深淵 〜全部〜 ２ 「おいおい。あんまり空をいじめるなよ七海」 部屋を出てから、苦笑した真一朗が七海に言った。おそらくドアの向こうでは、空がまだ固まったまま立ち直れないでいることだろう。もしかすると、こっちの話が終わっても完全には立ち直れていないのかもしれない。 「真一朗には関係ないでしょう。それは私と羽柴くん二人だけの問題です」 「うわっ、いやな言い方すんなあ。オレはのけものかよ〜」 ふざけた口調でそんなことを言った真一朗を、七海は改めて厳しい視線で見つめる。その本心を探るように。 「･･･ここでいきなり仕事の打ち合わせだなんて、新しい依頼でもきたんですか？ その内容はどういうものなんです？」 「あんなの口実だって最初からよくわかってるくせに、ななちゃんのいけず〜」 「･･････」 口を閉ざした七海を、真一朗はどこか楽しそうな表情で見下ろす。 自分の心境を知ってて、それを故意にはぐらかすような態度をとる真一朗に、七海は一度息をついた。 そして、改めて真一朗に向き直る。 そう、‘仕事の話’が最初から口実であることなどわかっていた。今このときに、自分たちがする話なんて一つしかない。 「･･･どういう心境の変化です。私のこと、本気で恨んでいるんじゃなかったんですか？」 「恨んでるっつーか、ある意味憎んでたかもな。だって先にホレたの、オレだったろ？ ちゃんとおまえに宣言だってしといたのに、それを横からかっさらわれたら、怒るの当たり前だろ？」 「それが、どうして･･･。今の私の目には、真一朗の態度がいくらか軟化されているように見えますけど」 「そりゃあオレ心広いし、おまえと違って人間ができてるし？ いつまでも拗ねてたって仕方がないだろ？」 そう言ったあとで、真一朗がわずかに声を落とした。口調が微妙に切り変わる。 「――おまえが来なかったらヤってたよ。そして、本気でもう離さなかった。とことんまで執着するつもりだった。勿論こんなおちゃらけなんてなしで、徹底的におまえとやりあってただろうな。でも･･･結局ヤれなかったからさ。手を引くならいい機会だと思って。一回ヤったらもうとまらなくなる。空を泣かせてもぼろぼろにしても関係なしに。――それともそういう修羅場、おまえ、好み？」 「手を引く？ 真一朗が？ その言葉どう聞いても本気にはとれませんよ」 七海が鋭く指摘した。完全に空を諦めて手を引く――そんなふっきれたような響きは、その声からは読みとれない。これまでとは違う境地に至っているようだが、それは潔く身を引くすがすがしさとは別のもののように感じられた。 「さーすがななちゃん。よくわかってらっしゃる」 七海の指摘に、真一朗はにやりとした人の悪い笑みを浮かべてみせた。 「とりあえずこの場はひく。それだけだと思ってろよ。おまえはオレの気性をよく知ってるだろ。油断してたらオレは奪うぜ？ そのときはあいつの気持ちなんか関係ね―からな。あいつの中で一番じゃなくても、結局は手に入れたやつの勝ちだ。そうだろ、七海？ 手に入れてずっとそばにいれば、そのうち情は移る。あいつに気持ちを受け入れられて、そうしてその体を自由にできたら、オレは心の中の一番なんてちゃちなものにはこだわらねえよ？ おまえの存在なんて、オレにすればその程度だよ七海」 「――」 虚勢、ではなかった。真一朗の表情がそれを物語る。 少年の心に誰が住んでいようと、さして気にしない。その存在に臆して、仕方なく身を引くなんていう殊勝な考えはまったく浮かばないらしかった。 七海は無意識に唇を噛む。ここで真一朗が手を引くといっても、空と真一朗の関係がずっと続く限り完全に安心はできない。けれどこうもあからさまに宣言されると、状況は何も変わっていないのだと思い知らされる。ただ真一朗の方に多少気持ちのゆとりが出てきて、いくらか剣呑な雰囲気が緩和されただけだ。 目を伏せて悔しそうな表情を見せる七海に、真一朗はひそかに満足を覚える。空の心を手に入れているくせに、今の七海にはいつもの余裕が欠けている。自分の存在をこんなにも意識しているとわかる。 そんな七海の気持ちを故意に挑発するように、真一朗は言った。 「おまえが来る前、空の肌に触れたよ。あいつ、吸いつくようないい肌してるよなあ。ぐっとくるようないい声もあげるし、それになんといっても感度がいい。あれ、おまえの仕込みだろ？ さーすが、七海センセイｖ」 「――真一朗」 七海から押し殺した声が発せられた。おそらく、これまでで一番激しく向けられた嫉妬の感情。あるいはそこには殺意さえ込められていたかもしれない。 真一朗は肩をすくめて、ふとやわらかい笑みを浮かべた。 「･･･なのにあいつ、そんなオレにごめん、なんて言ったんだぜ？ 力で無理やり抱こうとしたオレなんかにまで謝るなんて、ほんと、おまえの言うとおり軽率なやつ。あんなことしたのに嫌われてないなんてわかったら、やっぱいい気になるしかないだろ？ そしてそれでわかったのさ。オレはあいつの中ではやっぱり‘探偵している憧れの兄ちゃん’のままで――力でねじ伏せて最後までヤってたらどうなっていたかはわからないが、とりあえず今の段階では空の中でそれは崩れていないのさ。だから、オレとしてはその立場をたっぷり利用させてもらうとするさ。――せいぜい守れよ」 「･･･真一朗。今無性に殴りたいんですけど」 「おいおい。殴りたいのを我慢してんのはオレの方だろ？ それとも、オレが怖いのかよ」 「――そんなわけ、ないでしょう!?」 七海の瞳が一瞬揺れた。七海は懸命に虚勢を張っているが、真一朗はその瞬間を見逃さなかった。そんな七海の様子に、真一朗は‘バカだなぁ’、との感想を抱く。 いつもどこか落ち着いて余裕を持っている七海の奥にあるものが見えたような気がした。相沢の一件のときも、他のときでも、多少のことではここまでの不安を見せなかった。 それだけ少年の存在が七海にとって大きく、とても大切だということだ。 七海は、あのときの空の瞳を知らない。 なにものにも屈しない強さで見返してきた空の背後になにがあったかなんて、まったく知らないのだ。 たとえ体を手に入れても、ずっとそばにいても、心だけは絶対に渡さないという瞳。 最奥に秘された大切な部分は、七海以外の男にはけして譲らないという頑なさが明らかだったのだ。 勿論そんなことを教える義理はない。ここで余裕を取り戻されてもしゃくに障るだけなのだ。 せいぜい自分の存在に怯えていればいい――そうすればそれが隙になる。 いつかつけ込むときに利用できる。 それに、ここで自分が言わなくても。 「じゃあオレ帰るわ」 真一朗が言うと、七海がうつむけていた顔を上げた。 「おいおい、そこで‘本当に帰る気？’なんて顔をするなよ。言ったろ？ この場は引いてやるって。ここで二人して空のところに戻ってみろ、おまえを連れ出したってことでオレが空から睨まれるだけだろ。オレデリケートなんだから、そんなつらい立場に立たせるなよ」 「デリケートの言葉の意味をはきちがえているんじゃないですか？」 「んじゃ、繊細って言い換えてもいいぜ。ああそれとも、このまま空置いてどこかにしけこむか、なな？ 七海サンがオレを慰めてくれるならそれはそれで嬉しいけど？」 真一朗が七海のあごに手を当てて上向けた。七海はその手を振りほどかずに、冷静に真一朗を見つめ返す。 「そんなこと言っていいんですか？」 「空に恨まれる？ んなの、いまさらだろ。ここでさらにもう一回おまえとヤったところで回数としてはさほど変わらないだろ」 「違いますよ。今だったら腹上死させますよ、っていう意味です。もっとも真一朗だって、初めから‘慰め’なんていう優しい扱いをする気はないんでしょうから、お互い様でしょうけど」 「腹上死っておまえなあ･･･」 呆れた真一朗が七海から手を離した。それから、『おまえだったらマジでやりそうだからこえーよなあ』とぼそぼそと付け足して、七海に背を向けた。 「せいぜい自分がそうならねえように気をつけろよ。もっとも、そのときはそのときで残った空のことはちゃんとオレがかわいがってやるから、さっさと死んじまっても全然かまわねえけど。じゃあ七海センセイ、おっさきー」 後ろ手で手を振りながら、真一朗がこの場を離れていく。 七海はその背中を見送らずに顔をそらした。そうして疲れたように、壁に寄りかかって溜息をついた。 真一朗の退場――けれどそれでも、七海の心の憂さはまったく晴れなかった。 〔続く〕 |