Ｌａｓｔ　Ｗｉｓｈ（前）


　黒板に、証明問題といくつもの数式が書かれている。チョークで書かれたその字は、空にとってすでに見慣れたものとなっていた。その字を見るたびに、字はまさに人格を表しているという言葉を思い出して納得する。
　神経質そうに整えられたその字は、確かに男の性格を的確に表していると思うのだ。
　そしてまたその字を生み出す手も。
　水都真一朗という人間を構成する資質がそこに凝縮させられていると、その手で幾度も抱かれた空はひそかに考えたりするのだった。


「あれ、ぜってぇホモだと思わねえ？」
　息苦しい数学の時間が終わり、休み時間となって、空の斜め前の席のクラスメートが唐突に後ろを向いてそんなことを言い出した。話しかけられた空の左隣のクラスメートが頷いて答える。
「まあな。確かに女に興味はなさそうだよな」
「あの顔で不自由してないから興味なさそうに見えるだけじゃねえのか？　だからってイコールホモだとは限らないだろ？」
「違うな。あれはぜってぇ男好きだね」
「なんでそんなにはっきり言い切るんだよ。もしかしておまえ、水都からなんかそんな目で見られたことでもあるんじゃねえのか？」
「うっわー。キケンキケン。もしかしてもうお手つきだったりするのか～？」
　周囲の友人たちを巻き込んで、その話題で盛り上がるクラスメートたちの話を、空はさりげないふりをしつつも聞いていた。自分に関係する話が出るんじゃないかと、内心はひやひやしていたのだ。数学教諭室によく出入りしている生徒がいるらしいだの、ときおり中から喘ぎ声が聞こえるだのの話がもし出たら、やはりそれ以上噂が広まらないうちにどうにか対処しなくてはいけないと思う。
　手だけは普通に次の授業の用意を整えながら、でも耳と意識はそのやりとりに集中させていた。
「ばーか、ンなことあるワケねーだろうが。気色わりぃこと言うんじゃねえよ」
　最初にその話題を出したクラスメートが、つっけんどんにそう言った。
「さーて、どうだかね」
「よせよ。おれじゃねえよ」
「というと？」
「おれじゃねえけどな、なんだか、水都の部屋によく通っている生徒がいるらしいぜ」
　それを聞いていた空の体がびくりと反応する。思わず、一瞬そちらに視線を走らせてしまった。
　幸い彼らは空の視線には気づかず、いくらか声をひそめながらも、さらにその話に夢中になっていった。
「うわ、マジかよっ」
「でもよ、それってただ普通にわからねえところを質問しに来ていたっつーオチじゃねえの？」
「確かに表向きは質問に行ってるだけかも知れねえけどよ、でもな、その回数がけっこう半端じゃないらしいぜ」
「中でナニやってるか知れたもんじゃねえって？　うわあ、キショ～」
「その生徒って誰だよ。どんなヤツ？　やっぱカマっぽいやつだったりすんのか？」
　空の体が再び震えた。
　そこでもし自分の特徴になるようなことを言われたらと思うと、続きを聞くのが怖い気がした。
「詳しくはおれも知らねーよ。人から聞きかじっただけだからな。ただ、細身でかわいい顔立ちの一年らしいっていう話さ」
「なんかいかにもって感じだな」
「水都センセイもやるねえ。ヒミツの個人授業ってか」
「――」
　空の頭の中がほんの数秒間だけ空白になった。
　自分、ではなかった。
　それは安心できる。――けれど。
　〝細身でかわいい顔立ちの一年〟。
　そんな人間を、あの男は数学教諭室に通わせていたのだ。


　休み時間が終わって次の授業が始まっても、空の意識は授業になど向けられてはいなかった。
　自分とは別に、男の相手をしているらしい人間がいる。
　思えば数日前、「しばらく忙しいから放課後はここに来なくていい」と言われたのは、あれはただ単に自分を引き離すための口実だと解釈できないだろうか。
　遠ざけた自分の身代わりをさせている、一年生。
　否。そうではなくて。
　空はすぐさま自分の過ちに気づいた。うつむいて真っ白いノートを眺めていた顔が、かすかに引き歪む。
　自分だって、もともとこの学校で男の相手をした何人かの生徒のうちの一人に過ぎないのだ。たまたましばらくの間は自分一人だけを相手にしていたけれど、そろそろ、〝代替わり〟する時期になったというだけなのだ。
　そんなふうに考えた空の意識の中に、自然な感覚でポンと落ちてきた一つの言葉があった。
　――〝ステラレル〟。
　空は慌てて首を振ってその言葉を否定した。
　違う。このことは、自分にとって喜ぶべきことなのだ。
　水都が他の相手を見つけても全然気にすることじゃない。むしろそれこそ、ずっと待ち望んでいた解放ということなのだから。
　――なのに。
　空の中に、なぜか釈然としないものが残っていた。


　しばらく放課後はここに来なくていい――そう少年に伝えてから、少年はこの部屋には来なくなった。普段は反抗的な態度を見せるくせに、そんなときだけはえらく素直になる少年を思い出して、男は口元に苦い笑みを浮かべた。
　わかっている。それも、当然のことなのだ。
　こちらが呼びさえしなければ、少年が自分からここに来る理由はなにもない。そうとわかっていたからこそ、幾度も強引に体をつなげたのではなかったか。
　静まり返った部屋で、水都は机上に広げたプリント類を片付ける。当直という仕事は面倒なことこの上ないが、たまった仕事を片付けられる時間が取れるのはありがたかった。
　不意に思いついて、スーツの内側から煙草を取り出す。だがつかんだ箱の軽さに眉をしかめ、水都は空箱を握りつぶして後ろに放り捨てた。
　口さみしいと思うのだが、それを埋めるものはなにもない。煙草がないなら、代わりになる甘いものがほしかった。すべてを忘れて夢中にさせるほどの甘さが。
　否、酔わせる甘さが欠けているからこそ、おそらくそれを埋めるために煙草を求めただけなのだ。
　――そろそろ。
　時間切れだと、男は思う。
　自分一人しかいない室内が、今が深夜だということを差し引いても、ひどく暗い場所に感じられた。
　だがしばらくして、男は遠くから聞こえてくる足音に気づいた。腕時計で現在時刻を確認したが、警備員の見回り時刻からはもう何時間も経っている。
　一瞬不穏な想定もしたが、足音の持ち主に音を殺そうとする気配はなかった。
　むしろなぜかときおり、壁にぶつかるような音まで聞こえてくる。
　規則正しくない足音がだんだんとこの部屋に近づき、そして。
　廊下に響き渡った、缶が転がる音のあとに。
「・・・ちぇっ。まだ中身入ってたのにさ・・・もったいねえなあ・・・」
　聞き慣れた少年の呟きが、水都の耳に届いた。
　水都は再び時間を確かめる。寮の門限など、もうとっくに過ぎていた。
　やがて、思いきり大きな音を立てて、数学教諭室の扉が開いた。
「みっなとセンセー、こぉんな時間までおシゴトですか～？　へへっ、ごくろーサマ」
「――羽柴」
「そう、出席番号にっじゅーろく番、羽柴空くんの登場でーす。センセイもたまには真面目におシゴトするときもあるんだな。カンシンカンシン」
「羽柴。飲んでるのか・・・」
　扉を開けてその枠にもたれかかりながら姿を見せた空の様子に、水都はこれ見よがしに溜息をついてみせた。赤く染まった顔を見なくても、そのハイテンションな声だけで、今の少年が充分にアルコールを摂取した状態であることはよくわかった。
　水都に確認のように問われて、空は扉を閉めないまま部屋の中に入った。
「ええ飲んでますよ。ビールをひいふうみい・・・四本ぐらい飲んだかなあ。おかげさまでオレ、すっげぇ気分いいんすよねえー」
「・・・・・・」
「あ、なんですか、その顔は。ミセーネンの飲酒は禁じられているとか、悪いコトしてるとか言いたいんですか？　でも、ガッコーでセンセイといかがわしいことをすることだって、充分悪いコトじゃないですか。ビール飲んだぐらい、いまさらでしょうー？　オレ、センセイの飲まされたコトだってありますしね。なーんてね」
　一人で言って、一人でうけている少年のその様子に、水都は中指で眼鏡を押し上げながら背を向けた。
「馬鹿と話す暇はないな。いいからもう帰って寝ろ。今日のは見なかったことにしてやる」
「はっ。その馬鹿でガキくさいのを相手にしてたのはどこのどなたでしたっけねえ？　ああ、それとも馬鹿だから便所代わりにはちょうどよかったんですか？　なんにも知らねえガキなら、適当に言いくるめるのも先生にすればカンタンでしょうからね」
「ふ。いやに私に絡むじゃないか。そんなにストレスが溜まっていたというわけか？　それとも、私に相手をされなくて別のモノが溜まったからここに来たのか？」
　机に寄りかかり、再び水都が空のほうを向いた。そのいつもの余裕ありげな表情から、空はたまらずに顔を背けた。
「・・・あんたと出会ってから、オレのストレスなんかずっと溜まりっぱなしさ・・・」
「それがここにきて一気に爆発したというわけか。飲酒に門限破り、ついでに校内は夜間立ち入り禁止だ。そういう方法で発散するなんて、かなり問題だな」
「あんたに教師らしい説教なんかされたくねーよ。・・・教師失格のくせに」
「ほう、初耳だな。私はよく教師の模範だと言われるがな」
「教師の模範が聞いて呆れるぜ。生徒に手を出しまくる教師の模範なんて聞いたことがねーよ」
「手を、出しまくる？」
　空の言葉を聞きとがめて、水都が繰り返した。
　空が一瞬ためらい、唇を噛み締めた。
　そしてやはり水都のほうを見ないままで言葉を続ける。
　声に震えが混じらないように、一気に吐き捨てた。
「すっとぼけんじゃねーよっ！　あんたこれまでにも生徒に手を出しまくってたんだろっ。オレは――オレはいったい何人目なんだよっ！！」
　叩きつけた空の言葉に、水都は即座に答えなかった。
　水都から返事が与えられないことにしびれをきらした空が意を決して顔を上げ、そちらを睨みつけた。
　そのときぽつりと、水都がどこか遠くに視線を投げるようにして呟いた。
「初めてだと言ったらどうする？」
「――」
「生徒に手を出したのはおまえが初めてだと言ったら」
「はっ、冗談だろ・・・」
「確かに私にはもともとこういう嗜好はあった。だが、ガキには興味がないな。生徒をそういう対象として見たことはこれまで一度もない。羽柴、おまえだけだ」
　水都の視線が空を捉えた。眼鏡の奥のその瞳に射すくめられて、空の心臓が跳ね上がる。
　自分、だけ。自分が初めて。
　それはどこか魅惑的な響きを帯びていた。
　だが空はすぐさまその言葉と水都の視線とを自分の中から追い出した。頭をよぎる、今日聞いたクラスメートたちの言葉の数々。
「でもオレに手を出してから、『ガキも捨てたもんじゃない』って目覚めちゃったわけか」
　自分の手で服の胸元をぎゅっと握り締めながら、空は水都から顔を背けて言った。
「・・・目覚めた？」
「とぼけるなよ。オレ、もう知ってるんだからな。あんた、最近ここに気に入りの一年を通わせているらしいじゃねえか」
「――ああ。で、そのことでここに愚痴りにきたのか？」
「違う・・・っ。オレはただ、あんたに別れてやるって言いにきただけだ。そうさ、離れてやるって言ってんだよ。あんたから言わなくてもオレのほうからな。そのほうがあんただって手間が省けるだろう？」
「そうだな、確かに手間が省けて助かるな。で、おまえの用事がそれだけなら、もう帰るか？」
　感情的に言葉を並べる空とは裏腹に、あくまでも水都の声は淡々としていた。机に寄りかかったまま、相変わらず一歩も動こうとする気配はなかった。
　自分に近づこうとしない体。自分に触れようともしない手。
　空にとっては、それが男の心離れを如実に表しているように感じられた。
　縮まらない距離が、自分と、男の気持ちとの距離だと。
　――〝心変わり〟などではなくて、本当は最初から、ずっとこうだったのだ。
　男の心が自分に向けられているというのは錯覚で、単に欲望を処理するための手軽な存在として多少かまわれていたにすぎない。
　初めから、そんなことはわかっているはずだった。
　自分だって、男に抱かれることをいつも嫌悪し続けていたのだから。
　もとから重なり合うなにかなど生まれるはずも、存在するはずもない関係だったのだ。
　空は改めて男の姿を見やる。
　ずっと嫌い続けてきた相手。それは今でも、変わらないはずだった。
　けれど、空はこのまま帰る気にはなれなかった。
　どこかで、なにかを求める気持ちが、ある。
「・・・オレの中のけじめとして、最後にあんたに抱かせてやるよ。もう一度だけ、この体に触れるのを許してやる。オレも、あんたのテクのうまさだけは嫌いじゃなかったしな」
　水都を見据えて、空が言い放った。
　だが水都はそんな空に対して、冷たい声音で返した。
「今の私が、おまえに触れる必要を感じていると思っているのか？」
「――」
「あいにくだったな。お前が言ったとおり、もう相手に不自由はしていない」
　あれだけ自分を好きに扱ってきた男のその言葉に、空の中で一瞬灼熱する感情がわいた。
　空はその怒りという感情に任せて叫びだしたい気持ちにかられたが、けれどその感情を急激に圧して、心に広がったものがあった。
　なにもかもを飲み込むような暗闇。心の中に広がった空虚さ。
　〝水都ハ、モウ。自分ニ触レナクテモカマワナイノダ――〟
　言葉を失って立ち尽くす空を眺めていた男が、不意に口元に笑みを浮かべた。
　自分の優位を確信しているその瞳で、傲然と空に向かって言う。
　空の中にある感情を見越したように。
「ふ・・・。羽柴、最後ぐらい素直になったらどうだ？　――抱いてください、だろ？　最後ぐらい、正直に言ってみるんだな。そうすれば私の気も変わるかもしれないぞ？」
「・・・ふ、ふざけんなよ。誰が・・・っ」
　男の言葉に対して、空はすぐさま反論した。水都に対してそんな言葉を口にするなんて、本当に冗談ではなかった。
　だが。
　空の心が震える。空の瞳はくいいるように水都の顔だけに注がれた。
　最後、なのだ。これで、本当に。この男と体を合わせるのも、男の手に触れられるのも。
　もう明日からは触れ合うことなく、赤の他人に戻るのだ。
　そう考えた空の意識の中で、なにかが途切れた。
　唇から、自然に滑り出る言葉がある。
　絶対に口にしたくなかった言葉。けれどそれをしなければ、このままこうして二人きりで会うこともなくなるのだ。
　――だから。
「――・・・っ・・・だ、いて・・・くだ、さい・・・」
　吐息のようにかすかな声が、空の唇からこぼれた。

〔ＮＥＸＴ〕