ＯＮＬＹ ＹＯＵ
相沢のところに行ったあの夜から帰っていなかった寮にたどり着く。門限を過ぎてしまった寮舎は、夜闇の中にひっそりと立っていた。それでも、まだ中では寮生たちが寝るまでの時間を思い思いに過ごしているのだろう。
空は数日間触っていなかった門に触れた。キィ･･･というかすかな軋み音がして、空は、寮の敷地内に迎え入れられた。
さして急ぐこともなく、寮舎に向かう。鍵が閉まっていることや、寮監にすぐに見つかってしまうことを危惧したが、幸い空は咎められることなく、すんなり寮内に入ることができた。
慣れきった心地よい空気が、空を包み込む。玄関口の天井から照らす柔らかなオレンジ色の光と、離れたところから聞こえる寮生たちのにぎやかな声。
そして、かすかに残る清剌な空気。
「――」
空はその場で靴を脱ぎ捨てると、はじかれたように走り出した。
この寮に帰ってきたと認識する前に、つらい現実が待っていると考える前に、とにかく会いたいと思ったのだ。無性に、その顔を見たかった。
無我夢中で走っていたために、空は廊下を曲がるときに反対側から歩いてきた人間とぶつかりそうになった。
「わっ･･･!?」
「悪ぃ･･･」
「･･･羽柴っ?」
ぶつかりそうになった相手に腕を掴まれる。それは、よく話をするクラスメートの一人だった。
「あ･･･」
空は気まずくなって視線をそらした。ずっと学校も休んでいたし、寮にも帰っていなかったのだ。なにか聞かれる前に早くこの場を立ち去りたかった。
「おまえ、もう帰ってきたのか？」
「え？」
だがクラスメートの声は空の予想に反してごく普通の声だった。不信な響きも咎める空気もない。
「帰ってきた･･･って･･･」
「よくは知らねえけど、おまえの遠い親戚が亡くなって、ずっとそっちに行ってたんだろ？」
「･･･だれがそんなことを･･･」
「あれ、違ったか!? 俺、七海ちゃんからそう聞いたけどなあ。先生たちもそう言ってるぜ」
「･･････」
七海が･･･あるいは真一朗が、示しを合わせて今回のことをそういうふうに片付けてくれているのだと知る。おそらく、自分が帰ってきやすいように。
「ま、しばらくここにいなくて正解だよ。すんごかったぜえ、マスコミとかわんさか押しかけてきてよ。まさかうちの大学部の教授があんなことをしでかしているなんてびっくりだよな。羽柴も、テレビでちょっとぐらいはうちのニュースを見ただろ？」
「七海ちゃんは!?」
クラスメートの話をさえぎって、空が聞いた。
空の勢いにそのクラスメートは面食らったようだった。
「あ･･･？」
「七海ちゃん、今どこにいるか知ってるかっ!?」
聞いたあとで空は自分の迂闊さに気づいた。
七海が今寮にいるとは限らないのだ。もしかすると探偵事務所のほうにいるのかもしれない。
今頃、真一朗と一緒に。
胸の中に冷たい感情が落ちる。考えてみれば自分のことで心配させているのなら、なおさら七海のそばに真一朗がいる可能性のほうが高いのだ。
そんな空の心の内には気づかず、クラスメートの少年はあっさりと言い放った。
「七海ちゃんなら部屋にいるだろ？」
「･･･一人で!?」
「じゃねえの？ 誰かが怪我したとか、具合悪くなったっていう話も聞かねえし･･･」
「サンキュ！ じゃあな！」
空は少年にそれだけ言うと、再び廊下を駆け出した。クラスメートの言葉にすがるように、七海の部屋を目指す。
そしてドアをノックすることもなく、ドアノブに手をかけた。
――なにをおいても。
逢いたくて。
「七海ちゃん、ただいま！！！」
ドアが開いたとき、ドアが開く大きな音に振り向いた七海は、そこに立つ少年の姿を見た。
数日振りに見る、青い髪の少年。
荒い呼吸を繰り返しながらも、その顔には満面の笑顔が浮かんでいた。少年の瞳が七海を視界に入れて、さらに笑顔が輝く。
七海は持っていたファイルや書類の束を机の上に置くと、少年のほうへゆっくりと歩み寄った。はやる心を抑えて少年の前にたどりつき、その顔をのぞきこむ。
本当に、自分の目の前に空がいるのだ。
そのことをさらに実感するために、七海は腕を伸ばした。
「･･･お帰りなさい」
冷静であろうと努力した甲斐があって声は落ち着いたものだったが、少年の体に回した腕が七海の気持ちを如実に表していた。こんなふうに抱きしめるのは初めてだったのに、それでももう理性が止まらない。どうしようもないほどの強い力が腕に加わってしまう。
「･･････ッ」
少年が息を飲む気配が伝わったが、無論七海は少年を解放する気はなかった。こんなんじゃ納得できないのだ。もっともっと困り果てればいい。
実際空は動揺していた。会いたいと思っていたし、こんなふうに触れたい気持ちはあったけれど、本当にそんなことを実行できるわけはなかった。なのに七海のほうから抱きついてきたのだ。
背中に回された強い強い力が、それだけ、七海を心配させた証しだと思えた。七海は、ここまで自分のことを心配してくれたのだ。
「･･････七海、ちゃん･･･」
大好きな大好きな青年。その青年が自分のことをここまで心配してくれたのなら、もうあとのことはどうでもいいように思えた。こんなに心配してくれただけでもう充分なのだ。
七海の心が自分になくても。
――だが、自分を抱きしめていた七海の頭が動いたかと思うと、視線が重なった。
それから。
「･･････っ!?」
かさついた唇に触れた、柔らかな感触。
一度離れたあと、もう一度触れてきて。今度は七海が首を傾け、先程よりもさらに力を込めるようにして。
空の瞳が驚きに見開かれる。七海が離れても呆然として声を失っていた。
七海はそんな少年に向けて、かすかな声で呟いた。
「あのとき･･･もっと、自分の気持ちに正直になっていればよかったですね。人前でも、誰の前でも気にしないで。こんなふうに、ちゃんと羽柴くんに触れていればよかった･･･」
「七海ちゃん･･･」
どこか陶然とした瞳で自分を見つめてくる空から腕を解き、七海はその頬を優しく撫でた。桜色に染まった頬に、どことなく、数日前には見られなかったなにかが加わっているような気がした。
「･･･少し、痩せたんじゃないですか･･･？」
だが七海はそのことではなく別のことを口にした。確かに少年の顔色や唇の艶やかさが違うように思えたのも、また事実だった。
「今日はもう、ゆっくり休んだほうがいいですよ？ 部屋に帰って、藤守くんを安心させてあげて？」
「あ・・・」
トン、と、空の体が押された。その力は軽かったが、空を部屋の外に押しやる意思が込められていた。
「で、でも、オレ、せっかくここに帰ってきたんだし、七海ちゃんと話をしたいよ。七海ちゃんに、オレの話を聞いて欲しいんだ」
「ありがとうございます。でも･･･今日はだめ。このままここに羽柴くんを引き止めてしまったら、本当に理性を失っちゃうから。今だって、羽柴くんを驚かせるとわかっていて、気持ちが止まらなくなってしまったんです。本当は、もう一度殴ってやろうと思っていたんですけどね。でもまあ、そうしてまた羽柴くんに誤解されたまま、だれかさんに羽柴くんを持っていかれるのもしゃくですしね」
「――」
七海の言葉を、空はどこか他人事のように聞く。七海は今、なにを話しているのだろう･･･。そんな言い方は、真一朗ではなくて、まるで自分のことを･･･。
「･･･これまでの間に羽柴くん、夜･･･くんと、なにもありませんでした？」
「･･･えっ、い、いや。な、なんにもっ」
七海の言葉を遠くで聞いていただけに、空は七海の質問にすぐに答えられなかった。また質問内容が質問内容だったので、とっさに答えた声は上ずっていた。反射的に、頭の中に先程の夜とのやりとりが浮かんできてしまった。
空の顔に、常の少年らしくない朱が散る。瞳がどことなく潤み、かすかな色気が醸し出されていた。
七海は、先程空の頬に触れたときに感じた違和感の原因を知る。
おそらく、空は。彼の内にいるもう一つの人格――夜と、なにかがあったのだ。きっと、性的なことが。
そのとき七海の心に宿った感情のことなど、空には知る由もなかった。
「そ、そんなことより、七海ちゃんあのさ･･･。あの･･･さっきの･･･の意味を教えて欲しいんだけど･･･」
話題を変えるつもりもあって、空は七海に聞いた。本当に、七海があんなことをした理由がわからなかったからでもある。
なぜ七海は自分にキスをしたのだろうか。
ただ保護者代わりとして心配するだけでは、さすがにキスまではしないはずだ。
それに先程の言葉が気になって、このまま部屋に帰ってもゆっくりと休めそうにもなかった。
――潤んだ瞳で、赤く染まった頬でそんなことを聞かれたら。ましてや自分の知らないところで夜となにかあったらしいということを聞いたあとでは、もう止まらなかった。
七海は再び空の頬に手を伸ばす。近づいて、顔を傾けさせて。
「だから、こういう意味ですよ」
そうして空の唇に自分のそれを重ねた。先程の抑え目にしたくちづけとは違って、どうしても気持ちがこもってしまう。本当はあのとき目の前にいたのに、自分の気持ちを上手く伝えきれなかったばかりに別の相手に一歩譲ったのかと思うと、後悔というよりも悔しさがつきまとった。そしてその感情が七海を駆り立て、少年の意思を無視して深いくちづけを交わしてしまう。
ずっと、好きだったから。少年が相沢のところに行ったと知ったとき、本当に心配で不安で怖くて、置いていかれたことが哀しかったから。
もう離しはしないと、そんな意思を込めて。
「･･････っ」
舌を絡めると、少年が激しく動揺しているのがわかった。押しやるために伸ばされた腕も掴み、自分の胸に引き込んでしまう。
意味を問いかけてきたのは少年のほうだったから。もう誤解できないほどに強く、蕩けさせるほどに甘く･･･。
「は･･･ぁ･･･」
七海が空を解放すると、空は激しいくちづけにとっさに反応を返せないようだった。
七海はそんな空に今の激しさをうかがわせないほどの優しい声で、空を促す。
「もうわかったでしょう？ 詳しくはまた明日にでもお話しますけどね。･･･じゃあ、おやすみなさい羽柴くん」
もう一度空の体を押しやり、七海は部屋のドアを閉めようとした。
だが。
「ちょっと待った七海ちゃんっ」
閉まりそうになったドアを、正気に返った空が押さえた。
「･･･だから、オレ、今日のうちにちゃんと話を聞きたいんだって。七海ちゃんに、なにを言われてもいいからさ。このまんまじゃオレ、寝つけねーよ･･･」
「･･･それは、私になにをされてもいいという意味ですか？」
「え？」
「いえ、なんでもないです。･･･わかりました羽柴くん。じゃあ、中へどうぞ。羽柴くんが望むとおりに、中でちゃんと話しましょう」
そう言うと七海は、改めて部屋のドアを空に向けて開いた。
空を部屋の中に入れて座るように勧めたあと、七海は自分もすぐさま空の真向かいに腰を下ろした。七海の性格からして普段ならここで湯飲みを準備するところだが、今はただじっと空を見つめているだけだった。七海になにを言われてもいい――この前のように怒鳴られてもいいと覚悟を決めていた空だったが、あまりにも真正面から見つめられてどこか居心地悪げに視線をはずす。あぐらを組んだ足の上に乗せた手の指を、意味もなく組みなおしたりした。
･･･居心地が悪いのはきっと、七海の瞳に愁いが満ちているせいなのだ。
やがて、七海が静かに口を開いた。
「本当に･･･私、どうしてくれようって思ったんですよ。羽柴くんが相沢のところに行ったとき。自分の身の危険を振り返らずに相沢の元に行かれて、その上そんなことをした理由が私の安全を確保するため、だなんて。そしてその一方で真一朗と私を見ていたくなかったからという理由まで知らされて。あまりにも衝撃的で、私、怒っていいんだか泣いていいんだかわからなくなりましたよ。しかもそのあとはそのあとで、夜くんとランデブーでしょう？ 羽柴くんに続けておいていかれた私の気持ちはどうなるんですか･･･？」
「七海ちゃん･･･」
七海の声に本当に哀しみが宿っていて、空は七海に視線を戻した。その途端、再び七海の瞳に絡めとられる。胸を締めつけられるくらいの一途な瞳が自分だけを映し出していた。
「本当に羽柴くんてバカで、子供ですよね。それから短絡的で思い込みが激しくてどこか抜けてて浮気性で、罪作りです」
「う・・・」
「でも、それでも。私がこの世で一番大切に想う相手なんです。ええ――誰よりも」
七海が最後の言葉を強調して空に伝えた。
誰、よりも。
その言葉を聞いた空の目が驚きに見開かれる。先程のキスや七海が少しだけ呟いた言葉の意味を明確に教えられて。
「七海ちゃん、それって、オレ･･･っ」
「羽柴くんは？ 私のこと、どう思っていますか？」
揺るぎのない声で七海が空の答えを促す。空はそのまま口を開こうとしたが、自分のしている姿勢に気づくと、腰を浮かして膝を折り曲げ、姿勢を整えた。卓袱台を挟んで真向かいにいる七海に少しでも近づくように身を寄せ、それからようやく空は七海に告げた。
「オレ、オレも、七海ちゃんのことが一番大切だよ。誰よりも、どんな相手よりも。オレの中では七海ちゃんが一番だよ。ずっと･･･ずっと好きだったんだ」
「だったら」
七海が自分の手を、空のほうに伸ばした。空の腕を掴んで自分のほうに引き寄せ、その手を強く握り締める。
「だったらもう、どこにも行かないで。私の安全のためだなんて考えないで、もっと貪欲に私を求めて。私が本当に羽柴くんの一番なら、よけいなことなんか考える必要はないでしょう!?」
「なな･･･ちゃ･･･」
強い語調で言い切る七海に、空は驚かされる。いつも落ち着いて柔らかな口調で話しかけてくる七海の、これまで見たことがないほどの激しさ。
空が自分の態度に驚いていることに気づいた七海がいくらか声のトーンを落とした。その声に皮肉げな響きが混ざる。
「･･･最初から、こんな言い方をすればよかったですか？ 羽柴くんにもっとわかりやすい形で私の気持ちを伝えておけば、あのとき、私は羽柴くんにおいていかれることはなかったですか？ でも、私はあのときすごく怒っていたんです。本当に、殴り飛ばすだけじゃなくて蹴りの二つ三つ入れたいくらいに怒ってたんです」
「ゆ･･･夢みたいだ･･･」
そう言って、空は七海に握り締められた手に、自分の手を重ねた。
自分の心臓が早鐘のように打っているのを感じる。触れたところから、その振動が七海に伝わってしまうのではないかと思うほどだった。
それでも、手を引くことなく。
空は自分の手に力を込めた。
「だってオレ、七海ちゃんは兄ちゃんが好きなんだとずっと思っていたんだ。だからどんなに諦めきれなくても、いつかは身を引かなきゃいけないって考えてた。そして七海ちゃんには幸せになってほしいけど、兄ちゃんの隣で兄ちゃんだけを見つめて微笑む七海ちゃんの姿は見たくないとも思ってたんだ。だから七海ちゃんと兄ちゃんを見なくてすむようなところに行ってしまいたいと考えてた。･･･七海ちゃんがオレを、なんて、全然思ってもみなかったよオレ･･･」
「――そういうところがバカ だって言うんですよ、羽柴くんは」
「・・・・・・」
一言であっさり切り捨てられて、空の頭ががくんと下がった。あわや卓袱台に額をぶつけそうになったくらいだった。
「七海ちゃん･･･きつ･･･」
「きつかろうが口が悪かろうが私は私でしょう。それとも、こんな私だったら嫌いになりますか？ 優しくて物分りのいい保健医の顔でいなくちゃだめですか？」
空は顔を上げる。
七海の表情にも声にも不安そうな響きはない。
だからこそ、その毅然とした姿になおさら惹かれた。
優しくて他人行儀に振る舞われたほうが、きっとそのほうがずっと寂しかったはずだ。あのときも七海に叩かれて、だからこそ自分のバカさ加減と自分を心配する七海の気持ちがはっきりと伝わってきたのだ。
こんなふうに彼が穏やかさを脱ぎ捨てて、本当の感情を見せてくれるところをもっともっと見たいと空は思った。
だから――伝える。
自分の中の深い想いを込めて。
「違う･･･七海ちゃんは、七海ちゃんだよ。オレが好きになったのは、今目の前にいる人のすべてだから」
つなぎあった七海の手をやわらかく振りほどき。
空はなかば立ち上がるようにして、七海の首に腕を伸ばして抱きついた。
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