その日、授業終了のチャイムが鳴り昼休みを迎えたときに、勇気は教室に来た上級生に呼び出された。
「おーい、朝比奈ー」
「今行きまーす！」
「……なに？」
　椅子から立ち上がってそちらに向かおうとする勇気に、智友はあくびまじりに問いかける。
「生徒会の仕事。ちょっと行ってくる。食事、俺のことは気にしないで先に食べててくれよ」
「……あの先輩、この前も勇気を呼びに来てたよな」
「なんかここのところ部室のあちこちでトラブルがあるみたいだな。それで修理頼まれてたんだ」
「ふーん…」
「じゃあトモ、またあとでな」
　智友に向けて笑顔で手をひらひらと振ってから、勇気は智友のそばを離れていった。
　勇気がその上級生の元に向かうと、相手が勇気に手を合わせて頭を下げているのが智友の目にも映った。
「朝比奈、たびたびごめんな」
「いいですって。それで今度は……」
　話しながら教室を離れていく二人を智友はぼんやりと見つめる。
「……」
「なんだ、笠原。メシくわねーのか」
　智友の横を通りがかった八神が声をかけてきた。
「…いや。これから食いに行く」
　智友は自分の席から立ち上がると、なんとなく口さみしさを感じてポケットの中に手を伸ばした。歩きながら中に入れていた飴をつかみ、取り出す。
　そのとき、ポケットに一緒に入っていたものがポロリと床に落ちた。
　最近はいつも持ち歩いていたから智友自身は全く意識していなかった小さな紙の箱。
「ん？　おい笠原、今なにか落としたぞ」
「え？」
「ほらこれ。…なんだ？　菓子かなにかか……って…」
　八神が拾ったときに開封されていた箱の口から中身が八神の手の中にこぼれた。箱の中から出てきたのは四角いビニールに包まれた小さくて薄いもの、だった。八神が実物を触ったのは初めてだが、ビニールを押し上げて見えるリング状のシルエットはどこかで見た覚えのあるもの。
「なっ!?　これっ…!?」
　手にしたものがなにか理解した途端、八神の顔が赤く染まる。
　周りにいた生徒たちも八神のあげた声で注目し、そして手にしているものを見た。
「！！　コ、コンドーム〜っ!?　ちょっ！　八神!?」
「違うっ、オレじゃねえっ！　か、笠原がっ！」
「か、笠原〜っ!?」
「笠原が持ち込んだのかよ!?　おまえ、なに学校に持ってきてるんだよ!?」
　八神が持っているものを見て一斉にざわめき出した生徒たちの中心で。
「……あ。やっべ」
　ポケットから取り出した飴を手にしたまま、淡々と、笠原智友（16）は呟いたのだった。



　　　笠原智友（16）が教室で‘ゴム’を落とした話



「笠原、教室にそんなもん持ち込むなよっ!?」
「しかもそれ開いてるし！　おまえ、それ自慢かっ!?」
「…なんだか教室が騒がしいようだが。何事か起こったのかね」
　教室に入ってたきた岡崎が、生徒たちの中心にいる智友と八神を見て首をかしげる。
「ん？　それはなんだね」
「ばっかオカ研しらねえのかよ。あれはなあ…」
　そばのクラスメートが岡崎に小声で説明すると、たちまち大きな声が上がった。
「かっ、笠原くんっ!?　きっ、き、君はなんて破廉恥なっ!?」
「…いや、破廉恥って…」
　それに対して思わず呟いてしまった智友だったが、その智友の首に後ろから別の生徒ががしっと腕を回してきた。
「笠原おまえっ、いつの間に女作ってたんだよっ!?　一人だけいい思いしてるなんてずるいぞっ！」
「あー、わかったぞ！　最近笠原、陸上頑張ってるもんな！　それも彼女ができたからだろっ!?」
「ってことは相手は陸上関係で知り合った女じゃねえのか。そうだろ、笠原っ!?」
「……どうだろうな」
「そうなんだな!?　やっぱそうなんだな！　畜生、爆発しろ〜！！」
「こっちにも女紹介して、その幸せ寄越せよ！」
「で、で、どんな子なんだ？　陸上してるならショートカットの子とか？　足が細いとか!?」
「いつからつきあってんだよ。まさかベルリバティに入学してからじゃないよな？　中学んときからつきあってるとかか!?」
　周囲から文句や質問を浴びせかけられている中で、
「あー…まあとりあえずないと困るからそれ返してくれ」
智友は固まっている八神の手からそれを取り戻した。
「また使う予定あんのかよっ！」
「ほんとに大爆発してはじけてしまえ〜っ！！」
　その途端、またさらに教室内の声が大きくなった。



　勇気が用事を終えて教室に戻ろうとすると、すれ違ったクラスメートが声をかけてきた。
「お、朝比奈。お前、さっき教室にいなかったんだな」
「さっき？」
「笠原の話。まだ誰からも聞いてないのか？」
「トモ？　なんかあったのか？」
「俺も席が離れてたからそのものは見てないんだけどな、なんでも笠原が教室でコンドーム落としたみたいだぜ」
「……え？」
　クラスメートが話したことを、勇気はすぐには理解できなかった。だがじわじわと話の内容がわかってきて。
「……え〜〜〜っ!?」
　たちまち勇気は声を上げた。
　智友が教室でコンドームを落としたって、どういう状況でそうなったのかとか、なんでそんなもの持っているんだとか、そう言えば昨日理事長室で使っていたなとか、様々なことが勇気の頭の中を駆け巡る。
「ちょっ、ちょっ、それってっ！」
「それで教室中大騒ぎになってさ、すぐに他の学年にも話は広まっていったみたいだぜ。当の本人は大したことなさそうな顔してたのが余計憎らしいよな。なんでも笠原にはかわいい彼女がいるんだってな」
「――え？」
　混乱しかけた勇気を落ち着かせたのは、クラスメートの思ってもみなかった言葉だった。
「彼、女…？」
　恋人じゃなくて、彼「女」？という言葉は飲み込む。
　クラスメートは勇気の表情の方に驚いたようだった。
「あれ？　朝比奈も知らないのか？　聞いた話によると中学のとき同じ陸上部だった子らしいぜ。ショートカットのなかなかかわいい子なんだって。すっげー、羨ましい話だよな」
「――」
「笠原、朝比奈にも内緒にしてたんだな。お前なら話ぐらい聞いてるかと思ったんだけど。でもそれにしても、同じ高校一年生なのにかたやかわいい彼女とゴム使ってヤりまくりなんて、俺らからするとほんと別世界の話だよな。灰色の男子校生活なんて笠原には縁ないんだろうなあ…」
「……」
「あっ、もしかして朝比奈、お前にも彼女が!?」
「いないいないっ。そんなのはいないけど…」
「なんだ、じゃあ笠原のことか？　内緒にされてたからって拗ねんなよ。ま、そういうこともあるって」
「拗ねてるわけじゃないけどさ……」
「やっぱり友達よりも彼女が大事ってことだろ。内緒にしたいくらいその子のことが大好きなんだろうな」
「……」
　智友に彼女がいるというのが事実だとはまったく思わなかった。おそらく教室で騒ぎになって、智友自身が言い出したか、周りが言い出したかで、話の流れでそんなふうになったんだろうと思う。
　さすがに智友も、自分が恋人で、その自分との関係の中でゴムを使っているとは言えなかったんだろう。それはわかる。
　……わかるのだが。
　智友に彼女がいると当たり前のように納得しているクラスメートの話に、勇気の胸がかすかに痛んだ。それもイメージが具体的で、本当にそんな女の子が存在しているかのようで。
　中学のときから付き合ってて、同じ陸上部で、高校が離れてもいまだに続いている彼女。たまの逢瀬ではその彼女と深く抱き合って同じ夜を過ごし――。
　架空の存在だと理解していても、話を聞いた人間の脳裏ではそれが事実として認識されていることに、もやもやする。
　――だが、勇気はまだ知らなかった。その胸の痛みやもやもやが、このあとさらに大きくなっていくことを。



　勇気が教室に戻ると、すぐにクラスメートたちが智友の話を振ってきた。
「よう、朝比奈、どこに行ってたんだよ。お前のいない間すげえことがあったんだぜ。笠原がドジふんでさあ」
「なあなあ、朝比奈。お前なら知ってんだろ、笠原の彼女のこと。どんな子だよ」
　先ほどの事件の場にいなかった勇気に、起こったことをにぎやかに説明したり、質問したりする。
　勇気が教室内の智友を見ると、智友は購買から買ってきたと思われるペットボトルに口をつけながら、ちらりと勇気を見た。焦った表情も、苦笑した様子もなく、ただいつもと変わらずに。
　勇気は智友に話しかけようとしたが、なにを言うべきか、言葉は一つも浮かんでこなかった。そして智友からかけられる言葉もない。
「おい、笠原の彼女、かわいい子なんだろ!?」
　そのときクラスメートに後ろから肩をつかまれた。
「……知らないよ」
「えっ。そうなのか」
「俺だって、初耳だよ…」
「朝比奈にも黙ってたのか。笠原、秘密主義なんだな」
　そのクラスメートが智友に声をかける。智友はペットボトルから口を離すと、
「……勇気にも黙っててごめんな」
と言った。
「――っ」
　その途端なんとも言いようのない感情が勇気の中で膨れ上がった。勇気はクラスメートの手を振り払うようにくるりと背を向ける。
「朝比奈!?」
「俺、昼まだだから食べてくる」
　固い声でそう言ったあと、勇気は足早に教室を出て行った。
「おい、朝比奈！」
　後ろからクラスメートの声はしたが、勇気が誰よりも慣れ親しんでいる声が聞こえることはなかった。



（――なんだよそれっ！）
　学食に向かいながらも、勇気は今の教室でのやりとりを振り返らずにはいられなかった。
　先ほどなにがあったかは、クラスメートたちが概ね説明してくれたから理解できた。それによりどんなやりとりがあったのかも。
　クラスメートたちが抱いている彼女像。あそこまで話が広がった以上、いまさらあの場でそれを否定できないのもわかるが。
　でも自分に対してはもっと違うアクションや言葉があってしかるべきじゃないんだろうか。
　別に落として騒ぎになったことや、この流れを謝ってほしいわけではないが、それにしても。
（勇気にも黙っててごめんなって…！）
　あの言葉はないんじゃないかと思う。代わりになんと言ってもらえれば納得できたかは思いつかないけれど。
　そして追いかけてなにかを言ってくるわけでもない。追いかけてきてくれれば昼休みなのだから、そのまま人のいないところで話だってできるのに。
「…本当になんなんだよ…」
　智友に彼女がいるという話。そして友達の顔で友達としての言葉を口にした智友。
　昨日の放課後理事長室に呼ばれて、今日の分の仕事が終わったからとそこでしばらく甘い時間を過ごした名残など、どこにもないかのように。
　自分の考え事に夢中になっていた勇気は、「おい」という声とともにプリントの束で頭をはたかれて、目の前に人が立っていることに気づいた。
「朝比奈。ちゃんと前見て歩け」
「…榊先生…」
　勇気がぼんやりと呟くと、榊からはため息が返ってきた。
「考え事もいいが、ちゃんと前を見ろ。人に迷惑をかけるな」
「すみません…」
「それから、ちゃんと笠原の手綱締めとけ」
「手綱って…」
「教室での騒ぎをお前も聞いただろ。ったく、学園の理事長が学園内の風紀を乱すなんて本来なら大問題だぞ。今回は一生徒の馬鹿な行いで片づけるが、下手に騒ぎ立てられたらしゃれにならない事態になることだってありうるんだからな」
「…そっか。そうですよね。俺そこまで思い至ってませんでした…」
　自分のことに夢中で、そんな要素なんて全く考えていなかった。客観的な思考で考えることなんて今は全然できなくて、勇気はふさぎ込む。
「……ま、いささか大げさに言ったがな。……笠原が持ち歩いていること、朝比奈は知らなかったのか？」
「えっ？　いえ、それは、あの…っ」
　知っていたような知らないような。それを見るときは大抵意識が溶けかけているときだからよく覚えていなくて。
　そもそも‘友達’だとはいえ、なぜ智友の持ち物のことを自分に聞くのだろうか。それもそんな特殊な持ち物のことを。
　手綱という意味もまさか――。
　思考がいろんな方向に飛び勇気が言葉に詰まっていると、榊は再び溜息をついた。
「持つなとは言わんから、学園内で落とすなと笠原に伝えておけ。それから今度会ったらこんこんと説教だとな」
「トモに…伝えておきます…」
「…まったく。……お前も、笠原に振り回されるなよ」
　榊の手が勇気の頭に触れた。髪の毛を一撫でし、勇気が驚いて榊を見返したときにはその手は離れていた。
「え、先生…？」
「あと二度目はないからと言っとけよ。じゃあな」
　そう言って後ろ手で軽く手を振り、榊は勇気から離れていった。



　放課後まで、智友と話す機会はなかった。特に避けているわけではないが、智友も勇気に話しかけてこなかった。
　勇気の固い雰囲気に気づいたクラスメートたちが、
「まあまあ朝比奈、笠原を許してやれよ」
「言うタイミングが見つからなかっただけなんだって」
などと、勇気を宥めるような声をかけてくる。
　それは勇気が、「親友に彼女がいたことをずっと秘密にされてショックを受けている」ことを前提にされたものばかりで、声をかけられるたびに勇気はさらに複雑な心境にさせられた。
　クラスメートたちに罪はなく、むしろ自分を気遣ってくれるのはありがたいと思うが、それでも智友に彼女がいることが当たり前のこととしてかけられる言葉に、勇気は曖昧な表情を浮かべる以外なにも返すことができなかった。
「勇気。生徒会、今日はもういいのか」
　放課後になって智友の方から勇気に話しかけてきた。
「……ああ。今日は空也さんも高東さんも忙しいみたいだから、もう帰るだけだけど」
「そうか。じゃあ帰ろうぜ」
　智友の話しぶりは普通だった。自分の心情がいつもと違うことに気づいているだろうに、こちらを気遣う様子もない。
「…わかった」
　勇気が立ち上がると、周りから、「ちゃんと仲直りしろよー」との声が飛んでくる。
　その声を背に受けながら、二人は教室を離れた。
　――校舎を出てから、勇気はそのまま帰路につかず、人けのない道の方に智友を引っ張った。智友は何の疑問も口にせずついてくる。その様子にやはりこちらの感情を察していることを知らされ、勇気の中でますます苛立ちが募った。
　周りに人がいないのを確認してから勇気は足を止め、智友を振り返った。
「……トモ、俺になにか言うことがあるだろ」
「……『ドジ踏んでごめんな』？」
「っなんでそこで疑問形なんだよ！　それにまったく感情が入ってないだろ！」
「まあ、起きちゃったことはしょうがないし。あ、今度から勇気が持つか？」
「じゃなくてっ！」
「それとも今度からは使わずにするかな。あーでも保健室とか教室とか、やっぱそのままするのはまずいよな」
「トモっ！」
　二人きりになってもいつもと変わらず、むしろこちらの気持ちを逆撫でするようなことを口にする智友に、勇気は感情を爆発させる。
　騒ぎになったことやこの展開を平謝りしてほしいわけではないが、もう少しこちらに気を使ってくれてもいいんじゃないだろうか。智友がほんの少しでも優しい言葉をかけてくれれば、この苛立ちもおさまるのに。
　それをどう言って伝えようか考えはじめた勇気に、智友が少し口調を変えて言った。
「でもまあ……学園内の相手と‘使ってる’っていう流れにならなくてよかっただろ」
「え？」
「開封してる箱を教室に持ち込んでるのに、相手は外部の彼女だなんて話が不自然なことにだれも気づいてない。それだけ、学園内でしていることの方が不自然だからだろうな。男しかいないこの学園の中でヤってることの方が」
「っ…トモ……」
「……失敗したのは俺だけど、こんな噂になったのは不可抗力だし、まあ人の噂なんてそのうち消えるって」
「かもしれないけど……」
「――それともちゃんと否定しようか？　俺が付き合ってるのは勇気で、だからゴムを使っているのも勇気相手だってこと」
　智友が勇気を見つめる。その真剣な顔に一瞬勇気は呑まれた。
「…えっ、それは…でも…」
「それが無理なら仕方ないだろ。勇気は何が不満？」
「不満て…。…なんでトモそんなに落ち着いてるんだよ。お前がそんなふうだから俺が余計に…」
「……勇気を見てたらなんか落ち着いたかな」
「俺が一人であわあわしてるから？」
「それもあるな」
「トモ！」
「あと。……勇気に愛されてるなって実感してるよ」
「なんだよそれ……」
　智友が勇気を見てかすかに笑みを浮かべる。その、本当に嬉しそうな笑みを見て勇気は毒気を抜かれた。
「……もういいよ。俺だけ一人で……バカみたいだ」
「勇気は、俺の‘彼女’のことが気になるんだろ？　彼女のことで話しかけられるたびにむくれてたもんな」
「むくれてなんか…」
「ほら、今だって頬が膨らんでるぞー」
　そう言った智友が、勇気の頬をつついた。
「だからむくれてないって」
「中学のとき同じ陸上部だった、髪が短くて足の長い子。あ、胸が大きいっていうのも言われてたか。その子も今も陸上部で、お互い切磋琢磨してるんだってさ。すごいよな、適当な返事しかしてないのにここまで具体的な話になるなんてさ」
「……」
「デートは時々で、どこかに遊びに行ったり、彼女の家に行ったり。だから、アレ使うのも、彼女の家で……」
「……」
「……ほんと、いもしない彼女に妬いてる勇気がたまらなくなるよ」
　智友の話を黙って聞いている勇気のつまらなさそうな表情を見て、智友が楽しげに呟く。
「別に、妬いてない……」
「嘘つくなよ。俺が好きなのは勇気だけだよ。でもそれがわかってても想像するのはいやなんだろ？」
「……」
「……たまには俺だって、勇気を妬かせてみたくなるんだよ」
「え…？」
　智友の言葉に視線を上げた勇気の目の前に智友がいた。
　俺ばっかりじゃないって安心する――囁くようにそう言ったあと、智友は勇気に口づけた。

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