密室　〜保健室へようこそ〜　（前）　


「七海ちゃーん。わりいけど、手当てしてくんねー？」

　いつもの気軽さで空はガラガラーと保健室のドアを開ける｡

「羽柴くん。どうかしたんですか？」
「いや、今体育の時間だったんだけど、サッカーしてて転んじまってさ。腕すったんだ」

　机に向かって仕事をしていた七海がすぐさま立ち上がり、空のそばに寄ってきた｡空は怪我した左腕を上げて、七海に示す｡

「これはまた派手に転びましたね」
「そう、たまたま人の足に引っかかってさあ･･･」

　当たり前のことを当たり前のように言った空の声が、ふと途切れた。柔らかい手に腕を取られ、その目でマジマジと傷を見られる｡七海の顔を間近に感じ、空はすぐさま顔をそらした｡

「まだ砂がついてますね｡消毒する前に、これは一度傷を洗わないといけませんね」
「え!?」

　空の手が軽く引かれる。七海が部屋の隅にある水道に空を連れて行こうとしているらしい｡

「い、いいよ七海ちゃん。洗うぐらい一人でできるってっ」
「そうですか？　じゃあちゃんと砂を落としてきてくださいね。その間、私は手当ての準備をしていますから」

　そう言って七海が空から離れ、薬品棚に向かう｡空はひそかに安堵すると、一人で水道に向かった。
　蛇口をひねり、水で傷口を洗う｡怪我したばかりの腕に水がしみて痛い思いをしながらも、空は黙々と腕を洗った。
　流れる水の音と、薬品棚の扉が開閉する音｡そして薬の入ったガラス瓶が触れ合う小さな音｡
　今この部屋にあるのはそんな無機物的な音だけで、空はなんとなく居心地が悪くなった｡
　今まで保健室といったら和みの象徴、どこにも負けないオアシスだったはずなのに｡

「洗い終わりました？」
「あ、うん」
「じゃあこっちにきてください｡消毒しますから」

　七海が一つの丸椅子を空に示す｡七海自身も自分の椅子に座り、すっかり手当てをする準備が整っている。
　空はゆっくりと歩を進め、指示されたとおりに丸椅子に腰をおろした｡
　目の前にいるのは、優しい顔立ちの保健のセンセイ。
　普通に考えればそれだけなのに、空は顔を上げられなくなってしまった｡

「羽柴くん･･･。傷、ちょっとしみますよ？」
「え･･･痛――っ！！」
「だからしみると言ったでしょう。大きな声を出さないで下さい｡男の子ならこれぐらい我慢するものです」
「でもこれ、かなり痛･･･っ。・・・・・！　これマジできついよ、七海ちゃん〜っ！」

　空がたまらずに大声を上げる｡心なしか、消毒薬のついた綿で傷口を拭き取る七海の手が、いつもより乱暴な気がする｡かけられた言葉も、なんとなく非情な響きを帯びていたような気が･･･する。

「はい、消毒は終わりましたよ。傷、血が止まるまではガーゼと包帯で保護しておきましょうね」

　そう言って、手馴れた手つきで七海がガーゼを当て、包帯を巻きはじめる｡新しい包帯がくるくると巻かれていく光景を、空は黙って見つめた｡
　自分の腕を持っている柔らかい手。伏せられた瞳。流れてくる髪のいい匂い｡
　それだけで空の胸はぎゅっと締めつけられる。
　触れられている箇所が、熱を持ったように感じる｡
　誰もいない二人きりの空間だからこそ、空気が、耐えられない｡

「はい、羽柴くん｡手当て全部終わりましたよ」
「あ、ありがとう七海ちゃん。じゃあオレ、次の授業もあるしこれで――･･･っ。な、七海、ちゃんっ」

　椅子から腰を浮かせた空だったが、七海に腕を取られたまま手のひらにキスを落とされたことで、そのまま固まってしまった｡
　単なる一度のキスではなくて、舌が｡

「――っ」

　背筋になにかがぞくぞくと走りぬける｡振りほどくという選択さえ思い浮かばなくて、空は自分を捕らえた甘い衝撃に耐えなければならなかった｡

「羽柴くん、私を避けてますよね。どうしてですか？」
「さ、避けてなんかいないっ」
「本当に？」
「ほん、と――･･･んっ･･･」

　たったそれだけのことなのに、息が上がる。空は過敏な自分の体が恨めしくなった。

「じゃあ、今日ここにきて私から顔をそらすのはどうしてですか？」
「そんなこと･･･」
「――やっぱり、もういやになったんですか？　そういうことですよね･･･」
「違っ、そうじゃないっ」

　さみしげに呟かれた七海の声を、空はすぐさま否定した｡

「じゃあ、どうして？」

　顔を上げた七海の瞳が、鋭く空を捕らえる｡偽りもごまかしも許さないようなまっすぐな視線を、空は、直視できなかった｡

「だから･･･だって･･･なんか、ちゃんと見、見られなくて･･･｡だって、今だれも･･･いないし･･･」

　しどろもどろに、空は仕方なく自分の気持ちを正直に話す｡言っているうちに、顔が熱くなってきたのがわかった｡
　自分たちしかいない静かな保健室。
　今までそんな光景は当たり前のものだったのに、今は、意識せずにはいられない。
　目の前にいる存在を強く意識して、鼓動が早くなる｡
　七海が、捕らえていた空の手に、するりと自分の指を絡めた｡指と指の間を他人の指がすべるくすぐったいような感覚に驚いて、空が少しだけ視線を戻す。

「困っちゃいますね」
「え。なに、が･･･」
「そんなかわいいことを言われたら、困るしかないでしょう？」

　にっこりと微笑んで七海がそんなことを言う。
　空は気恥ずかしくなってまたすぐに顔を伏せた｡
　
「でも、羽柴くん｡ちゃんと私のことを見てくれなくちゃいやです」

　七海のもう片方の手が、空のあごを捕らえた｡強引に顔を上げられ、視線を合わせられる。いつの間にか椅子から立ち上がった七海の足が、空の足に触れた｡
　なにもかもを見透かすような深い色をたたえた七海の瞳が、上から覆い被さってくるかのようで、空は息苦しさを感じた｡
　それだけで、吐息が熱くなる｡

「私をちゃんと見てください」
「な、七海ちゃん･･･」
「顔をそらすなんてだめですよ？　私だって、羽柴くんの顔をちゃんと見たいんですから」
「で、でも。七海ちゃん、オレ･･･」
「誰もいないところで私とちゃんと顔を合わせたら、Ｈな気分になるんですか？」
「違･･･。そ･･･うじゃない、けど･･･」
「ふふ。嘘つきですね、羽柴くんは」
　
　七海が、故意に片膝を空の座っている丸椅子のすみに乗せた｡足を開いて座っている空のそこに、故意に当てるように。

「――」

　ただでさえ七海のことを意識している上に、そこに刺激を与えられて、空の体がびくりと反応する｡

「私を見て、羽柴くんもそういう気持ちになってくれたら嬉しいです｡だって、私一人で気持ちが盛り上がっていたら、さみしいじゃないですか。そう思いません？」
「なな・・・みちゃ・・・ひざ･･･っ」

　当てたまま、七海の膝が揺れる｡かすかな振動が響いて、空の意識がそこに集中しかけた。
　
「やめ・・・っ」
「どうかしました？　羽柴くん」
「･････っ」

　つないでいた七海の手を振りほどき、自分のあごを捕らえていた左手も払いのけた｡そしてそのまま空が目の前にいる七海に抱きつく｡

「羽柴くん？」
「もう、やめ・・・っ」
「なにが、ですか？　言わないとわからないですよ」
「ん・・・っ」　

　体を走る甘さに耐えるように、空が七海の背中に回した手で七海のジャージを掴む｡指で明確に触れられる快感とは違って、じわりと鈍く広がるからこそつらさが倍増する｡もどかしさのあまり、思わずねだってしまいたくなるほどに｡

「本当、困っちゃいますよね」

　自分に抱きついたまませつなげに吐息をつく空の頭を優しく撫でながら、七海が呟く｡もう一方の手で空の耳に触れ耳に浅く指を侵入させると、それだけで空の手がまたかすかに震えた｡
　そのとき、校内に大きくチャイムが流れた｡次の授業の始業を告げるチャイムが｡
　音に驚いて空が顔を上げる｡はっと現実を認識して、慌てて体を起こした｡
　七海は自分から離れた空を惜しむこともなく椅子から膝を下ろすと、立ち上がって保健室の扉に向かった｡

「じゃ、じゃあ七海ちゃん。オレ、もうそろそろ･･･｡･･･七海ちゃん･･･？」
「ここの扉はね、緊急時のためもあって鍵がかからないようになっているんですよ｡だから基本的にだれでも自由に出入りすることができるんです｡でも、ちょっとドアの位置を変えるとね、なかなか開かないようになるんですよ」

　そう言って、七海は扉を少しだけ持ち上げて動かした。

「え、それって･･･」

　七海が今行った行動の意味に、空が漠然といやな予感をかきたてられる｡七海は勿論教師側の人間で、のんびりしている自分たちを授業に遅れないように保健室から追い立てることもあったのだ。
　――これまでは。

　だから、そんなはずは――｡

　一縷の希望を胸に抱く空の目の前を通過し、七海は奥にあるベッドに向かった｡ベッドに座り、右手でぽんぽんと真っ白いベッドシーツを叩く。
　そして。
　
「羽柴くん、しましょｖ」

　これ以上ないほど爽やかな微笑みを空に向けて、保健の先生はそう言ったのだった。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

〔ＮＥＸＴ〕
　


　今回は保健室Ｈということで･･･。やはり七海ちゃんのテリトリーは保健室なのです。
　この話が初めての保健室Ｈですが、なんだかんだ言ってこのあとも、別パターンの保健室Ｈを書いていたりします。

　でもＨだけが目的じゃなくて、このあと真面目なシーンもあります。（根本的にこのシリーズはシリアスなのです）