Ｐｌｅａｓｅ　Ｓａｖｅ　Ｍｙ　Ｓｋｙ　
　Ｐｌｅａｓｅ　Ｓａｖｅ　Ｍｙ　Ｓｋｙ


－　２　－



　　　


（へへっ、四限が急に休講になるなんてラッキー。やっぱ明るいうちに帰れるっていうのは気分いいよな）

　鼻歌でも歌いだしそうな機嫌のよさで、空は人々の間をすり抜け、帰路についていた。
　意識しなくても自然に早足となってしまうのは、家に帰って、馴染みとなったそのやわらかい空気に早く触れたかったからだ。
　たとえ家の中にまだ誰もいなくても、家の中にある二人分の生活感は空を安心させた。

（今日はバイトも休みだし、たまにはオレがメシ作って七海ちゃんを待つっていうのもよくねえ？　そーだよ、七海ちゃんに内緒で作って、帰ってきた七海ちゃんを驚かしてやろうっと。よし、きーめたっ）

　頭の中で今日の予定を立てると、ますます足取りが軽くなった。幾人か固まってのんびりと歩いている女子高生たちを追い抜き、向こう側から歩いてくるサラリーマンをするりとかわし駅に向かう。都心のかなりにぎやかなこの街は歩道を歩いているだけで人に酔いそうになるくらいだが、いつもなら辟易している空も今日はまだ時間が早く明るいということもあって、さほど気にならなかった。

（七海ちゃん･･･きっと喜んでくれるよな。あ、でもなに作ろうか･･･。オレのレパートリーなんてたかが知れてるし･･･。なに作っても七海ちゃんのほうがぜってえうまいんだろうけど）

　自分でもどうにか作れる料理を脳裏に浮かべて献立を考える。
　研究所勤めの同居人は、勿論なにを作ってもどんなものを作っても喜んで食べてくれるのだろうが、だからこそ変なものは作りたくなかった。
　空がそんな満ち足りた生活のことを考えながら歩いていると、視界のすみになにかがよぎったような気がした。

（･･････え？）

　あるいは、錯覚だったのかもしれない。
　だがその一瞬で、空の幸せな夢想は途切れてしまった。
　空は足を止めて向かう先にあるものにすばやく目を走らせる。なにが引っかかったのかはわからないが、なんとなくそのまま捨て置く気にはなれなかった。
　空の視線の先には、今空を取り囲んでいるような雑多な人間たちが同じように歩いていた。さまざまな容姿を持つ老若男女たち。
　それから通りを忙しく過ぎる車の連なりと、色を変えていく信号。雑然とした街の空気。

（なんにも、ないよな・・・？）

　空は目をしばたかせた。見直しても、特別目を引くものはなにもなかった。

（オレの気のせい、か･･･？）

　なにかを変なふうに見誤ったのかもしれない――空がそう思い直した、その一瞬に。
　すっと、人々の間をかすめるようにして横切った影があった。

（――え･･･まさ、か･･･）

　空は目を凝らす。だがその影はもう、空の目には捕えられなかった。
　いないはずの影。それはもう数年前に消えた幻。
　なのに垣間見えたそのとき、ソレがふっと笑ったような気がした。
　瞳の奥に残る、酷薄な笑みの残像。
　一つにまとめた長髪。冷厳な視線。

（相――違う、もう終わったことだっ！）

　空は自分の中に浮かんだその名前を慌てて否定した。
　すべてはとっくに解決したのだ。
　あの事件もいろんな問題も全部終わったのだ。
　だから自分たちは、こうして平和を満喫しているのではなかったか。

　もし、まだ終わっていないとすれば。
　またあんな悪夢めいた出来事が起こることになってしまう。

（終わったはずだろ。そうだよな、なんかたまたま錯覚を起こしただけだよな。あー･･･オレちょっと疲れているのかもしんねえな）

　空は頭を振ると、今の出来事を忘れるために再び駅に向かって歩き出した。
　なんとなく寒気がして、歩きながら両手を着ていたジャンバーのポケットに突っ込む。
　ポケットの中でかすかに手が震えていたが、それは寒さのためなのだと決めつけた。

（･･･もう終わったんだ。知らない････あんなものは知らねえよ･･･）

　心の中で呟いて、とにかくもっと楽しいことを考えようと必死で頭をめぐらす。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　――ホントウニオワッタトオモッテイルノカヨ、ソラ。





　どこかで金色の目が笑っているような気がした。





　　　１



　最初にアレを見たのはいつだったか。
　一面の赤。鮮やかに散っていた毒々しい色。
　その中で自分は笑っていたような気がする。
　制止の声も悲鳴もなにも聞こえなかった。ただ自分の心の中の欲望のままに、目の前にあるものたちを破壊つくした。

　それからもときおり、自分の心の中に住まう欲望に捕らわれた。
　幼なじみの少年に手を伸ばし、泣いているさまを見て楽しんだ。
　追いかけていた広い背中を突き刺したときも、楽しくて楽しくて仕方がなかった。

　ああそうだ。
　自分は最初から〝こう〟だったんじゃないか。
　破壊しつくすのが楽しくて、衝動のままに思う存分力を振るうことに喜びを見出していた。
　それは、今だっておんなじことだ。
　ほら、目の前に一個の人間がいる。
　自分に笑顔を向けているあれを泣かせてぶっ壊してみたらさぞかし楽しいんだろう。

『空くん？　どうかしたんですか？』
『ん？　いや。ちょっと手伝おうかなーと思って。七海ちゃん、オレにも手伝わせてくれよ。ただできあがるのを待っているだけじゃ退屈だし、やっぱ悪いからさ』
『空くんはそんなこと気にしなくていいのに。だって、私が好きで作っているんですから』
『あ、もしかして七海ちゃん、オレが手伝わねえほうがはかどるとか思ってんじゃねえの？』
『ふふ、そんなこと思ってないですよ。手伝ってくれるのならやっぱり助かります。それに･･･こうして二人でキッチンに立つっていうのもいいですよね』
『じゃあオレ野菜の皮むきするよ。七海ちゃん、そこにある包丁使えばいい？』
『はい。じゃあお願いしますね』
『ああ。オレ、こう見えてもなかなか包丁さばきうまいんだぜ？　今から見せてやるよ七海ちゃん』
『そうなんですか？』
『そうだよ。肉の切り方とかもう最高ってなくらいにうまくてさ。七海ちゃんも、きっと感心すると思うぜ』

　まな板の上にあったそれを持ってみると、ひどく軽く感じた。
　なんだ、こんなんだったら振り回すのなんかすごく簡単そうだ。簡単すぎてちょっと物足りないかもしれない。
　でもそのぶん、壊しつくせばいいだけか。
　ほら、気分が高揚してくる。またあの鮮やかな色が見られるのだ。
　今度は一回だけじゃ終わりにしない。何度も何度も、突き立てて楽しむのだ。

『空くんに皮をむいてほしいのはこれなんですけど。くれぐれも自分の指は切らないように気をつけてくださいね。･･･空くん？　どうかしましたか？　――空くん･･･っ!?』








「うわあああああ！！！！」

　大きな声をあげて、飛び起きる。
　目を開けると目の前は真っ暗で、自分の荒々しい呼吸音だけが聞こえた。

「･･････っ！」

　空は今いる場所が現実だと認識した途端、両手で顔を覆った。顔に触れる手が小刻みに震え、顔には冷たい汗が吹き出ていた。
　呼吸は、なかなか落ち着かなかった。
　心臓も音が聞こえてきそうなほど激しく脈打っていた。
　現実に安心していいのか、自分を罵ればいいのか、恐怖に震えればいいのか、空にはわからなかった。
　心の中がぐちゃぐちゃで、今どうすればいいのかさえまったくわからなかったのだ。

「･･････空くん？」
「――っ」

　同じベッドの隣から、か細く呼びかける声があった。
　その声が聞こえたと同時に、空の全身がびくりと揺れた。

「どうかしたんですか？　夢を･･･見たの？」

　優しい手が伸びてきて、着ていたパジャマの端を引っ張られた。しかし空は顔を覆ったまま、そちらに顔を向けようとはしなかった。薄闇の中であっても、隣にいる人間の顔を見ることなどできなかった。

「すごく、いやな夢？」
「･･････うん、そーなんだ七海ちゃん。すっげーいやな夢見てさ、ちょっと自分でもびっくりして飛び起きちまった。･･･わりい、七海ちゃん。オレのせいで起こしたよな」
「そんなこと気にしないで。それより、どんな夢を見たの？　哀しい夢？」
「違う。めちゃくちゃ怖い夢。･･･なんかよくわからない白くてぼんやりしたものに追いかけられてたんだ。オレはずっと逃げてたんだけどそれが急に近づいてきて、ぐわあああとオレに覆いかぶさってきたから思わず悲鳴あげちまってさ」

　平静を装ってなんとか言葉をつぐと、隣からかすかに笑う気配が伝わってきた。

「おばけの夢を見たんですね。相変らず怖がりなんだから」
「ガキのころからのトラウマなんだから仕方ねえだろ。さんざんガキんときおどかされたからさ」
「もう、今は怖くないですか？　また夢にうなされたりしない？」
「ああ、もう平気。ホントに起こしてごめん」
「･･･こうすれば、もっと怖くなくなるでしょう？」
「な、七海ちゃんっ」

　隣にいる七海が体を起こした気配が伝わってきたと思ったら、両腕で頭を引き寄せられた。力の込められた手で抱きしめられる。

「い、いいよ、七海ちゃんっ。オレもう平気だからっ」
「大丈夫ですよ。今は別になにもしませんから。――空くんは一人じゃないんだから怖がることなんてないんですよ。ほら、ちゃんと私がついててあげるから」
「･･････」

　抱きしめられて七海の柔らかい声で囁かれると、あまりのあたたかさと安心感に思わず目元が熱くなってしまった。勿論七海に気づかれるわけにはいかないが、腕を通して感じるぬくもりを心の底からいとおしいと感じる。
　自分にとってかけがえのないもの。絶対に失えないもの。
　だからこそ今見た夢が、あまりにも怖かった。
　たかが夢ではあるけれど、包丁を振り上げた自分が笑いながら･･･七海を。

「――七海ちゃん」
「なんですか？」

　脳裏に残る夢のかけらを追い出し、空は七海に甘えるように七海の背中に両腕を回した。腕に力を込めると、幸い腕の震えは消えてくれた。

「･･･もうちょっとこうしていてもいいかな。もう少しだけ安心してから眠りたいんだ。でないとまた･･･捕まっちまいそうでさ」
「いいですよ。こうすることで空くんが安心できるのなら、ずっとこうしていますよ」
「･･････うん･･･。オレ、なんかすげえ情けなくてごめん･･･」
「違います。こういうのはかわいいって言うんですよ？」
「･･････いや、それは全然違うと思う」
「私にとっては違いません。いつだって空くんは『かわいい』んですから」
「それは納得できねえけど･･･でも――七海ちゃん、ありがとう･･･」

　不安定な自分を受け入れて抱きしめたままでいてくれることに対して礼を言うと、七海からは「どういたしまして」と返ってきた。
　そうして空はますます安心して、だんだんまた眠りの世界に引き込まれていった。
　今度は安らかで深い眠りの中へと――。





　けれどこの日は、単にはじまりというだけに過ぎなかった。

My sky is saved if you please.