智友は勇気が聞くと、学園にいた当時のことは淀みなく話した。勇気と一緒に行動していた日常や、数々のイベントの裏側で智友がなにを考えていたかを。それは智友が言ったとおり楽しんでいたものもあったし、みんなと距離を置いていたものもあった。そして智友の話から感じられた理事長としての重圧と義務感。一年目より二年目、二年目より三年目と仕事にだんだん慣れていったようだが、それでも自分で理事長の仕事を楽しむといったことは一切なく、ただ自分が指名された仕事を前任者のために無難にこなしていたようだった。
「学園で過ごした時間はそれなりに楽しかったけど、それは三年間だけのものだとわかっていたし、卒業したあとも引きずることはなかったな。俺は忘れられるものなら忘れたかったし」
「……」
　勇気のベッドの上で二人で横になりながら智友が話す。
「俺は仕事ができればそれでよかった。面倒くさかったし好きなことじゃないけど、それでも仕事をしていれば、とりあえずこの続きのためにまた明日を迎えなきゃなという気にはなる。だから学園を卒業したあとも、しばらく理事長の仕事は続けていた。本当はその立場にふさわしい人がすぐそばにいたのに、俺が次の人を指名せずに長い間その椅子に執着していたんだ。……そのことを俺の後見人だった人も副理事だった榊先生もなにも言わないでくれたな。きっとあの人たちには、俺が仕事を辞めたらどうなるか、わかってたんだろうな……」
「トモが、仕事を辞めたら…？」
　勇気が智友の顔をじっと見つめて聞く。ただの疑問ではなく、そこには智友を心配する響きがあった。
　今現在、理事長を辞めている智友のことを心配している響きが。
「……俺は理事長を辞めたけど、厳密に言えば本当には辞めていないんだ。また何年か後、今の理事長の榊先生から指名を受けて引き継ぐことになってる」
「そうなのか!?」
「ああ。これは内々での約束事だけど、多分このままいけばそうなるだろうな。約束を違える榊先生じゃないし」
「どういう理由でそうなったんだ？」
「要するに俺に、外の社会に出て見聞を広めたり、いろんな経験を積んでこいってことだよ。ずっとベルリバティの世界だけを見ているんじゃなくて、他を見てこいって。そのうえでもし他にやりたいことが見つかればそっちに行ってもいいし、特になければまた戻ってきてもいい」
「すごいな。トモのことを本当に考えてくれているんだな。確かにいろんな経験をするのはトモにとって悪いことじゃないよな」
「そうだな。……本当に、俺はいつまでたってもあの人たちにはかなわないよ」
　――ベルリバティの理事長の仕事に執着していれば、生きる意味だけは見いだせた。自分は兄の遺志をついでいる、だからなんの希望も夢も持てなくても、とりあえず食べて寝て、明日を迎えなくてはいけないのだ。仕事があるから、兄の期待に応えなければいけないから。自分の命はそのためだけにある。
　そんな自分の執着をしばらく黙って見続けていてくれた人が、あるとき言ったのだ。
　――笠原くん、尚央くん以外の生きる理由を、そろそろ見つけなさい。
と。
　そのうち理事長職は自分よりもっと能力があってその立場にふさわしい榊副理事に譲らなければいけない。でも亡き兄とのつながりを失いたくなくて、あと一年、あと一年とのびのびにしてきた。そこに最後通告を突きつけられたと思った。
　――大学で学ぶだけじゃなく、君は本当の意味で外に出て自分の道を見つけなさい。もう兄に縋って生きる年じゃないだろう。
　目の前が真っ暗になって、地面も何もない空間に突然に放り出されたかのようだった。その人が言ったことは正論であったとしても、でも明日から自分はどうすればいいのか。兄のことがなければ生きたいという思いさえ浮かばないのに。
　そのとき一瞬浮かんだ眩しい笑顔は、あまりにも遠く。
「……トモ？」
　昔のことを思い返していた智友は、勇気に声をかけられてはっとして現実世界に戻った。
　目の前にいるのは、そのとき遠いと感じた存在。今は触れ合えるほど近くに。
「……また寝てたのか？」
「寝てないって。昔のことを思い出してただけ。……理事長を辞めて外に出て行けって話が出たとき、俺はもうしばらく続けたいって言いそうになったんだけど、その前に先回りして、もし何年経ってもやりたいことが見つけられなければ、そのときは戻ってきていいと言われたんだ。なんか手のひらで踊らされてる感じがしてすごい癪な気持ちもあるけど、でもそれで俺はとりあえず安心して理事長を辞めることにしたんだ」
　その話がなければ、本当に自分はどうしていたかわからない。
　それを見込んで、ちゃんと自分が明日を目指して生きていけるよすがを残しておいてくれたのだろう。外での経験を積んで見聞を広げて、頑張って一日一日をこなしていけば、いつかはまた兄とのつながりが残るあの場所に帰ることができる。
　――外を見て、それでもなにも見つけられなかったら戻るといい。でも私は、君に尚央くん以外の生きる道が見つかることを祈っているよ。
「……トモの前の理事長って、トモのお兄さんなんだよな」
「……ああ」
「写真、昔に一度だけ見たことあったけど、優しそうな人だったな。あの人が俺を、ベルリバティに呼んでくれたんだよな。……ちゃんとお礼、言いたかったな…」
「……優しい人だったよ。いつも俺のことを気にかけてくれた」
「だからトモは、ベルリバティの理事長の仕事を大事にしてきたんだな」
「兄さんが俺に任せてくれた仕事だからな」
　智友の声が柔らかく、表情が優しい。智友自身は気づいてないのかもしれないが、懐かしそうに語るその表情に、勇気は惹きつけられる。
　智友が仕事を辞めたらどうなるか……その問いへの答えは返ってきていない。だが智友が返事を避けたことで、それがいい話でないのは薄々感じられた。おそらく智友はベルリバティの理事長の仕事、亡くなった兄のことだけを大切にしている。
　今まで深くまで見ていなかった智友のまた新たな面に気づかされて、勇気は自分の過去を悔やむ。ずっと隣にいたのに、本当に智友のなにを見ていたのだろうと。
　それとともに今自分は、智友の心の奥に初めて触れているような気がした。智友は再会したとき、肌を合わせた相手には口が軽くなると言った。実際、再会してただ食事や酒をともにするだけでは、智友はここまで自分の気持ちを見せてくれなかっただろうと思う。
　肌を合わせたことで――智友に抱かれたことで智友がこんなにも自分の気持ちを話してくれている。ならばもっともっと知りたいと勇気は思う。
　智友がまだ自分に本心を隠していることを感じるから。
「勇気、そろそろ話終わりでいいか？　もう二回分は十分話しただろ」
　智友があくびまじりに聞いてきた。
　智友の眠気を感じて、勇気は頷く。
「ん、わかった。もう今日はいいよ。トモはそのまま寝るのか？　俺はじゃあ、シャワー浴びてから着替え……」
　一人ベッドから起き上がろうとすると、横になったままの智友に腕をつかまれた。
「なんだよ、トモ」
「約束。三回目。ちゃんと話しただろ」
「なっ、だ、だってトモ寝るんだろ？　今あくびだってしてたからてっきりっ…」
「だから勇気が刺激的なことして眠気飛ばしてくれればいいんだろ」
「……じゃあトモに子守唄歌ってやるよ」
「勇気のイイ声の？　それは刺激的だな」
　そう言って智友が腕を引っ張り、勇気をベッドに戻す。
「トモ！　眠いなら無理してすることないだろ!?　それに……あっ、話！　そうだ、もう一つトモに聞きたいことがあったんだ！」
　あやしい動きをしはじめた智友の手を抑えようとしながら、慌てて勇気が声を上げた。
「今日の分はおしまいなんだろ、勇気」
「こ、これからヤる分として、たまには前払いしたっていいだろ！」
「じゃあ一分だけな」
　そう言いながらも智友の唇が勇気の肌をなぞる。
「んっ…。そんなの、早すぎ……っ」
「はい、十秒経過ー」
「トモ！」
　このままでは本当に智友に流されると判断した勇気が、呼吸を整えて、智友に一つの疑問をぶつけた。先ほど学生時代の話をしながら、頭に浮かんでいた智友の昔の姿。今の智友が手にしているのを一度も見たことがないが、昔はあんなにいつも――口にしていたのに。
「トモ、飴……今は食べてないのか？　昔はよく舐めてただろ。卒業するときだって……んんっ…」
「……もう子供じゃないんだから、あんなの食べてるわけないだろ」
「それは、そう…だけど、でもあんなに好きだったのに……あっ…な、なにかきっかけでも……んっ」
「――忘れた。飴なんかより、こっちの方がおいしく感じるようになったからかもな」
　そう言った智友が、勇気の胸の先端を口に含んだ。
「…ひぁっ…！　…あっ、ああっ…！」
「ほら…コリコリしてて、こっちの方が甘い、だろ…」
　もう一方を指で刺激しながら、口に含んだ方を今度は舌で押し潰す。すでに下半身も足で刺激され、勇気の唇からは甘い声が続けてこぼれた。
「勇気、質問終わり？　じゃあもう…いいよな」
「は…ぁ、トモ…っ…」
「――勇気って人を煽るの、ほんとうまいよな。今無性に勇気をいじめたい気分になったんだけど、ちゃんと受け止めてくれるだろ」
「…えっ!?」
「今までで一番優しくできないけど、ごめんな」
　そう宣言して、智友は勇気にかすかな笑みを向けた。



　そのあと智友は言葉通り、勇気を激しく抱いた。
　その前に二回も抱かれて、体力的にもきつかったが、体の中を暴れまわる快感をなかなか外に逃がせられないのもつらかった。
　弱いところを執拗に責められて体はますます熱くなるのに、決定的な快感につながらないまま容赦なく中を穿たれる。
「…やっ、トモ…っ、深い……っ！」
　勇気はシーツを握りしめながらいやいやをするように首を振った。過ぎた快感で潤んでいた目元から涙が一雫こぼれ落ちた。
　勇気の左足は抱え上げられ、右足には智友が乗っているせいで体勢を変えて逃げることが許されない。そんな状態で中を抉るようにかき回され、勇気はまともにものを考えることなどできなかった。
　ただただ、この熱さと苦しさから解放されたいと願う。
「…あ、だめ…だっ、こんなの……っ！」
「は……そう言いながら、勇気はちゃんと俺に応えてくれてる…だろ。ほんと、十分使えるようになったよな」
「……っ、動き、激し…っ」
「勇気の中が気持ちいいからだろ。中うねって、時々絞り込んでくる……勇気のここはすっかり俺の形を覚えたみたいだよな」
「トモ……っ！」
「――」
　縋るように自分の名前を呼ぶ勇気に、智友はますます昏い感情を刺激される。
　先ほど勇気が何気なく問いかけた言葉。
『あんなに好きだったのに…。なにかきっかけでも……』
　お前がそれを聞くなと智友は思う。自分が飴を舐めはじめたきっかけも、舐め続けていた理由もまったく知ることのない勇気が。
　――高校を卒業したあとも、しばらくは飴を舐め続けていた。大学でも特段やめるつもりはなくて、慣れた食感とその時々で変わる味をそのまま味わっていた。
　けれどある日不意に思い出してしまったのだ。自分が最初に飴を舐めはじめたきっかけと、舐め続けていた理由を。
　子供のころ、幼い勇気がくれた飴。そして勇気と遊んだときの楽しくて幸せな気持ちを忘れられなくて、それを待ち望むかのように舐め続けて。
　そのことを思い出したとき、冗談じゃないと思った。高校を卒業して完全に連絡を絶つつもりの相手のことを、未練がましく想って飴を舐め続けているなんて。
　だからそのとき、口の中にあった飴をすぐに噛み砕いて飲み込んだ。もう二度と飴を舐めないという誓いとともに。
　最後に口にしていた飴の味は、虚しさと苦しさにかき消されてもう覚えてはいない。
『写真、昔に一度だけ見たことあったけど、優しそうな人だったな』
　兄と自分の写真を見ていても昔のことを思い出さない勇気。所詮、勇気にとってはその程度のことなのだ。
　自分だけがあの思い出を心に残している。――自分一人だけが。
　やつあたりなのはよくわかっていた。思い出さないことも、飴について聞いてきたことも、本当に勇気が悪いわけではない。
　それでも胸をかきむしりたいほどの悔しさが自分を駆り立て、荒々しい気持ちのまますべてを勇気にぶつけてしまいたくなるのだ。
「…あっ…あっ！　トモ、俺もう…っ！」
「イきたい？　じゃあ勝手にイけば？　イきすぎてあとでつらくなるのは勇気だし」
「トモ…っ！」
「いじめたい気分だって言っただろ。俺は、まだ満足できてないんだよ、勇気」
「――っ！」
　智友の瞳を見返して、勇気はそれが誇張ではないことを悟った。



　遠くでシャワーの音が聞こえると認識したままうつらうつらし、勇気の意識がはっきりと覚醒したのは、ドアが閉まる音が聞こえてからだった。
　静まり返る部屋の中に、勇気は智友が帰ったことを知る。勇気が認識している限り、智友は勇気に一言も声をかけていかなかった。勇気が寝ているから気を利かしてくれたともとれるが、勇気はそうじゃないことを確信していた。
　セックスの途中から記憶がない。きっとそのまま、意識を飛ばしてしまったのだろう。
　智友の宣言通り、確かに今までで一番‘優しくない’セックスだった。
　それまでは智友と昔みたいなやりとりもしたし、セックスもゆっくりと智友を感じてその快感にひたることができた。
　けれど今のセックスは容赦がなくて――勇気は、智友が自分に対して怒っていたと推測する。
　原因が何かはわからないが、直前の会話は確か、智友の飴の話だった。
　智友と自分と飴になにか――つながりがあるのだろうか。
「……」
　ベッドにうつぶせて倒れ込んでいた勇気は、重い体をゆっくり動かして仰向けになり、大きく息をついた。両腕で自分の顔を覆う。
　優しくなかった智友。
　再会したときも冷たかったけれど、それでも少しずつ昔のように智友と打ち解けた会話もできるようになってきていたのに。それともそれは、自分だけの思い込みなのだろうか。
　――それでも。
　それでも、と勇気は思う。
　いくら自分に優しくない抱き方をしても、やっぱり気持ちは変わらない。智友のことが好きなのだ。
　どうしたらもっと智友のことを知ることができるのかと考え、勇気は、やはりそれにはこの関係を維持していくしかないとの結論を出す。あんなふうに怒っていた智友が、また連絡を取ってくれるのならば、だが。
「トモ……」
　腕で顔を覆ったまま、勇気は呟いた。
「トモ、俺は、お前のことが好きだよ…」
　初めて口に乗せると、ますます想いが募ってくる。智友本人には伝えられないけど……伝える気はないけど。
　勇気は目を閉じて智友の昔の笑顔を思い浮かべた。そして昔の智友も好きだと思うけれど、今の智友に強く惹かれていることをさらに自覚する。
　今の智友が笑ってくれたら。それだけで自分は、本当に嬉しいのだ。
　――智友には恋人がいるんだろうかと、勇気はふと思いを馳せた。
　智友の現在の話の中には出てこなかったが、恋人の有無をはっきり聞いたわけではないから事実はわからない。もしいたとしても、自分に話すいわれはないと思っているのかもしれない。ただ思うのは、きっと恋人にはあんな無茶はしないだろうということだった。智友に恋人がいるとしたら、きっと大事にしているのだろうと思う。それこそ自分にはけして向けることがないような優しい笑顔を浮かべて。
「……っ」
　想像しただけで勇気の胸が痛んだ。
　勇気は、もし今の智友に恋人がいたとして、もっと早く、自分が智友に惹かれて行動を起こしていたら、智友を得ることができたんだろうかと考えた。
　たとえば、ベルリバティにいたときに智友のことをもっとちゃんと考えていれば。
　勿論そんな仮定は無意味で、自分にはもう、これからの時間を大切にするしかないのだが。
「……このまえ、そういえばうちでトモと一緒に食事したっけ…」
　簡単な食事で、智友に怒ったりしながらだったが、それでも一緒に過ごした時間は楽しかったと勇気は思う。そのまえには、同じベッドで密着したまましばらく二人で眠ったりもした。
　どちらも智友への気持ちに気づく前のことで、だからそのときはさほど特別には感じていなかったけれど。
「……もったいなかったな……。今度はちゃんと、一つ一つの時間をもっと大事にするのにな…」
　これからの時間の中で智友とそんな時間が持てるのなら、恋人という関係にはなれなくても、そういう些細なやり取りを積み重ねて大事にしていくのに。
　今はもう、あんな時間がまた持てるかどうか危うい気がした。少なくとも、智友が自分に向ける怒りがなくならない限りは、あんなふうには過ごせないだろうと思った。
　たわいのない話をして、お互いに笑い合う――そんな学生時代のような関係が今は遠く感じられた。
　勇気は、昔と比べて智友も変わったけれど、自分も変わってしまったことを自覚していた。昔よりもずっと自分が弱く、臆病になっている。それは智友のことをこれまでなにも気づかないでいたことでの衝撃と後悔が自分をそうさせているように思えた。
　そして智友への想い。
　人から向けられた恋情を重いと言った智友に、自分の気持ちを告げる強さは持てそうになかった。

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