体熱温度。 １． 「おはようございます、羽柴くん」 朝、ジョギングに出かけようとした空に、竹ボウキを持って玄関前を掃除している七海が声をかけた。昨夜眠れなくて気が滅入っていた空とは裏腹に、七海の笑顔には曇りがない。 空は咄嗟に七海の腕を掴んでいた。 「七海ちゃん、いつ帰ってきたんだよ！」 「は･･･羽柴くん？」 急に腕をつかまれた七海からは戸惑った声が返ってくる。それでも空は腕の力を緩めず、さらに七海を問い詰めた。 「夕べ、七海ちゃん部屋にいなかっただろ!? いったいどこに行ってたんだよ。兄ちゃんのマンションか!? それとも別のところかよ。オレ、たまたま用事があって七海ちゃんのところに行ったらさ、七海ちゃん遅い時間なのに全然帰ってきそうもなくて･･･」 「･･････」 七海は空の顔を凝視する。空は七海を見つめたままさらに捲くし立てた。 「そりゃあオレが七海ちゃんの行動にいちいち文句を言う筋合いはねえけど、でも、やっぱ気になるし心配するじゃん？ いつもいるはずの七海ちゃんがいなかったら、なんだか落ち着かなくて･･･」 「羽柴くんを、心配させてしまったんですか？」 「だから、七海ちゃんはいつもいて当たり前の存在だしさ。一晩帰ってこなかったら心配もするって」 そう言ったあとで空はふと口をつぐんだ。本当に、自分が七海の行動にいちいち口を挟む権利はないのだ。 あまりにも心配していたからつい言ってしまったけれど、まるでなにもかもを束縛しようとしている馬鹿な男の行動に思えてきて、空は七海の腕から気まずそうに手を離した。 「七海ちゃんが帰ってきたんならいいよ・・・。とにかくオレ、走ってくる。じゃあな七海ちゃん」 「待ってください、羽柴くん」 「え？」 今度は七海が空の腕を捕らえた。走り出そうとした空を引き止めるようにして。 「心配してくれてありがとうございます。そして、心配をかけてごめんなさい」 「うわっ。な、七海ちゃんがオレに礼を言うことでもねえし、謝ることでもねーよ！ オレが暴走しすぎただけだって。七海ちゃんにあんなことを言う権利なんて、オレにはもともとねえのにさ。・・・ごめん、七海ちゃん。謝るのはオレの方だろ」 しょげたように頭を下げた空に対して、七海は口元にやわらかい笑みを浮かべた。こう言っては本人に怒られてしまうだろうが、そんな殊勝な態度は七海からすれば〝かわいい〟とさえ思えた。 「羽柴くんに心配されて、嬉しかったですよ。ずっと、私のことを気にかけてくれたんですね」 「・・・・・・オレが、勝手にそうしてただけさ」 「一晩いないと心配してくれるような人がいるなんて、私もなかなかお安くないみたいですね」 「・・・・・・」 「でも昨日は、ずっとここにいたんですよ？」 「え!?」 「寮の一室にいました。風邪をひいて具合の悪い子がいましたので、それでずっとその子の部屋にいただけですよ」 「そいつんところに一晩中!? 七海ちゃん、そのままそこで夜を明かしたのかよ!?」 「ええ。高い熱が続いて心配でしたしね。それに私の、仕事ですから」 寮生の部屋に七海が一晩いたということに驚く空に対して、七海が答えた。かすかに、自分の仕事には口を出させないという気配を込めて。 本当はわざわざそこまですることないとか、無防備すぎるとか、言いたいことはいくらでもあったけれど、七海のそのことに関しては有無を言わせないような笑顔に、空も黙るしかなかった。 「私からすれば当然のことですよ。生徒たちの健康を管理するのは私の役目です。誰かが苦しんでいたらそれを楽にしてあげるのも私の仕事ですから。勿論羽柴くんが具合が悪くなったときも、同じようにそうしますよ」 〝同じように・・・とは言っても、「空くん」のことはやはり少し特別扱いしてしまうかもしれませんけど〟 くすりと笑って七海が小さく付け足した。 「でも、そのことで羽柴くんを心配させるとは思いませんでした。緊急の場合のためにも、どこにいるか居場所を書いたメモぐらい部屋に残しておけばよかったですね」 「･･････んなメモなんかあったら、オレ、ますます眠れなかった気がする･･･」 空は七海に聞こえないほどの声で、ひっそりと呟いた。 具合が悪いとはいえ、七海が一晩中その寮生の部屋にいる。その生徒と知り合いでなければ迂闊に部屋を訪ねるわけにもいかないし、そのぶん中の状況を知りたくてたまらなくなっていた気がする。 どちらにせよ、昨日はろくに眠れなくなっていたということだ。 「･･･そういえば七海ちゃんは昨日、ちゃんと寝たのかよ」 不意にそのことに気がついた空が、七海に確認した。 高い熱を出していた生徒。一晩中ついていた七海。 それはつまり、看病のために七海もろくに寝ていないということではないだろうか。 よくよくその顔を見てみれば、なんとなく疲れの色が濃いような気がする。これまで自分の中の嫉妬心のあまり、そこまで気がつかなかったけれど。 空は迂闊な自分に舌打ちした。ガキっぽく妬いている前に、七海自身のことをもっと気遣うべきだったのだ。 空の問いに、七海は笑顔で答えた。 「大丈夫です。部屋に戻ってから少し寝ましたから」 「それはちゃんと寝たって言わねえだろ。医者の不養生って言葉もあるくらいだし、七海ちゃんはもっと自分の体のことに気をつけるべきだぜ」 「これでも気をつけてますよ。ただ自分の体のことですから、少し無理をしても、ここまでは大丈夫っていうのがわかるんです」 「それってなんだか安心できねえ･･･」 そう言って、空は七海の額に手を伸ばしてみた。手を伸ばすのにはいささか勇気が必要だったけれど、七海の健康状態を手っ取り早く確認したい気持ちのほうが勝った。 「･･････七海ちゃん。なんだか少し熱い気がするぜ」 「そうですか？」 「そいつの風邪がうつったんじゃねえの!? やっぱちゃんと休んでないからそんなことになるんだぜ。七海ちゃんももう若くはないんだからさ！」 「なんだかひどい言われようですね。でも･･･」 七海が、自分の額に当てられていた空の手をはずした。そうして空の腕をつかんだまま身を乗り出すようにして。 「･･････っ!?」 空の額に、自分の額をおしつけたのだ。いきなり思ってもみない至近距離に七海の顔が迫ってきて、空は驚きのあまり身動き一つできなかった。 「羽柴くんと同じくらいじゃないですか？ こうするとそんなに熱いなんて感じないでしょう？」 「こ、これはっ。じょ、状況が違うだろ、七海ちゃん！」 顔を真っ赤にさせた空が、慌てて七海の体を押しやった。それからすぐさま七海に背を向ける。 今体内の温度が上がってしまったのは七海のせいであって、イコール七海に熱がないという理屈にはならないのだ。 「～～～～～とにかく、七海ちゃんすぐに部屋にもどれよ。これから本格的に具合悪くなるぜ。少なくともちゃんと寝たほうがいいって」 「目覚めはいいほうだから大丈夫ですよ。それより羽柴くん、早く行かないと朝ごはんを食べる時間がなくなっちゃいますよ？」 「･･･七海ちゃん、オレがうるさいから追いやろうとしてんだろ。あいにくそうはさせないからな。七海ちゃん、はい回れ右。掃除なんかいいから部屋にもどれよ」 顔から熱が引いた空が、再び七海のほうを向き、その手から竹箒を奪った。そしてその肩を強引に押して、回れ右をさせる。 「羽柴くん、ジョギングは？ いいんですか？」 「今は七海ちゃんのことが大事だろ！」 「子どもじゃないんですから、一人でも部屋に戻れますよ。私のことなんかいいから、行って？」 「やだよ。子どもじゃないからよけいタチ悪りぃんだろ。オレがいなくなったら七海ちゃん、ぜってぇ部屋にもどらねえに決まってるんだからさ」 「私のこと･･･そんなに信用できませんか？ そうですか･･･」 「うっ･･･そ、そんな顔してもだめだからなっ。とにかく部屋に行って横になること！ はい、戻った戻った！」 「･･････」 空にさらに強引に肩を押されていた七海の体から、やがて力が抜けた。後ろからの力に逆らわずに歩を進めていく。 「わかりました。じゃあこれ以上羽柴くんに心配をかけないためにも、部屋に戻りますね。羽柴くんの優しさに甘んじて、このまま送ってもらうことにします」 「ああ！ ちゃんとオレが部屋まで送るからな！ ･･････って七海ちゃん、つまり、やっぱりオレがいなかったらそのまま部屋にもどらなかったってことじゃ･･･」 七海の肩を押しながら憮然とした声を出した空に、七海はやわらかく微笑んだ。 「さあ、どうでしょうね」 ２． 「じゃあ七海ちゃんは上着を脱いでさっさと布団に横になること。ちゃんと毛布もかけなきゃだめだぜ？ ･･･あ、そのまえに熱を測っといたほうがいいか。七海ちゃん、体温計どこだっけ？」 「体温計なら自分で出しますよ？」 「あー、いいからいいから。七海ちゃんはそこに横になってろよ。確か机の引き出しのどっかだよな。えーと･･･」 七海の部屋に戻ってくるなり、空はすぐに七海の布団を整え、七海に横になるように言った。それから熱を測るべく、体温計を探しはじめる。 「あ、あったあった。ほら七海ちゃん、まずは検温。ずるしちゃだめだからな」 「ずるして測って、なにか私に得になることでもあるんですか？」 電子体温計を渡しながら空が付け足した一言に、七海が苦笑する。 「熱がなかったら七海ちゃん、それを理由に動き回ろうとするだろ」 「それにしても〝ずる〟ってなんですか･･･」 「だって七海ちゃんがオレによく言うじゃんかよ。ちゃんと腕は押さえること、だの、動き回っちゃいけないだの」 「それは羽柴くんが体温を正確に測るのに協力的じゃないからでしょう？」 「じゃあいつもオレにそう言っている七海ちゃんは、きっと〝模範的な病人〟をやってみせてくれるんだよな？」 「･･･私はまだ病人じゃないですけど」 七海がそう言うと、空はコホンと咳払いをした。そして七海の口調を作って、当の七海に向かって言う。 「〝病人が自分で見立てるものほどあてにならないことはないんですヨ。いいからここはセンセイのゆーことを聞いてちゃんとおとなしく横になってなきゃだめデス〟」 「･･････」 「〝おや、返事がないですヨ。七海クン、お返事は？〟」 「･･･はい、わかりました羽柴先生」 「･･･ぷっ。なんかこれ、すっげーいい気分！」 「私はなんか複雑ですけどね･･･」 そう言いながらも、七海はベッドに腰掛けて着ていたジャージの上着を脱ぐと、おとなしく体温計で熱を測りはじめた。一分ほどして、電子体温計が甲高い音を鳴らしはじめる。 「３７．６･･･。七海ちゃん、やっぱり熱あるじゃん」 「３７度台なら、熱があるなんて言いませんよ」 「七海センセイ、いつも言っていることと今言ってることが全然違いマスけど。いつもは〝熱を甘く見たら大変なことになるんですよ。これぐらいの熱のときに大事にしないと、急に熱があがって長引く羽目になるんですから〟って言ってるクセにさ」 「だから、体力のある大人はこれぐらいの熱は平気なんですよ。でも成長期の高校生は、ちゃんと休んでなきゃだめなんです」 「うわっ、その理屈なんだかすっげえ差別くさ！！ 普通逆だろ。年食ってるほうが大事にしなきゃだめなんだろ」 「･･･羽柴くん、私になにか恨みでもあるんですか？」 笑顔とともに向けられた七海の言葉に、空は自分の失言にいまさらながらに気づいた。だがここで強気な態度を崩すと七海にどんどん言い負かされそうな気がして、空は虚勢を張って対抗することにした。 「七海ちゃんが無理しようとするからいけねーんだろ。大体昨日寝てないんだからちゃんと横になれよ。学校への連絡ならオレがしとくし、昼メシのことだってオレが食堂のおばちゃんに言っとくからさ」 「社会人として連絡ごとを他人任せにするわけにもいきませんよ。羽柴くんの気持ちだけいただいておきます。･･･今日は羽柴くんに負けました。学校に連絡して一日休ませてもらうことにしますから、羽柴くんはもう部屋に戻って？ 私につき合わせてしまってごめんなさい。そしてありがとう」 「別に全然大したことはやってねえよ。それより七海ちゃん、マジで休むんだよな？」 「はい。確かに無理をしてこれ以上悪化させたらますます仕事になりませんし、昨日の子にも心配かけてしまいますからね」 「･･････そいつは七海ちゃんに風邪をうつせたこと、喜んでんじゃねえの」 「･･･え？」 「なんでもねーよ。じゃあ七海ちゃん、オレはもう行くけど、ちゃんと寝ろよ？ 部屋で仕事すんのもなしだぜ？」 体温計を元あった場所に片付け、空は七海を振り返った。本当はずっとこの部屋にいてあれこれと七海のために動き回りたい気持ちもあるけれど、ここで自分が学校を休むと言ったら、絶対七海に止められるのがわかっていた。だから空は仕方なく部屋を出て行くことにしたのだ。 「わかってます。じゃあ羽柴くん、どうぞ行ってください。おなかすいたでしょう？」 「ん･･･。またあとで様子見にくるから。じゃあな」 「はい」 ――七海の部屋を出たあと、空はしばしドアの外で立ち尽くしていた。 ドアの内側がすごく気になっている。七海は本当にちゃんと横になるのか。熱はそれ以上上がらないのか。食事はどうするのか。･･･無理をしないといいけれど。 「･･･ごめんな、七海ちゃん」 一言だけその場に残してから、空はそこから離れて自分の部屋に向かった。 空が出て行くと、部屋の中が一気に静かになった。 七海は溜息をつく。 少年が部屋にいたとき、大人として、保健医として、生徒に心配をかけて世話を焼いてもらうのはどうなのか、という気持ちがあった。けれどそうされていることがとても嬉しかったのも事実だった。熱と睡眠不足のせいで気が弱くなっているのだろうか。少年がいなくなって、今なんとなく心さびしくなっている自分に、七海は気づいていた。 他の生徒だったら体よく追い払って、早く一人になることを望んだかもしれない。 けれどあの快活な少年だったら、もう少しだけでも同じ時間を過ごしたい気持ちがある。 生徒である少年に、学校を休ませるわけにも遅刻させるわけにもいかない。けれどそのギリギリまで、なら。 「･･･わがままですね･･･」 呟いて、苦笑する。 少年の性格上、もっとあれこれと世話を焼いて部屋を出て行くと思っていたのかもしれない。なのにわりとあっさりと出て行ったことに一抹の寂しさを感じていた。勿論、これでいいのだという思いもあるのだけれど。 こんなとき、自分の性格の悪さを痛感する。 七海はもう一度溜息をつくと、とりあえず寝ようと考えた。寝不足だからこんなつまらないことを考えてしまうのだ。きっと寝て起きたときには、もっとましなことを考えられるはずだった。 今日休むことを学校に連絡してから、七海はベッドに横になった。 |