深淵 〜全部〜 ３ 「兄ちゃん、こっちは終わったぜっ！ だから早く七海ちゃんを返――あれ？ 七海ちゃん？ 兄ちゃんは？」 空が本棚の整理を終えて勢いよくドアを開けると、そこには七海の姿しかなかった。シーンとした廊下の壁に、七海だけが背を預けて立っている。 「･･･真一朗なら帰りましたよ」 「ええっ!? 最後にチェックするっていうから、オレ本気で頑張ったのに〜。こんなことだったら手ぇ抜くんだった〜。ひでーよ、兄ちゃん」 不満げにそう言ったあとで、空は改めて七海を見た。 そして少しはにかんだ表情で手を伸ばした。 「でも･･･まあそれならそれでいいや。だったらオレたちも帰ろう、七海ちゃん」 「――」 だが、七海は空の呼びかけに対してなにも答えなかった。そこから一歩も動く気配もない。 「七海ちゃん――？」 七海はうつむいて、廊下の床だけを見つめていた。そのおもてに浮かぶ影に、空は胸をいためる。 「な、なみちゃん･･･!? どうしたんだよ、兄ちゃんになにか言われたのかよ。そもそも兄ちゃんの話って、本当に仕事の話だったのかよ!?」 矢継ぎ早に質問を浴びせかけたあとで、空ははっとして今いる場所に気づく。今は誰もいないとはいえ、ここは廊下なのだ。空は立ち尽くしている七海の腕を引いて、数学教諭室に連れていった。 きっちりとドアを閉めたあとで、もう一度七海に向き直る。 「七海ちゃん、どうしたんだよ。兄ちゃんのこと？ それとも･･･それとも原因はオレ？ やっぱり怒ってる？ オレ、七海ちゃんに嫌われちゃった？ 七海ちゃん、もうオレのことなんてどうでもよくなっちゃった･･･？」 なにも言わない七海の様子に大きな不安に襲われ、空の声がだんだん小さくなる。嫌われる心当たりなんてありすぎて、不安のあまり涙腺が緩みそうになった。 「･･････違うでしょう。間違えないでください」 七海の唇から声がこぼれた。空を見ないまま、淡々とした声が紡がれる。 「七海ちゃん･･･」 七海が話し出してくれたことに、空が安堵したのは束の間だった。 「羽柴くんの方が、私のことなんてどうでもいいんでしょう？」 「な、七海ちゃんっ!?」 「羽柴くんにとって、私なんて大した存在じゃないんですよね。それは今にはじまったことじゃなくて、最初からそうだったんでしょうね」 「違うっ。なに言ってんだよ、七海ちゃん。なんでそんなこと言うんだよっ。だってオレはっ」 「ならなぜ、羽柴くんは私の気持ちを考えてくれないんですか!? 私、ついこの間も言いましたよね。『羽柴くんは私のことは考えてくれないんですか』って!! 羽柴くんは私の気持ちを全然わかってない！ それくらいどうでもいいんでしょう、私のことなんか!!」 一転してこちらを見つめながら感情を露にした七海の言葉を、空は慌てて否定する。 「どうでもよくない！ だってオレ七海ちゃんのこと好きなのにっ！ なんでオレが七海ちゃんのことどうでもいいなんて思うんだよ!?」 「じゃあ何故、真一朗に抱かれようとしたんですか!? もし真一朗が私を好きだとしても、私が好きなのは羽柴くんなんですよ!? それでどうして真一朗に抱かれようとするんですか!? どんな理由があったって、それは私のことを本当に考えていないからできることでしょう!? ――違うとは言わせませんからね」 「七海ちゃんっ!!」 「廊下で真一朗の声が聞こえたとき、すぐに真一朗の嘘だとわかりましたよ。私は真一朗の本当の気持ちを以前から聞かされていましたからね、羽柴くんを手に入れるための嘘だとわかってました。その場ですぐに中に飛び込もうとも思いましたけど、でも、私は信じたかったんです。真一朗がなにを言おうと、羽柴くんは最後にはちゃんと拒絶してくれるって。でも、そうじゃなかったですよね。私がここにこなかったら、羽柴くんは本当に真一朗に抱かれてたんですよね」 「だって、七海ちゃんを兄ちゃんになんか渡したくなかったんだ。兄ちゃん、七海ちゃんを好きだって言うし、七海ちゃんと兄ちゃんはそういう関係でもあるし、これ以上七海ちゃんを兄ちゃんの好きにさせたくないっていう気持ちがあったんだ。オレのことよりも、七海ちゃんにもう触れてほしくなかった」 七海の言葉に、自分の服の胸元をぎゅっとつかんで懸命に空が言い継ぐ。自分の勝手でしたことだけれど、けして七海をどうでもいいなんて思っていたわけではなく、逆にすごく大切だからこそそんな行動をとったのだと知って欲しくて。 「七海ちゃんがオレのことを好きでいてくれるのはよくわかってた。兄ちゃんの言葉に惑わされたこともあるけど、ちゃんと七海ちゃんがオレを大切に想ってくれてるっていうことは、七海ちゃんのいろんな言葉や表情や行動でよくわかってた。でもオレ、オレだって七海ちゃんのことすごく好きで、だから独占したかったんだ。兄ちゃんに抱かれることで完全に七海ちゃんがオレ一人だけのものになるならそれでもいいと思ったんだ。オレが勝手にやった軽率な行動だったけど、オレはオレなりに七海ちゃんのことがすごく好きで、だから――っ」 「私の気持ちを知っていながら、どうしてそんな行動をとるんですか!? もし羽柴くんが真一朗に抱かれたら私がどう思うかなんて、全然考えなかったんですか!? そんな取引めいたことをされたって、私は全然嬉しくありません。――それとも私のことなんか体のいい口実で、羽柴くんは本当は、真一朗を好きなんですか!?」 「――」 「ただ自覚していないだけで、ずっとずっとそうだったんじゃないんですか。･･･私なんて、ただ羽柴くんが自分の気持ちを自覚する前に羽柴くんの優しさにつけこんだだけなんですよね」 それだけ言って七海が空から顔をそらす。空は呆然と七海の顔を見つめた。 七海の目が赤いのは、多分、気のせいではないのだ。 「――七海ちゃん･･･。ずっと、そう思ってた？ オレが本当は兄ちゃんを好きかもしれないって、ずっとそんなふうに考えてた？」 「･･････」 「オレが七海ちゃんと二人きりで話をしているときも、七海ちゃんに抱かれているときも、心の奥でずっとずっとそんなふうに思ってた？」 空の問いかけに七海は肯定しなかったけれど、否定もしなかった。 そうして空はここに至ってようやく知るのだ。 自分ばかり、と思っていた。 自分ばかりが七海に惹かれて、自分だけがおぼれている。 でも本当は、七海にこんなにも深く想われているのだと初めて空は知らされた。 いつも落ち着いている七海を、そこまで不安にさせるほどに。 そして空は、自分の行動の本当の意味での過ちを知った。 自分は、こんなにも深く七海を哀しませているのだ。 空は自分の胸にある、あふれる感情のままに口を開いた。 「違うよ、オレは、七海ちゃんが好きだよ。本当の本当に七海ちゃんだけが好きだよ。――子供のころのことはよく覚えていないけど、多分そのころから七海ちゃんのこと大好きだったんだと思う。ここで会ったとき、七海ちゃんのこといい感じの人だなって思った。雰囲気が柔らかくてなんでも相談できる感じで、オレはついつい保健室に入り浸ったよね。毎朝ジョギングのあとに会って七海ちゃんの笑顔を見ると、すごく気持ちが和やかになった。そのときは‘話しやすいいい感じの先生’っつーかいいお兄さんて感じで、まだ特別な意識は向けてなかった。でも一年の終わりごろオレが熱を出してうなされてたときに、七海ちゃん、つきっきりで看病してくれただろ？ 一晩中寝ないで、オレのこと看てくれたよね。あのときオレの額に触れた七海ちゃんの優しい手や、オレの視線に応えてくれるやわらかい笑顔に、オレ、本当はけっこうドキドキしてた。最初は熱のせいかとも思ったけどそうじゃなくて、あの日以降七海ちゃんに会うたびに胸が高鳴ってた。七海ちゃんが優しく手当てしてくれるたび、オレに笑いかけてくれるたびにすごくすごくオレの中の気持ちが膨らんできて、オレの中で七海ちゃんは特別な存在になったんだ」 空の声を七海は遮らなかった。こちらに顔を向けることはなかったが、ちゃんと聞いていてくれていることだけはわかった。 だから空は続ける。自分の中にある想いが、ちゃんと七海に伝わるようにと願いをこめて。 「でもそんときはまだそれが恋愛感情だなんて意識してなかった。きっとオレも七海ちゃんも男なのにっていうオレの中の常識が、オレが自覚するのを懸命に阻んでいたんだと思う。はっきりと七海ちゃんのことを恋愛感情として好きなんだって自覚したのは、皮肉にも、七海ちゃんと兄ちゃんのキスを見たときだったよ。――オレ、七海ちゃんが大好きだよ。男同士とかそういうの関係ないって思うくらいに好きになったのは七海ちゃんが初めてだし、抱かれたいとか抱きたいって考えたのも七海ちゃんだけだ。だから本当に七海ちゃんに抱かれたときオレは嬉しかったし、‘つけこまれた’だなんて、そんなこと絶対にないよ。むしろオレのほうが優しい七海ちゃんに甘えてばかりだ。七海ちゃんが好き。もうオレには他の人間なんて必要ないくらい七海ちゃんだけが好き。兄ちゃんのことは好きだけど、でも七海ちゃんのためならいつだって切り捨てられるよ。それくらいオレは、羽柴空は、七海ちゃんのことだけを想っているんだから」 そして空は、少しずつ歩を進めた。七海に近づきたくて、七海の心に近づきたくて。 あるいは拒絶されてしまうかもしれないと、びくびくしながら。 七海がずっと抱いていた不安。思えばベッドの中でうわごとのように気持ちを告げたとき、七海はどんな思いでそれを聞いたのだろうか。あんな状況じゃなくて、もっとちゃんと、何度も気持ちを伝えなければいけなかったのに。 「オレがもっと早く七海ちゃんに気持ちを伝えていなかったから、七海ちゃんを不安にさせたよね。気づかなくてごめん、七海ちゃん。もっとちゃんと気づいていれば、オレはあんなことをして七海ちゃんをさらに不安になんかさせなかったよ。あさはかだったよね、オレ。本当に馬鹿なことしたよね。ごめん･･･何度謝っても足りないかもしれないけど、本当にごめんなさい。オレ、もっと自分を大切にしなきゃだめだよね。自分のためにも、七海ちゃんのためにも。もうオレあんなこと言わないよ。他の誰かに抱かれようとはしない。二度と七海ちゃんを不安にさせないから」 七海の前に辿り着く。空は、恐る恐る手を伸ばした。 七海はまだ自分を見てくれないけど、それでも自分は本当に彼のことが好きだから。 伸ばした手で、七海の服の胸元をぎゅっとつかむ。服を通して伝わる七海の鼓動にさえ、空の中の愛しさが増した。 「だから七海ちゃんも、七海ちゃんを大切にして。七海ちゃんの心がオレにあるなら、もう兄ちゃんにも他の誰かにも指一本触れさせないで。――オレのすべてが七海ちゃんのものであるように、七海ちゃんの全部はオレだけのものだよ。全部、なにもかもがオレ一人だけのものだからね」 ――空の手の上に、七海の手が重ねられた。 七海が顔を下に向けて、溜息を吐き出す。 空は七海の表情を、その動作の一つ一つをくいいるように見つめた。 「――それくらいで、私が許すと思ったら大間違いですからね。本当に、深く傷ついたんですから」 拗ねたような口ぶりで、七海が呟く。そこには、さきほどまでの冷ややかさはなかった。そうしてちゃんと顔を上げて、空と視線を合わせた。 空は、つーんとした胸の痛みに襲われる。 「ごめん･･･ごめんなさい。オレ、何度でも謝るから。だからオレのこと嫌わないで七海ちゃん。七海ちゃんに嫌われないためだったら、オレ、なんでもするからっ」 「･･･私が羽柴くんを嫌うだなんて、そんなことあるわけないでしょう？ ただ、なんでも、って言ったんですからね。もう、絶対に離しませんからね」 七海が空の手を自分の服から引き剥がし、その手の甲に軽くくちづけた。空はそれをくすぐったそうに受けながら、七海の目を見て言う。そんなふうに堂々とまっすぐ見つめられることが嬉しかった。 「そういう言葉は、オレを喜ばせるだけだよ七海ちゃん」 「･･･本当に羽柴くんのすべては私のものなんですよね」 「うん。全部、七海ちゃんの自由にしていいから。その代わり七海ちゃんの全部はオレだけのものだよ。もう絶対に兄ちゃんとあんなことしないで。兄ちゃんが誘ってきても、絶対にのったらだめだからね」 「それは羽柴くんのほうでしょう？」 「もうあんなことしないって！ 七海ちゃんを不安にさせたくないから」 はっきりとそう答えたあとで、空は七海に抱きつく。直接触れる体温がとても心地いい。 しばらく七海の存在を全身で感じていた空は、ふとした疑問に気づいて顔を上げた。 「――そういえば七海ちゃん、オレとこうなってから兄ちゃんとなんにもなかった？」 「え？」 「兄ちゃんに誘われたり、触れられたりしなかった？」 「――」 空が口にしたことは七海にすればまったく予想外の質問で、七海はとっさに表情を作ることができなかった。 真一朗に誘われたのはともかく、空を初めて抱いた翌日に、真一朗とキスを交わしたのは明らかに有罪だろう。 七海の戸惑いを、鋭く空が読みとる。空の瞳に不信が露となった。 「ほらっ!! オレより、七海ちゃんのほうが油断ならないじゃんっ！」 「真一朗とのことは･･･互いにしたいときにしていた、クセのようなものなんですよ。全然深い意味はありませんし、だから･･･」 「だめ〜〜〜〜っ!! もうだめだからな、そんなの！ 七海ちゃんがしたいときは、今度からオレがするんだから!!」 キッっとまなじりを吊り上げて言った空に、七海はつい苦笑をもらす。自分でなにを口にしているか、はっきり自覚しているんだろうかと疑いたくなる。その場その場の勢いでの発言が、どうも空には多いような気がする。 「羽柴くん･･･勢いでものを言わない方がいいですよ？」 「別に勢いで言っているわけじゃないよっ。七海ちゃんの全部はオレのものだって言ってるだけだよ！」 「･･･私の全部、ですか」 「七海ちゃん･･･？」 空の言葉を繰り返した七海の声にそれまでと違う要素がまじる。七海は自分から空の体を離し、そうしてまっすぐに目を見つめて言った。 「だったら、私のことを好きにしていいですよ」 艶めいた七海の声に空の胸がどきりと高鳴る。 まさか、と思いながら空が確認した。 「え･･･七海ちゃんのこと抱いていいの？」 「それはだめ」 七海が悪戯っぽく笑った。 「じゃあ、それで好きにしていいって･･･」 「だから、私のことを脱がすのも、その気にさせるのも、羽柴くんが触って欲しいところに私の手を導くのも、羽柴くんが自由にしていいってことです」 七海の言葉に空の顔が真っ赤になった。すぐに、「んなの、オレが恥ずかしいだけじゃん〜」との非難の声が上がる。 空の様子にくすくす笑ったあとで、七海がぽつりと付け足した。 「なんていうのは冗談ですよ。――羽柴くん、今なら本当に抱いてもいいですよ」 「え？」 「羽柴くんさえその気なら本当に好きにしていいですよ。私のこと、抱いてみますか？」 七海が、ゆっくりとした仕草で結んでいた髪をほどいた。それから自分の服に手をかけ、胸元のファスナーを下げる。 それだけで匂い立つような色香が増した。 誘うように絡んでくる七海の濡れた視線に、空は煽られたかのようにさらに頬を染めた。 空気が変わる。息をするのも苦しいような、濃密ななにかに包まれて。 「あ･･･」 「ずっと、抱きたいって言ってましたものね。今なら、羽柴くんに抱かれることもいいかなって思うんです」 ‘もしやり方がわからなかったら、リードしてあげますよ？’――そんなふうに七海に言われて、空は熱に浮かされたかのようにおずおずと七海に近づいた。 けれど。 「――やっぱ、いい･･･」 顔を赤くした空が足を止めて、七海から顔を背けた。 「どうして、ですか？ もう二度とないチャンスかもしれませんよ？」 「いいからいいって！」 ずっと、七海を抱きたいと思っていた。片思いのときから不埒な想像をしたことさえあったのだ。七海のかわいい外見はどうしても自分が守る対象であり、それだけに自分のほうが抱かれるなんて考えたこともなかった。 だが、今になってそういう気持ちが薄れていることを空は自覚する。 さっきもとっさに抱いていいのかと聞いてしまったが、本当にそうしたかったわけではなくて。 「ああ、羽柴くんはされるほうが気持ちいい体になっちゃったんですか？」 「･･･っ」 いつの間にかすぐそばに寄ってきた七海が、空の肩に手を置いて、耳元で囁いた。耳に触れる息に、艶めいた雰囲気に感応させられていた空の体がぴくんと反応する。 「違っ･･･そうじゃない･･･っ」 空は懸命に否定する。しかしその声は弱々しく、否定の意味をなさなかった。 そんな空のあごを七海の指がすくい取り、自分のほうに向かせた。至近距離で見つめてくる七海の瞳。 「そういえば消毒しなきゃいけなかったんですよね」 「え･･･七海ちゃん･･･？」 「もうあんなに簡単に許したりしないでくださいね。羽柴くんは隙がありすぎますよ」 そう言って七海が空の唇に自分の唇を重ねた。思えば今日初めてのくちづけなのだが、それにしては初めからかなり濃厚なものだった。 「ん･･･っ!?」 七海の舌が空の口腔内を思うさま蹂躙する。お互いの気持ちを確認するとか、こちらの気持ちを高めるためのものではなくて、意識を奪うような激しいくちづけ。久しぶりに七海にくちづけられて空の中にも嬉しい気持ちもあったのだが、そんな淡い意識はたちまち流されてしまった。 自分の体を支えるために、空が七海の首に腕をまわす。そうでもしないと、このまま倒れこんでしまいそうだった。 「あ･･･なな･･･」 「羽柴くん、真一朗に何回キスされたんですか？ 二回ですか？ それとももっと？」 「･･･二回･･･」 「じゃああと一回ですね」 「･･･んっ･･･」 冷静に確認した七海の唇が、再び重ねられる。空の背中に回された七海の指がすうっとそこを撫でると、それだけで空の気持ちが煽られた。 「はぁ･･･」 七海のくちづけからようやく解放されて、空が熱い吐息をこぼす。息を整えながら懸命に理性を呼び戻そうとする空に。 再び、七海が尋ねた。 「それから？ 真一朗にどこを触られたんです？」 「な、七海ちゃん!?」 「ちゃんと教えてくれないと、消毒できないでしょう？」 「ぜ、全然なんにもされてないって。ただちょっと服をめくられただけで、本当に変なとこなんて触られていないからっ」 「服？ こんなふうにですか？」 「･･････っ」 七海の右手が空の脇腹に回り、するりと服の中に忍び込んできた。直接触れられるだけでくすぐったさとともにざわざわとした快感に襲われる。 「こんなふうに触られて？ それで羽柴くんは感じちゃったりしたんですか？」 「違う･･･っ」 「もしかして、ココも？ 真一朗にいじられたりしたんですか？」 「んっ･･･そんなとこなんか、触られてないっ」 空の肌をすべる七海の手が、空の胸の突起に辿り着いた。つんと指でつつかれただけで、さらなる甘さに包まれる。 「本当に？ 嘘をついても見ればわかるんですからね」 もう片方の手で空のシャツが難なくめくられる。つつかれていたそこが、七海の視線にさらされた。 「羽柴くんのココ、こんなに充血して立ち上がってますけど？ 本当は、ずっとこうなっていたんじゃないですか？ やっぱり真一朗に触られてたんですね」 「違･･･っ。そんなの今、七海ちゃんが触ったから･･･っ」 「私に触られただけでもうこんなになっちゃうんですか？ もしかして、触られるのをずっと待ってました？ でなかったら、こんなにすぐに立ち上がったりしないですよね･･･」 「あっ･･･」 七海の舌が空のそこを舐めとった。口に含まれて、舌で転がされる。じわりとした快感に、別の場所まで熱を帯びてくるのが空自身にもわかった。 「やだもう･･･っ。な、七海ちゃん、いつにも増して意地悪だ･･･っ」 「当然でしょう。これは羽柴くんへのお仕置きでもあるんですから」 七海の行動に対して非難の声を上げる空に、七海の落ち着いた声が返る。そのあとで再び口に含まれた。 「ひど･･･っ。んっ･･･」 七海の右手が、空の高まりはじめたその部分に触れた。軽く撫でたあとでファスナーを下げていく。そのままいくらかズボンを下ろしたあと、今度は空の双丘にまわった。下着の中から侵入し、空の奥まった部分に触れる。 一番敏感な部分に触れてくれない七海のやり方に、空は本当に意地が悪すぎると思う。もう、そこを触ってほしくて仕方がないのに。 それでも、けして後ろが反応しないわけではないところがますます恨めしい。七海の巧みな指の動きに、そこからも簡単に熱が生み出されてしまう。固いはずのそこがだんだんほぐされて。 もう自分は、後ろだけで十分感じさせられるほどの体になってしまったと自覚させられる。 やがて、がくんと空の膝から力が抜けた。七海の腕が勢いよく倒れこまないようにと支えながら、空の体を床に下ろしていく。このまま続けるという合図のように、七海が空の頬にくちづけた。 それから、中途半端に下ろされていた制服のズボンを下着とともに完全に剥ぎ取っていく。 「まだほとんど触ってないのに、相変わらず敏感なんですね」 七海が意地悪く笑いながら言う。空は自分の高まりを七海の視線から隠すように身をよじった。 「それとも、後ろだけでもそんなに気持ちよかったですか？」 「見ればわかることをいちいち口にするのって、本当に七海ちゃん性格悪いっ」 「だって耳で聞くと、余計にいやらしさが増すでしょう？」 「――っ」 「そうしてもっと感じやすくなる･･･ベッドの中での常套手段だって、もう羽柴くんも体で覚えているはずですよね」 「そんなことな･･･んっ･･･ああっ･･･」 空の抗議の声は、甘い息にとって代わられた。七海が、ずっと触れてなかったそこに指を絡ませてきたのだ。待ちわびていたかのように、空のそこが七海の指にしっとりとなじむ。 素直な空の反応に七海がかすかな笑みをこぼしながら、同時に胸への愛撫も再開させた。 「あっ･･･はあ･･･っ･･･ふっ･･･」 本格的に七海にせめられて、空の唇から喘ぎ声がこぼれはじめる。そんなに幾度も抱かれたわけではないのに、たちまち体がこれ以上ないほどに溶け出していく。またあの、自分でもどうしようもないくらいに淫らされる時間がくるのかと思うと、空の中に残っている理性が、羞恥心でいっぱいになった。 しかも今回は七海の私室や保健室のベッドの上ではなく冷たい床の上なのに、同じように感じて甘い声を上げる自分がいる――。 「え･･･」 七海の愛撫に身を任せていた空の意識がはたっと現実を取り戻した。 ついつい七海の巧みな指先の前に忘れかけていたが、ここは。 「ちょ、ちょっと待った。ここ、数学教諭室じゃんっ」 「だからなんです？ いきなりそんなこと言い出すなんて無粋ですよ、羽柴くん」 途端に顔を上げた七海から不機嫌そうな声でとがめられた。そして、さらに指で空自身を強く扱かれる。 「ん･･･っ。だ、だからここ･･･」 「真一朗が毎日仕事している数学教諭室です。羽柴くんはそのことを言いたいんでしょう？ でも気にすることはありません」 「七海ちゃん、気づいてて･･･。そ、それに確かここ、さっき七海ちゃんが鍵･･･っ」 「ええ、鍵を壊しましたよ。だから、いつ誰が入ってくるかわからないですね。真一朗に質問しに来た子とか、同僚の先生がドアを開けるかもしれませんよね」 「な、七海ちゃん〜〜〜〜」 「ん、もう･･･」 七海が不満そうに溜息をつく。空自身に絡めた指ははずさず、じっとりと扱き、先端を指で巧みに引っかきながら。 「じゃあ場所を変えて、仕切り直しますか？ 羽柴くんが、ここでするっていうのが気になるならそうします？ 保健室でも、他の場所にでも･･･」 「･･･あ･･･っ」 「羽柴くんがそうしたいって言うのなら移動しますけど？」 「･･････」 七海に問われて、空が迷うように七海の目を見た。 鍵のかかっていない部屋。そして真一朗の仕事部屋。 そう考えるとどうしても後ろめたさや恥ずかしさを感じる。 けれど、この部屋は七海の本当の気持ちを知った場所でもあるのだ。本当の心を見せられて、より、七海を好きだと意識した場所。 そしてこの高まった気持ちを一度しまいこんで、他の場所で再び、なんて。 そんなふうに簡単に切り替えられるわけはない――。 自分の中で結論を導いた空の目元が赤く染まる。 そして七海から顔をそらしたあと、かすかな、本当に小さな声で。 「――いい･･･」 空は吐息をつくように呟いたのだった。 「も･･･ここでしていい･･･」 「‘していい’？ じゃあ、場所を移してもいいってことですよね」 「――」 空が、手を伸ばして七海の服の袖口をぎゅうっとつかんだ。さすがに恥ずかしくて顔は合わせられなかったが。 「羽柴くん？」 「や･･･もうここでして･･･。場所変えないで、今ほしい、から･･･っ」 「誰が入ってくるかわからない場所でほしいなんて、羽柴くんて本当に･･･」 七海の次の言葉を聞きたくなくて、空が目をつぶる。七海はそんな空のまぶたに笑いながら唇を落とした。 ――そうして。 「あっ･･･も、オレ･･･っ」 七海の首に両腕を回し、しがみつきながら空が甘い声をあげる。 七海もそれに応えて、空が望むように姿勢をかえた。空の体をぐいっと引き寄せ、さらに自身を深くうずめる。 「な･･･七海ちゃん･･･っ」 「そう急かさないでください羽柴くん。羽柴くんの中、すごく気持ちいいんですからもっとちゃんと味わっていたいんです」 「ん･･･っ」 「そんなに達きたいのなら、羽柴くんが動いてもいいんですよ？ 体でおねだりして、中に取り込んで」 「やっ･･･」 「達きたいんでしょう？ 大丈夫、途中まで手伝ってあげますから。ほら･･･」 「あ･･･ああっ･･･ン･･･そこ、だめ･･･っ」 「そう言いながら腰を動かすの上手じゃないですか、羽柴くん。ふふふ･･･積極的な羽柴くんてなかなかそそりますよ？ もともと誘い上手なんですよね」 七海の声に煽られて、空がいっそう腰を動かす。今は後ろだけしか責められていないのに、どうしようもないほどの快感が押し寄せていた。 「･･･な･･･ななみちゃん･･･んっ･･･好き･･･。本当に、ちゃんと･･･大、好きだからね･･･っ･･･」 途切れ途切れの声で空が呟く。熱にうかされていても、それは本心で。 その気持ちは七海にも充分伝わった。 幾度も念を押す空の言葉に、思わず苦笑がこぼれてしまう。 「･･･わかってますよ。さすがに、あんなに熱烈な告白を受けたら、私だって理解しますよ」 ‘でも羽柴くん’――自分の中の快感を追っている空に、七海は続けた。 「私だって、羽柴くんに負けないくらい、羽柴くんが好きなんですからね？」 「･･･あっ･･･な、なな･･･み、ちゃ･･･っ･･･」 空がいっそう強く七海にしがみつく。七海も、空とともに自身の快感を追いはじめた。 「ん･･･っ･･･」 「――」 そうして、お互いにほとんど同時に達する。 それは本当に想いを確かめ合ってから最初に訪れた、‘至福のとき’――だった。 「ねえ、七海ちゃん･･･」 脱ぎ散らかした服を身に着けながら、空は後ろにいる七海に呼びかけた。 「なんですか？」 戸締りを確認していた七海が空の方を振り返る。 「もしオレが兄ちゃんと最後までヤってたら、オレ七海ちゃんを、もっと哀しませてたってことだよね･･･」 そんな仮定など想像したくないけれど、自分が真一朗に抱かれることを承諾しただけでもあんなに七海を傷つけたのに、本当に真一朗と一線を超えていたらどんなことになっていたか。考えるだけで怖くなる。 思えば祭が七海に、自分が真一朗に呼び出されたことを話さなければ、本当にそうなっていたのだ。けしてその確率は低くなかっただろう。 「そうですね･･･そのときは別れ話に発展していたでしょうね」 「げっ。マジ？ 七海ちゃん〜〜〜」 心の底から泣きそうになって、空が七海を見つめる。 その表情を見て、七海は楽しげにくすくすと笑った。 「冗談ですよ。大丈夫、ちゃんとそうなる前に間に合っていましたから」 「でも七海ちゃん、もし祭がオレのことを話さなかったり、放課後保健室に行かなかったら、七海ちゃん、オレが呼び出されたこと知らないままだったんだよな」 「たとえ本城くんに聞いてなくてもね、羽柴くんの危機はちゃんと私に伝わるようになっているんですよ。なにせ、羽柴くんに対する深い愛がありますから」 「――」 「･･･って言ったら、羽柴くんは信じますか？」 七海に問われて。 「･･･うん、信じる･･･」 空はこくんと、素直に頷いたのだった。 そして七海も、本当は祭の話など聞かなくても、ここ数日間真一朗の行動には注意していたのだと種明かしせずに、微笑みながら空を強く抱きしめたのだった。 〔終わり〕 |
――ということで、「深淵〜全部〜」です。 「〜全部〜」のタイトルの由来は･･･改めて説明するまでもないですが、文中のセリフからきています。前半が‘真一朗の心の深淵’なら、こちらの方は‘七海の心の深淵’でした。シリーズの最初にも七海が真一朗に妬く場面があるわけですが、あのあともずっとずっと引きずっていたのですね。 あと空･･･本当はもっと男の子っぽいはずなんですけど、このシリーズでは幼くなっちゃってますね〜。（幼いっつーか受け受けしいっつーか） まあこれはこれとして見逃してください･･･。 |