密室 〜保健室へようこそ〜（その後） 「じゃあオレもう行くから」 そう言って空が、名残惜しむ気持ちにけりをつけて保健室のドアに向かおうとする。 「待ってください、羽柴くん」 保健室のベッドのシーツを新しいものに交換しおえた七海が、持っていた枕を置いて空を呼び止めた。 「え、なに･･･?」 「それも取り替えましょうね」 そう言って七海が指差したのは、空の左腕だった。体育のときに転んで怪我をして、先ほど七海に手当てしてもらった左腕。 もともと、今日ここに来るきっかけになったもの。 その腕の包帯がほどけかかっていたのだ。 「いいよ、こんなのほどけないように適当に巻いておくから」 「違いますよ。ほどけているからじゃなくて、ちゃんと新しい包帯にかえないとだめです。でないとバイキンが入っちゃいますよ」 空に向けてここに座るように丸椅子を示してから、七海は水道に向かう。そこで手を洗ってから医療戸棚を開けた。 「でもさっき手当てしてもらったばっかりじゃん。ちゃんと消毒だってしてもらったしさ」 「でもそのあと羽柴くん、汗をかきましたよね。それに、きっとそれ以外にもいろいろと汚れちゃっていると思うんですよ。羽柴くんが怪我をしているってこと、すっかり忘れて夢中になっちゃいましたしね」 「――」 保健医として問題ですよね、と言って、七海が目的の消毒薬や綿球、ピンセットを取り出して空を振り返った。 「･･･羽柴くん？ どうかしました?」 「いや、なんでもないっ」 空が真っ赤な顔をしてパタパタと手を振る。 まさか七海の言葉で先程のことを思い出していた――とは、とても言えなかった。 先ほど、というかもう何時間も前に。 自分は怪我の手当てをしてもらいにここを訪れ、そして。 幾度も･･･甘く、溶けるような時間を過ごしたのだ。 「――」 さらに顔を赤くした空を見て、七海がくすりと笑う。 空の思考が今なにを辿っているか、容易に想像がついた。 「羽柴くん、ここに座ってください。すぐに終わりますから」 「うん･･･」 空は七海に示された椅子に腰かける。本当は今の状態であまり七海の近くにいたくはなかったのだが。 先程の行為を思い出してしまった今、間近にいたらきっとまた意識してしまう。 （どうしてオレってこうなんだろう･･･） あんなに何回も･･･なのに。またドキドキしはじめている自分がいる。 それだけ自分の体がおかしいのか、それともそれだけ強く想いが――向かっているからか。 「まず、包帯をほどきますね｣ 空の真向かいの椅子に座った七海が、そう言って空の手をとった。空は耐え切れずに顔をそらす。 七海がいつものように丁寧に包帯をはずし、手当てをしていくのは見なくてもわかった。 「傷口、もう一度消毒しておきますね。私や羽柴くんのがかかっちゃったかもしれませんから」 「！」 「そういえば今はずした包帯は、やっぱり衛生上処分した方がいいんでしょうね。いくら洗濯したとしても、やはり他の子の手当てに使うのは私としても気がとがめますからね」 「七海ちゃん･･･っ」 困り果てて、空が七海の名前を口にした。七海がさらにくすくすと笑う。 「すみません、あんまり羽柴くんの様子がかわいかったから、もっといじめてみたくなったんです」 「七海ちゃんて、けっこう性格が悪りいよな」 反抗する気持ちでそう言ってみるが、七海に怒った様子はない。 相変わらず笑顔のままで空の言葉を受け入れていた。 「だから、それだけ羽柴くんに甘えてしまっているんでしょうね。心を許せる相手でなかったら、私も自分をさらけ出せませんよ。――はい、包帯巻き終わりましたよ」 「あ、ありがとう七海ちゃん」 照れくさくて、空がすぐに七海の手を振りほどく。 そして包帯が巻かれた左腕の動きを確かめるように幾度か振ってみて、ふと違和感に気づいた。今は七海を強く意識していたせいもあるのか、消毒されても全然痛くなかったのだ。先程はあんなに傷にしみたのに。 「･･･七海ちゃん。その消毒薬、さっきと同じやつだよな?」 今使った道具をしまうべく椅子から立ち上がった七海に、空はその疑問をぶつけた。 七海は空を振り返らずに、戸棚に向かいながら答える。 「ああ、気づいちゃいました? さっきのと今の消毒薬は違いますよ。さっきのはわざとしみる薬を使ったんです」 「･･･どうして･･･」 「だって羽柴くんが私を避けるから、意地悪をしたくなったんです」 「･･･ほんとに性格悪すぎだよ、七海ちゃん･･･」 怒るというよりは呆れて空が呟く。七海が振り向いて、「嫌われちゃいました？」と言って小首をかしげた。 そんなふうにあどけない様子を見せられて、そこで頷ける人間がいたらお目にかかりたいと空は思う。 「･･･嫌えるわけないじゃん･･･」 「ありがとうございます」 七海がにこやかに微笑む。七海の笑顔は、自分の答えなんかとっくに見越していたような余裕が感じられて、空はちょっとだけ拗ねてみたい気持ちにかられた。それだけ、はたからみても明らかなくらい七海に強く惹かれているのは自分でも自覚しているけれど。 そんな空のそばまで戻りながら、七海がふと思い出したように言った。 「そうそう、羽柴くん。寮に帰ったらシャワーを使うと思うんですけど、そしたらまた今夜私のところに来てくださいね。また新しい包帯を巻きますから」 「い･･･いいよ。自分でオレ、どうにかするよ。そんなに丁寧に手当てしてくれなくてもそんときにはきっと血も止まってるだろうし、全然平気だから」 「･･･羽柴くんもしかして私のこと、警戒してます？」 「べ、別に･･･」 「いくら私だって、今日はこれ以上羽柴くんに無理させようなんて思いませんよ。新しい包帯を巻きに来て、また汚してたらしょうがないでしょう？」 「う、うん･･･」 「まあ包帯を汚さないで、羽柴くんを気持ちよくさせてあげる方法はいくらでもありますけど」 「･･･そんなこと言ったら、マジでオレ行かないから･･･」 少々恨みを込めて言うと、七海が優しく微笑んで空の頬に手を伸ばしてきた。 「羽柴くんと会えないのはさみしいですよ。わかりました。今日は本当になにもしませんから、ただ私に会いに来てください。それでもだめ、ですか？」 頬に、軽く触れるような七海のキスがおりる。 空はそれに対してくすぐったい気持ちになりながらも、小さく頷いた。 「オレも、七海ちゃんに会いたいから行く･･･。でも、だめだな･･･。ちゃんと学校でも会えるのに、夜だって一つ屋根の下で生活しているのに、なんでオレこう･･･際限なくなっちゃってるんだろう･･･」 「――羽柴くんもかなり意地悪ですね」 うつむいてぼそぼそと呟く空に、七海が溜息をついて言った。空が「え？」と聞き返して顔を上げる。 「そんなかわいいことを言うくせに‘おあずけ’するなんて」 「え、だってっ」 「ふふ。別に本気で恨んではいませんよ。ただ――･･･一度だけ、今キスしてもいいですか?」 「そんなの勝手にすればいいのに･･･。オレ、七海ちゃんならいつだって･･･」 空の言葉を、七海の指が止めた。七海の人差し指が空の唇に触れ、口をつぐませる。七海はそのまま、目を伏せて続けた。 「･･･そのキスが終わったら、羽柴くん、さっさとここを出ていってくださいね。挨拶もなにもしなくていいから。でないと、また閉じ込めてしまいたくなるんです」 そして七海は空の唇から指を離し、驚く空の瞳をじっと見つめた。瞳から侵入して、空のなにもかもを奪うような強さで見つめる。 「名残惜しんだりしないで。また、すぐに会えるんですから。私の理性もね、羽柴くんのせいでかなりぐらついているんです。私だって本当に際限がなくなっているんですから――」 そう言って七海が、唇を触れ合わせてきた。 たった一度のキス。キスが終わって離れたら、さっさと相手の顔もろくに見ずにここを出ていくのだ。 再び、とらわれないうちに。 そう思うと空の中になおさら七海をいとおしむ気持ちが溢れてきた。もう何度も繰り返した行為なのに、まるで初めて唇を合わせたときのようにどきどきして、そして胸がせつなくなる。 すぐにまた会える。けれど、これが別れのキスなのも事実で。いっそこのまま閉じ込めてくれればいいのにとさえ、空は思った。 「――」 七海の唇が離れたとき、空は力を込めて七海の体を押しやっていた。 それから、まともに顔を見ることもなく、ドアに向かう。思いっきり乱暴にドアを開け、そのまま閉めるのも忘れて駆け出した。 これしきのことで哀しんでいたらしょうがない。そう思うのに、なぜか気持ちは哀しみにとらわれていた。 「はあ･･･やっべーなオレ･･･。もう末期症状じゃん･･･」 保健室をだいぶ離れてから、空は誰もいない廊下にしゃがみこんだ。荒い息を繰り返し、呼吸を整える。 いつも体力作りをしてきたはずなのに、このときは無茶な走り方をしたせいか、かなり息が苦しかった。 ――今までもずっと惹かれていたけれど、七海に気持ちを受け入れられてから本当に気持ちがあふれすぎているのがわかる。体も心も、なにもかも。 全部が七海一色になっていくのがわかる。 愛とか恋とかよくわからないけれど、この気持ちがあるのは事実なのだ。 「なんか･･･オレめちゃめちゃ情けなくねー･･･？」 それでも。 幸せだからこれでいいのかも、と考えているあたりが本当に、もう終わっているのだ。 一方、保健室に残った七海は、少年が廊下を走り去る音が聞こえなくなるまで、その場を動かなかった。 たとえ抱かなくても、ずっと触れ合っていたい気持ちがある。けれどそれはもう自分の気持ちの押しつけに過ぎないから。 やがて、一つだけ吐息をつくと、空が開け放していったドアを閉めるべく七海も動き出した。 「おや、七海先生」 七海がドアを閉めようとすると、ちょうど廊下を通りかかった年配の教師が声をかけてきた。 「佐々木先生、これからクラブ活動ですか？」 「そうなんです。顧問をしているといろいろと忙しくて大変ですよ。それより七海先生。水都先生は来られましたか?」 「――え。いえ･･･水都先生がなにか?」 「先程、そこに立っておられましたよ。顔色が悪そうだったから、てっきり保健室にでも行ったかと思いましたが･･･」 「そうなんですか。わかりました。私のほうでも気にかけてみます」 いつもの和やかな表情で、七海は年配の教師との話を打ち切る。けれど教師に頭を下げてドアを閉めたときには、その和やかさは微塵も残っていなかった。 「――」 ドアに寄りかかり、七海は無言のまま親指の爪を噛む。 誰にも譲りたくない、強い想いがある。 そしてもともと「彼」の気持ちを承知で仕掛けたことだけに、大きな不安もある。 けして自分のほうが優位だとは思えない不安が、いまだ七海の心を縛っていた。 おわり |