に足を踏み入れた途端ぎくりと足を止めた。いつも自分が入っていこうとどうしようとこちらを振り返りもしない水都が、椅子ごと全身を入り口の方に向け、きつい視線で自分を見つめていたからだ｡ 「水･･･都･･･？」 「ドアを閉めろ」 呆然と立ち尽くす空の後ろを、明るい声でおしゃべりしている二人の生徒が通り過ぎていく。空は我に返り、慌てて後ろのドアを閉めた｡ ドアを閉めて改めて水都のほうを見た途端、その視線に射すくめられる｡全身をとらえる強い瞳が頭のてっぺんから足のつま先まで執拗に這ってくる｡ もう何度、ここで放課後を過ごしたかわからない｡ あの日の深夜、さんざんこの男に犯されてから、この場はただ教師に説教をくらうだけの場所ではなくなった｡見えない空気の中にも濃密ななにかが溶け合い、空の神経を侵蝕する｡空気自体が淀み、鎖のように体に絡んでくる｡それだけで体のどこかがおかしくなりそうだ｡ ましてやそんなふうに見つめられていたら。 ――そんなふうに、体がもう慣らされているのだから。 「･･･っ、なに人のことジロジロ見てんだよっ。ヤるならさっさとヤれよ。オレだっていつまでもてめぇに付き合うほど、ヒマじゃねぇんだよっ」 熱くなる体をごまかすように、空は視線をそらしてわざと水都に乱暴な口調を叩きつけた｡いつもならここですぐさま「言葉遣いがなってない」と水都に言われ、自分を責める格好のネタを与えてしまうことになるのだが、このときの水都は空のその口調にはなにも文句を言わなかった｡ キィ･･･という小さな金属的な響き。 空がはっと顔を上げると、椅子から立ち上がった水都がつかつかとこちらにやってくるところだった。 「みな・・・」 間近に迫られて視界が暗くなる｡ と、突然、空の顔に衝撃が走った｡ 「――!?」 殴られたのだとわかったのは、空が勢いよく床に倒れこんでからだった｡重力の方向が変わり、目の前に冷たい床がある｡とっさの反射神経で頭を打ちつけることは防いだものの、左頬は鋭い痛みを伝えていた｡口の中に、血の味が広がる｡ しかし頬の痛みの程度を空がゆっくりと自覚する間もなく、髪の毛をつかまれ強引に顔を上げさせられた｡ しゃがみこんだ男が、薄い笑いを貼りつけて空の顔を覗き込む｡ 「ほぅ？ 『いつまでも私に付き合うほど暇じゃない』? ならおまえはそのあとどこへ行くつもりだ？ 藤守のところか？ それとも本城のところか？」 「･･･行けるわけねぇだろ。てめぇがそうしたんだろ!?」 頭の痛みをこらえて、空が反論した。水都とこうなってから直は勿論、祭ともまともに顔を合わせていなかった｡ だが空がそう答えた途端、水都の目がさらに残忍な輝きを帯びた｡ 空が思わず息を呑む｡ 「――!?」 「そうか｡じゃあ、七海のところだな」 「なんで七海ちゃんが――痛っ」 出てくるんだよ、と続けることはできなかった｡さらに力を込めて男に髪を引っ張られたからだ。 「･･･っ、ちきしょ、いい加減にしろよ･･･」 「知らなかったな･･･。おまえは、いつから七海とできてたんだ？」 「――違っ」 「七海と何回やったんだ? 七海の前でも腰を振ってねだったのか? 挿れられてよがって？」 「違うって言ってんだろ!?」 空は懸命に否定する｡実際、七海とも今日久しぶりに会話をしたくらいだった｡保健室になんて全然行ってない｡どんなに体が痛いときでも具合が悪いときでも、もう頼れる場所じゃないのは百も承知している｡ だからそんなのは完全に水都の誤解だった｡ 「七海ちゃんとなんか、なにも――」 無性に、水都の誤解を解きたかった｡ 自分の平穏や、水都の気持ちを静めるためではない｡ましてや七海のためでもなかった。 ただただ自分は他のだれともそんなことをした覚えはないと、伝えたかった。 だが、水都はそれを受け入れなかった。 空の髪から手を離して身を起こすと、水都はスーツのポケットから例のステンレス製の指示棒を取り出した｡ それを伸ばし、指示棒の先で床に倒れている空のあごを持ち上げる｡ そして舌で自分の唇を湿らせると、冷たく笑った｡ 「どうやらこれは、徹底的な身体検査が必要だな」 「水都!?」 「自分の飼い主を間違えるバカなペットにはもう一度よくわからせないといけないしな」 「――」 残忍な声で言う水都に、空の中で恐怖感が競り上がった｡ |