そのとき見た光景が信じられなかった。
自分の中で最低だと思っていた人間と、とても好意を持っていた人とのくちづけ。
頭の中が怒りに沸騰した瞬間。
そして気づく。
自分に安らぎをもたらしてくれるその人が、自分の中でとても大きな存在であったことを。
「ねえ・・・。七海ちゃんと兄ちゃんてデキてるの？」
「え？」
七海が振り向くと、空は七海の目を避けるようにうつむいていた。七海のベッドに腰をおろしたまま、床に敷かれたじゅうたんだけを見つめている。
夜に突然七海の私室を訪れた空が、最初に口にしたのがその言葉だった。
なにかを思いつめているような空の様子に、七海はあえてなにも聞かずに部屋に招き入れたのだったが。
「･･･どうしてですか？」
明後日の仕事のために整理していた書類の束をファイルに閉じ、七海は体ごと空に向き直る。
空はやはりうつむいたまま、七海を見ようとはしなかった。
「だって前に･･･七海ちゃんたちが探偵だって知る前のことだけど、保健室で七海ちゃん水都と――兄ちゃんとキスしてた」
「あのときのことは真一朗のお遊びじゃないですか」
「あのときだけじゃなくて、その前だって！ 七海ちゃんあのとき、お茶なんかこぼしてなかった。あんとき兄ちゃん保健室から出てきたし、あれってやっぱりそういうことなんだろ!? オレはずっと七海ちゃん、水都に狙われてるって思ってたけど、二人が元々知り合いならそんなはずはないんだ。むしろ七海ちゃんだって、喜んで水都を迎えてた――」
感情のままに叫ぶ空の頬に、七海の手が触れた。
机から離れて、いつの間にか目の前にひざまづいていた彼の顔が空の視界に入る。自分を見つめる七海の真摯な目を見て、空が顔をゆがめた。
「･･･だとしたら、軽蔑しますか？」
「軽蔑なんかしないっ。ただ兄ちゃんとデキてるのならデキてるってちゃんと教えてほしいだけだ！ だってバカみたいじゃないか、オレ。水都の魔の手から七海ちゃん守らなきゃって思ってて、でも本当は二人の仲を邪魔していただけだなんて！ はじめから、ちゃんと言ってくれればいいんだ。隠したりしないで、自分たちはデキてるんだからおまえは邪魔するなって。そしたらオレだって･･･っ！」
七海の体を押しやるように、空が彼の肩と腕を掴んで力をこめる。
――頬に触れる優しい手。けれど、この手は自分のものじゃないのだ。
そう思うと、涙さえこみ上げてきそうになった。
今のうちに引き離さないと、自分は、耐えられなくなる。
それとも、もう･･･。
「――！」
押しやろうとしていた腕が一瞬ほどけた。七海が自分から離れたのだと認識する前に。
さらなる圧迫感が空を包んだ。
「七海ちゃん!?」
「真一朗に抱かれましたよ。それも一度だけじゃない。もう何度も」
七海に抱きしめられたと知って動転した空だが、次の七海の言葉で体が固まった。
「あの日も、羽柴くんが来なかったらそういうことになっていたかもしれません。保健室を使うことも、別に初めてじゃありませんでしたから。真一朗が人とは違ったやり方を好むというのも、羽柴くんが知っているとおりです」
「七海ちゃん、やだ･･･。オレ、そんなの聞きたくない･･･っ」
「だって、私と真一朗はお互いしかいませんでしたからね。相沢の行動を調べるために正体を隠して、敵地とも言えるここに潜入して。本当に相沢の犯行を押さえることができるのかとか、このまま正体がばれないで仕事を続けられるのかとか、もし失敗してしまったらどうなるんだろうとか、そう言った不安を解消させるには、私たちはお互いしかいなかったんです。――だから･･･」
空の背中に回した両手に、七海がさらに力をこめた。腕の中の存在を離さないように、しっかりと指を組み合わせる。
「だから体を重ねました。一時でも不安を忘れるために、お互いの傷をなめあうように。つきあいが長い分心を許せる存在ですし、他にすべてを理解して慰めてくれる人など誰もいませんでしたから。そこには恋愛感情など初めからなかったのだと言ったら、羽柴くんは軽蔑しますか？ 友情の延長にするにはきたなすぎると嫌悪しますか？ でもそれが事実なんです。人は一人では生きていけない。なにもかもを抱えて一人で立つには、つらすぎたんです。私も、真一朗も」
「七海ちゃん･･･」
「だから今、羽柴くんや藤守くんにこうしてすべてを話して、本当の自分を見せられるというのは私にとってはとても嬉しいことなんです。秘密を共有する存在が他にもいる。･･･本当は、こんなことに巻き込んでいいはずはないのですけど･･･」
聞こえてきた声があまりにもさみしそうで、空は自分も七海の背中に手を回した。
ぎゅっと、しがみつくように。
「違うよ！ オレたちは巻き込まれたわけじゃない！ 自分たちの道がたまたまそうだっただけで、七海ちゃんたちのせいじゃない。七海ちゃんがそんなふうに思っちゃだめだ！ オレ、ちゃんと守るから。七海ちゃんのことちゃんと守るよ。七海ちゃんが不安だと言うのなら、オレだって、少しでも七海ちゃんのために不安を解消させてやりたい！」
生真面目に、一生懸命に言葉を連ねる空に七海は一瞬驚き、そして微笑んだ。空の背中から腕をとき、空の体を押しやって自分の体を離す。至近距離でお互いの顔が見えた。
「七海ちゃん･･･？」
「立場が、逆ですよ」
「え？」
「私が、羽柴くんを守る立場です」
「でも七海ちゃん。オレだって、一方的に守られているだけの立場はいやだよ。もうなにも知らないガキじゃないんだ。オレだって七海ちゃんのためになにかしてあげてーよ･･･」
七海の腕を掴んで、空が必死な顔で訴える。七海はその懸命さに打たれたように目を伏せた。
「羽柴くんを守るのは私のほうです。でも･･･正直言って、先の見えない未来を不安に思う気持ちは今でもあります。それはもうすべてが終るまで、ずっと消えないでしょう。だから･･･羽柴くんには、この不安を忘れさせてほしいんです」
「もちろんっ。オレでできることなら、なんでも――」
そして七海は顔を上げた。その瞳を空だけに向けて、呟く。
「羽柴くんに、おぼれてもいいですか？」
「――」
空が七海の言葉を理解したときには、すでに、唇が塞がれていた。自分の唇に触れた、熱を持ったなにか。
柔らかな感触を意識する前に、かすかに開いた口からしっとりと濡れたものが侵入してくる。
「！」
はじめは優しく、口の中をすべるように動いていたそれが、徐々に激しさを増していく。
「ん･･･っ」
息をつくこともままならなくて、空は無意識のうちに七海の肩口を掴んでいた。
「ふ・・・」
頭の中が熱でいっぱいになる。
細く糸を引いて離れた唇が、再び空の唇をむさぼる。
動揺と混乱でわずかに震える手に、七海は、確かに自分の中の嗜虐心が増したのを感じた。少年の頭を抱え、自分のほうに引き寄せる。逃げることも拒否することも許さないような苛烈なくちづけを、幾度も繰り返して。
「え・・・？」
重力に引かれた体が柔らかいなにかにぶつかった。背中の感触と自分に覆い被さる重さに、激しいくちづけで溶けていた空の思考が現実を取り戻す。
あごを通り、そのまま首筋を伝っておりていく湿った唇と舌の動きに惑わされそうになりつつも、空は慌てて叫んだ。
「な、七海ちゃん！ オレ逆！ 逆がいい！」
「え？ ――ああ」
空の叫び声に七海は顔を上げ、空の顔を覗き込んだ。思ってもいなかったこの状況にかなりとまどっているらしく、顔が赤く染まっている。そのくせ先程の名残もあって潤んだ瞳は、まるで誘っているかのようで。
あまりの愛しさに、七海が「ふふ･･･」と小さく笑みを浮かべた。
そしていつものあどけない優しい声で。
「だめですｖ」
「七海ちゃん〜･･･」
つれない返事に空が情けない声を上げる。別にこんな状況が初めてというわけではないが――なにせこれまでにはいろいろなことがあったから――しかし水都はともかく、普通かわいい系の相手なら自分は絶対にヤる立場のはずだと、空は思う。いくら年上であっても、七海は明らかに自分よりかわいいのだ。
|